第76話 縋り付くスピーリトゥス
衣擦れの後に続いたのは死んだはずの人間。戦闘が落ち着いた後も少女が抱える重荷と、浮かび上がる心情は続いて行く。物語が更に深みを増す第七十六話。
「なぜこんなところに……?」
テュリーの声だ。ヨハンは目を見開いて振り返った。遺体だった筈の元帥の全身に時計の形をした魔法陣が埋め込まれている。
「何だと……!?」
頭蓋に間違いなく撃ったはず。もう一度頭、心臓、太ももを撃ち抜くがテュリーはけろりとしてヨハンを見ている。同時に手榴弾が爆発した。爆発は物理法則を無視して消えるのと同時に、テュリーの周囲だけ視界がねじ曲がり始める。
「空間がねじ曲がってるのか?」
本格的にプラントが揺れ始めた。ヤツに何が起こっているのか把握したいがこのままだと逃げられなくなる。ヨハンは妙な冷や汗をかきながらじりじりとテュリーから離れた。その途端、テュリーは叫び出す。
「そうか、俺は囚われていたんだ……あのヴェールで。あれが無ければ……人間に自由意志が戻ると言うのに!」
瓦礫から、あるいは何かから逃れる為か。必死の形相で手を伸ばしたテュリーは上半身だけ残して生き埋めになった。確実に瓦礫で下半身は潰されているし、胸にも瓦礫が突き刺さっている。念の為に首に触れたヨハンは、気味の悪さに手を離した。
「脈がある……!?」
脈は平常と変わり無し。何度計っても変わらない。体温も人が死ぬソレではない。これは一体どういうことなのか。
「ソイツは死なん。そういう魔法さね。強固な防衛魔法がかけられてる」
崩れたプラントの上から悪魔の声が降りて来た。バフォメットはテュリーの髪の毛を掴むと様子を伺う。
「不老不死なのか」
「違うよォ。もっとタチの悪い魔法さね」
まァ、とバフォメットは付け加えて、
「無事に身体が使えるようになるまで十日そこいらはかかるだろうし、暫くは死んでいると思っても問題ないだろうねェ」
彼女が手を離すと遺体になったソレは項垂れた。ソレに二つの眼が向けられる。
「……首を落としたら、コイツは死ぬのか?」
「ニンゲンでいたいのならやめた方が良かろ」
バフォメットの若干咎めるような視線に、ヨハンは軽く目を覆った。居心地が悪そうに視線をずらした。
「……居たなら手助けしてくれても良いんじゃないか?」
「契約して無いからねェ」
またそれか。瓦礫の中を進むバフォメットの後を追う。
「ロジェは無事だよー。治療して寝かせてある」
プラントは完全に崩れ、地平線の彼方まで見えた。我ながらちょっとやりすぎた様な気もするがロジェが無事だしまぁいい。先導していたバフォメットがヨハンの姿を見てくつりと笑った。
「キミ、服をどうにかした方がいいんじゃないかい?その血塗れの白衣はさぞ怖がられるだろうねェ」
服には不朽の魔法をかけてもらっていたのだが、この白衣だけは別だった。焦げてるし血は黒ずんで落ちそうにない。脱ぐとプラントの奥に投げた。
「……捨てておく」
白衣はたちまち炭に戻っていく。元より上着代わりに持ってきたものだったが、こんなところで捨てることになるとは。妙なこともあるものだ。
「向かうとこ敵無しって強さなのに、子供一人に怖がられるのは嫌なのかい?」
「何でも良いだろ」
バフォメットの後を追ってプラントから出る。ファステーラの至る所から煙が上がっていた。
「知りたいねェ」
「教えない。契約して無いから」
ニタァ、とバフォメットに負けないくらいの嫌味ったらしい笑みを浮かべると釣られて彼女も笑い出す。
「オヤまァ。してやられたねェ」
濃密な煙とあからさまに吸ってはいけないような匂いのする空気が漂っていた。それを肺いっぱいに吸い込んで、熱が残る土を踏みしめる。
「今度はどんな無茶をしたんだ」
「宙に行って堕天使を倒して来てたよ」
「……やれやれ」
「怒らないのかい?」
「言っても聞かない」
「師匠によく似たんだねェ」
ケタケタと笑うバフォメットに言い返す言葉もない。実際自分が無茶をしているのは事実なのだし。
土が太陽を浴びた温かさに変わる。砂浜だ。さっきから漠然とバフォメットを追っていたがどこに行くつもりなのだろう。
「海辺のコテージさ。ファステーラは綺麗だろう?観光もちゃんとやってるからねェ。何より人目につかないのが良いところさ」
ヨハンの心の問いに答えるかのようにバフォメットが答えた。暫くすると煙の臭いが遠ざかって磯の香りがした。何より静かだ。視界の端に小綺麗なコテージがあって、波の音しかしない。
「ここか」
「ここは好きに使うといいよォ。ちょっとしたお礼さね」
金は取らないよ、とバフォメットは密やかに笑う。彼女は軽く礼を済ませるとどこかへ飛び去って行った。
背を見送ってコテージの中に入った。硝子窓からは白波が見える。フローリングを軋ませながらロジェがいるであろう部屋を開けた。ベッドに横たわる赤髪の少女は、薄い瞼を押し上げた。掠れた声が響く。
「……お帰りなさい」
「起こして悪かった。寝とけよ」
「お互いの無事を喜びたいのよ」
ロジェは浅く息をしながら起き上がった。見た目は傷一つ無いが表情は憔悴そのものだ。優しく肩を支える。
「また無茶したって聞いたぞ」
「あは。ほっぺたぷにぷにしないでよぉ。今回は仕方ないじゃない……」
人差し指で頬をつつくヨハンにロジェは何か言いたげだった。視線は定まらない。多分今の体力だと言い辛いこと。少女はヨハンの裾を掴んだ。
「あんた、白衣は?」
「汚したら捨てた」
「大事なものじゃなかったの」
「丁度いい上着だっただけだよ」
「代わりの物を買わなくちゃね」
不安を誤魔化すためか矢継ぎ早に言葉を紡ぐロジェに、ヨハンは背を叩いた。
「そうだな。……さ、寝よう。俺も寝る」
横になったロジェの瞳には不安が蠢いている。ただ今は……喋る時では無い。布団をかけると、太陽は瞼に隠れる。
「おやすみ、ロジェ」
コテージには波音だけが残った。
明け方の方がずっと近い夜。ヨハンは客間のソファで身じろきした。目の前にはロジェがカノフィアから取ってきた本と、内容をざっくり纏めたメモが散乱している。どうやら眠ってしまっていたらしい。
身体を起こすと肩が鳴った。思考するには重い頭を動かして立ち上がる。コテージの前にあるサマーべッドには赤い髪が流れている。近寄っても身動き一つしない。寝ているのかと思ったが、赤い瞳は白波を見詰め続けているだけだった。
「いい夜だな」
その言葉にやっとロジェは振り返る。室内には何本か酒があった。それをひらと見せる。
「ウイスキーがあった。呑まないか」
「……私未成年なんだけど」
「君が飲酒して、俺が通報するやつに見えるかね」
「道徳的な問題……」
彼女も身体を起こして、最後まで言い切らなかった。軽く背中を叩いて室内へ促す。
「座りなよ」
ビーチの暖かさとは対照的に、彼女の身体は夜風で随分と冷えていた。本とメモを机の端に片付けて晩酌の準備をする。
「あんた、こんな夜遅くまで起きてて眠くないの」
「眠い。寝たい」
「なら寝ればいいのに」
「本があるから」
グラスを二つ取り出しているのを少女は見て、視線を本に向ける。
「本はいい。どんな好奇心を向けても怯えない。手触りの悪い真実だけがある」
「私には興味無いのね」
「無いと思ったのか?」
置かれたグラスにはウイスキーと砂糖が入れられた。上手く崩れずに燻っている。
「俺はずっと君のことを観察していたんだがな」
「気付かなかった」
「なら君も世界を暴く側ということだ」
「……世界を暴いたって仕方ない」
ロジェは旅の副次的な目的を拒否した。これはどうやら相当やられているらしい。一際声音を優しくして、囁くようにヨハンは問うた。
「何があった」
「…………ひとを、殺した……と思う……」
俯いたまま、声を震わせるロジェをヨハンはグラスに口をつけながら見つめていた。
「アリスって……あんたも知ってるでしょ。あの子……使い魔契約の石が爆発したの。もうあの子の魔力が残ってなかったから、多分、絶対……」
少女の手に一滴、二滴、涙が落ちたのが見えた。視界をそれに囚われていると、振りほどくように顔を上げる。
「気のせいだとか言わないでね。……それに……よしんばあの子が無事に生きていたとして、私は……」
「君は自分が死んで、アリスが生きるべきだと思ったか?」
「……どちらも死ぬべきでは無い。その道を探るべきだったと思う」
貴族の娘であるのなら百点満点の回答だ。無闇矢鱈に敵を作らず、どれだけ上手く泳いでいけるか。しかし、ヨハンが聞きたいのは彼女自身の気持ちであって、貴族の娘としての彼女の気持ちでは無い。
「それはエリックスドッター家の矜恃から言ってるのか」
「……八割嘘よ。私が生きたい……あの子には憎しみがあって……でも、それが現実になったら、空想で想っていても、私は……!」
「そうだな」
ロジェはマリシアから酷い言われ方をしていた。故に魔法が使えなくて何か言われるのは当たり前だった。だが、それを許容した訳ではない。排除したいと思う気持ちは当然だ。だけど普通の思考であって、相手の死を望むのも理解出来ることであって、それで実際発生してしまったこれを許容出来ないのは、当然のことで。
「こわ、くて……怖いの、私もう、家に帰れないんじゃないかって……ッ!」
幾らでもかける言葉はある。「仕方が無かった」とか「必要な事だった」とか。しかしこれらは誤魔化しの意味しか持たない。
この少女は聡い。自分の立場をよく分かっている。仮とは言え絶縁され、その後好き放題旅をして学校で発表すれば帰れると考えていた。なのにお尋ね者になり、それでも父が応援してくれていたのに神の右腕の家の次期当主を事故とは言え殺したとあれば、本格的に絶縁されてもおかしくない。そういうただの家出ではないことを、彼女はよく分かっている。
よく分かっているのなら、俺が『大丈夫。君の傍にいるから』と言っても通用しない。彼女はきっと『慰めの為にこんなことを言わせるなんて』と思うだろう。だからこそ、彼女は今こうして部屋に帰ろうとしているのだ。
「あ、いや、その……ごめん、もう寝る……」
どうして今、そんなことを思うんだろう。追い詰められてる時くらい自己中心になったって良いと思うのに。彼女自身の矜恃が許さないのか。
「君は奈落に堕ちない。約束する」
ヨハンは腕を掴んでソファに戻らせる。ロジェは目を白黒させて見上げるばかりだ。
「だから手始めに酒を呑め」
ニヤリと笑ったヨハンに、ロジェは呆れ果てて首を傾げた。虚ろだった瞳に感情の煌めきがある。
「わけわかんない。未成年だってば」
「いいから」
ロジェはヨハンの酒を交互に睨みつけると、勢いよく飲み干した。グラスに注いでいたのはほんの僅かだったと言うのに、一瞬で首まで真っ赤になった。
「……弱いなぁ」
「当たり前れしょ……」
少女の呂律は既に回っていない。そのままソファにしだれかかって、数滴を寝巻きに落とした。
「零すなよ」
「無理やりのますから……」
「呑まないのが悪い」
ヨハンはかさついたロジェの唇を拭った。偽物の暖かさにロジェは馬鹿にするように口角を上げた。
「……このあるちゅーが。酔ってんでしょ」
「酔ってない」
少女の目は虚ろだ。多分もう意識は無い。こりゃ明日の一声は『おはよう』じゃなくて『頭が痛い』だろう。
「君は奈落に堕ちないよ、ロジェスティラ」
ただ、これだけは覚えておいて欲しい。胸の呼吸の動きを見ながら、ヨハンは一つ呟いた。
「どこまでも破滅的で破壊的。永遠の暗闇が、そんな君を捕えられる訳が無い」
遍く全てを破壊し尽くす『真昼の彗星』。彼女にはこの二つ名がよく似合っている。ロジェには奈落すらも打ち砕く力があるだろう。
人間も人外も皆、この少女に星の輝きを求める。それは自分だって例外では無い、と思う。
星であるのなら永久に世を導き、堆くあれよと願うのは、卑しき人の性なのか。
そして、そんな星に師と仰がれる自分は本当に師なのか、もしくはもっと別の、形容しがたい何かなのか。
答えを知るのは閉じられた瞼が隠す瞳しか無い。知ることは無いと分かっていても、断片だけでも知りたいと願う。どうしようも無い性分だと自嘲した。
結局人を殺す云々を酒で誤魔化したに過ぎない。あるいは虚無を纏った瞳を見たくなくて、生理的反応を求めたのかも。人の生死など推し量れないと言うべきだったか。
「……俺も分からん」
だけど、やるべきだった。そうしなければ彼女は殺されていた。それを彼女自身、よく理解しなければならない、とも思う。
「寝ようか」
ヨハンはロジェを抱えるとベッドに寝かした。身体はまやかしの熱を放っている。布団をかけて彼女の部屋を出た。
遠くに夜明けが見える。机の上に残った酒を飲み干すと、残った喉につかえる熱さを感じた。
二日酔いで目覚めたロジェは出かけることにする。その中で幾つもの事実が明らかになって……?平和が戻った港町が分かるプエルトン編、ちょっとほのぼのなラストの第七十七話。




