第七十二話 アラギの境界線
戦いを根本から断ち切る為にヨハンは潜入を試みる。サディコはミカエルとの因縁に終止符をつけたり、ロジェは様子のおかしいアリスと再会したり?戦いの中に謎が散らばる第七十二話!
「あそこか」
渡り歩いたビルの中、ヨハンは飛行艇を見遣る。空にはベールが浮かんでいない。それはつまり、『テュルコワーズに思うところがある、ことを思うことが出来る』ことを示していた。
彼には魔力が一切無い。故に『ラプラスの魔物』の対となる『マクスウェルの悪魔』を引き継ぐ資格が無い。なのにあの地位にいる。普通は嫌だと思うのに、何故いつまでも彼女に付き従っているのだろう。
ベールが現れた。今度は世界を覆うように、しっかりと。バフォメットの領地だからかその網目は薄い様に思える。だが、ヨハンの考え事を『何を考えていたか忘れた』に変えるには十分な力を持っていた。
空を飛べないヨハンには、空に浮かぶ飛行艇に侵入することは出来ない。恐らく地上に野営地があるはずだ。だからヨハンはビルからビルへと渡り歩いて、街道の方へ辿り着いた訳である。
茂みの開けた所に小さな飛行艇がある。魔道士達や兵士達も一緒だ。さてどうするか。
手段は少ない。戦うか?だが、相手の戦力が如何程か分からないのに無駄に戦うのは宜しくない。四の五の言ってられないのは分かっているが、大前提として、敵であっても人を殺すのは嫌だ。
その矜恃を貫くのなら侵入か。外の見回りは少ない。ロジェやバフォメットの対処に人員が割かれ、魔道士達は少ないはずだ。兵士だけなら倒せる。
……いやでも、ちょっと待てよ。そんな労苦を犯さなくとも、お尋ね者の自分が容易く飛行艇に侵入する方法が一つある。ヨハンは茂みから出て近くの兵士の腕を掴んだ。
「なぁ」
「お前は!」
「俺ちょー反省してるから自首する」
棒読みで兵士に懇願し、捕まえてもらうことだった。
というのが今の現状。目論見は成功し飛行艇の牢にぶち込まれた訳である。飛行艇の操作の仕方も分からないしこれが正解なんだろう。そういうことにしておいてくれ。
お陰で首枷足枷手枷のトリプルパンチを食らった。すこぶる重いし身動きが取れない。檻の目は狭い。ふむ。どうしたものか。
見張りは二人。こちらを向いて、俺が変な行動をしない様に見張っている。ご苦労なこった。
正直ここから脱出するのは厳しい。見張りもいるし、網目は狭くて眼球も入りそうにない。これは終わった。彼女の助けを望むばかりで情けない限りだ。
……とでも思って欲しかったのか?王国がそうして欲しいならそうしよう。するだけだが。
間違いない。王国は俺の不老不死の性質を詳しくは知らない。ただ、俺を『不老不死を持っただけの人間』と思っている。
ヨハンは両足で足枷を抑えると、右腕を手前に引っ張った。
「おい、何をしている」
「脱出しようとしてるんだよ」
「やれ」
強烈な電気が体を駆け巡る。
「ッ!」
苛烈すぎる痛みに目を遣って、呼吸器が震える気色悪さを我慢して呼吸する。手前に引っ張った右手が引きちぎれて復活した。
「おい!もっと強めろ!」
そうだ。それを待っていた。檻の中の身体が完全に壊れる中、震える手で視神経ごと目を取り出した。それを網目に押し付けて残骸を押し出す。
元に戻ろうとする性質を持つ不老不死。それは最後の肉片を基軸とする。つまり檻の中の身体が潰れた時点で機能していたのは、神経が繋がっていた眼球だ。
檻の外で復活したヨハンは兵士が声を上げる間もなく銃を奪って狙撃した。生き残っているのはもう一人だ。この二人は秘密を知ってしまった。殺すのは嫌だが、死んでもらうしか手段がない。
「やっぱり目は治りが悪いな。見えにくいのは困る」
「……え、援軍を」
耳に付けていた魔法石は兵士の耳と共に銃弾によって粉々に砕け散った。
「俺の荷物はどこだ?」
「ひ、テュルコワーズ様のところに……」
「ありがとう。お疲れ様」
激音のあと、部屋にはヨハンの命だけが残った。硝煙と血の匂い。昔を思い出す。白衣にべったり血がついているのを見て、ヨハンは顔を顰めた。
「……仕方ない。ヤツのところに行くか」
地下牢に迫り来る足音を聞きながら、ヨハンは部屋を出た。
『うーん……流れないな……早く始末したいんだけど』
サディコはミカエルの肉片に至る全てを流すため、膨大な水をぶつけていた。しかし、少年の身体は布切れのようになっても残ったまま。重力を忘れた水は虚空の彼方に押し流されていく。
「じゅぶ……うるる……かあ……さ……ヴヴヴ……」
放出を止めるとミカエルは膝をついて呟いた。向こうに攻撃の意思は無いらしい。というよりむしろ……。
『理解出来たんだね。自分が悪かったってこと』
流れないのは少年が不定形だから、それなら固形にしてしまえば良い。サディコは探るように水を街に張り巡らせると配置されたタンクを割る。溢れ出た黒い水は満ち満ちてファステーラの地面を黒に染めあげた。ミカエルを包み込んで着火させる。
「ぅ……あ……ざぶ……ぐぅぅぅ……」
『案外呆気ない終わり方だったねぇ』
燃えカスは一つの山になって焦げ付いたブローチだったものに集る。唯一神から送られたブローチに亀裂が入ってる、煙が溢れて灰を守った。徐々に人の形に戻って行く。
『完全に壊したのに……鬱陶しいなぁ』
「あはははは!あははっ!」
手を振り乱して狂人の如く笑うミカエルに、サディコは声をかけた。
『生き返った気分はどう?ぜひ感想を聞かせて欲しいなー』
「あははは!うふふふ!ひひひひっ!」
『ぼくの言ってる言葉わかる?』
「あははははは!ははははっ!」
『おーい』
「ひひひひひっ!」
『こりゃダメそうだね』
ブローチに何かしらの魔力が残っていて、ミカエルを動かしているんだろうなぁ……とサディコはどこかぼんやり思案した。腰に差した木の棒を激しく振り回して笑っている。生前の行動を繰り返して、ただ笑うだけ。
『……可哀想だし、本当に終わらせてあげるよ』
またサディコは水をぶっかける。ミカエルの覚束無い眼が悪魔を捉えて業火を繰り出した。相手の魔力に反射して動いているようだ。足元でぬるつく石油をミカエルは纏う。あっという間に火だるまだ。落ちた石油に引火して、辺りは火の海になった。
『最後まで手こずらせてくれるなぁ』
少年が纏った石油は鉄のように硬く変質していた。押し流すことは難しい。黒い水はハンマーの形を取って振り下ろされる。
「ははははっ!ふははははっ!」
『がら空きだよ!』
腕を伝って首に噛み付き装甲を剥がす。空っぽの中身が見えた。深く噛み砕いてやろうとすると、少年は高温と化した装甲を剥がすことでサディコごと吹っ飛ばす。
『うへぇ……べとべと……』
「あは……あはは……!」
中身が顕になったミカエルの周りには湯気が漂っている。余程温度が高いらしい。奥の景色は歪んで、周りに築かれた朽ちた鉄くずがひしゃげるくらいの温度。
『なるほどねぇ。温度が高いわけだ。それなら……』
装甲を着る瞬間を狙う。水蒸気という言葉では生易しい、原子よりも素粒子よりも小さいH2Oの奥の奥まで魔力を滾らせる。そしてミカエルを構成する有機物を掴んだ。再び高温。
「ひひひっ!?ひひひひひひひっ!」
少年だったものは水に掴まれ、引きちぎられる感覚を味わないながら、笑顔で空気に戻った。サディコはそんなことなど気にもとめず、足の裏をぺろぺろと舐める。
『火傷しちゃった……』
顔を上げても誰もいなかった。鉄の建物に火が燃え移るだけ。
『さっさとおさらばして、バフォメットに加勢でもしに行くかな……』
少年だったものは暫く空気になって漂って、壁にぶち当たる。火炎が壁を撫でて黒く滲む。誰一人、本人さえ分からぬまま、神託伝説は終わった。
「もう一回は無いって言ったと思うんだけど。まだ来るつもり?」
空に浮きながらロジェは表情の変わらないアリスを見た。
「元気そうね。体調は崩したりしてないの?」
ちぐはぐな返答にロジェはにわかに眉根を寄せた。風も強いから声が届かなかったのだろうか。先程よりも少し大きな、不安感を抱きつつ答える。
「ピンピンしてるわよ」
「そう。良かったわ!弱ったあんたを殺すなんて、ちょっと何だか嫌だもの」
「ふーん。そっちがその気なら、こっちもやりやすくて助かるわ」
さっきからアリスの様子がおかしい。変な所で笑っているし、表情が落ちている。
「そうよね。そうだと思うわ」
懸念を抱きながらも神器を起動させる。
「……『ヴァンクール』」
「またそうやって私に奇跡を見せつけるつもりねッ!?」
足に激痛が走った。木の枝が甲を貫通している。声も出せぬまま抜いて、形相が変わったアリスを見た。
「さっきだってそうだった!私を見下してるんでしょ!」
以前戦った時よりもずっと魔法の発動が早い。このスピードは訓練で培われたものじゃない、これは。ロジェは火属性の魔法を繰り出した。
「なんで私に赤色を見せるの!お前頭おかしいんじゃないの!?」
「頭がおかしいのはあんたよ!」
魔法とは自然と密接にあるという性質上、本人の気質や性格、精神状態の影響を強く受ける。大抵乱れている時は上手く発動しない。のに、アリスの魔法は早いし威力も高い。これは、間違いなく暴走。
「早く魔法を止めなさい!死ぬわよ!」
異空間からせり出してきた木々を火を使って燃やすが追いつかない。とんでもないスピードと魔力量だ。
「あんたは私に死んで欲しいんでしょう!?お互いが終わるまでやり続ければ良いだけじゃない!」
「は、はぁ?ちょっと落ち着いて……」
「何もかも上手くいくお前が憎らしい!その姿、性質、何もかもが消えたら絶対世界の為になるのに!」
ロジェから見れば何もかも上手くいっているのはアリスの方だ。名家だし、本人には魔力の素質もある。レヴィ家の代表としてこうやって仕事も頼まれている。
「死にたくなかったら『ヴァンクール』を置いていきなさいよ!それがあれば腕一本で許してあげる!小生意気な契約印を剥がしてオルテンシア様に献上してやるわ!」
「あんた達はどうして『ヴァンクール』に拘るのよ」
地面から火を伝って木々が生えてくる。
「だってそれ、本来はテュルコワーズ様のものなんだから!」
ロジェは猛攻に耐えながら訝しんだ。どういう事だ。この町に来てからテュルコワーズの話を異様によく聞く。
「何よそれ。そんな話聞いたこと無いんだけど。それに『ヴァンクール』は私を主人として認めたわ。テュルコワーズが主人だったらおかしいんじゃ──」
「それがおかしい!おかしいって言ってるのよ!」
炎弾をアリスに向かって放出したが、暴発する木々は容易く炎をつっきって来る。躱すも体制を崩してロジェは落下した。直ぐに炎の結界を展開して木々を打ち滅ぼす。姿をくらますためにビルの間を斜めに飛んで裏に隠れた。
「はぁ……ふぅ……」
膝をついて息を整えていると、目の前に揺らめく糸が現れた。それも無数に。四方八方に散らばった糸は命を絡め取ろうとしている。
恐らくアリスが張った警戒網だ。これに触れれば位置がバレ、彼女はロジェを殺しに来るだろう。
激情は魔法の暴走を凌駕する。だが、感情が過ぎ去り暴走が追いつけばたちまち魂は魔力に飲まれる。私はアリスを殺したいのだろうか。殺さなければならないのだろうか。
彼女には散々酷い目に遭わされたし、今の境遇に憐れむつもりは無い。それは彼女の現状に対してざまぁ見ろ、という気持ちが無いわけではないが、それ以上に名家の責任があるのなら労苦を背負うべきだと私は思っているからだ。
単純な復讐劇にはしたくない。余りにも陳腐すぎる。永遠に救われぬまま、互いが深みに嵌るだけ。
綺麗事だと、思う。私は神に反逆した犯罪者で、アリスに散々やられた。アリスは神に仕える偉大なる臣の一族で、私を捕らえにやって来た。
私は今にも触れそうな糸に手を伸ばした。思考の余白はもう僅か数秒だけしか残っていない。
彼女が激情で向かって来るのならこっちだって私怨を向けよう。あとはお題目と、綺麗事だけ。
ロジェは口角を緩めた。陳腐な復讐劇は嫌だと言ったのに、これではもっと救いようが無いではないか。
指先が警戒網に触れた。
次回予告!
因縁に触れ、アリスと激突するロジェ。ヴリトラの決着はどの様に終止符を打たれるのか。ヨハンは秘められしテュリーの力を見ることになる。激戦が続く第七十三話!