第百十二話 人理の癒し
ついにセラフィーネと対面し幕は切って落とされた。追い詰められたロジェは切り札である『マクスウェルの悪魔』を使おうとするが……?ユリウスが本気を出す第百十二話!
呟いたユリウスの声が伽藍の空間に反響する。床は黒曜石のように滑らかで光を反射していた。浮かぶ卵形構造物の表面に、文字が刻まれているのが見える。
《人造神の癒しの遣い セラフィーネ》
祀られているような神秘性と、抑えが効かない知識欲。この気持ち悪さをロジェはマリア・ステラで見た。つまり、ここは……。
「……研究所だな」
ユリウスの言葉に、ロジェも頷く。ふとロジェの足元に何かが反応し、光のラインがぴたりと足元から浮遊構造体まで繋がれた。
微かな起動音。
構造体の表面が、一瞬だけ脈打つように明滅した。
卵の一部が、音もなく開く。
その内部にあったものを見た瞬間、二人は息を呑んだ。横たわっていたのは、少女の形をした何か。白磁の肌、眠るように目を閉じた顔、頭部には複数の思考端子が繋がれ、全身を包むのは柔らかな拘束具と注入管の束。まるで、生きたまま保存された神の雛。
「昔見たものにそっくりだわ。起こせば多分起きるわよ」
「は?これ生きてんのか?」
「……人間の振る舞いをし、生活するということを『生きている』と呼ぶのなら、そうね」
言葉を選びながらゆっくりと話すと、ロジェは雛へと手を伸ばそうとした瞬間だった。
「ハァイ。お手付き禁止〜!」
目の前に魔法が爆ぜたのを感じて、二人は背後へ下がった。主賓のお出ましだ。あの時見た忌々しい姿のまま、二人を見ながら雛を撫でている。
「セラフィーネ……あんたこれ、どういうことなの……!」
「んー……それはワタクシの食事が終わってからね?」
「食事だと……?」
彼女は何も言わず、ただ神の雛を見下ろした。
静かに歩み寄る。その足取りは無音。セラフィーネは手を白い手を優しく、伸ばした。優しく。母が赤子を抱くように。
だがその指先が触れた瞬間、神の雛の身体がぴくりと震え、皮膚が泡立ち始めた。
「な、なんな、の……あれ……」
少女の形をした“雛”が、腐る。崩れ、融け、音もなく液体へと変わっていく。白い皮膚は脂のように溶解し、内部構造は光の粒となって空間へと吸われていく。
セラフィーネは微笑み、雛を抱くようにその全てを飲み干した。その様はあまりに静かで、あまりに淫靡に満ちていた。
「んふふふふふ……!やっぱり美味しいわ、別の姿のワタクシは……」
ロジェはただ静かに睨みつける。
「あらぁ?びっくりしちゃった?」
「アレでビックリしねぇやつの方がビックリだよ」
ユリウスは鎌を背負い直し肩を竦めた。
「セラフィーネ。何でこんなことするの」
「美味しいからですわ。理由なんてあります?」
まともに通じない会話に苛立ちを覚えて腕を組みながらロジェは問う。
「質問が拙かったわね。人造神の遣いであった貴方が、どうしてルシファーの軍門に下がったのか、理由を教えてちょうだい」
セラフィーネは首を傾げた。何から説明すればいいのかと疑問に思うような表情。
「あなた……アナタにとって、“癒し”って、何だと思う?」
その声はまるで、耳の奥に直接忍び込む蜜のようだった。ロジェの背筋を、ぞくり、と寒気が這う。
セラフィーネは一歩ずつ近づく。その歩みは妖精のように軽く、揺れる髪と衣は空気そのものを惑わせる。そして彼女は、ロジェのすぐ目の前に立つと……囁いた。
「昔のワタクシはね、痛みを消すことが癒しだと信じていましたの」
艶やかな唇が、柔らかく動く。その響きに、ロジェの心臓が勝手にドク、と跳ねた。
「誰かが泣けば、ワタクシは傍に座って、その涙が止まるまで寄り添った。怪我をすれば、その傷が痛まなくなるまで共感した。失った誰かの名前を忘れられない人には、心が壊れるまで記憶の中に一緒に居続けた。……それがワタクシの“癒し”。ただ、それだけだった」
彼女の瞳が、ロジェを見つめる。山吹色の光を帯びた瞳は、ただぼんやりとそれらしい感情を写していた。
「でもね……ルシファー様は言ったの」
その名を出した瞬間、空気が震えた。
「それって無駄じゃない?って。だって癒しても人は死ぬのだし。癒すことについてワタクシ、自我を持ってないって仰るのよ」
緩やかに表情を押し出していたセラフィーネは、あっさりと声色を明るいものへ変えた。
「確かにワタクシ、その通りだなぁと思って。」
「アイツの語るロジックにしては随分と薄っぺらいわね。……まぁ、元より軽いヤツか」
ロジェがため息を着くと、ユリウスは眉をひそめながら少女へ問う。
「ルシファーって、あのルシファーだよな?神代にあった大国を見て神を見捨てたっていう」
「そうよ。脳筋ね」
「あらやだ!ルシファー様のことを馬鹿にするなんて」
セラフィーネはそう言うとロジェを吹き飛ばし、少女は過程をぼんやりと他人事の様に見詰める。
「まずは貴方から頂くとしましょう」
「やめろ、セラフィーネ!」
ユリウスが叫ぶよりも早く、セラフィーネの指先は、ロジェの額へと触れていた。微笑みながら、優しく、慈しむように。まるで眠る子供を寝かしつける母のように。
ロジェの瞳が、大きく見開かれた。
……神に成るということは、こういう事なのだろう。何もかもが見える。分かたれる。善は悪に。正義は腐敗に。腐敗は復活に。灰には灰を、塵には塵を。少女の唇が何かを喚ぶ様にして微かに動く。
次の瞬間。空気が裂けた。
音もなく、法則もなく。
視界が、空間が、論理が、分かたれた。
ユリウスの全身を、氷より冷たい理解不能が貫く。思考が硬直する。何が起きたのか、理解しようとする意思ごと剥がされた。
「……これ、は……!?」
ロジェは、動かなかった。その頬に触れるセラフィーネは、陶酔に染まっていた。
だが、そこに。
『それ』はいる。
誰の目にも映らない。
誰の耳にも届かない。
だが、存在の密度だけが確かに、この場にねじ込まれた。
──『マクスウェルの悪魔』
絶対零度の思考。
熱力学第二法則を嘲笑い、情報とエネルギーの価値を反転させる知性。正も負も、善も悪も、快も苦も、果ては神と人を振り分けて、人の神となり、完全な支配を得る存在。
ユリウスには見えない。ただ、皮膚が軋み、血が逆流し、時空そのものが裏返った感覚だけが襲ってきた。ケタケタと笑いながらも半ば汗つつセラフィーネは離れる。
「あらやだぁ!これはなぁに?」
「ちょっとした番犬よ」
少女は立ち上がって服の埃を払った。
「ありが、と……」
それに礼を言おうとして振り向けば、信じられないものが視界に飛び込んで来る。
「……ユリウス?」
膝をつき、肩を震わせ、まるで肺が呼吸を拒否したかのように硬直している。彼女はユリウスの元へと駆け寄った。
「どうしたの?ユリウス!」
震える彼の背に手を伸ばすが、その指先が届く寸前、ロジェは周囲の“空気”に異様さを感じた。そうだ。あの時。初めてコレを見た時。ロジェもユリウスと同じ症状になったことを思い出した。ふと後ろに声をかける。
「……助けてくれてありがとう。でもやり過ぎよ」
【吾は存在が無い。然も、『理解』はある】
「それだけが流れるから壊れちゃうの?」
【応】
ロジェの瞳が細められる。彼女だけが知る、人智を超えた存在の気配。そのロジックは、あまりにも冷たく、あまりにも正しかった。
「なるほどね。あんたの言うことはわかるけど、これじゃ死んじゃうから。少し優しくして貰えると助かるわ」
沈黙。
空間に、ほんのわずかの温度が戻った。ユリウスの呼吸が、浅く、だが確かに整っていく。震えは完全には止まらないが、凍てついた身体がわずかに動きを取り戻した。
「ぅ……あ……?」
「生きてる?」
ロジェはぺちぺちとユリウスの硬い頬を叩いた。思いっきり起き上がって辺りを見回す。
「だ、大丈夫だが……今のは何が……」
「その前にセラフィーネを倒しちゃいましょうか。うちの使い魔が時間稼ぎしてくれたことだし」
浮遊研究所が崩壊し、かつて癒しを象徴した神殿は、いまや禍々しい胎動域へと変貌していた。その中心に、セラフィーネがいる。
白磁の肌に無数の天使の翼。その瞳は優しさを湛えながらも、どこまでも冷酷。地に足をつけず、漂うように舞う。その繰り返しが肉体的な機会性を持っていて、疎ましい。少女は密かに眉根を寄せた。
「愛してあげますわ。全部を壊して、柔らかく、溶かして……子宮の中に戻してあげる……」
彼女は微笑み、ロジェへ手を差し伸べた。
「拒否する理由、ないわよね?」
「大アリよ」
セラフィーネが飛ばして来た光線をロジェは軽く弾いた。それが合図。まずは相手の様子を見て。そう思うよりも先に鎌が飛んだ。
飛翔しようとするセラフィーネを容易く捕らえて叩きつけると、もちろん彼女は逃げる。ユリウスは一見逃がしたように見せて攻撃をいなしつつ打ち上げて斬り刻もうと構えた。
やはり、武器商を生業としたレヴィ家の名は伊達では無いらしい。ロジェは我に返るとくすりと微笑んだ。
「凄いやつがいたもんねぇ」
ここまで攻撃に徹してくれるのなら有難い。ロジェは星魔法を幾つか作ると、軌道に乗せてセラフィーネを追いかけた。追尾式弾幕はしつこく彼女に付きまとい攻撃を食らわせる。
「痛いですわ!酷いですわ!」
剥き身になったそこからは配線が覗いていた。セラフィーネはユリウスから距離をとると、声にならない音波を思いっきり叫んだ。
「何だよこれ……!」
途端に暴風が研究所内に吹き荒れ、吹雪で目の前が見えない。ロジェはぱちりと指を鳴らした。
「『恵みふるる太陽』!」
雪は解け、少女は雪を払いながらセラフィーネに叫ぶ。
「神代から巨人を呼ぼうったって、そうはいかないわよ」
「あら。残念ですわ。でもこれならどうかしら」
セラフィーネは研究所の天井部分を自壊させると、魔法を纏わせて二人にうち放つ。結界を貼るが穴ぼこだらけで持ちそうにない。この研究所の材質はエーテルを分解する働きがあるのか。
ロジェは何とか攻撃に耐えるが、次の瞬間吹っ飛んでいた。慌ててユリウスが間に入って、手持ちの魔道具で防御した。
「いてて……」
「大丈夫か!?」
「大丈夫、だけど……」
これからの攻撃を避けるには、ロジェの星魔法だけだと心もとない。ここは無理にでも使い魔を喚んで磐石を期す。
「『マク──」
刹那、ユリウスが制した。
「その必要は無い」
攻撃で煤けた服からは焦げた匂いがする。なのに、ロジェの前にまだ立つことが出来て、まだ諦めてはいない。
「え?」
振り返ったユリウスの瞳には疲れが無い。同じような輝きを持って、ロジェに笑いかけている。
「超古代文明に詳しいって言ったな?」
「そう、ね」
ユリウスは前を向くと息を吐いて、意を決して問いかけた。
「──『王権』は知ってるか?」
『王権』の秘密を明かしたユリウスは、ロジェと共に研究所を調べる。そこで発見した本は新たな秘密を宿していて……?新キャラ登場な第百十三話!




