第百十一話 逃げ出したパピリオ
オルテンシアとの死闘を繰り広げるヨハンだったり、ロジェに祈ったり、ロジェはユリウスと共に遺跡の奥へ入ったりする第百十一話!
「あらぁ。怖い顔……そろそろ本気を出さなくちゃね」
オルテンシアの周りには幾つもの楔が鎖に繋がれて浮かんでいた。
「これは『世界の楔』。未来永劫幸福な世界を描く為に貴方を掴んで離さないものよ。生きながら捕まったら生き地獄だし、ここで死んでおくっていうのはどうかしら」
「そんな事言われてさっさと死ぬと思うか?」
「思わないねぇ」
オルテンシアが指を鳴らした瞬間、天井が揺らいだ。
幾千の《楔》が鈍い音と共に浮かび上がり、鋼鉄の鎖を引きずって空間に軌跡を刻む。あらゆる因果と未来を縫い留めるその鎖は、ヨハンの逃げ場をすべて削ぎ落とすかのようだった。
これに捕まれば終わりだ。この世界が閉じられるその瞬間まで、最期まで逃げなければ。
崩れ落ちる天井と柱を避けながらオルテンシアから視線を外さない。何も出来ない中でのせめてもの抵抗だった。
「そろそろ礎になる気になった?」
「お断りだ」
ヨハンはそう言って銃を抜いた。だが、オルテンシアが見据える先では銃弾すら《幸福》へと変換される。
撃っても撃っても、《楔》が空中で弾丸を絡め取り、薔薇の花びらに変わって舞い落ちるだけ。一つの銃弾を吸い取った少女の魔法は化学反応を起こして、硝子で作られた玩具のような銃と花弁を放射線状に散らす。その様をヨハンは鼻で笑った。
「呆れるほど気持ち悪い魔法だな」
「そう?とっても綺麗だと思うんだけど……お気に召さなかった?」
銃はヨハンへ向けて放たれる。彼の動き一つにすら反応するように、数百、数千の軌道が瞬時に変化した。おまけに《楔》まで着いてくるシステムだ。
「ッ……!」
ヨハンはすんでのところで飛び退いた。破片が頬をかすめ、血が滲む。だが、それを意に介さず、彼は冷静に周囲を見渡す。
「逃げても無駄よ。これは“未来の幸福”の檻。どう足掻いても、いつか貴方は捕まるわ」
オルテンシアは笑ったまま、両手を広げた。鎖の嵐が激しさを増す。まるでオルガンのような音色が空間に響き、空から降り注ぐ無数の《楔》が光を帯びて輝いた。弾幕にして《楔》の檻に追い詰めるつもりか。避けようとすると、ヨハンの足元の地面が音もなく崩れた。
「容赦ねぇな……!」
反射的に跳躍するが、上からは雨あられのように光の鎖が襲いかかる。まるで立体的な檻の中に閉じ込められたかのように、逃げ場はない。一瞬でも動きを止めれば、全ての鎖がその身体に巻き付き、引き裂かれるだろう。
「死ぬまで続く夢ってきっと“悪夢”とは言わないのよ。“理想郷”って言うの」
オルテンシアの声は歌うように甘やかだった。だが、瞳の奥には、あまりにも冷たく澄んだ殺意が宿っていた。
「お前にとっての、の間違いだろう?」
ヨハンは完全に少女の檻に閉じ込められた。一際大きい鏃が向けられる。
「降参してくれたら優しく貴方を葬ってあげる。どうする?」
完敗だ。やはり神には敵わないかと、ヨハンは力無く笑った。鉈は今にも砕けそうだ。左腕が被弾していて出血も止まらない。寿命はそう長くない。
銃を打っても悪趣味な花に変わるだけだ。ヨハンはちらと少女を見た。確かにここまで、ここまでだ。しかし、悪足掻きもせずに死ぬつもりは毛頭無い。鉈を握り締める。チャンスは一度きり。ヤツの胸に鉈を突き刺し、銃で頭を撃ち抜く。覚悟を決めて視線を上げた。
「あらぁ……答えはNOって感じね?」
引き金に指をかける。ヨハンは静かに目を閉じた。光と鎖に包囲されたこの“幸福”の牢獄の中で、一瞬、世界が沈黙した。
間に漂う埃すらも止まったように感じられる、張りつめた静寂。
「貴方がお祈りなんて。意外と信心深いところがあるのね」
「……祈ってたんだ。星に……いや、神に」
オルテンシアは屈託なく仕方なさそうに笑った。
「私に祈ってもしょうがないわよ」
遠い光のように、あの笑顔が脳裏に浮かぶ。
真っ赤な髪、やんちゃな声、時に無鉄砲で、時に泣く、あの熱を。あの、生命の温もりを。生命を宿した眼を見て、オルテンシアは目を見開いた。
「……信じる神は一柱だけ。あの神だけ。幸も不幸も遍く破壊する『真昼の彗星』だけだ!」
「そんな祈り届くわけない!」
巨大な《楔》がヨハンを貫こうとする。が、それを避けて乗り上げたヨハンは、オルテンシアの傍まで走る。目の前に迫った刃を見て、少女は固まった。
「ぃ、いやだ、そん、な……!」
「はぁぁぁぁぁぁっ!」
胸を鉈で貫き、ヤケクソで引き金を引く。間違いなく通ったそれは、オルテンシアの目を剥かせるのには十分だった。しかし、戻ってきて、こちらを見て。組み立てていた少女の魔法が粉々に砕け散ったかと思うと、二人を吹き飛ばした。
ヨハンはゆるりと身体を起こしてオルテンシアがいた方を見た。少女は変わらず立っている。鉈は半分崩れていた。もうそろそろダメらしい。最早執念で立ち上がると、いつ暴発するか分からない銃を向けた。
紫紺の瞳が、それを捉えて微かに揺れる。
「ま、まだ抗うつもりなの……?だ、だったらねぇ……!」
彼女は広げた両手の先に、ひとつの人形。ロジェに酷似した少女の幻影を顕現させる。
「これでどう?」
ヨハンの動きが一瞬、止まった。刹那、捕縛され貫くのは『世界の楔』。自身を留め、支配する、土台となる鎖。
「ぁ……あぁ……」
正気だったら失神するような酷い有様なのに、ヨハンの顔には笑みが浮かんでいた。死す前に、最後に見たかった顔。ロジェが笑っている。
「……そう、か、俺にもまだ、こんな感情が……」
幻影だ。触れることは叶わない。なのに手を伸ばすのが止められない。血に濡れた手が幻を汚すことが無くて、心底安心した。
「愛してるよ、ロジェスティラ。愛してる……」
ただ微笑み、幻に手を伸ばし……そして、《楔》からヨハンの魂が蝶となって逃げ出そうとしている風景を見て、オルテンシアは目を見開いた。
「な、んで……!だ、だめだよ!わ、私の魔法が……!」
『世界の楔』からは何者も逃げられない。なのに、『マクスウェルの悪魔』に対する信仰心だけで魂がすり抜けて彼女を救おうとしている。止めなせなければ。
そう思い慌ててオルテンシアは近寄るも、《楔》の放出する力は止まらない。ヨハンは今際の際に一つ、零した。
「どうかこの願いを聞き届けてくれ、我らが神よ」
幻に手が触れたような気がして、ヨハンは心底嬉しそうに笑った。
「そして……いつまでも君の魂と共に……」
《楔》は彼の肉体を完全に吸収した。誰も逃げられないようになった閉じられた世界の闇は徐々にオルテンシアを蝕む。
「……うそ……」
この瞬間を笑顔で迎えるはずだった。皆際限ない幸せの中で、思考も意思もない世界が叶えられるはずだった。『マクスウェルの悪魔』を引き継いだロジェは良いが、そこに強い信仰心が合わさってしまったら。ヨハンを楔にしたこの瞬間、世界が根幹から揺らいでしまうのではないか。
気付いた時には遅かった。闇はオルテンシアを溶かし、食し、彼女が望んだ世界を生み出そうとしている。
「……あは……あはははは!」
世界が閉じられる。オルテンシアが笑ったその瞬間、もはやその少女の名と存在すら全て忘れた世界は凍てつき、橙色の蝶だけが逃げ出した。
ヨハンから見て二百年前の過去、ロジェとユリウスは扉を押して中に入った。広い空間の奥には裸で踊る女達のレリーフと、優雅に微笑みポーズを取るセラフィーネの石像があった。
「なんつーか……拍子抜けだな。すげぇ遺跡が広がってると思ったのにさぁ」
ロジェはセラフィーネの像に書いてある碑文を見る。『癒しの女神』と書いてある。
「セラフィーネが『癒しの遣い』か」
ロジェは像の足元に刻まれた古代文字を指先でなぞりながらつぶやく。そこには柔らかな線で「苦悩に触れよ、されど嘆くな。癒しは流血より始まる」と記されていた。
「流血って……ずいぶん物騒なこと書いてあるわね」
「皮肉なもんだな。癒すってのは、傷を前提にしてるってことだ」
ユリウスがロジェの背後で肩をすくめる。彼の目も、像の美しさにどこか不気味さを感じていた。
壁面に浮き彫りになった踊る裸婦たちのレリーフは、一見すると祝祭のように見える。だがよく見れば、その顔は皆、微笑んでいるにもかかわらず、どこか空虚で、同じ笑顔を繰り返す人形のようだった。
「……これ変よ。生きてるときの表情じゃない」
ロジェがぽつりと呟いた。
「え?」
「死んだ後の顔。筋肉が硬直して、笑ったまま止まった顔よ」
ユリウスはしばらく黙ったあと、小さく息を吐いた。
「遣いが癒すっていうより、“癒された”ってことかもしれないな。無理やり」
ロジェは首をかしげながら像を見上げる。セラフィーネの石像は慈悲深い笑みを浮かべ、片手を胸に、もう片方の手を空へ向けて差し出していた。
「癒された、ねぇ。考えられるのは……」
瞬間、ごぉん……と低く石が鳴る音が響いた。
石像の台座がわずかに揺れ、そこから血のような赤黒い液体がにじみ出す。
「ちょ、これ……!」
「下がれ!」
ユリウスが咄嗟に前へ出て鎌を構える。液体はまるで意志を持つように像の足元を這い、レリーフの女たちの目と口を赤く染めていった。
そして、神殿全体に女たちの笑い声がこだまする。くすくす、くすくす、と。
「癒しとは程遠い光景ねぇ」
ロジェの背筋に冷たいものが走る。像のセラフィーネがわずかに首を傾けた気がした。そしてその視線が──二人を捉えた。
「う、動いてねぇか、この像……式神か何かか?」
「違うわ。機械人形よ」
像は身体を動かすと、二人の前に立ち上がった。台座の下に隠してあった棍棒を持って振リかかる。ロジェは魔法を唱えた。
「『星降る槍の魔法』!」
魔法の中でも屈指の破壊力を持つ星魔法で傷一つつかない。何か厄介な保護魔法がかかっているようだ。
「くそ……一旦逃げた方がいい!オレの鎌だと刃が薄くて割れちまう!」
ロジェとユリウスは来た扉を叩くもビクともしない。魔法を唱えて解錠を試みるが跳ね返されるばかりだ。
「開かない……だと……?」
迫り来る巨像のセラフィーネに対し防御魔法を掛けながらロジェは思考した。この部屋の何もかもがおかしいが、何よりおかしいのはセラフィーネ本体が来ないことだ。
ここは彼女の拠点だ。それに彼女はロジェとユリウスを始末したがっている。絶好の機会なのに、こんな石像に相手をさせている。
「もしかして、もっと見られたくない場所がある、とか……?」
ふと像の奥から僅かな風が吹いているのを感じた。冴えた目は像の背後、祭壇のさらに奥、壁に寄り添うように半ば埋もれた扉の存在を捉えた。
「ユリウス!あれ見て!」
「扉か?飾りじゃねぇことを祈るぜ!」
言うか早いか、二人は扉へと駆け出した。ユリウスが発掘する傍ら、ロジェは床を破壊して足止めを行う。
「壊さない方が良いんじゃなかったのか!?」
「んなこと言ってらんないでしょ!」
レリーフ達は絶え間なく目から血を流し水たまりを作っていく。
「開いた……ぞ!」
ぎぃ……と、低い音を立てて、扉がわずかに開いた。そこから漂ってきたのは、湿った土と鉄、そして微かに……花の香りだった。
ロジェとユリウスは迫り来る像から逃げるように小さな扉へと足を踏み入れ、欄干を走った。底は深く青く澱んでいて、何があるか全く見えない。
「この橋すげぇな。支えがない」
関心するユリウスを見ながら、高いの怖くないのかしら、とロジェは他人事の様に思った。
「行きましょ。奥に何かあるわ」
数多の線に繋がれ、金属板が取り付けられた白い卵形の何かが宙に吊るされている。金属板には『人造神の癒しの遣い セラフィーネ』と記されていた。
「……ここにも、『人造神』が……」
「『人造神』って何だよ」
「旧人類が創り出した『神のような機械人形』のことよ。人間の究極系だって言われてる」
『人造神』の歪さはマルクレオンで体験済みだ。最悪以外の何者でもなかった。ただ、『遣い』という概念は初めて聞いた。中々どうして、彼らには興味を惹かれる。
「入ってみましょう」
扉はあっさりと開いて二人を招いた。顔を見合せて入ると、明らかに世界の常識を逸脱した構造体が目の前に拡がっていた。
広大な楕円形のホールの中心には浮かぶ白い卵形の構造物。鋼の蔓のような無数のケーブルに縛られ、空中に吊るされていた。外殻は磁器にも似たなめらかな白だが、よく見ると表面には金属光沢を帯びた繊維が走り、ところどころに銅色の通気孔が口を開けている。
段になった壁には幾つもの生命体のホルマリン漬けが飾られて、チューブが繭へと伸びている。
重力を無視したかのように宙に浮かぶそれは、まるで人工の繭。天井や床と繋がる支柱は一本もない。にもかかわらず、宙に静止している。
「……これは、建物か?」
ついにセラフィーネと対面し幕は切って落とされた。追い詰められたロジェは切り札である『マクスウェルの悪魔』を使おうとするが……?ユリウスが本気を出す第百十二話!




