第百九話 忘れ去られたアフェクトゥス
ユリウスから悪魔を追う理由を尋ねられたロジェだったり、再び遺跡探索に戻ったり。超古代文明の遺跡が現れる第百九話!
言いづらそうに目を背けたロジェを見て、ユリウスはくすりと笑った。
「聞くんだったらオレから先に言うべきだな」
そうさなぁ、と彼は呑気につけ加えて。
「王国に帰る途中、死神と出くわしたって話はしただろ?」
ぽんぽん、と鎌を叩きながらユリウスは笑った。
「死神の鎌をパチっちまったんだよなぁ」
その言葉にロジェは唖然とするしかない。いくら所有者が死んでいても物を取ろうなんて思わないし、ましてやロジェ以上に恵まれているレヴィ家が生活に困っているから盗ったなんて思えない。
「な、何でそんな事したの……?」
「いやぁ。職業病ってヤツぅ?」
ロジェの首は傾いたままだ。
「死神の鎌だけじゃないケド、人外が持ってる武器ってのは気になるんだよナ……」
それで物を取る理由にはならないはずなのだが。さくさくとユリウスは話を続ける。
「で、死んでると思った死神はギリギリで生きてて、もう怒るのなんの。その死神が追ってた悪魔を三体殺さないと一年以内に殺すって言われて追ってるワケ」
ユリウスは優しいオリーブ色の瞳をロジェに向けた。
「アンタは?……って言うけど、根掘り葉掘り聞くのもアレだし、嫌だったら」
「未来から来たって言ったら」
今まで抱えてきたものが落ちるような気がして、ロジェは矢継ぎ早に問うた。
「信じる?」
少女の引き攣った顔を見てユリウスは薄く笑みを作って肘をついた。
「……いいぜ。面白そうだ」
「『ラプラスの魔物』っているでしょ」
「いんなぁ。何してんのか分からんけど」
「二百年後の未来で世界を荒らしに荒らしてね。それに巻き込まれた人を救う為に過去に来たの」
「へぇ。正義のヒーローじゃないか」
彼はよく『ヒーロー』と言う。それに憧れがあるのかは知らないが、きっと自分のはそうではないだろう。ロジェは息を吐いた。
「違うわよ。私はある人を救いたいだけ。エゴなのよ」
「それはオレも一緒だ。自分が助かりたいから悪魔を倒す。エゴだよ」
ユリウスとロジェは確かに歳が近い。多分ロジェより少し上くらいだ。だけど……同じ歳になっても、これほど思慮深い目を出来る気がしない。
「生きるも死ぬも、何もかもエゴだ。……それは悪いことじゃねーよ」
暖炉の火がぱちぱちと音を立てて、薪が弾けた。ロジェはその音に紛れるように、わずかに震えた声で呟いた。
「……誰か一人のことを、ずっと考えちゃうことってある?」
ユリウスはロジェの顔を見ず、視線を炎に預けたまま頷いた。
「あるな」
「その人が、すごく強がってて、どうしようもなく頑固で、口も悪くて……だけど、放っておけないの。……放っておきたくないの」
ロジェの両手は膝の上でぎゅっと握られていた。吐息が震えている。
「その人は、誰にもそれを言わないで、全部背負い込もうとするの。私には分からない深いものを、あの人は持っている」
言葉を切ったロジェの目には、すでに涙が滲んでいた。
「大切な人だから救いたいの。……たぶん、きっとそう」
ユリウスはようやくロジェの方を見た。揺れる瞳に映るのは、頬を伝う雫。ロジェはそれでも、涙を拭おうとせず、静かに言葉を重ねた。
「どうしてあの人がそんなに大事なのか、うまく言えない。でも……あの人が、世界の全部を敵に回しても、私だけは味方でいたいって、思ったの。あの人が私にそうしてくれたみたいに」
胸の奥から、ずっと抑えてきたものが崩れ落ちるように、ロジェは小さくしゃくり上げた。涙が頬を伝い、ソファの布にしみこんでいく。
ユリウスは何も言わず、そっとロジェの肩に手を置いた。それは慰めるというより、ただそこにいるという意思の表れだった。
ロジェは顔を上げず、そのまま彼の手に身を寄せた。ユリウスは驚いたように眉を上げたが、それ以上何も言わず、優しくその背を撫でた。
「大切な人がいるってのはいいことだよ。泣けるうちに泣いとけ。死んだら泣けねぇからな」
「……うん」
ロジェの声はかすれていたが、確かなものだった。温かな火の音が、静かに二人の間を満たしていた。
「遠いとこから来たんだ。とにかく休め。二階の部屋ならどこの部屋を使ってくれても構わない。内鍵だから安心しろ。風呂も部屋付きだ。贅沢だろ?」
ウインクしたユリウスにロジェはくすりと笑った。
「おやすみ」
「あぁ、おやすみ」
少女の足音が遠ざかって行くのを聞いて、ユリウスはポケットから煙草を取り出した。火をつけて煙を口に含む。
ただ肺に溜まる白々しい煙は、この世界を夢だと囁くことはない。ため息と共に息を吐いた。
煙草の先端が、夜の暗がりの中でぼんやりと赤く光った。ユリウスは細く息を吐き、揺れる煙の向こうに、さっきまでそこにいた少女の姿を思い浮かべる。
無鉄砲だ。世間知らず。その言葉が似合う。あの少女がイカれてないと仮定して、どういう手段で過去に来たのかは知らないが、戻れる保証はあるのだろうか。
あったとしても、過去を変えるということは慎重にしなければならない。それが出来ると信じて疑わない無鉄砲さ。
ユリウスのことを丸っきり信じて、部屋に上がってしまう世間知らず。煙草を持つ指先が、かすかに震えた。火の粉がひとつ、灰皿の中に落ちる。
少女の言葉が頭の中で反芻される。『あの人の味方でいたい』。あの年齢で、そんな風に誰かを想えるなんて。羨ましいことだ。オレには無理だった。だから『ヒーロー』になれなかった。
くゆる煙が夜の闇に消えていく。何かを言おうとして口を開いたが、ただの息となって部屋に落ちた。
ユリウスは最後の一吸いを終えると、煙草を灰皿に押しつけた。火が消え、再び静寂だけが部屋を満たす。
今夜は長くなりそうだ。夢を見るには、少し早すぎる。
ぼすぼすと足が雪に沈む。ロジェとユリウスは晴れに晴れたノルテの深い雪山を登っていた。直ぐに樹林が現れてたちまち方向感覚が怪しくなる。
「ねぇユリウス。当てはあるの?」
「目撃情報がある場所に行く」
「なら良いけど……」
しばらく静かに進んで低い尾根が見えた。ユリウスは近くの大岩に腰を下ろして、薪跡を見た。
「巨人騒ぎで逃げたかな」
「何それ」
「あの悪魔は巨人を操るんだとよ。夕方によく出るって噂だな」
跡に新しく薪を加えて火をつけた。
「ここじゃ悪魔のせいで遭難事故が多い。朝吹雪があった日が悪魔が出てくる日だ」
ロジェは火に手をかざしながら、ユリウスの話に小さく首を傾げた。
「それ、本当に“悪魔”のせいなのかしら」
「ん?どういう意味だ」
ユリウスが眉を上げて問い返す。ロジェは慎重に言葉を選びながら、静かに続けた。
「“朝に吹雪があった日は悪魔が出る”っていうの、確かにそうかもしれないけれど……その吹雪自体が、悪魔なんじゃないかと思ったの」
少女は視線を空へ向ける。舞い落ちる雪片が、まるで静かに世界を包み込むように舞っていた。
「異常気象とか……地脈のゆがみとか。そういうのが悪魔や妖怪扱いされてるって考えたら?」
ユリウスは火を弄んでいた小枝の手を止め、ロジェをじっと見つめた。
「……成程な。確かにそれは面白い仮説だ」
口元に笑みを浮かべながらも、その瞳は真剣だった。焚き火の炎がその横顔を橙に照らす。
「オレはてっきり、悪魔の力で天候を操ってるもんだと思ってた。けど、同一って線もある。吹雪も悪魔も一緒ってな」
「そう。もしくは……あの悪魔は、吹雪を感知して動く。もしくは、吹雪が起こるような気候条件が、そもそも奴らの“好む環境”なのかも」
ユリウスはあごに手を当て、考え込んだ。
「となると、だ。その吹雪の法則が分かれば、次に現れるタイミングを予測できるってわけだ」
「うん、理屈の上ではね」
ロジェは微笑んだ。その顔にどこか安堵が滲んでいた。自分の話を真っ向から否定せずに受け止めてくれる相手がいる。それだけでずいぶん心が楽になる。
ユリウスは立ち上がり、両手をポケットに突っ込むと低い尾根を眺めた。
「確かめてみようじゃないか。今日は吹雪があった。悪魔が出るには持ってこいの日だ」
彼の唇が愉快そうに持ち上がる。
「仮にそれが自然現象だってんならそれはそれで面白い。オカルトも科学でも、オレはどっちでも構わねぇよ」
気軽に考えすぎなのも問題だが、これだけ笑い飛ばしてくれると有難い気持ちになる。少女も口角を緩めて立ち上がると、目の前に橙色の蝶々が通った。
「……こんな雪山に蝶なんて珍しいわね」
「蝶?んなもんいたか?」
「いるじゃない。ほらそこ、に……」
ロジェが指を指した先には、蝶が残した光が点々と繋がっていた。雪山の奥へと飛んで行く。
「追ってみるか」
「え!?」
「何驚いた声出してんだよ」
「幻術かもしれないのに?」
「それもまた一興だ。行くぞ」
ユリウスは思っていたよりもずっと突っ走るタイプなのかもしれない、とロジェは先を歩く彼の背を見ながらぼんやり思った。足元で影が揺らめいて、黒い姿の『マクスウェルの悪魔』が現れる。
【追うといい。あれは導だ】
「導ぇ?何の導よ。大体蝶って、魂の象徴……」
だから、と言いかけて我に返って蝶を見る。あの蝶は、もしかして……。
【追うといい】
『マクスウェルの悪魔』は言い残すと水となって影に溶けた。その影を忘れてロジェもユリウスの後を追った。
「アタリみてぇだな」
辿り着いたのは石造りの遺跡だった。風雪に晒され、苔むした外壁。崩れかけた円柱が何本も並ぶそれは、分厚い屋根を支えている。
「神殿跡ってわけじゃなさそうね」
ロジェがぽつりと呟いた。遺跡は小高い丘の上に建てられており、その周囲だけ妙に雪が少ない。吹き溜まりになるような場所でもないのに、足元の雪は薄く、まるでここだけ“何か”が近寄ることを拒んでいるかのようだった。
分厚い雲を見上げていると、下から抜けた声が聞こえた。ユリウスはしゃがみこみ手をぺたりと地面につけて感動している。
「あったけぇ……」
「そんなに?」
「触ってみろよ」
渋々触れると、確かにカイロくらいの温かさがある。心がまで冷えるノルテの山では出会えない温かさだ。
「ノルテは年中雪だけどよ、ここ最近異常気象が多くってな。『マクスウェルの悪魔』が何か伝えようとしてるんじゃないかって噂になってたけど……これは違うみてぇだ」
「等間隔に地響きがあるわね。何か下で動いてるのかも」
「大方あの悪魔だろーよ。巨人は神の遣いだし、『マクスウェルの悪魔』が乱心ってなりゃ誰も山には入って来ねぇだろうしな」
たん、たん、と地面はしっかりと動いている。その動きを感じながらユリウスは伸びた。
「神代の頃だと、この山の気温が四十度になったのに猛吹雪が吹いたってこともあったらしい。神代ってすげぇよな」
ユリウスは立ち上がると遺跡内部へ足を踏み入れた。ロジェは床部分を剥がして中に入れないか模索する。太陽の光が当たる奥側に、青く深い板状の宝石が埋め込まれていた。十字線が等間隔に並んでいる。
「これ、剥がせないかな……」
手でガラスを持ち上げると、下の宝石に触れた。力任せに引き剥がすと配線が見えた。これを壊せば下に行けそうだ。
「やったわ。ここから下に行けそうよ」
「おっ、お手柄ァ」
繋がっていた配線を丁寧に引きちぎり、人が入れそうな隙間が見えた。地下は深く、暗い。結界を纏い地下に降りると、二人の目の前に広がったのは、天井の高い、広大なホールだった。
壁一面に描かれた壁画……いや、それは彫刻とも、浮き彫りとも、映像投影とも言い難い、無数のレイヤーに重なる“情報層の壁”だった。動かぬはずの絵が、見る角度によって微細に変化する。それはまるで、記憶の断片を可視化したようだった。
前方右手には『マリア・ステラ号』の絵がある。白い巨船は宇宙に浮かび、窓に映る人々は微笑んでいる。探求よりも不変なる平和を追い続けた都市の姿。
その隣には、深海の都市。複雑に入り組んだビルと、珪藻状のドーム。その構造は、まさしくカノフィア……かつてロジェが訪れ、地上の文明とは異質の科学と哲学が息づいていた海底都市だった。ふたつの都市が、対をなすように並べられている。
「な、なんだこれ……」
「右が『マリア・ステラ号』で、左が『カノフィア』よ。私達が生まれるずっと昔に存在した、超古代文明の遺物達」
「信じられねぇ……」
「分かるわ。私も直で見るまでは信じられなかったもの」
ただもう、二つの都市は存在しない。滅んだのか滅ぼしたのか。その答えに返すものは何もおらず、ロジェの心に深く残るだけ。
「つかアレなんだよ」
だが、その中心に巨大な目があった。
円形の器官。瞳孔すらない、真円の目。それが両都市を見下ろすように彫られている。まるで観測しているかのように。人工物でありながら粘液を垂らして涙を流すそれは、目の隈を作っていた。
その下に、こう記されている。
《観測の礎にして、守護の門》
ロジェは震える手で、その下に並んだ古代語らしき文字に指を触れる。教示された古代語はすっかり馴染んで、すらすらと頭に入ってくるようになっていた。
「……これはちょっと厄介ね」
「何がだ?」
ヨハンもきっと、こんな気持ちだったのだろうとロジェは己の胸元を軽く掴みながらこう言った。
ロジェはユリウスへと超古代文明が存在したことを告げる。そして二百年後の未来ではヨハンがオルテンシアと死闘を繰り広げていた。お楽しみが続く第百十話!




