第百七話 動き出すウィース
一時的に『マクスウェルの悪魔』との協力関係を結んだロジェは、元の世界に戻すためとある物を追いかけることになる。伏線が回収され始める第百七話!
ぬかるみに嵌っていた意識が急激に冷めていく。ロジェは重いまぶたを押し上げた。開けた視界には『マクスウェルの悪魔』がいる。ゼロ距離すぎて身体を震わせた。
「ひぃっ……!?」
どろりとした目はただ静かに少女を見つめている。反射で手で口を抑えたが、むかつきは起こらなかった。
【契約は成された。汝を変容させるものは在りはしない】
ロジェは何の変哲もない自分の手のひらを見つめ、麒麟を見上げる。
「けい、やく……その……私は、『マクスウェルの悪魔』になるつもりは無いの。本来継ぐべき人の、代わりとしているつもり」
【そのような者が現れなければどうする】
沈黙に洞窟の水音が滴る。麒麟の指摘はご尤もなものだった。もしそうなったのなら、今現在麒麟を喚び出せたロジェが成るのが残当だろう。
「その時は、わたし、が……」
【待て。汝よ、本当に覚悟はあるのか】
麒麟の角が真っ直ぐロジェの首筋に当たる。麒麟は慈悲深い。人を殺すことが無いと言っても、それでも鋭いその角は、返答を間違えれば狂気が流し込まれる代物だった。
「ひっ……」
唾を飲み下せば薄皮が冷たい角に触れる。こうなれば勢いだ。無理くり言葉を投げつける。
「あ、あるわよもちろん!神様になれるんでしょ!光栄なことだわ!何より私には魔法が使えないし、こんなの思ってもみない嬉しいことで──」
【嘘をつくな】
「う、うそなんかじゃ……!きゃあっ!」
『マクスウェルの悪魔』は角を上げて顔をロジェに寄せた。瞳の渦は姿を消して、ただロジェの様子を見つめ続けている。
【吾が契約した相手の中で、『聖定』を恐れない者はいなかった】
その瞳には在りし日の契約者達が浮かんでいた。人の為の神でありながら、人々から疎まれる存在。
【嫌がって泣き喚いた者もいた。死のうとした者もいた。吾と契約すれば人として生きていくことは出来ぬ。生きる限り永劫、世界を支え続けねばならぬ】
麒麟が寄せた頬はほんのり冷たかった。それでも芯は暖かく、気分が優れない身体に効く。
【元より吾は汝に覚悟あるとは思っておらぬ。しかし、均衡が崩れた世を治さねばならぬのは同じ。それなら今しばらく、擬似契約を結ぶというのはどうか】
「……お試し期間ってこと?」
【左様。全てが終わった後に決めるといい】
その間に覚悟を決めろということだ。その間に、『ラプラスの魔物』の企みを全て破壊してヨハンとサディコを救う。あの世界に戻る。
ロジェは目の前に立つ悪魔の言葉に何も返さなかった。静かに立ち上がる。
「この世界を戻すにはどうすればいいの」
【元の世界に戻れ。そうすれば道は開ける】
手の甲に黒い三日月の契約印が浮かび上がった。その場凌ぎではあるが、契約したからとにかく魔法は使える。ロジェは軽く目を瞑ると元の世界へと転移した。
王都の魔法陣事件から二日後。
「あまりを無理をされると身体に毒ですよ」
「いつまでそんなこと言ってるのよ、全く……」
アリスは不服そうにお目付け役のメイド長へ返した。教科書を数冊抱えて、豪奢な廊下を自室に向けて歩いていく。窓の外には若葉が茂っていた。
ヨハンがレヴィ家の屋敷を壊してから半年以上。数ヶ月前にやっと改修が終わったばかりだ。カノフィアでアリスがロジェにやられた時と、同じ頃。その頃から彼女はずっとホームスクーリングだ。没落貴族にメンツを潰された彼女がいる場所は、ない。
ただあの期間は……アリスにとって学びの多い期間だった。訂正。負け惜しみ八割、学びが二割。
学園を卒業して何を得るのか。魔法の究極を知りたい?好きな分野がある?誰にも手に入れられない名誉?何が私の欲しいものなのだろう。
アリスは自室の椅子に座って息を吐いた。その様子を見ていたメイド長もため息を着く。
「また“あの”お悩みですか」
「“あの”って言うけどね、大事なことなのよ」
目付きが鋭くなったアリスをメイド長は窘める。
「アリス様は勉学に励まれ立派な当主様になればよろしいのです。ですから今は勉強を──」
「だからってそれが家業の役に立つわけじゃないじゃない!」
「大抵の仕事はそうに御座います、お嬢様」
違う。アリスは深々とため息をついた。メイド長はレヴィ家がどういうものか理解していない。いや、理解してるからこんな調子なのか。
レヴィ家にはこれといった家業は無い。強いて言うなら政治家が当てはまるかも。権力にしがみくとか、そういうの。しかし今まで偶々うまくいっていただけで、これからもそうだという保証は無い。
魔眼も無ければ神器も無い。この家には新たな家業が必要だ。家には古い歴史しかない。あとは多人数で魔獣を召喚する時に安定的な魔法陣を組むことの出来る技術とか。
「とにかく駄目なのよ。私達は今まで……」
王権にしがみついてきた、と言いかけてアリスは口を閉じた。王権なんて言葉じゃなく、もっともっと相応しい言葉があったはず。大きく強い存在。
「どうされました?」
不安そうに顔を覗き込んで来たメイド長からアリスは目を離した。
「別に。何でも無い」
何も、何も変わっていないはず。だけれどあの魔法陣が発生してから歪な感覚をアリスは覚えていた。
「この景色には慣れたけど……酷いわね、これ」
ロジェはマントを被って人と呼ばれる魔物が跋扈する王国にいた。『ラプラスの魔物』がいた白亜の城は無い。それがいた事も人々は覚えていない。ロジェの足元で影が揺らめく。
【慣れたのなら結構】
「こっからどうすればいいの?」
【汝には『ラプラスの魔物』を復活させて貰おう】
「復活ぅ?寝てたら治るって。いつもそうじゃない」
『ラプラスの魔物』の『お眠り』は国の一大イベントだ。祝日にならない割に国民は総参加の式典があり、割と不評ではある。
【それは存在があるからだろう】
ぬらりと影が揺れた。
【依代は『ラプラスの魔物』の存在を代償に、この世界を作りあげたのだ】
「……じゃあ、あの悪趣味な城が無いのは……」
あの白亜の城は、元から何も無かったかのように青々とした木々が生い茂っている。
【左様。何人も創造神の存在を知らぬ。この国は名実共に王国となったのだ】
重大なことをあまりに淡々と話すのでロジェは頭を抱えたが、本題に入る。
「そう。分かった。それで、どうすれば……」
【何事も吾に聞くでない。自分で調べろ】
「そんなこと言ったって、私なんも分かんな……」
返答の無い影に怒鳴ろうとした瞬間、耳を心地の良い笑い声が掠めた。釣られるように顔を上げると、今のロジェよりも少し幼いロジェが、薄く光りながらくすくすと笑って駆けていく。その様を見て少女は声を荒らげた。
「な、何で私がいるの!?」
ロジェは反射的にその幼い姿を追いかけて駆け出した。雨で濡れた石畳が反射する。
「待ちなさいよ!」
薄く発光しながら、夢のように透けた幼いロジェは城下町外れの森の奥へと走っていく。その笑い声は、風に乗ってリズミカルに響いていた。どこか懐かしくて、けれど何か悲しい。
「止まりなさいってば!」
森の中、枝をかき分け、土を蹴る。いつの間にか、空の色が変わっていた。鈍色の空に、薄い金の光が差す。時空が歪んでいる。そう確信した時、ロジェの足元が崩れ落ちた。
「──っ!!」
落ちた。感覚が消えた。光が巻き戻るように螺旋を描き、視界は白く塗りつぶされていく。
──気づけば、辺りは雪に覆われていた。
空は蒼く澄み、吐く息が白い。石畳の道の向こうに見えたのは、教科書で見覚えのある建物だった。黄金と宝石でまばゆく輝くノルテの王城である。
「……ウソ……」
ロジェは呆然とした。これは知っている。歴史書で見た風景。まだ人形博物館が稼働しておらず、武力で他国を制圧していた時代。豪雪地帯であるから遠くからでも国を見つけられる様に光彩陸離としていた城があったらしい。それが二百年前。
「何よこれ……過去に来ちゃったの?」
【左様】
唐突に声が響いた。
【彼の過去に触れよ。真実は彼の中にある。『ラプラスの魔物』を復活させるには、世の核心に迫るほかない】
「い、いや……彼って誰よ……」
しかしその答えは返らなかった。雪を踏みしめて歩き出す。遠くから賑やかな声がする。門前の広場、子どもたちが雪合戦をしている。
その中に、確かにいた。
小さな年端もいかない少女が、雪を握って笑っていた。
「あれ……私……よね?」
信じられない。だって二百年前に産まれていないんだもん。それに、あの少女の姿を周りの子供達が認識出来ていないように見える。
その瞬間だった。
「悪魔が来たぞ!早く逃げろ!」
背後から大人数人のけたたましい叫び声が聞こえる。子供達は一瞬にして蜘蛛の子を散らすように走って行った。ただロジェの姿をした少女がにこやかに立っているだけ。ロジェは雪をかき分けながらその少女に近付いた。
「早く逃げないと!私に着いてきて!」
ロジェは少女の手を引っ張ろうとしたが掴めない。
「行きましょう!貴方殺されてしまうわよ!」
何を言っても少女は頑として動かない。ただにこにこ微笑んで、悪魔が来る方向をじっと見つめている。空気が止まった。
【来るぞ】
八枚の漆黒の翼が、羽ばたかずとも威圧を纏う。風も無いのに、金糸のごとく流れる髪がゆらりと揺れた。年齢で言えば三十代、人間に換算すれば最も成熟した時期の姿だ。だがその瞳に宿るのは、永劫にわたる悪魔の時間。
「あら、逃げ遅れた子供がいるじゃありませんか」
首輪をつけて浮かぶ女は間違いなく悪魔だ。落ち着いたトーンだが舌先には甘い毒が混じるような話し方が耳をくすぐる。
「あなた……その子の母親?よく似ていて可愛いですわ。んー……でもあなたも可愛いわ。誰かにとても愛されている匂いがするもの」
悪魔はロジェに近づきすんすんと匂いを嗅いだ。二百年前ならば今よりも神代に近い。獣に近い特性を持つ悪魔も多くいたようだ。だから多分、匂いで判別しているんだろう。
「ワタクシはセラフィーネ。堕ちた星であるルシファー様の部下ですわ。探し物をしているの。見つからなかったらワタクシ怒られてしまいますわ。だから、貴方達を手土産にして許してもらおうかしら」
ロジェはぴくりと眉を上げた。アウロラはこんな昔から悪行を繰り返していたのか。変わらない性格にため息が出る。
「大丈夫ですわ。ルシファー様はきっと凄く可愛がって下さいましてよ。貴方みたいな大切なモノがあるお嬢さんならなおのこと……」
ロジェは耽溺するセラフィーネの話をぶった斬って問うた。
「自己紹介どうも。それであんたの目的は何?」
「世界の礎を探しているんですわ。苦労したんですのよ。貴方がいなければ直ぐに連れて帰れたと言うのに」
「……この子が?」
ロジェの隣でのほほんと笑う少女が、礎?ロジェは信じられないもの見る様な目つきで雪で遊び続ける少女を見た。
「そうですわ。ほら、その子を渡して?」
差し出された手をロジェは払い除けた。時空がどこまで干渉するか分からない。だけど、この少女は誰かの祈りだ。……そんな予感が頭に過ぎる。
「嫌よ。他所を当って」
オルテンシアはヨハンとロジェを同期させ、新たな世界を産み出そうとしていた。ロジェは逃げ出し、ヨハンは礎となったと仮定する。
ならこの少女は、ヨハンが産み出した存在ではないのか!?
「あら……それは残念……仕方ありませんわね、実力行使と参りましょう」
セラフィーネの瞳がゆっくりと深い紅に染まった。まるで薔薇の花弁を一枚一枚剥ぐように、彼女の口元が艶やかに歪む。
ロジェは咄嗟に身構えた。だが剣も杖もない。慣れない魔法であの化け物を相手にするしかない。
「“ワタクシの愛を、どうか受け入れて”」
その甘く囁く声と共に、空間が軋んだ。雪が舞い上がり、空が紅に滲む。セラフィーネの背後、八枚の翼がぬらりと広がり、巨大な黒い球体が浮かび上がる。
「き、気持ち悪ぅ……!」
球体の中、何百、何千という目が蠢いている。見ているだけで理性が削られるような気持ち悪さに、ロジェは目を顰めた。
【気をつけよ。あれは感情の巣】
どこからともなく聞こえた声に、ロジェは目を見開いた。
【彼女の愛は、感情を束ね、押しつけ、溺れさせる。お前の意志”を守れ。さもなくば、心ごと呑まれる】
「ふふ、そう。もっとワタクシを見て……もっと深くまで、堕ちて?」
セラフィーネの瞳が、ロジェの魂に絡みつこうとする。意識を奪い、存在を薄めようとする力。
だが──
「気持ち悪い!」
ロジェは咄嗟に足元の雪を蹴り上げ、視線を断った。
「そんなに愛が欲しいなら、もうちょっと可愛いの出してくんない!?ガチで気持ち悪いんだけど!」
セラフィーネの表情が一瞬だけ歪む。
「あらあら……精神魔法を気持ち悪いで両断するなんてすごい子もいたものねぇ……俄然欲しくなってきちゃった」
絶体絶命のロジェの前に現れた一人の人間。それは世界を暴く新たな仲間だった。意外な新キャラが登場な第百八話!




