第百三話 開かれるポルタ
アルチーナとモルガンに甘やかされに甘やかされたロジェは、彼女達から現状を打破するためのヒントを得る。新たなる世界へと歩んでいく第百三話。
「ふらふらする……」
「のぼせたか?水を飲め」
ロジェはモルガンから水を奪い取るようにして一気に瓶を空にした。
「モルガン姉様のせいですよほんとに」
ロジェの睨みにモルガンはしょげる。
「別に私は何もしていない。ただ灼熱風呂に一時間引っ付いていただけで……」
「それが理由だって言ってんですよ。上がろうって何回も言ったじゃないですか」
「久しぶりの妹でテンション上がったんだよ。機嫌直してくれ」
「だから一緒に入りたくないんですぅ」
冷えきった塔の心地が気持ちいい。萎れたモルガンを後ろにすたすたとロジェは階段を上がる。
「いつもああしてアルチーナ姉様とお風呂に入ってるんですか?」
「一日入っている時もある。いろいろとほら……汚れるからな」
「もう何も言いませんよ。私は」
まだ火照った頬を手で押さえながら、ふらふらとした足取りで部屋へと戻った。湯気に包まれた身体はぽかぽかと温かいのに、どこか力が抜けてしまっている。しっかり拭いたはずの赤い髪が、まだ少し湿ったまま肩に張り付いていた。
「ほら、こっちへいらっしゃい」
部屋に入るとアルチーナの優雅な声が聞こえる。ロジェは少し躊躇いながらも、ふかふかの寝台へと身を沈めた。柔らかい枕に頬を寄せると、まぶたが自然と重くなる。疲れていたのかもしれない。何とか眠気に逆らって目を開けた。
「あの、姉様達に聞きたいことがあって……!」
「まぁまぁ。お風呂上がりのお手入れはした?」
「いや、してないですけど……」
お風呂上がりのお手入れなんて普段からそんなにしない。保湿クリームとヘアクリームを塗るぐらい。撫でるように腕に触れられぞわりとした。
「香油を塗ってないんじゃない?」
「そうだ。どんな香りのものがいい?」
「別にいらないです」
今そういう話をしたい訳では無いのだが。アルチーナとモルガンに挟まれロジェは身動きが取れない。
「そういう訳にはいかないのよ」
「……マジで何でもいいです」
ロジェは観念してため息をついた。二人の姉達は嬉しそうにあれがいいこれがいいと言いながら、一つのボトルを選んだ。それめちゃくちゃ高いやつじゃないのか。
「ひぇっ……あ、あの……!」
暖かいオイルがお腹に垂れてくすぐったい。アルチーナは細く長い指を這わせて染み込ませていく。甘い薔薇の香りと見下ろすアルチーナの笑顔で、徐々にロジェは抵抗する意志を失っていた。
「今日はゆっくりしなさい、ロージー。……貴女は明日ここを立つ。そうして長い旅を始める」
ロジェのマッサージを終えたアルチーナは、優しく髪を梳かす。抱き寄せられた少女は大人しくアルチーナに擦り寄った。
「今の貴女に会えるのもこれが最後なのよ」
色香はなりを潜めた。愛と慈しみを含んだ視線が、ロジェを優しく包み込む。その瞳には何か見えている様で。この人達の『真の幽閉された原因』で、未来を見ているんじゃないかと……。
「……アルチーナ姉様。もしかして、何か見えて……」
ロジェがアルチーナの顔を触ると、姉は擽ったそうに笑った。
「さ、早く寝ましょう。明日は早いんだから」
一通り整えたモルガンが布団の中に入って来た。何で三人で寝ることになっているんだ。
「ロージー、もうちょっと奥に行ってくれないか」
「やだモルガンったら。くっつけば良いじゃない」
「それもそうですね」
ロジェはモルガンの隣に少しだけ身を寄せる。温かな布団の中で、アルチーナとモルガンの体温がじんわりと伝わってくる。浴後の心地よい疲れと香油の甘い香りが相まって、瞼がますます重くなる。
「こうしていると、昔を思い出すな」
モルガンがふと呟いた。ロジェは薄目を開け、ぼんやりと彼女の横顔を見る。
「昔って?」
「まだお前が小さかった頃だ。アルチーナ姉様がよく一緒に寝かしつけてくれたじゃないか」
「そんなこと……ありましたっけ」
記憶の彼方にぼんやりと浮かぶ光景。幼い頃、アルチーナに抱かれて眠った温もりが、今この瞬間と重なる気がした。
「私はロジェがぐっすり眠るまで、ずっと髪を梳かしていたのよ。今みたいに」
アルチーナは優しく微笑みながら、ロジェの髪を指に絡めるように撫でる。くすぐったさと心地よさが混じり合い、ロジェの体はますます布団に沈んでいった。
「……ん」
もう意識が途切れそうだ。眠気が波のように押し寄せる。
「いい子ね、ロージー」
額にそっと落とされたキスの感触を最後に、ロジェは静かに眠りへと落ちていった。
ロジェは瞼をゆっくりと持ち上げた。まだ微かに眠気が残っているが、隣にあったはずの温もりが消えていることに気づき、ぼんやりとした意識が覚醒していく。
「……もう朝……」
ゆっくりと身を起こすと、窓の外には静寂が広がっていた。昨夜まで荒れ狂っていた嵐はすっかり収まり、朝の冷たい空気が澄んでいる。雲間からは淡い光が差し込み、湿った庭の草木が朝露に濡れて輝いていた。あの恐ろしかった海も、嵐が無ければこうも穏やかなのか。
ロジェは一つ伸びをし、それからベッドを降りる。床に置かれたスリッパを履き、ふらりと扉へ向かった。
「起きたか?」
扉を開けると、廊下の向こうからモルガンが顔を出した。昨夜の湯上がりとは打って変わって、すっきりとした表情をしている。
「……うん。おはようございます。アルチーナ姉様は?」
「朝食を作っている。凄い豪勢なやつだぞ、期待していい」
「朝から豪勢って……」
ロジェは小さくため息をつきながらも、モルガンに促されるままに食堂へ向かった。
扉を開けると、甘く香ばしい匂いが部屋いっぱいに漂っている。金色に焼かれたパン、輝くオムレツ、湯気の立つスープ。果物が彩りよく盛り付けられた大皿もあり、まるで貴族の朝食のようだった。
「おはよう、ロージー。よく眠れた?」
アルチーナが微笑みながら振り返る。エプロンをつけた姿は普段よりも親しみやすく、それでいて優雅な雰囲気を崩していない。
「……おはようございます。凄い朝ごはんですね」
「ええ、貴女のために特別に用意したのよ。たくさん食べて、元気をつけなさい」
アルチーナはロジェの頭を優しく撫でる。その手の温もりに、ロジェは少しだけ頬を緩めた。
「じゃあ、いただきます」
静かに、けれど確かに心が温まる朝だった。
「こんなの久しぶりねぇ」
エプロンを解いて椅子に置いたアルチーナは、いそいそと朝食の前に座った。
「そうですね。ここに来てもロージーはすぐに帰ってしまうから」
モルガンの茶化すような言い方にロジェは目を逸らした。ああなるから嫌だとは口が裂けても言えない。言ってしまえば甘やかし地獄が始まる。この二人に甘やかされれば、二度と普通の生活は営めないだろう。
「ぅ……それは……」
「そうねぇ。お姉様達から離れられないようにもっと甘やかした方がいいのかしら」
「それはご勘弁願いたい、です」
オムレツを口に運びながらロジェはアルチーナから目を逸らした。
「そうよねぇ。人探しをしないとだものね」
「そうです!その、ヨハンって人を助けたくて!私の使い魔もどこにいるか分かんなくて……」
立ち上がったロジェにアルチーナは微笑んだ。
「ふふ……そのヨハンってひと、幾つなの?」
「身体年齢は二十歳くらいで、実年齢は五百歳は超えてるはず……」
「ふむ。私達より年上か。懸想してるのか?」
なんでいきなりそんな話になるんだ。ロジェはモルガンに返した。
「違うって。ただの先生だよ」
「ふぅん、センセイ、ねぇ……」
「向こうはそう思ってなかったりしてな?」
二人は顔を見合せてキャッキャッと喜んでいる。禁断の恋〜?とか言ってる。ロジェはため息をついた。
「何でこの人達経験豊富なのに恋バナが中学生レベルなの……」
「んっふふ……で、その人のことを助けたいと。何やら面倒なことになっているわねぇ」
「え。どうなってるか分かるの?」
「分かるわよ。この目があればね」
揺れる瞳をただロジェは見詰めていた。アルチーナとモルガンが『空間の塔』に幽閉されているのは、何も男漁りでは無い。その最たる理由は彼女達の魔眼にある。
一番上の姉、アルチーナは《千層の時環》の魔眼を持つ。オルテンシアに上書きされた世界、前書きの世界、見捨てられた世界、そしてありとあらゆる全ての平行世界の過去・現在・未来の時間の層を自在に読み取り、干渉することができる。それだけでなく、彼女は強烈な記憶力で全てを記憶している。
真ん中の姉、モルガンは《歪曲せし銀河》の魔眼を持つ。アルチーナの干渉する魔眼とは違い、「時空を歪める」 ことに特化している。また、アルチーナの干渉する力で過去の時空をもってこれば現在の時空として改変することも可能だ。
ここまで話せば、彼女達が世界にとっていかに驚異であるか分かるだろう。オルテンシアが『コード』の編纂をし続けていることを抜きにしても、アルチーナが時空に干渉しモルガンが破壊すれば世界など呆気なく終わる。
しかもこの魔眼は生まれつきではなく修行による取得だ。並の人間が為せる技では無い。そりゃあ幽閉もされるはずだ。
昔それを聞いて何となく、ロジェは二人の姉達が男漁りをする理由が分かった気がした。彼女達には全て見えている。ロジェがこうしてここに来ることも。反応も。何もかも。故に何かを面白いと思うことは無い。だから、何も考えずに済む快楽に溺れるのだろう、と。
「王都の魔法陣は見たかしら」
「目の前で見ました」
「それなら話が早いな」
アルチーナの細く白い指が陶磁の取っ手を撫で、わずかにカップを傾ける。透き通った琥珀色の液体が静かに波打ち、紅茶の香りがふわりと広がった。
「本来『ラプラスの魔物』がこの世界を支えるものだけど……当代のあの子はまだ弱いから、貴女とヨハンに頼ろうとしたのよ」
モルガンは砂糖を加えて紅茶を混ぜた。花の良い香りが周囲に立ちこめる。
「ヨハンを世界の支えとして、貴女をエネルギーとして運用する予定だったけど、貴女が逃げ出したからこの世界は不安定になっている。当代は地の果てまで貴女を追うでしょう」
「ど、どうすれば……」
「上書きされた世界に逃げるしかない。オルテンシアが『コード』によって書き換えられる前の世界だ」
アルチーナはどこか遠くを見つめながらロジェへと呟く。その目には何が見えているのだろうか。
「四次元空間になるから誰も貴女のことを知らない世界になるけど、三次元空間に繋げればいいんだから大丈夫よね」
「……えっと?」
何かの準備に取り掛かったアルチーナの専門的な発言に困惑しているロジェは、モルガンから耳打ちされる。
「四次元空間を抜かして三次元空間を今いる世界と置き換えれば話は繋がる」
「……なるほど。あぁでも私、魔力も何もなくって……!」
「魔法石を一つ渡してあげる。召喚魔法一回分くらいはあるわ。それで何とかなさい」
ロジェの前に宇宙の様に星が走る魔宝石が置かれた。触れるだけで上質で練り上げられた力が伝わってくる。
「それで、サディコを……私の使い魔を呼べば良いんですね?」
「上書きされた世界は『ラプラスの魔物』の意識が浸透している。言わば彼女の内臓のようなもの。この世界で出会った使い魔を召喚することは難しいでしょう」
ロジェは肩を落とした。サディコだけでも会いたかったのに。あの子は明るくて、希望で、強くて……ふわふわだったから。
「この世界にあって、彼女の影響を受けない使い魔を呼ぶしかないわ」
創造神である『ラプラスの魔物』の魔物の影響を受けない存在なんてこの世にいるのだろうか。首を傾げていると、アルチーナが弾かれたように顔を上げた。
「……姉様」
「そうね、モルガン。あと一時間くらいだわ」
ロジェは姉二人の元でのんびりとした時間を送っていた。しかし、そんな時間もすぐに過ぎていく。時空を見張る彼女達から衝撃的な事実が明かされる、第百四話。




