第百二話 神器のプロスクリプティオー
目まぐるしく状況が変化する中で、ロジェはヨハンの言う通り王都から逃げ出す。辿り着いた先はこの世で彼女が最も恐れる魔女達がいる場所だった。目指す場所が決まる第百二話。
投げた『ヴァンクール』は戻って来ない。眩い光を放ったまま、中空に浮いている。
『契約を満了しました』
澄んだ声が、空間に響く。済ましたオルテンシアの表情が一瞬にして崩れた。
「いけない!テュリー、止めなさい!」
彼女の声が響くのと同時にヴァンクールは高く舞い上がり、黄金の光の輪を広げていく。まるでこの世界が出来た時のような圧倒的な輝きだった。テュリーが飛んで手を伸ばして──その光は手からするりと抜けて解ける様にして消えた。
茫然自失。その言葉が相応しい。
オルテンシアにしてみれば『聖定』の要にあった神器が消えたのだ。『ヴァンクール』は理の外にある神器。故に、『ラプラスの魔物』でも復元することは出来ない。
対してロジェは全てを失った。何でヨハンがああ言ったのか反芻しても答えは出ない。ヨハンが裏切った?そんな事ない。絶対ない。だってヨハンは先生なのだ。そんな、そんな酷いことするはずない。
刹那、何かが動いて液体が激しく飛び散る音と同時にヨハンの声が響いた。
「はぁぁぁぁぁっ!」
鉈で貫いたのはオルテンシアの胸。突き刺さった刃を見て口から血を零しながらもゆるりと口角を歪める。
「……あはは。凄いねぇ。元気だねぇ。ふふ、自分から来てくれてありがとう。これで、全部上手くいくよ」
「いかないさ」
はっきりと述べたヨハンに、オルテンシアは顔を顰めた。
「……まぁ、何でもいいけど。これで扉が開くから」
「ぐぁッ!?」
魔法に貫かれたヨハンは息も絶え絶えにオルテンシアを睨む。何故か滴り落ちるはずの血が中に舞い始めていた。
「それで、いい……あの神器が……教えてくれた……お前を刺して扉を開けと……」
一体何がどうなっているのか、ロジェには少しも分からない。ヨハンは何を知っている?契約を思い出したとか?震える足をどうにかすることにロジェは躍起になっていた。
「ロジェ!今は逃げろ!あとは全部、『ヴァンクール』が引き受けてくれる!行け!」
ヨハンの声に我を取り戻したロジェは弾かれた様に走り出した。息が荒い。視界が滲む。鼓動が耳の奥でけたたましく鳴っている。
人を押しのけてとにかく前に進む。舗装された石畳の上を駆ける。人混みを掻き分け、露店の間をすり抜け、迷路のように入り組んだ路地を駆け抜けた。だが、どこへ行こうとも、王兵の姿が視界に映る。これじゃあ王都からは出られない。
「どうしよう……!」
歯を食いしばり、足を止める。額に滲んだ汗を拭う余裕すらない。その時だった。轟音と共に白い閃光が視界を埋め尽くし、王都が激しく揺れる。
道路のど真ん中で転げたロジェは、周囲の悲鳴を聞きながら頭を抑えた。次第に揺れが収まって、先を急ごうとした刹那。
「お、おい……なんだあれ……」
「研究所からなんか出てるぞ!」
民衆が指を指した方向、研究所の上から発生した
魔法陣は空一面に広がり、まるで天蓋のように王都を覆い尽くしていた。
魔法陣が回転を始める。ゆっくりと、しかし確実に。その紋様は複雑に絡み合い、無数の光が交錯していく。
「……何よ、あれ」
尋常ではない魔力の奔流が空を満たしていた。空気が重い。肺に吸い込む空気すらねっとりとした圧迫感を持っていた。何も分からないなりに分かる。今すぐここから逃げ出さなければ。
ロジェはサディコを呼ぼうとした。……が、契約が途絶されている。他の皆も一緒だ。魔法が無ければ、契約が無ければロジェはただの非力な少女。王兵に捕まれば一溜りもない。ただ捕まって自分が処刑されるだけならまだいい。ここまでのことをしている。エリックスドッター家が取り潰しになってもおかしく無い。それだけは何とか避けなければ。
その為には逃げないとダメで……でもどうやって逃げれば良いのだろう。
「いたぞ!そいつだ!」
王兵だ。すぐさま路地に逃げ込んで右に左にと走って行く。
「嘘でしょ、突き当たりなんて……!」
「こっちだ!」
ロジェは近くにあった樽の中に息を殺して身を潜めた。王兵の影がすぐ近くを横切る。鋼の鎧が軋む音、革の靴が地面を踏みしめる音、低く交わされる指示──どれも嫌になるほど鮮明に聞こえる。ここで見つかったら終わり。
その気持ちが指先の震えに繋がった。息を詰めて、じっと待つしかない。その時、ポケットの中で何か固いものに触れた。丸いもの。指輪だ。
家を勘当された時に渡されたもの。ヨハン曰く『助けがない時に、助けてくれる人の元へと導く力を持ってる魔法がかかってるらしい』とのことだが、結局使う機会はなかった。そもそも家を追い出されたのに「助けてくれる場所」なんて本当にあるのだろうか。
だが、この状況で考えている余裕はない。王兵の声がこちらへ近づいてくる。どうやら蓋を開けるようだ。使うしかない!
ロジェは震える手で指輪を握りしめた。
「お願い!どこでもいいから!助けて!」
次の瞬間、視界が弾けた。
──そして、世界が反転する。
凍死する様な寒さで、ロジェは目を覚ました。風が冷たい。硬い土が頬に当たる。酷い雨風で、ロジェの服はずぶ濡れになっていた。ここは……どこだろう……。
近くにあった林に身を潜めた。人の気配がどこにも無いから王都では無いはず。雨は振り止む気配が無い。今日はどこかの宿の軒先を貸してもらうしか無いだろう。ロジェは冷えた身体を抑えてぬかるんだ道を歩き始めた。雨の狭間からは荒れ果てた海が見える。となるとここは岬か。
気分が悪い。時空酔いした様だ。ということは王都からかなり離れた場所だ、たぶん。寒いし苦しい。足取りがふらつく。
ロジェは荒れ果てた道を進みながら、濡れた髪を払い、震える手で腕を抱いた。水で張り付く服は気持ち悪いし体温を奪っていく。冷たい風が肌を刺す。目の前に広がるのは、暗雲に覆われた灰色の海と、不気味なほど静かな風景だった。
「……さむい」
呟いた声は嵐にかき消された。今は夜なのか、それとも厚い雲のせいで陽が隠れているのか判断がつかない。空を仰ぐ余裕もなく、足元の泥濘を避けながら前に進む。
ふと、遠くにうっすらとした灯りが見えた。
──人がいる?
助けを求めるべきか迷った。王都で追われる身になったロジェにとって迂闊な行動は命取りになる。それでも、このまま寒さに耐え続ければまともに動けなくなるのは明白だった。
「……行くしかないわね」
重い足を引きずりながら、灯りを目指して進む。
やがて見えてきたのは巨大な塔だった。灰色にそびえ立つその建物は、まるで世界から切り離されたかのような威圧感を放っている。塔の入り口は頑丈な鉄門で閉ざされていたが、取り付けられた窓からかすかな灯りが漏れていた。
「……ここ、知ってる……」
既視感。いや、これは、母から言い聞かされ、幼い頃何度か訪れた場所。
息を呑む。
──『空間の塔』。
ここは、ロジェの姉達が幽閉されている場所だった。恐ろしくも美しい、頼りになる姉達。そう気付いてからのロジェの行動は早かった。
「開けて!お姉様ぁ!開けてください!ロジェです!お願い助けてぇ!」
涙声を混じらせてロジェは戸を叩く。しかし声は扉の奥ではなく、少女の背後から聞こえた。
「……魔法を使えないお前がどうやってここに来た?こんなところで何してる?」
嵐の中から現れたのは短髪の赤髪の女性だった。黒い衣装を身にまとい、雨に濡れるのを気にせずに宝石が嵌め込まれた弓をロジェに向ける。
「モルガン姉様!ロジェです!ロジェスティラです!お願いします、助けてください、わたしもう、もう……!」
ぐすぐすと泣き出した妹の手に指輪があるのを見て、モルガンは目を細める。そして弓を下ろした。
「本物か。過ぎた心配だったか」
モルガンはロジェの横を通り過ぎると、鍵を差し込み塔の扉を開けた。ロジェは冷え切った体を引きずるようにして塔の中へと足を踏み入れた。重厚な扉が低く軋む音を立てて閉まると、外の嵐の轟音が一気に遠ざかり、ひんやりとした静寂が空間を満たした。
「ほら、こっちへ来い」
モルガンはさっさと歩き出しながら、肩越しにロジェを促す。塔の内部は、外観から想像していたよりもずっと整然としていた。壁には燭台が等間隔に並び、淡い光が石造りの廊下を照らしている。しっとりとした空気に混じるのは、香のような甘い香り。人の欲を掻き立てる香りに嫌な予感がして、ロジェはぎゅっと拳を握った。
モルガンの背を追いかける形で進みながら、ロジェは口を開いた。
「……アルチーナ姉様は?」
「今は上だ」
モルガンはそっけなく答えたが、その口元には微かな笑みが浮かんでいる。妖艶さと冷静さが共存したその表情は、ロジェの記憶の中にある姉の姿と変わらなかった。
「会いたいんだろ?案内してやるよ」
階段を上るにつれ、周囲の空気が次第に変わっていった。甘い香りが強くなり、壁に掛けられた絵画や装飾の雰囲気もどこか淫靡なものへと移り変わる。
ロジェの鼓動が速くなる。やがて、最上階の扉の前でモルガンが立ち止まった。
「入れよ」
モルガンがノックすると、中からくぐもった声が返ってくる。
「……あぁら、モルガン?客人かしら?」
ねっとりとした甘い声。その一言だけで、ロジェは全身が粟立つのを感じた。扉がゆっくりと開かれる。
「お久しぶりねぇ、ロージー」
そこにいたのは、ソファに優雅に腰掛けたアルチーナだった。豊かな髪を波打つように流し、色香をまとったその姿は、記憶の中の姉そのもの。まっ白い乳牛のような慎みを持たない乳房を見る度、自分は何故ああじゃないのかと胸が苦しくなったものだ。熱を持った瞳がじっとりと向けられている。
「……アルチーナ姉様」
ロジェが震える声で呼ぶと、アルチーナはゆったりと微笑んだ。
「まぁまぁ……そんな顔しないで。貴女がここに来た理由は分かっています。でもまずはお風呂に入らないと。風邪をひいちゃうわ」
陶器のカップに口をつけた。その仕草すらぞくりとするほど淫靡だった。
「モルガンったら気が利かないんだから」
「申し訳ありません姉様。許して下さいませんか?」
「私じゃなくてロージーに言いなさいよぉ。さ、二人でお風呂に入ってらっしゃい」
え。二人で。私普通に年頃の娘なんですけど。ロジェは固まる。モルガンとアルチーナのことが妙に苦手だったのは、幾つになってもやたら距離感が近い事だった。ロジェの表情を見てアルチーナは固まる。
「あらぁ……もしかしてロージーは一緒にお風呂がやなの?」
「わ、私も大人ですし……一人でお風呂に入れますから……」
おずおずと下がるロジェにモルガンが近寄った。
「私達は姉妹なのに離れ離れだっただろう?家族らしいことをしたいんだ」
縋り付く様な目でモルガンに見られてしまっては断ることも出来ない。それに断る元気もない。ロジェは渋々、承諾した。
ロジェはモルガンに手を引かれ塔の奥へと進んだ。螺旋階段を降りた先には重厚な扉が待ち構えていた。モルガンが押し開くと湯気の立ちこめる大浴場が現れた。
「……すごい」
思わず息を呑む。浴場は石造りの壁に囲まれ、中央には湯気の立つ広々とした浴槽が鎮座していた。天井には蒼白い光を放つ魔法石が埋め込まれており、揺らめく光が水面に反射している。
壁際には香油の瓶がずらりと並び、湯の中には花びらが浮かんでいた。まるで王族のための浴場のような贅沢な空間だった。とても軟禁されている人間のものとは思えない。
「驚いたか?」
モルガンが楽しげに微笑む。その視線には幼い頃と変わらぬ親しみがあったが、どこか蠱惑的な影も差している。
「服を脱いだ方がいい。風邪をひく」
「う、うん……」
ロジェは戸惑いながら、濡れた服を脱いだ。衣服が肌に張り付き、脱ぐたびに冷たい感触が肌を撫でる。震える指先で最後の一枚を外し、湯の縁へと足を進めた。
モルガンもまた、黒い衣装を脱ぎ去る。しなやかで引き締まった肢体が露わになり、赤髪を軽くまとめあげた。その姿はまるで彫像のように美しかったが、どこか危うい色気を纏っている。
「ほら、入るぞ」
ロジェが躊躇している間に、モルガンは先に湯へと浸かった。肩まで湯に沈み、ほっと息をつく。ロジェも覚悟を決め、そろそろと足を入れた。
「……っ!」
じんわりと温かさが体を包み込む。冷え切った肌がじんじんと温もりを取り戻していく。まるで寒さも苦しみも溶けていくようだった。
「気持ちいいだろ?」
モルガンが隣に寄る。
「……うん」
「ロージーは痩せたな」
モルガンの指がロジェの肩に触れる。ぬるりとした湯の中で指が滑る感触に、ロジェは思わず身を竦ませた。
「ちゃんと食べてたか?」
「……まあ、食べてた……けど」
「ダメだな。やっぱり私がちゃんと見てやらないと」
モルガンはロジェの背に回り、ゆっくりと髪を撫でた。その動作は優雅で、どこか甘やかすような気配があった。
「……お姉様、熱いんだけど……」
「あつい?」
ロジェは湯の中でじっとりと絡みつく視線を感じた。モルガンの眼差しはまるで獲物を慈しむ捕食者のようで、ぞくりと背筋が粟立つ。
「ちゃんと浸からないと、風邪をひいてしまうからな。暑くていいんだ。な?」
囁く声が耳元をくすぐる。温かい湯に浸かっているはずなのに、寒気にも似た感覚が背筋を走った。
「……お姉様」
どれだけ違和感があっても抵抗する気力はもうない。ロジェは諦めてそっと目を伏せた。
モルガンの指先がそっとロジェの髪を梳いた。その手つきは優しく、それでいてどこか執着めいていた。湯の音が静かに響く中、ロジェはぼんやりとモルガンにもたれていた。
アルチーナとモルガンに甘やかされに甘やかされたロジェは、彼女達から現状を打破するためのヒントを得る。新たなる世界へと歩んでいく第百三話。




