第百一話 契約履行
オーブン焼きを堪能した二人と一匹。そして学会への準備を進めるロジェ。当日になっても未だ緊張するロジェだったが、そんなことを全て忘れてしまうような事件が起きる。物語が急展開を迎える第百一話。
「限度ってもんがあるでしょうが」
「良いだろ?こうやって俺が金を使うのも最後なんだ。それに、君が塔に行ってる間の分も買っておかないと」
そう言われれば反論出来ない。魔法が使えないのに食料が無くなればヨハンは餓死一直線だ。ロジェはため息をついた。
「……帰りましょっか」
『帰ろ帰ろー。お腹空いたー』
「あんたは水汲んでよね」
『もちもち』
男達の会話に後ろ髪を引かれながらも、輝かしい未来に影を落とす何かを見ないふりをしてロジェ達は帰路に着いたのであった。
「君がここまでオーブン焼きが上手だとは知らなかった」
ヨハンはサディコとの決死の攻防戦を終えてしみじみと肌寒いキッチンで呟いた。春が近くなったと言っても、まだ夜は寒い。
「満足してもらえて何よりだわ。サディコより食べたヨハンせんせ?」
取り合い始めた一人と一匹を横目にさっさと自分用の肉を奪っていたロジェは食事を終えて片付けをしながら意地悪く返す。
「美味しいのが悪い」
使い終わったオーブンを片付けながら言いにくそうにロジェは呟いた。
「……オーブン焼きだけは得意なの。曾祖母様が好きだったから」
気を遣わせる様なことを言ってしまった。少女は誤魔化そうとするが上手くいかない。
「仲良くなれると思ったんだけどね。無理なものは無理よね」
「オーブン焼きは俺も好きだぞ」
だから別に気にしなくていい、とヨハンがぎこちなく返す。こういう時お互いに不器用ねぇ、と思いつつロジェもはにかむ。
「ほんと?ありがと」
サディコはお腹を出して床で寝こけている。後で起こして部屋に連れてかないと。そんなことを思いながら、ロジェはヨハンが座るテーブルに腰を下ろした。
「発表の準備は?」
「順調。何も問題が起こらなければ無事終わると思うわ」
それと、と付け加える。
「お姉様達とも連絡が取れた。私の事待ってるって」
「全部終わったらどうする」
ロジェはあまり考えず呟いた。
「学籍を返してもらったら研究所に戻るつもりはしてる……けど、返して貰えないと、どうしようかなって感じだわ」
「……もし家に帰りたくないんだったら、ここにいて構わない。資料も本も全部やる」
言い過ぎたか、とヨハンは思いつつ顔を上げたが、ロジェは驚きの表情でこちらを見つめている。
「それぐらいしかしてやれないが、貰ってくれるなら嬉しい」
「いいの?」
「あぁ」
喜色満面の笑みを浮かべるとロジェはヨハンに抱きついた。
「嬉しい……!ありがとう!大切にするわね」
「あいよ。ほらさっさと寝ろ。発表はちゃんと詰めていかないと」
ぽんぽんと手を叩くとロジェはくるりと回ってお嬢様らしくお辞儀した。
「もっちろん!それじゃあね!<(お)7(や)P{(す)J☆(み)9(ヨ).V)(ン)!」
「<(お)7(や)P{(す)J☆(み)」
そうして眠って、時はすぎて。そうそう、発表日の朝。今朝の話ね。私が部屋で準備をしていると、サディコが近寄ってきた。
『ねぇロジェ。あのね……』
「なに?そんなもじもじして」
荷造りの手を止めると使い魔は不安そうに、口調だけは威勢よくロジェを見上げた。
『発表が終わっても、ヨハンが帰ってもぼくは使い魔だからね!逃げようって思ってもついて行くんだから』
「……もしかして契約終了されるって思ったの?」
『そんなわけないじゃん!』
そうかしら、とロジェはくすくすと笑った。
「契約抜きにしても、あんたといるのは楽しいわよ。これからもよろしくね」
『……でしょ?ぼくは優秀なマルコシアスだからね。じゃあぼく、待ってるから。早く帰って来てね!お利口にしてるから!』
ぶんぶんと尻尾を振り回すサディコが愛らしくて仕方ない。ロジェは荷物を玄関に持って、見送るサディコの頭を撫でた。ヨハンも玄関に立つロジェを見て階段を降りてくる。
「うん。頑張って早く帰ってくるね。ヨハンと二人で仲良くするのよ」
「俺は言われなくてもお利口だぞ」
「アンタはそりゃそうでしょうよ」
ロジェは肩を竦めた。転移魔法の魔法陣が現れ、別れの挨拶と共に少女は姿を消した。
「さて。早めの昼食にするか」
『今度はお魚食べようよ』
「うちには肉しか無いぞ」
えー、と我儘を言い出したサディコの身体をわしわしと撫でていると、がたりと何かが軋む物音がした。
『なんの音?』
「物が落ちたんだろ。行こう」
『絶対違うでしょ。大っきいものが落ちる音したよ』
今度はもっとはっきり、亀裂が入る音がした。音の先はエントランスの扉。ロジェが最初入ろうとした開かずの扉だ。錠が落ちる。
「……あの扉が開いたら、俺は帰れるんだ」
『どういうこと?』
「昔約束したんだよ。あの奥から来た人間に、俺は救われるって。そういう、契約を……」
思考はロジェが行った扉から響く慌ただしい音で掻き消された。ヨハンは静かに振り返る。ロジェとの入れ違いにやって来た王都の兵士達を見て、ヨハンは銃に手を伸ばした。
…………そんなことを一人と一匹で話したのが、半月前と今朝方だったか。
会場の控え室は、緊張の重みを孕んで静まり返っていた。ロジェは一人、壁際に立ち、かすかに震える指先を自分で握りしめる。こういう時にサディコがいたらなぁと思ったが、心配で屋敷に置いてきたことを思い出して……の繰り返し。
大丈夫。ちゃんと準備はした。詰めるべきところは詰めたし、資料だって完璧。心の中で繰り返しながら、背筋を伸ばす。けれども、どうしても落ち着かない。
遠くから拍手と歓声が聞こえて、その音と共に発表者が戻ってくる。力が抜けてへたりこんだ発表者を周りが支える。
「……はぁ」
ため息を一つ。こういう時に限って余計なことばかり考えてしまうのだ。学会が終わったらお姉様達に会いに行く。それは確かに楽しみでもあるし怖くもあるけれど……。
ヨハンの言葉が、頭の隅でこびりついて離れない。
『……もし家に帰りたくないんだったら、ここにいて構わない。資料も本も全部やる』
あの時のヨハンの表情が脳裏に浮かぶ。どこかぎこちなく、しかし確かに優しさの滲んだ、彼なりの気遣い。
あの人が、そんなことを言ってくれるなんて思わなかった。研究所に戻るのは当然だと思っていた。でも、"戻らない"という選択肢が目の前に差し出された途端、胸の奥に火が灯る。
あそこに残る。ヨハンの遺した屋敷で……ヨハンはいなくなってしまうから、サディコと二人で好きな研究をして過ごす。それはそれで……もし許されるのなら……
「……ああ、もう!」
今度は少し大きめの声で呟いて、ロジェは頬を軽く叩いた。考えるのは後だ。まずはこの学会を無事に終わらせることが最優先。
「深呼吸、深呼吸……」
息を吸って、吐く。落ち着け、私。ロジェスティラ・ヴィルトゥはこんなところで怯む人間じゃない。
カーテンの向こうから、呼び出しの声が響いた。出番だ。何を言われようが逃げることは許されない。ロジェは最後にもう一度だけスカートの裾を整えると、覚悟を決めて歩き出した。
舞台の上に立つと、照明の熱がじんと染みる。会場には大勢の研究者や学者が並び、その視線の全てがこちらに向けられている。どれも冷たく鋭い。その鋭さに笑いが込み上げる。
名目上、ロジェは貴族に敵対し、罪を償わないまま創造神の敵となった存在だ。こんな所に立つべき人間ではない。だがしかし。これは己の可能性を賭けた一発逆転のチャンスなのだ。逃す訳にはいかない!
ロジェは喉を一度鳴らした。
大丈夫。準備は万端。やるべきことは決まってる。震えそうになる指をそっと拳に握り込み、目の前のマイクに向かう。
「ロジェスティラ・ヴィルトゥです。本日は私の発表にお時間を割いて頂きありがとうございます」
声は自分が思っていたよりも落ち着いていた。まずは導入。静かに息を整え、スライドを映し出す。
研究出来る対象は幾つもあったが、その中で選んだのは『エーテル城塞第三基地』だ。特に、魔力源であるエーテルが現代技術の元で発電出来るかについて発表を行う。
そして、〈エーテルの安定化〉についても新たな視点を提示して終わりだ。これで乗り切る。スライドを切り替えながら、論点を説明する。
最初の数分は、静寂が続いた。だが、それは予想通りだった。この手の発表では最初は誰も簡単に賛同しない。むしろ、どこに反論点があるかを探るため、慎重に聞いている。
重要なのは、そこで怯まないこと。
ロジェは一つ息を吐いて、堂々と続けた。次第に、会場の空気が変わっていくのがわかる。聞いている。理解され始めている。私の発表が一笑に付すものではないと、そう感じている。
ちらりと前列を見ると知っている顔があった。
理事長、そして後列にはルネとヘティの顔もあった。彼らの表情には僅かに驚きの色が浮かんでいた。それを見て静かにロジェは笑みを浮かべた。
堂々と最後のスライドを映し出し、締めくくろうとしたその瞬間だった。
「発表を止めなさい」
会場に声が響いた。幼いながらも残忍さの籠った湿っぽい声。オルテンシアだ。観客は幼女の声と足音に振り返った。一瞬、ロジェは気圧されたが睨み返す。
「止めるのはあんたの方よ。学問の場に権威はいらないわ」
そう、とにこやかにオルテンシアは微笑んだ。場内は騒然としている。当たり前だ。この発表にオルテンシアが現れたことは一度も無い。それを見に来るだけでなく、発表を止めさせるなど。彼女は背後に立つテュリーに命じた。
「連れて来なさい」
「畏まりました」
ロジェは目を疑った。
「……嘘でしょう?」
そこにいたのは、普段どんな状況でも冷静沈着で、何があっても動じないはずのヨハンだった。
だが今の彼は後ろ手に縛られ、護衛兵に囲まれていた。身体のあちこちに乱暴に扱われた痕があり、血の滲む額にかかった髪が、妙に生々しく見えた。ロジェの脳が、警鐘を鳴らす。
不老不死であるヨハンがこんな無様な姿を晒すなどあり得ない。ならばこれは、何か強引な手が加えられたということだ。
「うふふ。不思議?貴女を捕らえて拷問寸前だって言ったら容易くお縄にかかってくれたわ。あの理事長もたまには使えるわね」
観客や研究者達は異常事態に必死の勢いで場内から出ていく。取り残されたのはロジェに対する暴力だけだった。
「……この人が不老不死ってことは知ってるわよね」
「そうよ。だから幾らでも使える」
オルテンシアは軽く指示すると、拘束していた兵士達は軽く心臓を貫いた。
「がはっ……」
「何をしてるの!?止めなさい!」
『ヴァンクール』を起動させたロジェに、ヨハンは生気の無い顔を上げて声を張る。
「待、てっ……!」
ぴたりと動きを止めたロジェに、オルテンシアはけたけたと笑った。
「あはは。素晴らしい師弟愛だぁ」
貫かれたヨハンは血溜まりを作っていく。どうして、どうして復活しない。ヨハンは不老不死だ。なのにどうして、足元に血溜まりが出来ている?思考はオルテンシアの微笑によって掻き消された。
「……知らなかったんだねぇ。ヤンはある悪魔と契約しているのよ」
したり顔で微笑む彼女に反論しなければならないのに、四肢が外されていく姿に釘付けになる。
「神に匹敵する悪魔と、ね。もう分かったでしょ?」
「……う、嘘だ……!」
神に匹敵する悪魔。それはもう『マクスウェルの悪魔』しかいない。だけど認めたくなかった。もしそうだとしたら、彼はそう易々とこの世界から帰れない。
自分の存在を投げ打ってでも成し遂げたいことがあったのだから。そしてそれは、彼が記憶を取り戻してないことからまだ成されていないはず。
「あぁ、これ?すごいでしょ。時間魔法を纏わせた槍で刺せば一発だったよぉ。こんな簡単なことがどうして思い浮かばなかったのかなぁ」
オルテンシアはヨハンの背の『契約印』をなぞった。眩い光が辺を照らし、聞くに耐えないおぞましい音が響く。
「あたし、『お眠り』から起きたばっかりなんだぁ……魔力はまだ少ないんだけれどね、『契約印』を元にすれば世界を改変するなんて簡単なことなんだよ?」
ロジェの周りを兵士が取り囲んだ。まずい、何も見えていなかった。
「ふふふ……それじゃ、世界の編集をしていこうかな。ヨーハンの不老不死を持って世界の基礎として、貴女の膨大な魔力で『幻想』の世界を支えてもらうことにしましょう」
じりじりと近寄ってくる兵士に、ロジェは構えた。
「心配しなくていいわ。お姉ちゃんとヤンは仲良しだもん。きっと上手くいくよぉ」
魔法を発動させようとした瞬間だった。どろりとした血を吐いてヨハンが叫ぶ。
「.AW=(げ)゛C_!」
言われるがまま『ヴァンクール』を投げると、強烈な閃光と爆発が起こって天井が裂けた。
目まぐるしく状況が変化する中で、ロジェはヨハンの言う通り王都から逃げ出す。辿り着いた先はこの世で彼女が最も恐れる魔女達がいる場所だった。目指す場所が決まる第百二話。




