第九十九話 仙人のサンクティオ
ついに慧昊は全てを明かした。その口から語られる真実とは。里を立つことになったロジェはディンから『契約印』について知らされるが……?とりあえず一段落な第九十九話!
あの日々は思い出したく無いな。辛すぎて覚えていないと言った方が正しいか。少しでも天から逃れる為に、私は至る所を放浪した。人を喰う本能から逃れ、天からの裁きを逃れ、遍く全てから逃れ。
辿り着いたのがこの里だった。景星から『この里は隠れるのに良い』と聞いたから、里を形成する異界の端に隠れていた。……確かに、外の世界と比べてずっといい。天にも見つかりにくいし人がいなかった。人を喰う悪鬼には本当に過ごしやすい環境だった。
年月が過ぎて、天にも地を歩くことが許され始めた頃。私は旅人として里の者達と関わり始めた。私は元人間だ。だから人間のことは良く知っている。そう思っていた。
だが、それは慢心だった。里の皆は排他的と思われることが多いが、彼らは流動的だった。里という閉鎖的な空間で流れていく人々や文化。唯一無二がここにはある。人も、魔法が無い空間も。そして、当主制も。あの制度だけは、変えなければならないと思った。
これだけは言っておくが、私は何も伝統を一掃すべきだとは思わない。むしろ逆だ。伝統が如何に非効率的であり、他の価値観から見て非常識であっても、それが彼らの常識であるのなら手出しは必要では無いと考えている。だが。
先代が無くなって、産まれてきた何も知らない赤子に当主を賜るのが伝統か。未来ある子供にいつかは『終わりの病』で死ぬと言うのが人道か。泉のことなど調べれば直ぐに分かるのに、見ようともしないのは正義なのか?
これは身勝手な義憤だ。私もあの卑しい仙どもと何も変わらない。私は李苑様を我が子のように愛してしまった。何が何でも、この子だけは守らなければならない。そう思ってしまった。
事の顛末はお客人が述べた通りだ。私は全てを知っていて彼女に調査を依頼した。そして……『終わりの病』は神の御加護で治るものとして処理する為に、彼女達を始末しようとした。
「王都に向かうべきは、私だ。悪鬼の期間も伸びている。不必要に人を襲うのなら、地下牢にでも繋がれている方が良いだろう」
静まり返った泉の淵。全てを話し終えて慧昊ははっきりと言った。李苑は琥珀色の瞳を震わせて抱き着く。
「おじさま……そんな……やだ、嘘だって言って!慧昊様は酷いことなんてしない!全部全部嘘で、ただ、ロジェ様が新しい風を吹き込んで下さっただけで……!」
「……申し訳ありません、李苑様。私が今述べた事が事実です」
「い、いやだぁっ!やだやだっ!おじさま行かないで!りおんはどうすればいいの!わたし、お母さんもお父さんもいないのに!けいこうさまだけなのに!」
堰を切ったように泣き出した李苑に、慧昊は苦しそうに顔を歪めた。今更自分がしたことの重大さに気付いたのだ。ロジェも思わず目を逸らす。
『あんたが心配してるのは刑期じゃなくて悪鬼のことでしょ?』
沈黙が支配する中で、不服そうに響く声があった。慧昊はちらとロジェの影を見る。
『それなら終わってるよ。ほーんと、悪運だけはいいヤツ』
「どういうこと?」
悪態をついたサディコにロジェは問うた。
『ロジェを攻撃する前に百年目が来てたってこと』
「じゃあ悪鬼は……」
『自分の能力として昇華してたんだろうね。地獄を治める鬼達も堕仙の系譜だから、慧昊もその仕組みを利用したんでしょ』
人間から仙人になり、仙人から人に戻らず鬼となり。自分は恐ろしいヤツの相手をしていたのだと、ロジェはため息をついた。
「天からの裁きが無いのなら、人からの裁きは受けてもらわないとね」
「あぁ。元よりそのつもりだ」
ロジェは仕方なさそうに肩を竦めた。
「被害者は逃走中で名前も姿も不明……。被害届を出しても証拠一つない案件を、誰が事件として扱うのでしょうね」
「それでいいのか」
目を見開いたヨハンにロジェは叫ぶ。
「良いのかって言われても、今はそうするしか無いでしょうよ。全部終わったら訴えてやるんだから、まったく!」
ロジェは呆れたようにため息をつくが、その顔にはどこか安堵の色が浮かんでいた。加えて、慧昊は一つ提案をする。
「分かった。だが……私が常にここにいる保証はない。罰したい時に罰せないのは困るのでは無いか?」
結局契約だ。人外というのはどうしてこうも契約をしたがるのだろう。
「はぁぁぁぁ……結局こうなるのね……」
ロジェは大きく息を吐いて、慧昊を見上げた。彼はわずかに目を伏せ、静かに口を開く。
「私が今後、里や李苑様に仇なす行いをしないこと。そして、お前が望む時に私を裁く権利を持つこと。これが内容だ」
「あんたって結構面の皮が厚いのね……」
ロジェは疑いの眼差しを向けるが、慧昊は首を横に振った。
「私にとって大事なのは李苑様だけだ。彼女さえ無事であるならば、どんな罰でも受けよう」
「あーはいはい分かった分かった。契約成立よ」
目の前にゆらぎが見える。固有魔法を発動する時と同じ、あの糸。これが彼の大切なもの。寄り合わせた運命。ロジェは掴むと、それは液体の様に溶けて身体の中に落ちた。
少女の契約印が慧昊に刻まれる感触が、した。糸がロジェから彼に繋がっている。これが契約をするということか。
「聞いても構わないか」
未知の感覚にふけっていると、慧昊は問うた。
「今回の解決は賞賛に値する。是非貴君等の計画を知りたい」
「単純な話だ」
ヨハンは眠そうに返した。一刻も早く帰りたそうな感じである。
「俺がロジェの真似をして、泉に来るまでの時間稼ぎをした。それだけだ」
「それがどうにも腑に落ちない。貴君は怪我を負って眠っていたはずだろう」
何を当たり前のことを、と言いたげな顔で男は返す。
「そうだよ。もういいか?寝たいんだが」
落ち着き払っていた慧昊の表情に驚愕が浮かび上がった。
「……重症を負った患者が起きる確証なんてどこにもない。計画としては博打だぞ」
「確かにそうだけど……勝てたんだし……それに」
ちら、とロジェはヨハンを見て。
「うちのせんせは弟子が危ないって時にはちゃんと助けてくれるのよ」
自信満々に笑って抱きつくロジェに、ヨハンは大きなため息を一つこぼした。
「危なっかしくて目を離せん」
「そういうところが可愛いんでしょ?」
「自分で言うか、それ」
ヨハンはぐしゃ、とロジェの髪を撫でた。
「ぐぁっ」
「良くやった。それでこそ俺の弟子だ」
柔らかな声。安堵の声。彼を安心させるに至る美しい秘密暴きが出来たらしい。
「……へへーん」
目にかかる前髪でヨハンの表情を伺う事は出来ない。出来ないけれども。手つきと声色からどんな表情をしているかぐらい分かる。同じく慧昊も李苑の頭を優しく撫でる。そして、ロジェを真っ直ぐに見つめた。
「さて。これから里をどうすべきか。それが問題だな」
その独り言にロジェは腕を組んで考え込む。しかしヨハンはさっさと踵を返し、興味なさそうに答えた。
「俺たちの仕事はここまでだ。後はお前たちで決めろ」
「待ってよ。ちょっとくらい良いじゃない」
「君のちょっとは長いんだ。行くぞ」
ロジェはディンの家に戻ろうとするヨハンを見送って、慧昊を見上げる。
「私には貴方達の相談に乗るくらいしか出来ないけど。それだったら出来るから。……けど、今度はもうちょっと穏やかにね」
ロジェは少し笑ってみせた。その言葉に李苑は涙を拭いながら小さく頷く。慧昊もまた微かに笑みを浮かべた。頃合を見計らってディンが終結へと招いた。
「それでは、後の事は我々が責任をもってお伝えします。今日のところは解散です」
泉の周囲に残っていた人々が、静かに動き始める。慧昊と李苑、そしてディンは、長老たちに今後について話し合うべくその場を離れていった。ロジェは小さく伸びをしてから林の奥を見る。
「ヨハン、先に帰っちゃったのかな」
『外で待ってるんじゃない?』
ロジェは疲れたように空を仰ぐ。雲の切れ間から差し込む月明かりが、林の奥へと続く道を淡く照らしていた。
「……あ。いた」
ロジェが足を止めると、そこには当然のようにヨハンが立っていた。林の外れ、月明かりに照らされながら、木にもたれかかっている。泉を出たのは良いものの、家の場所が分からなくて帰れなくなったんだろう。
「何してたの?」
「考え事。俺の弟子は良くできるなぁと、改めて思ってな」
そこまで褒められると照れる。えへへぇ、と声にならない喜びを上げていると、ヨハンは貼り付けた微笑みを浮かべた。
「やっぱり俺の弟子は良くできる。一か八かの賭けに出て師匠である俺を使い走りにするなんてそこいらのやつらと違うなぁ?えぇ?」
「あ、あははぁ……ははぁ……」
いやこれ全然褒めてない。むしろブチ切れである。笑ってキレるの怖すぎるんだけど。
「この借りどうしてくれようか。まだマリア・ステラのが残ってるんだぞ。十八割くらいは返してもらわんとなぁ?」
『貸し一つって割合のことだったんだ』
「ゆ、ゆるしてぇ……」
ひんひんと泣いているロジェにヨハンは口角を上げたままだ。
「どうしたもんかな」
『許してあげなよヨハン。そこまで拗ねなくても良いじゃん。大人気ないよ』
「……拗ね……?」
ロジェはサディコの言葉に首を傾げるしか無かった。拗ねている?どこのどの要素に?
『ヨハンはロジェが一人で秘密を暴いたのに怒ってるんだよ。一緒にやりたかったなっ……あ』
ロジェはサディコの言葉にぎょっとしてヨハンの顔を見た。確かに、彼の貼り付けたような笑みは、どことなく拗ねたようにも見える……かもしれない。
「……え、もしかして本当に拗ねてる?」
「拗ねてない」
「めっちゃ拗ねてる!」
サディコがすかさず突っ込むと、ヨハンは目を細めてロジェをじっと見つめた。無言の圧がすごい。
「ち、違うのよ。秘密を暴いたのは偶然というか、流れというか……。この謎を解かないと里に居られなかったし」
「……ほぅ?」
「そ、そもそも、あんた倒れてたわけじゃない。それで頼むのは……ほら、ねぇ?」
「それで?」
「……ごめんなさい」
耐えられなくなって、ロジェは素直に謝った。何で謝んなきゃなんないんだろう。この人こんな面倒臭い人だったっけ。ヨハンは満足げに頷くと、ロジェの頭にぽんっと手を置く。
「意地悪言って悪かったな」
「え」
ロジェはヨハンらしからぬ言葉に目を見開いた。
「……心配した」
ヨハンが静かに言った。
「ヨハン……」
ロジェは驚いて彼を見上げる。月明かりに照らされたヨハンの横顔は、どこか寂しげだった。
「慧昊との戦いを見た時……本当に怖かった。もうあんな戦い方は止めろ」
「……うん」
ロジェは素直に頷いた。ヨハンが自分を気にかけてくれるのは分かっている。だからこそ、次はもうちょっと穏便にいきたい。
『じゃあ、とりあえず帰ろうか!』
「お前は後でしばく」
サディコが場を和ませる発言を水泡にさせながらも、二人と一匹は帰路に着いたのであった。
「ロジェさん。この本お忘れじゃないですか?」
「あ。ほんとだ。有難う」
この里に来てから四日。あっという間に全てが変わった四日間だった。ディンの家の中で荷物を作っているロジェは本を受け取り仕舞う。少し手が空いた少女にディンは耳打ちした。
「ロジェさん。『契約印』のことで少しお話が」
ヨハンは何やら忙しそうだ。当分荷造りが終わることは無いだろう。ロジェはディンと共に別部屋へ向かう。
「あれは正しく本物です。ですが、桁外れの記憶力とこの風貌から迫害された我々一つ目の一族の記録にもない。となると……」
一際鼓動が跳ね上がる。
「未来のものかと」
未来。この先の未来でヨハンが契約する、ということ。しかしここで疑問が浮かぶ。
「未来のものなら、記録が無いのは納得です」
「でも、彼は過去から来たのよ?それだと辻褄が合わないんじゃ……」
それにヨハンは人外嫌いだ。そう易々と契約を結ぶとは思えない。
「未来から過去へ飛んだのなら可能性はあります。それと、もう一つ」
疑問を一つ一つ飛ばして、なのに論理的な推測が続いていく。
「月の印は夜に住むものが多く使います。神々でも同じです。夜や天体を司るものが使います」
そこで、とディンは一呼吸置いて続ける。
「洗いざらい探したんですが、該当する神や精霊、仙人はいませんでした。しかし……その、落ち着いて聞いて欲しいんですが」
ロジェは頷くことしか出来ない。
「例外的に契約印が変わる存在がいます。神の力を人間が継承し、現人神として役目を培っていく者達」
予感はあった。とてつもない運命の渦に身を落とした実感が。でもまさかそれが、ここまでのものとは思わなかった。
「『ラプラスの魔物』は太陽を契約印に。その対となる『マクスウェルの悪魔』は……」
この世を治める二柱。一つは太陽。であれば、その対は。
「月を、契約印にしている……」
「はい。ヨハンさんは未来の『マクスウェルの悪魔』と契約している可能性が非常に高いです」
「そん、な……」
少女はよろけた。どういうことだ。一体どうして、何の為に、命の次に大切な記憶を対価としたのだろう。
「ヨハンさんの契約印は僅かしか読み解けませんでしたが、その多くが力の象徴でした。未来の『マクスウェルの悪魔』は桁違いに脅威であることでしょう」
仮説はある。『必ず元の世界に帰ること』。契約の内容として一番妥当だ。だとしてもどうやって彼は『マクスウェルの悪魔』と出会ったのか。思考の海は向こうから呼ぶヨハンの声によって投げ出された。
「また何か分かれば連絡します。それまでは……貴方達に、何も無い事を祈るしかありません」
「……ありがとう。また来るから」
「ふふ。お待ちしております」
ヨハンの声が呼ぶままに、ロジェはディンの傍を離れた。
旅路を終えたロジェはサディコと共にヨハン帰還作戦を実行しようとする。終わりに近付きつつある旅。しかし今までの旅を発表する機会がロジェに訪れて……?物語は終わらない第百話!




