第九十七話 代理人のシモス
ロジェはアイリスからの手紙で慧昊について衝撃的な事実を知る。突破口になった事実はロジェを屋敷に駆り立てて……?里の思惑が渦巻く第九十七話!
「ふぅぅ……やっと暗くなってきた」
里の外れの森に身を隠しながらロジェは呟いた。にわかに里がざわめいている。ディンが上手く伝えてくれた様だ。
目的は李苑の部屋か慧昊の部屋に忍び込み、ツキヨモギを見つけ出すこと。当主か摂政の部屋から穢れがあるとされる食べ物が見つかれば、慧昊もタダでは済まないだろう。
「……ていうか、ロージーもとんでもないもの持ってくるなぁ……」
ロジェは懐にしまっていた紙を取り出した。朝アイリスが魔法で置いて行ったものだ。
『慧昊様は堕仙でした。
ご存知だと思いますが、堕仙は天から堕ちた仙のことを言います。
貴女の話を聞いて、わずかに残る神の力を用い彼の仙籍を調べました。そこで判明したのです。慧昊様は百年前、自身で仙籍を抹消されています。理由は分かりません。
ただ……問題はそこではありません。
堕仙は百年の間人を襲う本能を持つ『悪鬼』としての定めを背負います。
慧昊様は現在九十九年目にあたります。
悪鬼はその終わりが近づくほど本能に抗うのが難しくなると言われています。
今のところ、彼が人を襲った形跡はありません。
ですが、どこまで耐えられるのかは分かりません。強靭な理性が必要です。それを彼が持っているかどうか。
ロージー。どうか気をつけて。人は悪鬼には勝てません。夜ならなおのこと危険です。見つかったのならすぐ逃げて。絶対に戦わないで』
「堕仙、ねぇ」
仙人が伝説というのなら、堕仙は伝説を超えた伝説だ。仙人になるのがとてつもなく大変なことなのに、それを辞めてしまう者はそうそう居ない。
天から堕ちたことでペナルティを負うらしいが、その内容は明らかにされていない。堕仙の数が圧倒的に少ないのと、皆途中で息絶えるからだ。
今のロジェは慧昊に対して恐怖よりも、ペナルティの内容を問い質したいという好奇心が勝っていた。
「だめだめ。集中集中」
紙を片付け森から出るとすっかり暗くなった里があった。あぜ道の向こう側に屋敷が見える。里の者に見つからないよう回り道をして屋敷の裏口に辿り着いた。
「確か……李苑様の部屋は……」
玄関から入って右に進んで一番奥の部屋だったはず。隠れる場所が少ないから厄介だ。
「ともかく姿を消して行きましょう」
ロジェは透明化の魔法を自身にかけると、裏口から出て来た侍女と入れ替わるように中に忍び込んだ。侵入成功だ。外から話し声がして、ロジェは耳を当てた。
「ディン様のこと聞いた?」
「重要な話があるとか」
ほっと胸を撫で下ろした。無事にディンは伝えられているようだ。ロジェは屋敷の中を歩き出した。目的は李苑の部屋に忍び込むだけ。ただそれだけだ。
当主の部屋へ続く道を思い出しながら、人を避けながらそこに辿り着く。ドアノブをゆっくり回し、扉を押し込んでも動かなかった。鍵がかかっている。
持っているのは多分慧昊だろう。彼から奪い取るのは無理だし、当主の部屋についていた窓から中に入るのが妥当か。
足音に振り返ると廊下の遠くに慧昊が見えた。透明化しているから見える訳は無いのに、何となく花瓶棚の後ろに隠れてしまう。息を殺していると李苑の部屋の手前の扉に入った。忍び足で部屋から離れる。
庭はどこだろう。館の中央にあった階段を上り、二階から再び一階に降りる。白い木枠で彩られたガラスからは中庭が見える。中庭を超えれば上から侵入出来るだろう。ドアノブを握り、回した。開いているようだ。
夜の静寂の中、ロジェは館の庭に足を踏み入れた。一歩。二歩。その瞬間、空気が切り裂かれる音がする。
「……ッ!」
刹那、細長いワイヤーが彼女の手足を絡め取り冷たい刃が肌をかすめた。見えない糸の檻が、一瞬のうちに彼女の自由を奪う。手は上に吊り下げられ、体の身動ぎが許されないくらい肉に糸が食い込む。これは……連刃索と呼ばれる暗器の仕業か。即座に魔法が解ける。
「ネズミが入ったか」
闇の奥から響くのは慧昊の静かな声だった。彼はゆっくりと姿を現し、無機質な瞳で彼女を見下ろした。
ロジェは身じろぎしたが、刃の感触が動きを封じる。
「とうとう隠さなくなったわね、慧昊!」
慧昊は顎を撫でながら縛り付けられるロジェを見詰めた。
「惜しいな。半刻前には王都の兵士がいたのだが」
喉に絡みつく糸が益々キツくなる。息が出来るか出来ないかのギリギリの範囲で慧昊は糸を操っている。
「何を探していた。言え」
「ぐっ……ぁ……誰が、言うもんですか!」
慧昊は薄く笑うと連刃索を引いた。
「よく喋る。耐えられるか試してみるか?」
ロジェの体が宙に持ち上がり、鋭い刃が肌を裂く感覚が走った。
「くっ……!」
血が滴り、ロジェは歯を食いしばる。だが、彼女の瞳は決して屈しなかった。暗器につぅ、と血が垂れる。
「小娘の割によく耐える。それに……そうか、お前は人間か。血が赤いから」
太ももに傷を作ったロジェを見ながら慧昊の指がわずかに動いた。慧昊の影から、ロジェくらいはありそうなハリボテの蟹の鋭い爪。それがぐぐ、とロジェの腹を押した。
少女の呼吸が浅くなる。鋭利な爪が腹部を押さえつけ、僅かに力を込めれば容易く内臓を抉り出せることを示唆していた。
「たっぷり身が詰まっていそうだ」
「堕仙が!離しなさい!」
「ほぅ。そこまで知っているとは」
ますます拘束が強くなる。これ以上強くなればロジェの身体は切断まっしぐらだ。しかし、ロジェの瞳は揺るがない。痛みに耐えながらも慧昊の表情を探るように睨みつける。
「本当にやるつもり?あんたの禊がパーになるわよ」
震えながらも、ロジェは挑むように言葉を紡いだ。痛みと圧迫感がある中でも、相手の出方を見極めようとする意志は失われていない。
慧昊は静かにロジェを見詰め、指を僅かに動かす。その瞬間、蟹の爪が少しだけ食い込み、ロジェの衣服を裂いた。
「お前の胆力には感心する」
慧昊の声は低く、どこか熱を帯びていた。皮膚に蟹の爪が引っかかった。痛い。鉄の匂いがした。連刃索を緩めて慧昊の足元にロジェを落とした。
「ひ、ぐ……」
「今際の際にあっても折れぬ精神。お前のようであれば、私が堕ちることは無かったかもしれないな」
慧昊は唇を濡らすと、ロジェの首に歯を立てた。
「サディコッ!」
『ガルルルルッ!』
低く唸り声を上げてサディコはロジェの影から飛び出す。暗器は解けてロジェは糸から脱出した。
「ふぅ……私は簡単には捕まらないのよ」
血まみれになりながらも彼女は不敵に笑ってみせる。サディコは慧昊からロジェの影に戻った。慧昊は彼女の姿を見据え、静かに息を吐く。
「……面白い」
彼の影が再び蠢く。
「ならば本気で遊んでやろうか」
慧昊の影から出てきたのは蟹の足。その上に無理やり貼り付けられた梟のハリボテだった。目はぐるんぐるんと回ってどこを見ているか分からない。
『悪鬼の正体はこれだよ』
「な、なんなのこれッ……!」
『走って逃げな!死ぬよ!』
サディコの言葉に触発されてロジェは走り出す。恐ろしいスピードだ。カーブには弱いようだが、壁にぶつかっても直ぐに切り返す瞬発力がある。
『悪鬼は堕仙を象徴する姿になる!』
「上に乗っかってるフクロウは知恵の象徴ってこと!?」
『そう!蟹は死にバサミなんだと思う!執念深いから死んでも追ってくるよ!』
言われた傍から服の裾をちょんぎられた。あれが自分の足だったらと思うと寒気がする。
「攻撃したらダメなのよね?」
『さらに強くなるからね!悪鬼は死なないし!』
サディコはロジェの影からしみじみと呟いた。
『つーか悪鬼を能力として扱ってる堕仙なんて初めて見たなぁ〜。いやぁ、世の中には凄いやつがいるんだねぇ』
「そんな呑気なこと言ってる場合じゃないでしょ!」
ロジェは全速力で館内を駆け抜けたが、背後から迫る異形の悪鬼の足音が徐々に近づいてくるのを感じていた。ともかくここは隠れるしかない。気付けば一階の突き当たりだ。奥の扉が開かなければ死ぬ。
「お願い開いて……!」
その願いは虚しく届かない。
「うそでしょ……」
『ガチャガチャ回して扉を揺らして!』
サディコの言葉の通りにロジェは扉を揺らした。蝶番が割れて中に滑り込む。どうやら普段は使われていない物置だった。扉の前に木箱と突っ掛けを置く。顔を上げると窓があった。開けて逃げようとしたがこれも引っかかって上がらない。
舌打ちしつつも布が敷かれたテーブルの下で、ロジェは息を潜めた。隙間から扉を見ていると、紙を切るように蟹の爪が入った。続いたのは慧昊の声だ。
「ちょこまか動くのはネズミと変わらんな」
カチカチと蟹はハサミを鳴らしている。
「それとも外へ逃げたのか……」
慧昊は窓辺に残った埃を撫でながら呟いた。
「この窓は立て付けが悪い。さぞ硬かったろうな。まだ子供なら尚の事」
少女は静かに涙を零していた。気付かれている。普段はどれだけ怖くても泣かないのに。信じられないくらい怖い。思考が止まる。手が震える。
「それにしても妙だ……ここには人がいる気配がある」
鋭い爪がロジェの隠れた机を引っ掻いた。嫌な音がする。彼女の呼吸は浅く、心臓は嫌なほど高鳴っている。
「……さぁて。どこにいるかな」
低く響く声が、扉の向こうから聞こえた。慧昊のものだ。ロジェは息を殺し、指先まで緊張が走るのを感じた。
「怖い思いをするくらいなら、終わらせた方がいい。そう思わないか、ロジェ?」
彼はロジェの名を呼んだ。まるで、すでにこちらの居場所を知っているかのように。
ぎしっ。
ゆっくりと床が軋む音がした。慧昊がこの部屋の中を歩いている。靴底が床を踏みしめるたびに、ロジェの喉が詰まる。慧昊の声は優しく、しかし冷たい刃のように鋭い。
「隠れるというのは悪い選択肢では無い。だが……逆に感覚が研ぎ澄まされてしまうものだ。ほら、聞こえるか?」
カタン。
何かが倒れる音がした。ロジェのすぐ近くで、慧昊が何かに手をかけたのかもしれない。彼がわざと音を立てているのが分かった。鼓膜に響くその音が彼女の緊張をますます煽る。
「息が詰まりそうか?暗闇にいると、たとえ何もしていなくても幻の足音や囁きが聞こえてくることがある」
目の前にコインが落ちた。その些細な物音にさえも震えてしまう。
「恐怖には勝てない。そのことを今から証明してあげよう」
ロジェが隠れている真上の木板が、とんとん、と叩かれた。心臓の、真上。
「……ここか」
反射的に体が跳ねる。息が漏れそうになるのを必死にこらえた。刺されても絶対に声は上げない。手を口で抑えてロジェはその瞬間を耐える。爪が恐ろしいスピードで振り下ろされた。
刹那。
コン、コン
物置部屋の小さな窓を何者かが叩く音が響いた。まるで合図のように、静寂の中で際立って聞こえる。
爪はぴたりと止まり、彼もゆっくりと顔を上げた。ロジェもまた音の正体を確かめるために息をひそめ、そっと視線を向ける。
月明かりに照らされた窓の向こう──そこには、“ロジェ”がいた。
赤い髪、鋭い瞳、まるで鏡の中の自分が映し出されたかのような姿。ただロジェがするとは思えないような、強烈な憤激を顔に浮かべている。
「……ほう」
慧昊の瞳がわずかに細められる。彼の表情には驚きよりも、興味が滲んでいた。
「君がそこにいるのなら……ここに隠れているのは、一体誰だ?」
慧昊の手がすっと机から離れる。彼の注意が完全に窓の“ロジェ”に向いたのを感じた瞬間、ロジェの体に張り詰めていた緊張がわずかに緩む。
外の“ロジェ”は、ただただ慧昊を凝視していた。一言も喋らず、目で殺せるような凄まじい殺気。
ロジェは逃げ出す機会を伺っていた。もう少し外の“ロジェ”に意識が向けばここから抜け出せる。
慧昊が窓の“ロジェ”に向けて手を伸ばす。しかし、次の瞬間。
パリンッ!
突然、窓が弾けるように砕け、水しぶきが辺りに飛び散った。慧昊の視界が一瞬奪われる。サディコが仕掛けた罠が炸裂した。
「なるほど。そういう手か」
慧昊は忌々しげに額の水滴を拭いながら、ゆっくりと部屋の中を見渡す。しかし、ロジェの姿は既になかった。
「……なかなかやるじゃないか」
彼は笑みを浮かべると、再び静かに歩き出した。先に外にいる“ロジェ”を始末するとしよう。何者かは分からないが、それは重要な事では無い。
慧昊は机の布を取ると、床に薄ら残った血を鼻で笑って外に出た。
次回予告!
命からがら慧昊から逃げ出したロジェは、泉で全てを明かす。示し合わせたように現れた李苑の変化。里が大きく変わる第九十八話!




