第九十四話 月のプリンキピサ
慧昊の依頼により里の秘密を解き明かすことになったロジェは、泉の探索や李苑から話を聞くことにする。慧昊に対する疑念が深まる第九十四話!
気持ちのいい朝。ディンが分厚い本を開いて机の上に置く。横に高く積み上げられた本は、彼の一族の叡智を語っていた。
「今日は里のことを勉強しましょう」
「間に合うかしら。期限は三日なのに……」
不安げに揺れるロジェの瞳には昨日の慧昊が映った。彼曰く、李苑が持つのは三日ほど。それまでに解決しなければ王都に突き出す、と言うのだ。
「慌てる気持ちも分かりますが、まずは里のことを知らないと分かるものも分かりません。手早く終わらせますので一緒に勉強しましょう」
ディンは本を開いて白黒の指輪の絵を見せた。宝石がはめ込まれている重厚な指輪だ。
「これはアンドヴァラナウトという指輪型の神器で、どんなものでも守り通す力を持ちます。里を限られた人間しか出入り出来ないようにしているのも、この神器のお陰です」
「魔力の流れがないのもそのせいなのよね?」
「そうです。主な産業は稲作と養蚕。王都は月影の里を自治区として認めていますが、里の特異性を鑑みて国の公的機関は置かれていません」
「ちょっと不便そうね……」
自治区として認められているのなら、戸籍は王都にあるはずだ。普通は最寄りの管轄所に行くが、この里だと戸籍を取り寄せるにも大変そうだ。
「ですので、この村ならではの転送士という仕事があります。どこでも連れて行ってくれる召喚魔法のプロです」
ロジェは小さく声を上げた。知らないだけで世の中にはたくさんの仕事があるらしい。
「里の基本的な知識はこれくらいかな……あとは当主様のお話ですね」
ディンが頁をめくると、まだおくるみに包まれた李苑の絵が書いてあった。ほっぺたがぷっくりとしていて可愛らしい。
「李苑様のお母様は、李苑様が御生まれになった時に逝去され、指南役として慧昊様が面倒を見ておられました。親子のような間柄なんですよ」
「当主様のお母様は里の人なの?」
「いいえ。お母様は旅人で居着いた方でした。お父様はどこの人とも知れずじまいで……」
ディンの声色は『記録できない』という落胆を示したものだった。
「基本的に当主様の生活は私達と大きく変わることはありません。違う部分と言えば食事、でしょうか」
本には『当主の模範的な食事』と題された幾つかの献立が掲載されている。
「飲料は全て泉の水。食事はチーズや大豆をメインに食べられることが多いです」
「それは……穢れがない、とかそういう?」
「そうです。その他にも卵や納豆も食されることがあります」
「納豆?変わってるわね。臭いのするものは除外されると思うけど……」
それに穢れは生命を指すから、卵も除外されることも多い。変わった文化である。
「確かにそうですね。恐らくですが、里が出来た初めの頃は滋養がつく食物がこれらしか無かったため、今もしきたりで食べているんじゃないかと推測しています」
「なるほどねぇ……」
ディンの説明が終わってぱたん、と本は閉じられた。なるほど彼の言う通りで早く終わったようだ。
「とまぁ、当主様やこの里の関係で知っておくと便利な知識はこれくらいです。この後はどうされますか?」
「泉に行く」
ロジェはポシェットを持って立ち上がった。ディンも慌てて支度する。
「同行します」
「一人で行けるわよ」
「心配ですから。ロジェさん危なっかしいし」
「そうかなぁ……」
ロジェは首を傾げた。いろんな人に心配されがちだから、やっぱり危なっかしいのだろうか。そんなことを考えながら支度をして家を出る。土塊を踏みしめながら少女は問うた。
「ディンのお父様とお母様は?」
「両親は海外記録派遣役なんです。里を出て外の世界を記録します。単眼の一族は記録魔なので」
「やっぱりそうなんだ……」
薄々感じていた。単眼の一族は大抵顔あてをするし、こうした長い歴史を紡ぐ場所によくいる。各国は歴史の記録役として一人ずつ単眼の一族を迎えるのだ。彼らは記録にしか価値を見出さないから、悪政も善政も正しく記録する。
「見るのは初めてですか?」
「えぇ。すごく強い千里眼が使えるって聞いたわ」
だから彼らは顔あてをつけていても前が見えるのだ。じい、とロジェは顔を覗いた。
「そう言われるとちょっと恥ずかしいですね」
「あとすごく長命だって聞いた」
「……まぁまぁまぁ」
人に年齢を聞くのは失礼だと分かっていても、やっぱり気になるものは気になる。はぐらかされてロジェは距離を詰めた。
「そのはぐらかし方ちょっと気になるんだけど」
「いいじゃないですか。着きましたよ」
上手くかわされてしまった。辿り着いたのは昨日と何ら気配も変わらない同じ泉だ。やはり魔法の流れは感じない。
「相変わらず綺麗な泉ねぇ。そして魔力は通ってない、と……」
ロジェはほとりにしゃがみ込んだ。覗き込んでも何も変わらない。何の変哲もない泉。
「何かこの泉に……瞳の色が変わる成分とかを入れることは出来ないの?」
「ここは重職以外は立ち入り禁止なので……入れたとしても関係者立会の元でないと泉を守る結界は消えませんので、難しいかと」
「そもそもそんな成分無いわよね」
あはは、とロジェは肩を竦めた。近くに落ちていた葉っぱを拾って落とすも、波紋の広がり方は普通の水と変わらない。粘性がある訳でもない。
「ここは聖なる泉って呼ばれてるの?」
「名を蓬泉という」
「へ……ぇ……」
冷たさを濃縮したような声に、ロジェは固まった。恭しくディンは頭を下げる。
「慧昊様。こちらへいらしていたのですね」
「あぁ。水を汲みに来た。どうだ、調査は順調か?」
軽くはにかんだ慧昊を見て、ロジェはこの人笑えるんだなぁとのんびり思った。静かに頭を下げる。
「調査を始めたばかりなんです。ですが必ず、結果をお見せ致します」
「その言葉が嘘では無いことを祈ろう」
彼は泉の縁に腰を下ろし、手元のノートに何かを書きつけていた。ロジェが静かに近づくと、彼の筆記の手が止まりちらりとこちらを見た。
「何か気になることでも?」
「何を書いていらっしゃるのかと思って」
「水位だ」
ノートに記載された表は非常に緻密なものであった。とにかく見やすい。そういったものを作り慣れているのだろう。
「蓬泉は泉と名付けられているが、実際は池だ。流れ込む水は周囲の河川から影響を受けている」
「魔法で調査されないんですか?」
「魔法は嫌いだ」
はっきりと言い張った慧昊の腰を見ると、メーターや器具が取り付けられている。
「慧昊様は科学がお好きなんですね」
「科学は嫌いか?」
「いいえ。王都にはそういう学徒があまりいませんので、珍しくて」
というのは嘘だ。あまりいない、のではなくほとんど居ない。魔法にとって変わるであろう科学を疎む者達は少なくない。『科学が形の変わった魔法なら研究する必要などない』と論じる極端な者までもいる。
「学校は無いのか?」
慧昊の問いにロジェは首を傾げた。ロジェが親のコネで無理やり入れさせられた全寮制ぺスカ王立マグノーリエ魔法研究所は、王都の大正門から見て左側にある巨大な施設だ。他の門から入っても必ず見える。王都に行ったことが無いのだろうか。
「……魔法学院があります」
「議会が治めるんだったな」
「はい。王の元に議会があります」
ペスカ王国が王の元で議会制政治を行っているというのもまた変な指摘だ。ペスカ王国は神の国。議会はほとんどお飾りであり、創造神が治める国と皆言うし、教科書にも書いてある。
議会制が色濃くあったのは先代の『ラプラスの魔物』の時代だ。ここ数十年、王権はほとんど機能していない。
ロジェはふと慧昊へと問うた。
「そういえば慧昊様は景星様と仲が良いんですってね」
「あぁ。彼はよくこの里に訪れる。ただ……あれだけ各地を周遊されていては、北紫大公もさぞお困りだろう」
はて。北紫大公。……あぁ。景星の上司の神 北極紫微大帝のことか。
神のことを大公と呼ぶのは仙人だけだ。しかし、仙人は上下関係を大事にする。人間なのに大公呼びなんて、仙人にでもなろうとしているのだろうか。
「……これだけ泉が綺麗だと、水精でも宿りそうなものですけど」
「水精はいるが、形は変わっている。人型ではなく花の形を取る。これは里の空間が歪んでいることが原因だ」
慧昊が足元に咲く花弁を拾い上げた途端、解けるように消え去った。
「精霊は場の影響を受けやすい。精霊だといっても常に人型という訳では無い。動物はもちろん、花や武器、果ては家の形を取ることもある。例外的にだが消耗品の形をとることもあるな。空気のような形もあって──」
慧昊が精霊について話そうとした瞬間、背後から元気な声が聞こえた。
「慧昊様!こんなところにいた!」
「またお水の量測ってるのー?」
子供達だ。立ち入り禁止なのは名ばかりで、子供達がよく遊びに来ているらしい。慧昊は彼らの背中を叩いた。
「ご来客だ。挨拶しなさい」
「こんにちは!」
元気よく挨拶した子供にロジェは目線を合わせた。
「こんにちは。遊びに来たのね?」
「うん!ほんとはだめだけど……」
きしし、と子供達は笑って慧昊の顔色を伺った。なるほど。筋金入りの悪ガキらしい。頭を軽く小突いた慧昊はロジェへ視線を動かした。
「貴君の話を聞いて、李苑様が面会したいと仰せになっている。今すぐ向かうのが良いだろう」
子供達に連れて行かれた慧昊を見て、ロジェは感心の息を吐いた。
「驚いた。あの人子供と話せるのね」
「それよりもビックリしたのは慧昊様が泉の名を教えられたことですよ。これは記録しておかないと……」
ディンは懐からメモ帳を取り出して書き始めた。
「普通のことじゃないの?」
「里の者しか泉の名を知りませんし、教えません。慧昊様はロジェさんのことをお認めになったんじゃないでしょうか」
顔も上げずにざくざくとメモに記す音だけが響く。
「そうだと良いけどねぇ……」
「ともかく李苑様のところに行きましょう。こんな機会ありませんから!」
屋敷に辿り着いた二人は侍女からの迎えを受けた。ディンを呼んだあの侍女だ。
「当主様のご体調は……?」
「それが……状態が落ち着きまして。微熱なんです」
侍女は疲れ切って首を傾げた。
「終わりの病は熱以外の症状は出ません。背中に特徴的な発疹が出来たあと、高熱を出してそのまま……というのが殆どです。ですが下痢があったようで。私達は何も分からないし……」
侍女は事情を知らないであろうロジェに終わりの病の詳細を告げる。廊下を歩きながら少女は小さく呟いた。
「……ともかく、お話出来る状態で良かったわ」
「李苑様。ロジェ様とディン様ですよ」
こんこん、と侍女が扉を叩くと中からか細い声が聞こえた。
『通してください』
李苑の声だ。ロジェの隣の記録魔は威嚇している時の猫のように全身の毛を逆立ている。喜んでるの、それ。
「ぼぼぼぼぼくのことは無視して色々話してくださいぼくはめっっちゃ書かないとアレなんでぁぁぁ嬉しいなぁっ!」
「記録魔って怖いわぁ」
気色の悪い声を一蹴して中に入ると、白い着物を着た幼女がいた。
腰まで伸びたふわふわの栗毛は手入れが行き届いており、つやつやと輝いている。頬紅をしたかのような真っ赤な頬。まん丸の瞳にはめ込まれたのは、美しい翠玉。
「ごめんなさい、こんなかっこで……けほっ……」
「いいえ。面会の時間を頂き有難う御座います。当主様」
ロジェは当主の隣に置かれた椅子に座った。入口付近に座ったディンをちらと見るが、本人は書き取りに必死な様子だ。
「いやですわ。りおんってよんで下さい」
「分かりました……では李苑様。お話とはなんでしょう」
「えへへ……いろいろお話したいなと思って。里のことはディン様から聞きましたか?」
「おっおっおっ話しましたッ」
李苑からの視線を受けてディンはびくびくとうねった。単眼の一族って皆こうなのかしら。その様子をちらとみて呟く。
「……はい」
「そっかぁ。じゃありおんの話をしようかな」
聞きたいです、とロジェが呟くと、李苑は可愛い声で語り出した。
「りおんはね、ももが好きなの。里も好き。当主の仕事が終わったら、旅に出てみたいな……」
軽く話しただけなのに激しく咳き込む。ロジェは枕元に置いてあった水を飲ませた。
「李苑様、お水を」
「んくっ……ありがとう。熱が出ると、のどがかわくね……」
コップに注がれた水を見て、李苑はロジェを見上げた。
「りおんはけがれのある食べ物は食べれないんだ」
「しきたりなのですよね」
「うん。でも……食べたら気分悪くなっちゃう。だまって食べちゃったことがあるんだけど、はいちゃった」
しきたりではなく何か身体に悪く作用するらしい。ロジェは一層声音を沈めて言った。
「皆様心配されたでしょう」
「うん。でもおじさまはおこらなかったよ。仕方ないって」
「……怒らなかった」
吐く、というのは身体の反射だ。身体から異物を出す為に行う仕草。李苑が吐いたのは彼女の身体が毒であったという判断したためで、それなら慧昊は怒るはず。
「そのあとね、おやついっぱいくれたんだ。りおんはおもちのおかしが好き。ロジェさまは?」
「私は飴が好きですね」
「あめ!りおんも好き!べっこうあめ美味しいよねぇ」
話は変わってしまった。慧昊が怒らなかった。これは結構なヒントなのかもしれない。
「けいこう様には会った?」
「お会いしました。泉のことを教えて下さいましたよ」
「おじさまはこの里の人じゃ無いのにおくわしいの。科学?が得意なんですって」
驚いた。里の者ではないのにここまで馴染んでいるとは。ロジェにとっては第一印象が最悪なだけで、意外とコミュニケーションには難儀しない人なのかもしれない。
「おじさまはね、旅をしていたの。理由もあてもない旅、って言ってた」
ごくごく、と李苑は飲み干していく。ぷはぁ、と気持ちのいい声を上げる。
「旅が終わってこの里に来たとき、りおんにたくさんのことを教えてくれたの。近くの町に行ったらおみやげもくれるんだよ。りおんの大切な人なの」
李苑の表情は朗らかだった。ディンの言う通り、二人は親子のような関係なのだろう。幼女は肩を落とした。
「よかった、話せて。りおんもうすぐいなくなっちゃうから」
にこ、と微笑んだのもつかの間、李苑が激しく咳き込み出した。
「けほっ……げほげほっ!ごほっ!」
「人を呼びます、李苑様」
ロジェが反応するよりも先にディンが廊下に駆け出していた。落ち着かせる為に近寄る。
「李苑様。もうすぐ人が来ますから」
「うぅ……おなかいたいよぉ……!けいこうさま!おじさまぁ!」
しゃくりを上げて泣く李苑を引き継いで、ロジェとディンは屋敷の外に出た。
夕方の日が暑い。田んぼのあぜ道は二人の影を長くしていた。トンボが飛ぶ中、ロジェは呟く。
「……あんな可愛らしい子がもうすぐ死んでしまうなんて」
「慧昊様も大変心を痛めておいででしょう」
そうね、とロジェが呟くと、ディンは思いついたように返した。
「旅の話、あったでしょう」
「あぁ。慧昊様が旅の方だったって話」
「先代の当主様が晩期の頃から里の指南役として関わり始めたんです。それで、李苑様の時に初めて摂政としてこの里に来られました」
ディンは苦しそうに続ける。
「新しい風を、という取り組みの一環ではありましたが、なにぶん全く素性の分からぬ方でしたから、長老達は渋ったんです。ですが、李苑様がああも懐かれると……」
「どうしようも無いわね」
「はい。しかし、未だに支持しない者も多くいます。その気持ちは分からないわけではないですが、慧昊様に全てを押し付けて片付けようとするのは違うと思うんです」
もしかしたら私は慧昊を勘違いしているのかもしれない、とロジェは思った。だけど、それは表の顔で油断を待っているだけなのかもしれない、とも。
「……慕われてるのね」
「はい。お優しい方ですから」
ロジェは微笑んだディンに近づいた。メモをつんつんとつつく。
「ねぇ。今日の記録見せてよ」
「せ、清書しないとなんで……」
ちらと見せられたメモは字が汚すぎて何が書かれているか分からない。
「……わぁ。すごい」
「感情こもってないですよ!」
ロジェは数字が書かれている部分を指した。
「これ何書いてるの?」
「えっぁッその日の温度とか湿度とか、あと、その……」
ディンは恥ずかしそうに呟く。
「当主様とロジェさんの呼吸の回数、とか……」
「うわぁ……」
気持ち悪い、と言わなかった自分を褒めて欲しい。少女は押し付けてくるメモを見ながらそう思った。
「話の内容も一言違わず書いてますよ!ほら!」
「走り書きだもん!読めないって!興奮したら語尾に湿度書くのやめた方がいいわよ!」
「本の冊数も書いてます!」
「書かなくていいわよそんなの!」
ぼやけていた里の輪郭が少しずつ明るみになってきた。それでも、まだ謎には程遠い。ロジェは一抹の不安を感じながらディンのメモ帳攻撃から逃げ回る。
刻限まで、あと二日。
調べを始めたロジェであったが、何をしても進まない現状と刻限に苛立ちが募る。しかし、気分転換で連絡をした相手が意外な情報をもっており……?ノルテのあの人が再び登場な第九十五話!




