06:大図書館の司書長
イェシェア聖国立大図書館。聖ヨーイトナ学園と併設するように建設され、学生だけに限らず一般の利用者も多い知識の宝庫。
〝治癒〟について調べるためにリリシャナと足を運ぶ。リリシャナの足取りに迷いはなく、慣れを感じる。
「リリシャナも図書館の利用は多いの?」
「うん。調べたいものがあると図書館で調べた方が知りたい情報を入れやすいからね」
「それなら〝治癒〟に関しての文献も目にした事がありそうなものだけど……」
「あー、ほら。私はすぐ〝治癒〟が使えちゃったから……改めて調べようって思う機会がなくて……」
「成る程……」
そういう意味ではリリシャナも〝治癒〟に限って言えば私と同じような状態だった訳だ。
そんなことを考えている内に私たちは受付へと辿り着いた。受付の席には穏やかな雰囲気を纏う女性が座っている。髪の色は亜麻色で、細めたような緑色の瞳が私たちへと向けられる。
「コバコル司書長、こんにちわ」
「あら、リリシャナさん、いらっしゃい。それと……珍しい子と一緒なのね?」
「……どうも」
コバコル司書長と呼ばれた彼女は穏やかな微笑みを浮かべたまま、私とリリシャナに視線を交互に巡らせる。
三十二歳という若年でありながらも、この大図書館の司書長を務めている人だ。穏やかで人当たりも良く、対応も丁寧で誠実。私も彼女にはあまり悪感情を抱くことが出来ない。
「今日はどのような調べ物かしら?」
「あの、今日は法術の論文を調べたいな、って思ってて」
「あら……貴方たちが揃って論文なんて、本当に珍しいわ。お友達と一緒だと言うのもあるけれど、普段は借りないような本じゃない。どの法術の論文を探しているのかしら?」
「〝治癒〟についての論文を探してるんですけど……」
「あらあら……」
コバコル司書長は少しだけ眉を寄せると、困ったように頬に手を当てる。普段から細い目が更に細められたような気がする。
「〝治癒〟についての論文……そうねぇ、リリシャナさんは既に〝治癒〟は使えるわよね? じゃあ、オルエラさんが使えないとか?」
「え、えっと……それは……」
「隠すようなことでもないわ。コバコル司書長、私は自分にしか〝治癒〟を使えないの。何が原因なのかわからないから、〝治癒〟についての論文があれば教えて欲しいのだけど?」
言い淀んだリリシャナの代わりに返答すると、コバコル司書長は困ったような表情を崩さないまま、あらあら、ともう一度呟いた。
「ないことはないけれど……オルエラさんがねぇ……」
「……言いたいことがあれば率直に言って頂きたいのですが」
「えぇ、それでは。はっきり言って、今の貴方が〝治癒〟を他人にかけられるようになるのは難しいと思うわ」
「コ、コバコル司書長? そんなはっきりと……」
「はっきり言うように言ったのは私よ。……根拠は何かしら?」
「貴方、人嫌いでしょう?」
「……だとしたら? それが根拠と言うつもりで?」
「だとしたら?」
同じ言葉で返されたことで、流石に言葉に詰まる。……つまり〝治癒〟は他者を思いやる精神性でも必要だとでも言いたいのかしら?
「ちょっと、コバコル司書長! どうしてそんなことを!」
「これでも若い身ながら司書長を務めている自負はあるわ。人を見る目も、ね。オルエラさん、貴方は自分への治癒は出来ても、他人に施すのは心の底から願えない。そうじゃないかしら?」
「……他人を思いやる精神性。それが〝治癒〟を使える才能の有無だとでも言いたいのかしら?」
「詳しく知りたいなら、この後、時間があるかしら? 図書館の閉館後になるけれど」
「……閉館後?」
「私の学生時代の卒業論文が、貴方たちが探してる題材そのものだったからよ」
困ったような表情を苦笑に変えて、目を細めながらコバコル司書長はそう言うのだった。
* * *
コバコル司書長の提案に私たちは頷いた。実際に論文を書くほどに調べたという当事者の話を聞けるのは良い機会だ。
その論文を書いた本人が直接、私を否定したのだから話を聞いてみたいと思う気持ちが高まった。使えないなら使えないで良い。ただその確信が欲しいだけなのだから。
閉館後、静まり返った図書館で私たちはコバコル司書長と向き合っている。
「ごめんなさいね、私、家にはそんなに帰らないものだから図書館の仮眠室が部屋みたいになってるようなもので……」
「お忙しいんですか?」
「えぇ、それに調べ物をしたい時は図書館にいたほうが都合が良いですし……閉館後の図書館というのは実に静かなものでしょう?」
「……職権乱用では?」
「内緒よ、内緒」
口元に指を立てて言うコバコル司書長は、何故かキツネを思わせた。人を食っているというか、如何にも騙しそうな笑顔だ。普段の穏やかさの印象から、随分とギャップを感じてしまう。
「さて……早速、本題に入りましょうか。貴方たちは〝治癒〟が自分にはかけられても、他人にはかけられない問題を解消したいのよね?」
「えぇ……ついでに研究論文に出来たらなぁ、と」
「ふふ……課題の提出はこまめにね? リリシャナさん」
「はいっ、気をつけますっ」
「……茶番は後にして。さっさと本題を話して」
「せっかちね、オルエラさん。……そもそも〝治癒〟とは何か、という話をしなければならないかしらね」
笑みを消して、居住まいを正したコバコル司書長は足を組み、その足の上に手を組んで乗せた。
「〝治癒〟は癒しの法術と分類される中で最も古く、その概念を世界にもたらしたのは神だと言われているわ。そして、神が人にもたらした最後の法術とも」
「……神がもたらした最後の法術?」
「えぇ、それ以降はリライターが神に代わって概念を生み出すようになっていった。丁度その時代の挟間に齎されたのが〝治癒〟。神の最後の贈り物、そして人類への宿題だと私は認識しているわ」
「……宿題?」
「神がもたらした数多くの法術は、今でも基本にして奥義として人々の間に語られているわ。それをリライターは発展させ、多種多様な法術を生み出した。それは人が神に代わって世界を広げるという使命を託したのだ、という主張もあるわね」
……思わず鼻で笑ってしまいそうになるのを堪える。何が多種多様な法術を生み出した、だ。世界を広げた結果、生み出されたのは秩序なき混沌で世界は満たされた。
それを神の意志だと謳うだなんて、人はやはり愚かでしかないのではないかと。
「勿論、〝治癒〟も癒しの法術の基本として知られているわ。けれど〝治癒〟は知っての通り、自分は治癒出来ても他人は治癒を出来ないという場合が多い。……私もそうだったわ」
「え? コバコル司書長もそうだったんですか!?」
「えぇ。私、これでも昔は聖女を志望していたから。その道も〝治癒〟が完全に使えなかったことで閉ざされてしまったのだけどね」
クスクスと笑いながらコバコル司書長は笑う。私も若かったわ、と言う彼女の顔に陰りはない。
複雑そうな顔をしているのはリリシャナだった。私は特に何の思うこともなく、コバコル司書長に話の続きを促す。
「……で、〝治癒〟が何故、神からの宿題だと思うのですか?」
「〝治癒〟は、人によって全容が解明出来てないからよ。これを理解する時、人は神の真意を悟ることが出来ると私は考えているわ」
「……解明出来てない?」
「そうでしょう? 何故、人によって完全に〝治癒〟が使えないのか? 後天的に使えるようになる者もいれば、逆に後天的に使えなくなる者もいる。その原因はハッキリしてない。あまりにも〝治癒〟は法術として漠然としすぎているのよ」
「……言われれば確かに?」
リリシャナが何とも言えない曖昧な表情で首を傾げている。……わかってないわね、この子。
でも、言われれば確かにそうかもしれない。〝治癒〟の原理とは何なのか? と問われれば私だって理解していない。
傷を癒すことは出来る。それが人の治癒力を促進させているとは言われているけれど、それは正確なのか保証することは出来ない。
「〝治癒〟は特殊にして、特別な法術なのよ。だからこそ、完全な〝治癒〟を扱える者は聖人や聖女と呼ばれるの。神が最後に人に託した法術、それは神の愛なのかもしれないわね。その愛を、私たちはまだ理解出来ていない。ただなぞることしか出来ない。その深奥を理解した時、人は神に更に近づくことが出来るのだと思っているわ」
「……それは」
――つまり、私も人間と同じだと言う事?
完全な〝治癒〟を扱える者が神の愛を、神の意志を体現する存在だと言うなら……私も神の愛も、意志も理解出来てないということになる。
他者を思いやる心ではなく、神への信仰心と理解が足らないから? そう突きつけられたような気分だった。ぐつぐつと腹の奥が煮えたぎるような重苦しい感情が蠢く。
「本当にとんでもないのよ、〝治癒〟という法術は。……オルエラさんかリリシャナさん、ちょっと実験に付き合って貰える?」
「実験?」
「私に〝治癒〟は使えないという前提で、私に〝治癒〟を使わせて欲しいの」
「……それってただ怪我するだけなんじゃ?」
「ふふ、大丈夫よ。それにリリシャナさんもいるでしょう?」
「……そういう事なら、私が受けるわ」
何をするつもりかは知らないけれど、万が一の時はリリシャナに治療させるなら私が実験台になった方が良いという判断だった。
「オルエラさん、そんな簡単に!」
「貴方がいるでしょう?」
「そ、それはそうだけどさぁ……」
「悪いようにはしないわよ。では、オルエラさん。手を貸して貰えるかしら。ちょっとちくりとするわよ?」
そう言いながらコバコル司書長が手を伸ばして来る。伸ばして来た手に差し出すように自分の手を向ける。
私の手を取ったコバコル司書長が、小さく何かを唱えてから私の指をそっと撫でる。ちくりとした痛みが指に走り、思わず眉を顰める。
法術で針のように何かを刺したのか、ぷっくりと血の球が膨れあがるように出てくるのが見えた。
「それじゃあ行くわね。――〝治癒・亜流〟」
それは、通常の〝治癒〟と比べて異物感が酷かった。自分の中に異物が入り込み、傷口を覆うように塞いでいく。
治癒ではなく、塞ぐ。けれど、傷は癒えているように思える。恐らく、無理矢理この異物感に抵抗しようと思えば出来た。
それをしないように異物感を飲み終えると、私の指の傷は治っていた。けれど、私の気分は最悪に近かった。
「コバコル司書長……これは、一体?」
「これはね――〝治癒〟の紛いもの、法術の仕組みを真似ただけの模倣」
そっと私の手をなぞりながらコバコル司書長は微笑む。その笑みは、まるで狐につままれるようで。
「これはね――大元は〝魔術〟なのよ」