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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

陽炎少女

作者: 綾波 彗

 「やあ、少年」


 ふいに声をかけられ、しゃがみこんだまま見上げた少年は、大きく目を見開いた。先ほどのクラスの奴らよりもひとまわり小さい少女。夏の暑さに耐えるでもなく、ただそこだけが別の季節を生きているかのような。そんな花のような、ふんわりとした笑顔のその少女を見て一瞬、息が止まった。


 ……なんで、君がここに。



 内臓が浮き上がるような寒気に襲われる。と同時に、殴られた傷の残る腹部がズキズキと痛む。


 平静を装いスッと立ち上がると、少女に背を向け、少し先に落としたままのスクールバックを拾いに行く。体のあちこちについていた葉っぱやらごみやらがいくらか勝手に落ちていくのがわかったが、落ちていようと体にへばりついていようと別に構わなかった。そんなものいつだって気にならなかったが、今は本当に、それどころではなかった。



 「あれ、無視? つれないなあー」



 耳元でする声と頭の奥を振動させる鼓動に気づかないふりをしながら、ボロボロのかばんを拾い上げる。開いたままのかばんから、ボロボロのノートと財布と入れた覚えのない大量のスナック菓子のゴミが零れ落ちる。



 「反応がないと寂しいじゃんかあー」



 おどけた声で少女が言う。


 視界の端に、ツヤのある短い黒髪と口の端の上がった少女を捉え、反射的に目線をそらす。こぼれ出たものを中に戻し入れて、意味もなく何度もそれをかばんの奥へと押しやりほかに何かし忘れたことはないかと考えを巡らせたが、それらしきものはついに見つからなかった。



 大きく息を吸ってから、家に帰る方向を向こうと致し方なくゆっくり振り返る。


 二、三歩先に、少年の通う高校とは違う制服姿の少女がちょこんと立っている。少女が少し首を傾げて、肩上で綺麗に切りそろえられたショートボブの髪をふわりと揺らす。


 汗が一滴、首筋を流れていくのを感じながら、ようやく腹をくくってひと言目を発する



「……どいて」


「やーっと反応してくれた!」



 少女が赤みを帯びた頬を緩め満面の笑みを浮かべて、少年の手を握ろうとする。

 少年はそれをするりと難なくかわして帰路につく。



「あーもう! 逃げないで人の話くらい聞きたまえ少年!」


「……放っておいてくれないか」



 足を運ぶたび全身の関節が悲鳴をあげている。その痛みの信号をごまかすように爪を立て強くこぶしを握り、段々と足を速める。日陰もなく太陽にジリジリと焼かれながら、汗で濡れた肌が風にあてられてヒヤッとする。……この感覚は嫌いだ。



「ねえ、待ってってばー!」


 後ろから少女の声が続く。




「……来ちゃだめだ」


 誰にも聞こえないほどの声でボソッと呟き奥歯をギリリと噛む。




「ねえ!」


 やめてくれ、頼むからもう……これ以上関わらないでくれ……




「ねえ優!」



 ドキッとして全身の力が緩む。

 その瞬間神経を刺すような痛みが全身を駆け巡る。



「……っ!」

「ほーら言わんこっちゃない!」



 痛みに耐えかねその場にしゃがみ込んだ。横から少女がスッと顔を覗き込む。


「大丈夫……?」

「……いいからほっといて」



 足首が心臓の鼓動にあわせてズキズキ痛む。しばらく立ち上がれなさそうだ。

 はあー……と深くため息をつく。ここまで酷いのは久しぶりだ。



「ひとまず応急処置だけでも……」

「あっ、ま、待っ……」



 こちらへ手を伸ばす少女に、はっと我に返ってしりもちをついたまま後ずさる。

 触れられるのはまずい。それだけは、絶対に……


 露骨すぎたかなと、恐る恐る少女の方を見やる。容赦なく照りつける、真夏の逆光の中で……少女は少しだけ、悲しそうな顔をしていた。



「ご、ごめ……」

「もうっ!無茶しないでよね!」



 遮るように少女が、仕方ないなあといった笑顔で言う。

 その笑顔は、どこか儚げで。少年の喉奥を締め付けた。


 直視できずに、さっと目線をそらしてしまった。



「っていうか、その、な、なんで来たの?」



 たどたどしくなりながら話を変えようとそう言って、はたと気づく。

 理由もなくわざわざ僕の前に現れたなんてわけは、ありえない。なればこそ。少女が何をしに来たのか、それを聞いてしまったら……触れたくない何かに、触れられてしまう、そんな気がする。

 無意識に体がこわばる。


 それを知ってか知らずか、少女はむう、と変わらぬ調子で口を尖らせる。



「それはだってー、優が心配だから……」

「し、心配ってそんな、僕は全然大丈夫だから……」


 大丈夫、なんて自分で言っておきながら、胸の奥がズキッと痛む。


「優の嘘つき、こんだけ怪我して大丈夫とかありえないし」

「うっ」



 少女が、はあーっと大袈裟にため息をついてみせる。


「大丈夫、大丈夫って言って全然大丈夫じゃないところ、昔っから変わってないなあ」


 そう言って少女は懐かしそうに、寂しそうに、笑って目を細める。

 少年はやっぱり、少女を直視できなかった



「ねえ、優……」



 少女の目から静かに熱がひく。

 透き通った宝石のような、美しい濃い焦げ茶色の瞳が真っ向から少年を見つめる。


 ……ああ、駄目だ、言わないでくれ、触れないでくれ……



「本当にこのままで、いいと思ってるの?」



 心臓がドクンと鳴った。

 彼女が言っているのはきっと……この怪我自体のことじゃない。

 今まで溜め込んできた重苦しい何かか、胸の奥でパンッと弾けた。


 「……っ」


 反射的に少女を見、まっすぐな瞳と向き合う。その瞳の真剣さにたじろぎ目が泳ぐ。見透かされるような視線に対抗するかのように、少年のなかで激しく感情が渦巻く。


 このままでいい……?

 クラスの奴らにいいように扱われて。集団で暴力を振るわれるのも日常茶飯事で。誰一人もう、頼れる人なんかいなくて。ずっとずっと、耐えてきた。もう慣れたと思っていたこれでいいんだと、受け入れたはずだった。


 なのになんで、僕は今。



「……いいわけ、ないじゃないか……」



 自分の吐き出した言葉に、そしてその弱々しさに驚いた。……こんなことを言うつもりはなかったはずなのに、どうして。


 少女の一点の曇りもない瞳に耐えきれずに目を伏せる。

 握りしめた拳の中から生ぬるい液体が一筋どろりと指先へ伝う。


 何か言わなくては。でも、なんて言えばいいのか分からない。自分が何を考えているのかすらよく分からない。この少女の前では自分も知らない本心が引きずり出されそうで……


 だが、混濁する思考の中でひとつだけ、分かりきったことがある。

 先程の少女の発言、自分の発言を、どうしようもなく否定したい。否定したくて、とっさに打ち消しの言葉を述べる。



「……でもっ…だからなんだって言うんだよ……」



 現状を変えようったって今更どうにもならない。自分がその立場になるとは微塵も考えたことのない者達は「自分を変えろ」なんて簡単に言うがそんな生易しいものじゃない。変わればいいなんて、ただそれだけだなんてそんな。


 ……また、失ってしまうかもしれない。

 もう何も失いたくない……

 なのにそれを……



「よりによってなんで君が……!」



 いつの間にか目尻が熱くなっているを感じながら強く目をつむって、頭の中を意識が交錯する。

 僕が我慢すればいい。そうすれば、誰にも迷惑をかけずに済む。

 慣れてしまえばいい。そうすれば、つらいとさえ感じなくなる。

 逃げようとするから、抵抗するから、余計に酷くなる。悲劇が起きる。あの夏の日のように。

 それを誰よりも知ってるはずのこの少女にだけは、言われたくなかった……言わせたくなかった。


「もう、嫌なんだよ……誰かを失うのは……」


 全部全部、僕のせいだ、僕が悪いんだ。

 だから失うくらいならいっそもう、このままで。



「優のばかっ!」



 突如、目の前の少女が感傷的に叫び、驚いてハッと顔をあげる。

 肩をわなわなと震わせ両手の拳を握り、俯いたまま少女が続ける。



「そんなに一人で抱え込んで、過去ばっかり引きずって、自分ばっかり責めて……一緒にいることは叶わなくても……ずっと見守ってるから、だから……」



 少女が、ひどく歪ませた顔をあげた。悲しみと、憤りと、切なさと、優しさと、形容のしようのない表情で。先ほどまでの笑顔とうって変わったその有様に、少年が目を見開く。

 少女のその瞳から大粒の涙が零れ落ちる。



「だからお願い……諦めないで……」



 少女から目が離せないまま固まっている少年を、優しく少女が包み込む。真夏の太陽に焼かれているというのに不思議と暑さは感じなくなっていた。どこか懐かしい、優しさで溢れるような温かさに包み込まれ……朦朧とする意識の中で少年は、ちょうど一年前のことを思い出していた。





 僕と明香音は、幼稚園の頃からの幼馴染だった。もともと体がほかの人たちよりも少しだけ弱くてどんくさい僕を、父親がおらず母親も倒れがちで誰にも頼れないでいた僕を、明香音はいつも助けてくれた。彼女は運動神経が抜群によく力持ちで、明るくてあか抜けていて、同い年なのに頼れる姉のような存在で。僕とは正反対だったが、仲良くなるのにそう時間はかからなかった。家もはす向かいで、登下校も一緒だった。高校はわかれてしまって一緒にいられることも少なくなくなってしまったけれど、明香音離れして自立するんだ、と意気込んでいた。


 ……入学して最初の一カ月までは。


 ある日――顔中殴られて傷だらけになった日、家に帰る途中で、偶然ばったり明香音に会ってしまった。その時の激しく憤慨した彼女の顔が、はっきり脳裏に焼き付いている。


 僕の学校に乗り込む勢いの彼女を、僕は必死に「僕は大丈夫だから」とだけ、何度も何度も言っておさえた。僕のために怒ってくれるのが嬉しかった。心配してくれるのが嬉しかった。それで舞い上がって、明香音がいれば僕はなんだってできると、一種のうぬぼれに陥っていた。


 「自分の意志できっぱり、『もうやめて』って言わなきゃ駄目だからね?」


 瞳を潤ませながら彼女は真剣な顔でそう言った。何かあったらすぐ私に言ってね、無理はしないでね、応援してるからねと。



 僕は明香音の言う通りにすることにした。

 明香音が心の支えになっていたのは本当だ。……だが、すべてが上手くいく、そう信じて疑わなかったのは、とんだ思い違いだった。


 「もうやめてくれよ!」


 たった、その一言だった。言うのに自分が思っていたほど大して勇気なんて必要なかった。僕には明香音がいる。応援してくれている。これくらい自分で解決してやる。そう思って真正面から言い放った一言。これですべてが終わると思っていた。


 彼らは逆上した。


 普段どんくさくてのろまで、なにをされても言われるがままにしていたような奴に、突然燃えるような目で真っ向から歯向かわれたのだ。彼らはどうしても、それが気に食わなかった。


 僕に暴力をふるっていた五人グループに無理やりつかまれ、とある路地裏に連れていかれて、これでもかというほど殴られた。抵抗する術なんてものはなかった。

 殴って、殴って、彼らは気が済むと、そのまま僕を置き去りにして帰っていった。

 僕は全身に力が入らず視界もぼやけた状態で途方に暮れていた。真っ先に頭に浮かんだのは、この有様を知ったら明香音は悲しむだろうか、ということだった。心配をかける前になんとかしなくては……という意思も痛みに薄れ意識を失った。


 それからどれくらいたっただろうか。気が付いた時には、知らない3人の大きな人達に囲まれていた。

 助けに来てくれた……訳ではなかった。腕に刺青を入れ、片手に鈍器を持って…金を要求されているのだろうか。それすらも意識の裏側でもう、なにも。

 僕は既に、元から力が弱いうえ全身ボロボロで満身創痍だった。ここでこのまま死んでしまうのだろうかと諦めかけた時だった。


 「優っ!!」


 くぐもった脳裏にそれでも鮮明に聞こえた、聞き慣れた声。

 呼吸を乱し、髪を乱し、駆け込んできたのはほかでもない明香音だった。


 初めて、明香音が助けに来てくれたことを嬉しくないと思った。泣きそうになった。目の前の奴らは確実に、本当にヤバイ奴ら、だ。明香音も何をされるか分からない。


「あ…か、に、にげ…」


 自分のかすれ声が耳の奥で虚しく響き、明香音が駆け寄ってくるのを感じながら……不甲斐ない僕はそのまま、また気を失った。



 結論から言うと、僕らは助かった。


 少しだけ意識を取り戻し朦朧としながら、手を引かれて走った記憶はなんとなくある。通り沿いの道から路地裏へ続く細道に入ったあたりで気が付いたとき、明香音は額を切ったらしく血がにじんでいたが、それ以外は特に外傷はないという。


 金銭目当てならと手持ちの千円札をばら撒いて逃げようとしたもののそれでも追ってくる彼らに、カッターで自分に近寄る腕を、足を、夢中で突き刺し薙ぎ払って、なんとか逃げてきたんだ、と彼女はどや顔で、さも武勇伝のように雄弁に語った。


「うーん、野口英世じゃなくて福沢諭吉だったらよかったのかなあ」


 なんて、くすくす笑いながら言うものだから、僕はすっかり安心して、彼女の異変に気が付くことができなかった。


 明香音は、「残った小銭で水とかティッシュとか買ってくるからさ。ちゃんと安静にしててよね! すぐに戻ってくるから!」と微笑んで、道路のすぐ向かいのコンビニへ行った。




 それが彼女の最期の言葉だった。




 コンビニからの帰り、目の前の信号を渡っている最中に、突然彼女は倒れた。


 なんの前触れもなく、全身の力が抜けるように。


 そこへ曲がってきた自動車が、速度を緩めずそのまま突っ込んだ。




 一瞬の出来事だった。


 何が起きたのか理解できなかった。


 道端の葉っぱを踏みつけるように、車が通り過ぎた。ただそれだけ。




 眩しいほどに澄み切った青い空に、どす黒い血の色、ぐちゃぐちゃになって横たわる少女の亡骸、騒然とする周囲の人々、通りすぎてゆく人々、セミの鳴き声、救急車のサイレン。




 それら全てをを、陽炎が飲み込んでいって。


 音がぷつりと途切れ、景色が反転した。




 そのまま僕は一週間目覚めなかった。


 後から聞いた話だと、彼女は右足を捻挫していたのと、みぞおち付近に殴られたような大きな痣があったらしい。ただ、遺体の損傷が激しすぎてどういった経緯で出来た痣か定かではないという。僕の病室にも警察が事情を聞きに来た……らしいが、放心状態の僕は何も話すことができなかった。僕はヤクザに絡まれ重傷、明香音は事故死ということで処理され、夏が終わった。



 僕のせいだ。今思えば全部、彼女なりの精いっぱいの見栄っ張りだったのだ。僕を安心させようとして、自分の怪我はほったらかして。


 僕がもっと強ければ、僕にもっと力があれば……そもそもクラスの奴らに反抗しなければ、彼女を僕の事情に巻き込まなければ……彼女が僕を助けに来ることも庇うこともなかった。そうしたら、事故にだってあわなかったんじゃないか。


 何も出来なかった自分が不甲斐なくて、情けなくて、全部が嫌になった。何も出来ない僕は何もしなければいい、誰にも迷惑をかけないように。そう思うようになった。




 でも……と、長いこと心の奥に封印していた心残りが、ふと湧き上がった。


 守られてばかりで、僕は一度だって彼女を守れなかった。それでも彼女は、いつも僕のそばにいて笑ってくれていた。



 なのに、僕はまだ、彼女に――






 目が覚めると僕は、慣れ親しんだ住宅街の道の端で、壁に背を持たれかけていた。



 「……夢?」



 どれくらい眠っていたのだろう。壁に触れている背中が熱い。

 そうだ、今日は彼らにコンビニでパシられて、「あの子」を逃がしたのを見られて、また殴られたあげく足も捻って、それから……


 大きくため息をついて、空を見上げる。



「いるわけないもんな……そうだよな……」



 今日は陽炎が一段と濃い。日差しも強いし風も弱い。僕は今夏バテ気味で満身創痍、幻覚のひとつ見たっておかしくないだろう。


 こんな炎天下に長時間いたら本当に倒れてしまう。早く帰らないとな、と足に力を入れて、足の痛みがひいていることに気づく。これなら立ち上がれる。




 「あ、足よくなった? 立てそう?」



 危うく、足の調子が戻った甲斐なく今度は腰が抜けるところだった。

 恐る恐る左に顔を向けると、純真無垢な笑顔で例の少女が僕の足をつつくフリをしていた。



「……これはまだ夢の中なのかな」

「夢ではないね、たぶん」

「多分って……なんなんだよもう……」

「久しぶりに会ったのに、優は嬉しくないの…… 」


 寂しげに微笑んで少女が問う。


「それは……そうだけど、でも……」



 これが夢だろうと幻覚だろうと幽霊だろうと、彼女に会えるのは……嬉しい。

 でも僕のせいで彼女は……と考えると、どんな顔を向けていいか分からない。

 彼女は、僕のことを怒っているんじゃないか、恨んでいるんじゃないか。なんで僕だけが生きているのか、なんであの時彼女の怪我に気づけなかったのか、後悔の波ばかりが押し寄せて押し潰されそうになる。


 そうして僕は、考えることを放棄した。誰もかれも、僕に関わってろくなことはない。だからもう誰にも頼らない。全部僕ひとりで抱えればいい。そう結論付けて、彼女のことを棚にあげ、なにもかも諦めて……


 はは、と力なく息が漏れる。



「僕はつくづく、どうしようもない人間なんだな」

「優は、優しい子だよ!」


 うんうん、と頷きながら彼女がそう言う。


「そんなわけっ…… 」



 優しいのは君だ。僕は結局君に何もしてあげられなかったのに。それなのにどうして君はまた僕に……そんな、素直な明るい笑顔を向けられるんだ。



「優は優しい子だよ。だって優、今日なんでそんなに酷く殴られたのか忘れたの?」

「それはっ……」



 コンビニで彼らの要望のものを買って戻る途中……一匹の猫を見かけた。体中傷ついて横たわっているその猫に、小学生の子供たちが石をなげつけて遊んでいた。


 理不尽に石を投げつけられてる弱々しい猫が、それでも動かずにじっとうずくまってるあの子が、どうしても自分みたいに見えて、動かずにはいられなくて。同時に、また怒りをかってあの子が殺されでもしたらって、足がすくんで。


 でもこのまま何もせず目の前で気づつけられて、弱って、死んでしまったとしたら。明香音のときみたいにまた、自分は何もできないままだ。そんなのはもう……


 「嫌だ」って。




「ほら、やっぱり優は……自分でも気がついてるんでしょ?」

「気づいてる……何に…… 」


 彼女がまた、花のようにふっと微笑む。その笑顔に不意打ちされてドキッとする。


 ……そうだ、僕は。いつもお転婆な彼女が時折見せるその笑顔が好きで、でもそれを守れなかったのが悲しくて悔しくて情けなくて。


 ぐっと唇を噛んで、傷ついたままの拳を強く握る。促すように彼女が首をかしげまた、ふっと笑った。

 ああ。だから、やっぱり、僕は。



「明香音……僕っ」



 喉の奥が締め付けられるように痛い。口が思うように動かない。

 でも……今、言わないでどうするっ……


 まだ少し痛む全身で深呼吸をして……ゆっくりと口を開く。



「僕、ずっと……なにもできなくて、また、失うんじゃないかって……だからもう、なにもしたくなくて、できなくて、自分からう、動くなんてそんな……」



 一度口からこぼれ出した言葉が、喉の痛みなんて無視して驚くほど素直にぽろぽろとこぼれては紡がれていく。明香音と目が合って、混濁していた頭の中が、霧が晴れていくように澄み渡っていく。

 今、わかった。自分さえ我慢すればいいからだなんて、そんなのただの言い訳だ。僕はただ。



「怖くて……」



 あの日からも僕は、ずっとずっと、臆病なままで。でも。


「でも、そんなんじゃいつまでたっても……またなにもできないままで、そんなの……嫌っだから…… 」



 目の前で、少女が見守るようにじっとこちらを見つめている。

 そうだ、僕は彼女が……明香音がいるから強くなれるんだ。

 理由なんてなんだっていいじゃないか。


 だったら僕は。明香音が見守っていてくれるというのなら。

 あの日、明香音を守れなかった僕を、自分の意志じゃ何もできなかった僕を。

 そのままになんてしておけない、こんな自分はもう嫌だから。


 だから――



「変わりたい…… 」



 初めて口に出した言葉だった。

 口に出したとたんに、目から熱くてしょっぱい何かが溢れてきた。


 数年ぶりの涙だった。一年前のあの時ですら、頭が真っ白で、なにも考えたくなくて、根元から枯れてしまったようにでてこなかったのに。


 彼女は何度も何度も、僕のことを助けてくれた。思えばいつも、彼女から僕への一方通行だった。


 そうして彼女に救ってもらった命だ。それを棒に振るなんて、そんなの彼女が報われない。いや、報われる、報われない、じゃない。


 そうだ。




「自分のことくらい自分で決められないでどうするっ……!」




 両頬を手でバシンと叩いて、自身を鼓舞する。一年前のあの時は、彼女に言われたからその通りに抵抗した。自分の意志で、などと言って、初めから自分の意志でもなんでもなかったじゃないか。


 僕が言いたいこと、言うべきこと全部を言い切ると、彼女は目を大きくして驚いて、それから。




「優ってば、やればできる子じゃない」




 たがが外れたようにぽろぽろと大粒の涙をこぼした。





 僕らは長いことずっと泣いていた。


 泣いて泣いて、泣き尽くして。ついに涙が枯れたら、今度はお互い顔を見合わせて、二人同時に吹き出した。なにがそんなに面白かったのかというわけでもなく、ただ、明香音とこうしていられるが嬉しくて楽しくて、ずっとこうしていたくて。


 笑いながら、枯れたはずの温かい涙が一筋、頬を流れた。





 いつから静かになったのかは分からない。

 でも、この暖かい空気を壊したくなくて、口を開かなかった。ずっと、この時間が続けば……なんて。そんなこと、あるはずがないのに。




「あのさ」


 ふいに、明香音が無言を破った。


「……私、優のこと大好きだから、いつも、一緒にいられて楽しかったから、あの日は……駆けつけるのが間に合って、優を助けられて本当に嬉しくて、安心しちゃってて……自分の怪我の痛みも忘れるくらい」



 えへへっ、と彼女が横髪を指に巻きつけ恥ずかしげに笑いながら言う。

 ああ――彼女は今、僕のために。




「だから……優のせいじゃないよ」




 僕が一番、欲しかった言葉。僕のせいだと自分を責め続けながら、心のどこかでは欲していたであろう言葉。


「っ……うっ、うう」


 嗚咽が止まらなかった。拭っても拭っても後から絶え間なく涙がこぼれた。抱え込んで離さなかった重荷を取り除かれて、心がふわっと軽くなって。反動で、数年間溜め込んでいた今日何度目かの涙を溢れさせた。


 抱えていた思いも、重荷も、涙も、全部吐き出した自分の身体は、自分のものではないように感じるほど軽く感じた。軽くて、脆くて、不安定で。

 でも、今ならもう、壊れないだろう。自分自身の「芯」はもう見つけた。あとはそれを大事に守っていくだけだ。



 天を仰ぐと、ふっと、潮の香りがした。

 今は凪いでいるけれど、そろそろ風が吹き出すころだろう。



「……もうすぐ、夕凪が止むね」



 名残惜しそうに彼女がぽつりと呟く。刹那気がついた。



「…もう、お別れなんだね」



 もっと胸を締め付けられるものだと思っていたけれど、意外にも心はすっきりとしていた。すぐ隣で彼女の笑顔を見ることも、声も仕草も、もう感じとることすらできなくなっても。


 見守っているからと、そう言ってくれたから。



「あ、そうだ!」


 ふいに立ち上がってくるりと振り返った明香音が、唇に人差し指をあてていたずらっぽく笑う。


「私の『家』、そのうち遊びに来てよね!うちの お母さんの実家がすっごい辺鄙なところにあるもんだから大変だろうけど、絶対だからね! 来なかったら呪うから覚悟しなさい!」


 そういって本当に呪わんばかりの気概でにいっと笑う彼女がおかしくって、腹を抱えながら声をあげて笑った。


「……うん、わかった。行くよ、絶対」

「わかればよろしいっ!」


 彼女が後ろで手を組んでふふっと笑う。




「それじゃあ、優……」

「あ、待って明香音! えっと、その……」



 あの日、言えなかった言葉。なにをするにも謝ってばかりで、言えていなかった言葉。




「……ありがとう、明香音」




 明香音は一瞬、きょとんとしてから、ふわっと頬を緩めて。



「……うん」


 優しく微笑んで、そう、一言だけ言った。




「…………じゃあまたね、優」




 夕凪が止み、ふわっと風が頬をかすめる。


 彼女は、いつもと変わらぬ笑顔で。




 陽炎のようにゆらゆらと揺れたかと思うと、風に溶け込むように静かに消えていった。






 太陽がじりじりと照りつけ、ミーン、ミーン、と蝉がせわしなく鳴く、お盆の時期の、とある田舎。長い長い階段を上り、息が上がりながらもなんとか足を動かして、お寺の境内へ足を踏み入れる。


 端から順々に石に掘られた名前を確認していき、ひとつの墓石の前で立ち止まる。


「あ……あった……」


 しゃがみ込んで、はあああーっと大きく息を吐いてから、まっすぐに墓石と向き合う。




「遅くなってごめん……久しぶり、明香音」




 花を生け、墓石に水をかけ……一通り済ませてから顔をあげ、虚空を見つめる。


「もうさあ……なんで『家』、こんな遠いんだよ、なかなか来る機会作れなかったじゃないか……。けど……約束、したもんな。必ず行くって」



 初めて来た場所なのになぜか、どこか懐かしい香りがした。


 それから僕は、伝えたいこと、吐き出したいこと、思いつく限りのすべてを話した。あれから頑張ったこと、やっぱりうまくいかなかったこと、でも助けてくれる仲間ができたこと。

 ときに笑い、ときに泣きそうになりながら。

 そうして、話すことがもう何も思い当たらなくなってしまって……最後に彼女と話した日のことを思い出した。



 六年前の、高二の夏。あの日の出来事は、夢だったのだろうか。それとも幻覚だったのだろうか。


 今日も、同じだ、あの日と。陽炎が一段と濃い。日差しも強いし風も弱い。僕は今夏バテ気味で満身創痍、幻覚のひとつ見たっておかしくないだろう。



「……なんてな」

「おーい優!どうしたー?」

「今日の昼飯、お前の奢りだからな!」

「うわっ、まじか……今行くよ!」



 友人たちの方へ向かおうとして、ふと足を止める。


 振り返って、あの日と同じ格好、同じ笑顔でこちらを見ている、今は亡き幼馴染に目をあわせ。


 ふっと顔を緩める。




「……じゃあね、明香音」

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