幸田露伴「あがりがま」現代語勝手訳(8)
其 八
思わぬ悪夢に驚かされて気分が悪いところへ、顔を見ても虫唾が走る宗安という藪医者から皮肉の言葉を浴びせられ、返事をする力も無く、悄然として辺りを見廻し、長太息をつきながら身体の冷や汗を拭うばかりのおこのであった。
面影だけは往時を残して、萎れてもなお、花の香は無くしてはいないが、様々の辛さ、憂さに老いて、貧しさの労苦に窶れてしまっている。
美人の末路は悲しいもので、肩膝が透けた衣も寒げに、芯が見えるまで霞の引いたような帯はさながら縄のようである。その昔、ただ一条の脱毛にさえ眉を皺めて愁いたその黒髪も油乏しくそそけ立って、鬢に白いものは未だ見えないものの、絲抽く綿の繊塵が元結に雪のように積もっている。しかしながら、天の恵みかどうか、眼の光りはまだ麗しく、頬も醜いまでには痩せておらず、艶は無くしたにせよ、焦げ黒まざる面の色は、何一つ汚れていないものは無い貧家の中には似合わないほど白く、磨けば今にも璧のように輝くだろうと思われる。こうしていても三十四、五、六は越えないと見えるから、顔に剃刀、髪に油、二子織でもいいから新しい衣、綿入りでもいいから黒繻子の帯と、身の周囲を調えれば、三十越したかどうかと、見るものの眼を迷わせるだろうに、惜しい女を貧が腐らせると村の者が噂するのも無理はない。来年四十の坂にかかるものには見えない女振りであるが、今も言葉はしばらく出ず、往時の追想が目前の愁いに沈んで悩む風である。事情を知れば汲むべき憐れさがあって、流石に情を知らぬ男も燻らす煙草の煙の中から惚れ惚れとしてそれを伺っていたが、ふと我に戻ってか、爐の縁にがちりと煙管の音をさせて、急に下眼におこのを見下し、
「他人にばっかり喋らせて、何時まで何を考え込んでいる。寝惚けないでよく聞いてもらおう。他でもないが、過日も催促をした、この春あんたの亭主が病気をしたとき飲ましてやったあの薬代、さっさと勘定してもらおう。『千住へ遣った娘の許へ手紙を出して頼みますので、返事が来次第、必ず何とかご返事いたします』と言い出してからもう一ト月。返事は来ないか、それとも又出来ないと言って来たというのか。手紙が届かないはずもなく、届けば返事の来ない訳もない。親が娘へ頼む無心、しかも親父の病気の薬代、厭だと首を振りようも無い。来たのだったらさっさと払ってくれ。いかに医者は仁術だと言っても、薬代を取らずに済ますことなど出来ないわ。何やかや分からないことを言って誤魔化してもそうは行かねえ宗安様だ。匙より骰子を把る日が多い、村中ご存じの悪たれ者、風邪を引いても人は碌に我の薬は買わないものを、それをもらったそっちの不覚。少しくらい高くってもまあ仕方はあるまい。こっちは取らずにおかないぜ。どうでもいいから早く出せ。医者はヘボだが、その代わりに毒は絶対盛らなかったぞ。亭主が死んだのは我に代わって後を引き受けた医者のせいだわ。その医者の奴には診察料まで払って、我には薬代も払わないというのが癪に障る。無理はちっとも言っていないぞ。医は仁術の我さまの言葉におかしなところはあるまい。さあ出してくれ、寄越してくれ。これから氷川の裏山の勝負に出掛ける資本にするのだ。何だと? 今は出来ませんだと? 悪たれ者の宗安様だぞ、甘く見くさるとただでは置かんぞ。何? どうかお情けにだと? へん、お情けと仁術と一緒にされて堪るものか。お情けはな、今の世の中どこへ行っても売り切れ申し候だわ。仁術で薬をやって、お情けで薬代を免しては仁術は無銭になるから我は嫌だ。さあ、払ってくれ、払ってくれ、払ってくれ。どうしても出来ないというなら、酒でも飲ませろ」と、坊主頭を振って言うこの男、少しく馬鹿と見えた。
つづく