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幸田露伴「あがりがま」現代語勝手訳(7)

今回から、この物語の本筋が語られ始めます。

栄華を誇るような幸福しあわせな時代から一変した極貧の日々。

おこの家族とそれを食い物にしようとする人間達。切羽詰まった状況をどう切り抜ければいいのか。

 其 七


 生死の別れ道と人が言う(うみ)の苦しみも事なきを得て済み、産声(うぶごえ)清く高らかに上げたのを聞くと、やがて家内中(かないじゅう)は賑わいさざめき、『男の子様、男の子様』と、呼ぶ声が耳に入れば、お須磨(すま)を産んだ時とは又違った嬉しさが骨身に()(とお)るような気がするおこのであった。

 産んでからの(とこ)の中では、日が経つのが遅く感じられたが、今日はもう既に七夜(しちや)である。家中の男も女も皆いそいそと笑みを含んで立ち働く中、日頃出入りをしている誰彼さえ交じって家の内に歓びの声が途切れることがない。

 座敷には、(よろこ)びを述べるために、一門の数を尽くして、美濃屋の若夫婦、鈴鹿屋の親子三人を(はじめ)として、滑稽者(おどけもの)尾張屋兵六(おわりやひょうろく)、馬鹿丁寧の伊勢(いせ)屋平三(やへいぞう)、才覚自慢の山城屋三之(やましろやさんの)(すけ)、お人好しの大和屋、その女房で三人前だと(かげ)(ごと)を言われる饒舌(おしゃべり)なお鈴、紙屋の(せん)花堂(かどう)、木綿屋の河内屋、そして主人(あるじ)の俳諧の師である雪外(せつがい)宗匠(そうしょう)は自分のお花の先生である一枝軒(いっしけん)老人と連れだって来、仲介医者の(たっ)(ちく)老、長唄のお師匠様である杵屋(きねや)のお六(さん)、その娘のお花(さん)に至るまで、招いた客もそうでない客も合わせておよそ数十人にもなり、後には、産婦室(ここ)と座敷の間を何度も往復して、(へや)の様子を(よろこ)ばしげに一々報告しているお気に入りの下女のお銀さえ疲れてか、ただもう大勢、お賑やかにいらっしゃいましたと言うばかり。山が出来るくらいの贈り物を受けて、

「私も挨拶に骨が折れるようになった」と、母様がちょっと部屋に来られてお話しをされるなど、見るもの聞くものすべて嬉しくないものなど無い。

 時が経つほどに酒も程よく回ったものと見えて、こことは幾室かは離れてはいるけれど、人々が歓び語る声が高くなって、お師匠様の三味線の響き、(たっ)(ちく)老の剽軽(ひょうきん)声、その他までもが一つになってあちらから聞こえ、主人(あるじ)の喜々とした顔つきも目に浮かんで見える心地がした。


 慎みが大事だと教えられているので、静かに長女のお須磨は大人しくして、自分の傍から離れないのを相手に、たわいも無いこれからのことについて話していると、幼心にも弟が出来たのが嬉しくてか、時々嬰児(あかご)の寝顔を覗き込んでは莞爾(にっこり)として、

(かあ)(さま)、私はもうこれからこの子の(ねえ)(さま)になったのねぇ、ねぇ、もう私は(ねえ)(さま)なのねぇ」と、何度も真顔になって言うのも可笑しく、

「おお、もうお前は(ねえ)(さま)になったのだから、これからはもっと大人しくしなければこの嬰児(あかさま)に笑われます」と言えば、納得した様子で、

「それじゃ、きっと大人しくして今晩から祖母(おばあ)(さま)に抱かれて寝ても泣きませんから、赤い(かんか)の大きいのを(かあ)(さま)、私に下さいませ」と、ねだる素振りも本当に可笑(おか)し味がある。

「ああ、あげますとも、あげますとも。銀にそう言って綺麗なのを沢山(たんと)お前にあげましょう」そう言いながら、すやすや眠っている榮太郎をつくづく見れば、人が言うのに間違いなく、目元口元は自分そのまま、又お須磨をじっと見ると、似ていると言ってもこうも似るものか、夫の顔に瓜二つ。耳付きまでもその父そっくり。こちらを見る眼の涼しさは、まだ晴れて夫婦になっていない何年か前、男の歳が十代の時とまったく変わらず、

「お須磨や、ここへ」と、差し招けば、

「あい」と答えてこちらに近寄ろうとする時、乳母(うば)のお(ちか)がけたたましく何か叫んで、(ふすま)を引き明け、転げるように逃げ込んで来ると、その途端、追い駈けてきた怪しい獣が矢よりも早く入って来た。

「何者!」と見れば、その(さま)はまるで猫のようでもあるが、鋭い(つの)を生やした名も知れないもの。ワッと驚く(ひま)もなく、お須磨を爪で()いたと思うと、榮太郎を角で()く。人を呼ぼうとするが声が出ず、向こうで長閑(のどか)に歌い笑う声だけが耳に聞こえる刹那(せつな)、心の中は四苦八苦して、立とうとするが足腰は立たない。ようやく辛うじて『あっ!』と一声叫べば、急に我に返った。


 ……見れば破屋(あばらや)(うち)にいる。アア、先ほどまでのことはありし日のこと、往時(むかし)の夢だったのかと、ボーッとしながら目覚めれば、今の今まで(いと)()いていた紡車(いとよりぐるま)に手をかけたまま微睡(まどろ)んでいたのに気づいた。人も何時(いつ)しか自分の傍にいて、

「オイ、おこの殿、目が覚めたか? 自ら()いての難行苦行、夜も寝ないで(いと)()るとは聞いていたが、その疲れと見えて、まだ日も暮れないのに愚老(わし)が来ても分からないほどに眠り込んで、栄華の夢でも見ていなさったか。物乞(ものご)いが見る『二の膳』付きの夢、()めたらさぞ悔しく淋しいことだろうよ」と。


つづく

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