幸田露伴「あがりがま」現代語勝手訳(4)
其 四
猫の額ほどの土地でさえ、無駄にはしない江戸のこと、広いということも無いが、流石に旧家の庭の樹立は趣味よく、何時の時代の主人の好みか、見所のある石燈籠も立つ坂本屋の裏で、月がまだ出ていないのを幸いに、忍びやかに語り合うのは、言わずと知れたおこのと榮吉。
男の耳に口を寄せて、
「本当に今日のあの美濃屋のご隠居様めが、いらぬ私の身の上をご遺言、ご遺言と、ご遺言をたてに決めてしまおうと言い出した時は、どっきりとして坐ってもいられず、そっと次の間に退り出したけれど、後の様子も知りたくて、又立ち戻り、襖越しに聞く耳を立てれば、そこに居た人達は皆、しばらくは母様が口を開くのを待っていてか、何とも答は無かったが、私はその時、母様が何とお返事なされるのかと気が気でなくって、踏む足の踵も畳みに着かないような、何とも言えない胸の苦しさを覚えました。幸い母様が言葉静かに、『此家のためを思って何かとお世話下さる数々のお心添え、本当に嬉しゅうございます。しかし、縁談のことだけは義理づくめ、利益づくめとはいかないもの。当人同士の性が合わなくては、折角結んだ縁組みも解けてしまって、男はともかく、女は一生廃りものになって終わることも世にはよくあること。あの時のご遺言と言い、又その場に片方の相手の喜蔵も末席で小さくなって聞いておりましたこともあり、何と言ってもご遺言は反故には出来ず、何日かはおこのを何とかしなくてはなりませんが、それにしても当人をよくよく納得させました上でなければ叶わないこと。よく私から当人に申し含めて、気持ちをしっかり確かめてからでも遅くは無いと思われ、このお返事はその時までしばらくお預かり申しておき、いずれ近々お宅へ伺い、又ご相談させていただきましょう』と、当たり前と言えば当たり前のことを言って退けられたので、あの世話焼きのご隠居も口を噤んでしまった様子。私は真底嬉しくて、家の母様大明神と蔭で拝んでいましたが、それから皆様がお帰りになる時、お前も知っている日頃から母様がご贔屓になさっている鈴鹿屋様だけを、どうしてもとお引き留めなさって、お居間で何かお談し合い。『おこの、お前はちょっと席を外すように』とのお言葉だったので、聞くことも出来ず、かといって気にはかかるので、悪いことと思ったけれど、そっと立ち聞きをしてみたが、お声が小さくて聞き取れない。ただ、気のせいか、鈴鹿屋様が私の名を時々言うようにちらちら耳に入るだけ。恐らくはやはり私の身の上のこと。もしお談し合いが終わった後、母様の前へ呼び出された時、私はどういうお談をされたか分からない今、あれ、あの障子へ髷の影が映って見えるのは母様だけど、お胸の中の文は映らず、日頃から父様よりも可愛がって下さる母様のことだから、まさか無理は仰るまいと心頼みにしてはいるけれど、ご遺言といい、家のためだといい、美濃屋のご隠居様の喜蔵への義理といい、もし万一、喜蔵めと縁を結べと仰ることも絶対ないとも言えない状況。母様がどれほど可愛がってくださっているとはいえ、お前との仲は打ち明けられず。かねて約束した通り、私は剛情を張り通すけれども、昨日、お前の故郷から来た使いの人、彼は何? もしかして、何日か話していた『故郷へ一旦戻って、浦和とやらで世帯を持て』との催促の談ではないかと私は心配する。お前は私に隠して言わないけれど、世帯を持てとの話があることからすれば、必ずお前に見合わす嫁御の心算までなくてはならない筈。お前もそれを知らない筈はないのに、私に隠す他人行儀が水くさい。私はこんなに苦労しているのに、お前は胸の中を私に割っては見せないとは、余りにも情がなさ過ぎる」と、人目を恐れながらの立ち話の中にも、縒れつ縺れつの恨みの籠もった口振り。それも恋の習いというものであろう。
つづく