幸田露伴「あがりがま」現代語勝手訳(38)
其 三十八
呼ばれて、榮太郎、続いて中に入り、ほかほかの大福餅を幾つか取ってもぐもぐと食べているところに、仕事にありつけるかも知れないと思ったのか、車夫は腰を屈めて、
「もし、旦那、どちらへお出でなのか知りませんが、雇ってやってはくださいませんか」と言えば、こちらは思うつぼと、
「ムム、乗らないでも無いが値段次第。二貫で千住まで走るか」と言えば、相手は二つ返事。たちまち相談がまとまれば、店の老夫に若干払って、車に乗り、曳き出させた。
榮太郎はこれに助かったと、初めてほっと息をつけば、十郎もそうだろうと察して、
「これ、榮太郎、くたびれたか。もう心配するな。この車で千住の橋に着く頃には、夜も白々と明けてくるだろう。朝飯を済ませたら、心細かろうが俺は別れる。と言うのもやはりお前のため。他でも無いが、お前の姉のお須磨というのが行方知れずになったままでは済ましておけない。扇面亭やら、辨次郎とかいう奴等やらにちょっと会えば、一ト眼で俺が見極める。もしも、彼奴等の悪計で隠した手品なんかであれば、否応なく泥を吐かせて、手土産にお須磨を連れてお前の家を訪ねて行って、それから勇造のことも片をつける。もう心配することはない。車に乗って西新井を経由って、家へ帰るが好い。どんなことがあっても俺が行くまで勇造には構うな。訴える気遣いは少しもない。訴える、訴えると言うだけだ。よし、解ったか。車銭やら途中の雑用やらに十両遣る。愚図愚図言うな、お前には銭金で礼を返そうというような卑劣な俺では無い。男児は意地づく、人情づくだ。金銭は車の油と同じで、たかが世界の油。世界の廻りを好くするだけのものだ。本当の男児の交際は人情競べ、意地くらべ。こんなものは歯糞になるだけだわ。ただ、俺から金をもらうのは厭だとお前が思うならお前の意地は立てて置くが、そう角張ることもないだろう。まあ、取っておけ。いいか、榮、人力車で浦和まで行けよ。俺は必ず後から行く。俺に任せておけ。悪くはしない」と、低声で咀嚼で含めたように、一から十までの親切な話。榮太郎は一々納得して、大悪徒だと思っていた今さっきの思いはたちまちどこへやら。心の底から、『ああ、有り難い。男児の中の真の男児とはこの人のことか』と、胸の中で手を合わせて拝むばかりに感じ入り、感謝涙が止めようもなく溢れ、嬉しさに又もや咽せ返った。
この後も知っておいた方がいいことなどを教えられていたが、その中に夜もほのぼのと明けかかり、予定通り千住の橋にさしかかる頃には市場に行く者なども三々五々と通りかかるようになった。
この宿は青物・塩物の市が立つ所で、煮売り屋、飯屋が朝早くから店を開けている所も少なからずあり、十郎は車をそこに着けさせ、幾つかの暖かいものを摂って腹ごしらえをし、出かける用意をした。
「俺はこれから直ぐに扇面亭へ出かける。お前は少し後に戻って、車を見つけ次第、必ず西新井経由で行け。いいか、必ず西新井だぞ。さあ、もうここで今日一日か明日一日かの僅かの間だが別れになる。途中気をつけろよ。歩行なよ」と、言いながら握った手を離せば、仮初めながら浅からぬ縁があったかして、榮太郎はこの別れが、何となく兄か父かと別れてしまうような気持ちになって、
「さようなら」と、別れの挨拶をするけれども、半ばは声も消えて、後の言葉は瞼に浮かべた露に語らせ、じっと後影を見送れば、十郎も又、十数歩行き過ぎてから榮太郎の方を顧みて、互いに顔を見合わせた。彼方と此方で無限の思いを語ろうとするまさにその時、掛け声も急に馳せ来た青菜の荷馬車でお互いの姿を隔てられ、そのまま遂に別れてしまった。
榮太郎は教えられた通り、少し戻って車を雇い、
「西新井から浦和まで、好いかい、車夫さん、西新井を経由して浦和に行くんだよ」と、再三しっかりと念を押し、車夫が今にも曳き出そうとする時、南の方から疾風の様にやって来た車の上から、
「待て!」と、鋭い叫び声が雷のように響いたと思う間もなく、榮太郎の衣の襟に手が掛かった。ハッと驚き動転して、無駄に身をもがきながら後ろを見れば、見覚えがあるはず、先に自分を調べた巡査に間違いなし。教えられた通り、言い逃れしようと焦るが、今度は口も開かせず、
「とにかく先ず、暑まで来い」と引っ張られては争いも出来ず、猿が掴まっていそうな丸木の手すりの前に立たされて、一段高い所から、重々しく厳しい声で問い糾され、
「こりゃ、榮太郎、隠し立てをすれば身のためにならんぞ。その方、昨夜、実名不祥の男と共に多町の雑穀商坂本屋喜蔵方において、強盗をしたこと、その方の遺留品によって、証拠明白である。同伴の男の本当の姓名並びに行き先を知っているはず。すぐに正直に申し立てろ。未だ成人にもならないその方、正直に言えば御上もお憐れみくださるぞ。早く本当のことを言え。さあ、どうじゃ」と、言わなければならないように問い詰められるが、何としても、あの大恩人、男児の中の男児のため、しかも、今は自分の姉のために奔走してくれるあの人のため、不利益になるようなことは言えないぞと、固く決心して口を結んだ。
つづく




