幸田露伴「あがりがま」現代語勝手訳(28)
其 二十八
話に聞いている『護摩の灰』(*俗に言われる「胡麻の蝿」。旅人を騙したり、持ち物を盗んだりする者)とか言うものが旅路にはとかくつきものだから、それを怖れての用心で、人目を欺くため、畳の絲包と見せかけた中に大金を隠したものなのだろうとは、子ども心にも直ぐに解った。だが、眠られないままに又思えば、とは言うものの、どこか納得出来ないところもある。幾らあるかは知らないが、パッと見たところ何百円という大金を持っている。この男の身体の容子とは何だか釣り合わず、もしかして、これも悪徒で、人の金などを取ったものではないのか、との疑いも起った。そうかも知れないと思った途端、何となく総毛立って空恐ろしく感じたが、いやいや、やはりこの人は決して悪い人ではない、負傷をさせたのを気の毒がって、自分を労り、薬を恵み、その上、ここへ泊めてくれた程のお方が、どうして悪漢などであるものか。悪漢が何で他人の自分を同伴にして一つ室に寝るものか、と思い返し、そう考えると絶対に疑うこともない。酒に酔って面白そうに崩れて床に就けば、前後も分からないまま今まで寝ているこの人が何で悪漢であろうかと、いよいよ悪徒ではないと自分で納得し、ようやく心の安堵を得たが、これに気が緩み、一つのことに気が緩むと同時に今度は自分のことが、そして、自分の母様のことなどが心に湧いて来た。昨夜の今頃、母様が遺書されて身を捨てようと戸外へ出かけられようとしたのを止めた時、その母様の蒼白かったお顔の色、唇近くの筋が攣ってか、ぴくぴくと肉が動いたその気味の悪さ、乱れた髪がお顔にかかったのと、薄暗い燈火にその髪筋の陰翳が朦朧としたのとが、ものすごく凄まじいお顔をそれ以上の幽霊のようにまで凄まじく見せたこと、この世の別れと感じられてか、自分を抱いて頬ずりされた時の、そのお顔が氷のように、鉄のように冷たかったこと、自分の顔に注がれたお涙が火の雨程に熱かったこと、勇造めの憎いこと、今朝家を出る時に、涙片手に門柱に凭れて自分を見送られた時の母様のお顔のその心細げだったこと、扇面亭の女等が変に自分を笑ったこと、平九郎の嬶が骨張って痩せた顳顬に膏薬などを貼った姿が好かない様子だったこと、その突っ慳貪に面倒くさいという顔をして、追い払うように自分をあしらった口惜しさ、辨次郎という奴が口先軽く自分を追い払ったことなど、次から次へと、思うにつけて口惜しくもなり、悲しくもなった。
数え切れない程のその憂いや思いも皆金のため、金のためだ。ああ、金が欲しい。金が欲しい。沢山でもない、五十両ばかりありさえすれば、それを憎くてならない勇造の面へ叩きつけてさえやれば、母様の苦労は抜けるものを。今夜の今も母様はこの榮が帰って来るか、首尾はどうか、千住で姉様がお金を算段出来たかどうかと、気を揉んで眠りもせずにいらっしゃるだろう。それをどうして、明日帰って、姉様は行方知れずになり、お金はまったく出来ませんでしたなどとこの口から言われようか。言ったら母様が『おお、そうか』と、ただ聞いているだけでおられるだろうか。俺の不在にも勇造めが無理を言いに来たに違いあるまい。今、今、今も大事な母様をどんな目に遭わせているかも知れない。あの勇造に苛められて、どんなに母様が悔しがられておられるか知れない。ああ、飛んでも直ぐに家に帰ってみたい。母様と直ぐにでも会いたい。話がしたい。が、それもお金が無ければ、帰っても何の役にも立たず、……ああ、五十両、たった僅か五十両だが……と、血が出る程涙と共に身を絞っても金は出て来ない。
夜具の襟も湿らせ果てて、静まりかえった真夜中、独り苦しみ、泣き沈んでいたが、ふと目を開いて傍らを見れば、自分の床の近くに敷延べられた男の床を一つ越して、行燈の火ではよく見えないけれど、雨染みのついた仙人の絵の掛け物が掛かっている床の間に、先刻知った畳絲の蓙包が寄りかかってあり、『ああ、あの中には五十両が三つも四つもあるのに』と。
つづく




