幸田露伴「あがりがま」現代語勝手訳(25)
其 二十五
悠然と足早に去って行く男は、袂を捉えられて、急に背面を見返した。そこには女にしてみたくなる程の類い稀な美少年が憤を含んで、怖れ気も無く打ち仰いで自分を睨んでいる。その面は、月の光に隈無く照らされ、清しい中にも凄味を帯びた眼差し、のびやかに麗しい額、優しいけれども昂った眉、固く結んだ唇の紅などが一々明らかに見え渡った。
榮太郎からは項に月光を負った人の、しかも俯いたところを見ることになるので、はっきりとは見えないけれども、その高い鼻、円らな眼、張り出した顋、大きな口、全体にすべて恐ろし気な堂々とした男に見えたが、相手は黙って自分の顔を穴が開く程見詰めるばかり。ものも言おうともしない様子に、むらむらと腹が立った榮太郎は、
「ヤイ、この老夫の酷い奴め、理由も無いのに背面から来て、人を無闇に打ち倒しておきながら挨拶もせずに何で行く。見ろ、この折鎌を。草の中に棄ててあったこの廃鎌で俺は負傷をした。子どもだと思って馬鹿にして非道いことをするな。さあ、謝罪って行け、詫びてから行け。テメエもきっと弱い者を苛めて威張る悪徒だ。もうテメエ等に負けてはいない。謝罪らないならテメエの臀も俺の負傷と同じくらい切ってやるぞ。さあ、ヤイ、老夫、何とか言え。格闘でも、理屈でも何でも来い、ただでこのまま済ませるものか。こんな大きな負傷をしては家に帰って母様に訊かれた時に返事が出来ないやい。俺の大事な母様に、その母様に済むかやい。吾家までついて来て謝罪れやい。厭か? 厭では承知出来ないぞ。テメエの血もこの鎌に塗って持って帰って言い訳にする。もう一寸たりともテメエのような悪徒なんかには負けていないぞ。横着者め、黙っていないで返答しろ」と、罵って、震える唇を咬みながら、鎌の柄を緊しく握り固めて、答を待っているその様子は、羽翼がまだしっかりしていない鷹の子が早くも鴻鵠を捕まえようとして怒っている風であった。
油断なく眼を注ぎながら、落ち着きはらって、言葉の端々を聞き味わっていた男は、意外にもようやく笑いを頬に浮かべて、しばしば頷いていたが、
「俺が悪かった。堪忍してくれ。お前の家へも行って詫びよう。だが、俺だけが悪いのではない。お前は俺の行く先に立って、頭を垂れながら足の運びもたどたどしく歩いていたが、俺はまた急いで後から行こうとする。『オイ、小僧さん、気をつけな』と、声を掛けたが、右へ寄って俺が通ろうとすれば、お前はまた、声が耳に入らなかったのか、生憎間が悪く右へ捩れ、左へ俺が寄れば、お前は又左へ寄る。広くもない路で、俺が後から急ぎ足で来た前に、拍子悪くお前が立ち塞がったので、危うく躓いて二人とも転ぶところを、素早く俺が平手で押し退けただけだが、お前の足に堪えが無く、俺の力が強かったので、思わぬ怪我をさせてしまったという訳だ。悪く取ってくれるな。この通り謝罪る。鳩が谷へ行けば薬も買ってやる。お前の母様に謝罪もしよう。が、一体お前はどこの者だ? 今日、六、七里くらいは歩いたな。家は鳩が谷か野田あたりか?」と、優しく出られて、榮太郎は、そうか、この人が背後から来るのにも気づかず、声を掛けられても思い悩んでいた自分の耳に入らなかったから、この負傷をしてしまったのかと納得もした。それと同時に、大の大人に謝罪らせたのも気の毒だったと今更ながら思いつつ、又、今日、六、七里くらいは歩いたなと見抜かれて、少し驚き、
「お前の言葉が真実なら、私も悪かった。堪忍して下さい。無闇に怒ったのは済みませんでした」と、改めて一礼する子ども気の正直さ。これもまた愛すべき趣がある。これに双方心が解けて、互いに鳩が谷を目指すということなので、同じ路を行く縁に引かれ、一方は足を少し早め、もう片方は遅めて連れだって歩いた。
つづく




