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一口だけ  作者: 橘 花香
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後編


 居酒屋を出ると、刺すような冷気が容赦なくマフラーやコートの隙間から入り込んできた。年末の風は冷たい。からからに乾いた冷気はわたしの地元ではあまり感じない類の冷たさを持っていた。


「さっむ」


 マフラーをきつく巻き直し、それに顔をうずめる。さっきまでお酒も入ってぽかぽかしていた体は、急な温度変化に驚いているようだった。


「そういえば今夜は冷えるって言ってたな」


 寒がるわたしとは違って、こんな気温なんて何でもないというように聡が言った。実際、聡は寒い地域の出身だから、そんなに応えないのかもしれない。そういえば、着ているものもいつも薄着だった。今夜ももれなく薄着な聡に、逆にこちらが心配になってしまう。

 聡と二人、歩きながら、空を見上げる。友達以上、恋人未満な聡との距離はいつもどことなく遠い。手を伸ばせば触れられるかもしれない距離。手袋を持たないわたしの手は冷たくて、暖を取るだけ、なんて言ってあたたかそうな聡の手に触れたら、どう反応を返してくれるのだろうとぼんやり思った。それでもこの聡との関係を壊したくなくて、わたしの手のひらは冷たい風に吹かれるままでいる。今年の冬はまだ雪は降っていないけれど、この調子だとそろそろ雪も降るかもしれないと思った。それぐらいには、寒い。その分空気が澄んでいて星はきれいに見えた。無数の星がきらめいているけれど、わたしが分かる星座はオリオン座だけだった。オリオン座だ、とわたしがつぶやくと、聡は好きなバンドの歌詞を呟いて、その歌詞の通りにオリオン座を手でなぞってみせた。


「この間さ、望と一緒にライブ行ったんだよね」


「あぁ、望もあのバンド好きだもんね」


 内心ドキリとしたのを悟られないように、無理に何でもないように、わたしは言った。今は望のことを考えたくなかった。どうせ離れていってしまう望のことなんて、考えたくなかった。望が遠いところへ行ってしまうことを考えはじめたら最後、暗い沼の中に入り込んでしまうような気がした。


「ずっと疑問だったんだけどさ。答えたくなかったら言わなくて良いんだけど」


 急に真面目な声音で聡が言った。その瞬間、心臓が止まったような気がした。時も止まったような気がした。ジェットコースターに乗った時みたいに、びゅん、と体の中身が飛び出てしまったような、そんな居心地の悪い感覚がした。望のことだ、と勘が告げていた。


「どうして望のことが好きなの?」


 聡の声は残酷なほどに優しかった。聡は今までわたしと望のことに言及することはなかった。聡と望とは一緒にライブに行くほどには仲が良くて、きっと望からわたしの話も少しは聞いていたのだと思う。でもわたしは、望のことが好きだと聡に告げたことはなかった。


 わたしは知っていたのだ。聡がわたしのことが好きだと。


 こんなに長い間聡のそばにいて、気づかないほどわたしは鈍感ではなかった。気づいていて、気づいたからこそ、わたしは聡の側にいた。どんなに願っても叶わない渇きの中で、わたしを好きでいてくれる聡の存在はたった一口の水にも等しいものだった。醜い承認欲求だと知っていた。分かっていて、わたしは聡を必要としていた。


「俺は詩織を見てて苦しいよ。叶わないって詩織自身も分かってるのに、どうしてそれでも好きなの? 自分で自分を苦しめてるように見える。俺は詩織にはもっと幸せになって欲しい」


 そう畳み掛けて、聡は口をつぐんだ。何も言えないまま、わたしたちは家路に向かって脚だけ動かし続ける。今日ここで聡がこの話をしたのには、望が大学院に行ってしまうことと関係があるのだと思う。もうそろそろ諦めろよ、と言わないのは聡なりの優しさなのだろう。


「……何でだろうね」


 やっと出た言葉は自分でもびっくりするぐらい間の抜けたものだった。コツン、コツンと冬の静かな道路にわたしのヒールの音が響く。聡の履くニューバランスのスニーカーは、全く音を立てない。わたしの返答に聡は無言で、まるでわたしだけが夜道を歩いているような錯覚さえした。


「わたしにも分からないんだよね。望のことを諦めた方が良いってこと、頭では分かってる。望が振り向いてくれる可能性なんて、限りなく低いことは分かってる。でもね、なんでか分からないけど好きなんだよね。いつか振り向いてくれるんじゃないか、って心のどこかで思ってる。どうしても諦められないんだよ。好きなままでいたいんだよ。……不毛すぎるけどさ」


「ほんと不毛」


 聡が言った。そこに責めている響きはなかった。だからわたしは聡が好きなのだと改めて思う。他人のことを否定することがない聡の側は居心地が良くて、わたしのことを好きでいてくれる聡のそばは離れがたかった。


「……不毛だからさ、俺も諦めることにするわ」


 語尾をすこしだけ震わせて、聡は言った。


「……なにを」


 嫌な予感というものは当たるものだ。


「詩織のこと。分かってただろ?」


 歩みを止めたそこは、ちょうど、わたしのアパートと聡のアパートとの別れ道だった。人一人さえ歩いていない夜道で、わたしたちは立ち止まる。聡の顔をまじまじと見て、それが嘘なんかじゃないことを痛感する。また強く冷たい風が吹いて、でも先ほど感じたような刺すような冷たさは感じなかった。それ以上に胸が痛かった。


「ごめん」


 それしか言えなかった。うん、と聡は困ったような顔で笑った。分かってたから別に辛くないし、なんて聡は言葉を続ける。それが本心なのかは分からないけれど、聡は泣いているような笑っているような、曖昧な表情で笑った。


「俺は望にはなれないし、詩織を好きでい続けることも出来なかったけどさ、これからも友達でいたいと思ってるから。これまでと同じように接して欲しい。今日はありがと。じゃ、おやすみ」


 軽く手を振って、聡が離れていく。別れの挨拶さえできずに、わたしは立ち尽くした。これから1人で歩いて行かなければならないと考えると、目眩がした。思わずその場にしゃがみ込んでしまった。ずっと隣に変わらずあると思っていた。それを失ったいま、目が回るほどの喪失感に足がすくんでいた。どこか暗い穴の中に迷い込んでしまいそうだった。


「……聡」


 声に出したら泣きたくなった。友人だった聡との関係は全く変わらないはずなのに、どうしてこんなに悲しいのだろう。


 聡の好意が欲しかった。聡はずっとわたしを好きでいてくれると思っていた。聡の好意があったからこそ、わたしは望を好きでいられた。叶わない恋に向かって体当たり出来た。


 わたしは失ってしまったのだと実感した。誰かに求められたかった。求めて欲しかった。空いていた穴を満たして欲しくて、そうしているうちに、さらに穴は広がってしまった。


 わたしは馬鹿だ。大馬鹿ものだ。ふいに涙が溢れて止まらなくなった。聡への申し訳なさと、自分のこころの醜さと、不甲斐なさと、望への叶わない想いと、色んなものがごっちゃになって涙になっていた。


 渇きを癒すために飲んだ一口の水はとても甘かった。その過度の甘さにまた渇きを覚え、一口飲んでしまったら最後、更に欲しくなってしまうことにやっと気づいた。一口だけでも、飲まなければよかった。そうしたら、こんな苦しさなんて知らなかったのに。


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