前編
「望さ、大学院行くんだって」
私が聡からそれを聞いたのは、年が明ける前のことだった。年末年始を前にし、ほとんどの大学生は帰省していて、大学近くの安い居酒屋には、わたしと聡以外に客は誰もいなかった。調理場の方から、定員同士の雑談がぼそぼそと、そして付けっ放しのテレビからは『次は大掃除特集です』、なんてのんきな明るい声が聞こえていて、あまりに平凡な日常のBGMになっていた。周りに誰もいないのも手伝って、聡の声は良く通った。
大学1年の時から他大学の大学院へ行くことを決めていたこと。行き先は関東の有名大学の院ということ。そのために今は猛勉強していて、だから最近サークルに顔を出せずにいること。
何でもないことのように伝えようとしているんだろう。聡の声は変に平淡だった。それなのに眉間には普段見慣れない皺が刻まれていて、手に持っていた飲みかけのハイボールのグラスが、無骨な手の中でせわしなく回っていた。軋む胸の隙間に、聡の言葉は入り込んで傷を抉る。寄生虫のように、言葉はわたしに住み着いて、胸にジワジワと黒いものを吐き出した。
「へぇ、そうなんだ」
そんな言葉さえなかなか言い出せずに、わたしは唇を噛む。私は地元で就活するつもりだったから、そうしたら望とはよっぽどの事がない限り会えなくなってしまう。私と望とは、ただのサークル仲間で、それ以上でも以下でもない。『行かないで欲しい』なんて言えるはずも、彼の進路に着いて行く、なんて選択肢を取れるはずもない。
黙ってしまったわたしの様子を見て、聡は何かを察したのか、残りのハイボールを流し込み、馬鹿みたいに明るいトーンで次何飲もうかな、なんて話題を変えた。甘いお酒は嫌いなんだよなぁ、でも炭酸もそこまで好きじゃ無いからなぁ、なんて言いながら安い飲み放題のメニューをめくる。もう知りきっている聡の好み。次もまたきっとハイボールを頼むだろう。
わたしはこうした、聡の変に気を遣うところが嫌いで、なのにどうしても憎み切れなくて。そんな聡が好きだった。LoveじゃなくてLike。サークルの友人の中で、聡は1番肩肘張らずに話が出来る相手だった。好きなバンドのボーカルの真似っこをしている、少し長めの前髪。一度も染めたことがない黒髪。少し癖のある髪質に、マッシュヘアが良く似合っている。ストレートパーマをかけようとしたけれど、今までアイデンティティの一つだと思っていたくせっ毛を失くしてしまう勇気が出なくて、結局一度も出来ていないらしい。目が隠れるか、隠れないかのぎりぎりの前髪の下には、そのクールな雰囲気とは裏腹につぶらな瞳が隠されていることを知っている。大学からはクールでかっこいいキャラとして生きていこうと思っていたのに、やっぱり喋れば喋るだけボロが出て、結局面白キャラになってしまった聡。クールでかっこつけている聡の姿なんて、わたしには想像できない。わたしの目に映る聡はいつだって朗らかだった。
「すみません」と聡が店員を呼ぶ。頼んだものは、わたしの予想とは裏腹に、ジントニックだった。びっくりしつつも、わたしはいつものように自分の分のハイボールを頼んだ。
「珍しいの飲むじゃん」
ジントニックが到着するのを待って、口を開く。透明なグラスに注がれた透明な酒。わたしといるときに聡がジントニックを頼んだのは初めてだった。誰か違う人と飲んだ時に薦められて飲んだのだろうか。いつもわたしとばかり飲んでいるわけにもいかないことは分かっているけれど、わたしの知らない聡の一面を見た気がして、ジントニック好きな誰かに意味のない嫉妬をする。
「まあね。たまにはこういうのも良いんじゃないかと思ってさ」
ジントニックを一口含んで、アルコールが回ってきたのか、ほんのり赤い顔で聡が言う。
「どういう風の吹き回しなの」
「んー? まあね、俺だって色々考えてるんだよね。望の話聞くと、俺も頑張らなきゃなーって思うし。こんなにふわふわ漂うみたいな生活してていいのかな、とか良く考える。もっと大人になりたいなってさ」
「だからジントニック?」
「うん。ジンってなんかかっこいい気がしない?」
もう一口、ジントニックを飲んで聡が言った。
「カッコいい……かな?」
正直良く分からなかったけれど、男には男のロマンがあるのだろう、と思う。
「一口ちょうだいよ」
ん、と差し出されるグラス。一口飲んでみて、なんとなく大人な味がした気がした。わたしももっと大人になりたいな、と思った。大人になればきっと、叶わない恋だって諦めがつくのだろう。叶わない恋だと知っていて、望のことを諦められないのは、いつか振り向いてくれるかもしれないっていう、ほんの1パーセントにも満たないかもしれない可能性を信じていたいからだ。『男性は、一度友達のカテゴリーに入ってしまったら恋人になることは出来ない』なんて、ネットのコラムで見た。望に直接聞くことなんて出来ない言葉をネットに聞いた。自分の聞きたい言葉は得られないのを知っているのに、不安でいても経ってもいられなくて、仕方がなくて、ネットなんて不毛な場所に聞くしかなかったのだ。何でも良いから頼りたくて、「片思い 成就 方法」なんて検索したりした。
わたしの検索履歴はいつも空しい。いつもわたしは空しい。このまま誰にも認めて貰えないのではないか、誰もわたしのことを受け入れてくれないんじゃないかって考えては焦燥感で胸を掻き毟りたくなる。いっそのこと、セフレで良いのだ。ただの友達になりたくない。セフレでも何でもいいから、友達以上の、「特別」な関係になりたかったのだ。ただわたしの「体」目的で良いから、望にわたしを求めて貰いたかった。
「うーん、やっぱりハイボール一口ちょうだい」
やっぱりね、なんて笑いながらグラスを差し出す。
このハイボールみたいに、一口でいいのだ。
一口で良いから、望に求められたい。そうしたら、諦めだってつくかもしれなかったのに。