レイアの資質 1
よく晴れている。
王宮からそう離れていないのに、森に囲まれている地形のお陰でソーン村は常にのどかだ。
けえん、と、甲高い声を立てて、猛禽が一羽、茶色い強い羽根を広げて天を巡った。
澄み渡る空の下に、ソーン村の浅い森が伸び盛りの梢を伸ばす。
村を囲む森は深くはない。そこには、何ら神秘的な伝説はない。
あるのはもっと興味深いもの――薬草――だ。
すぐに出ていけ、それとも役人に引き渡されたいか。
そんな後生なおじさん、長旅で弱っている女に、なんて薄情なことを。
喧々囂々。
空のお櫃を抱えた父ピタと、底知れぬ胃袋を持つ謎の大女が騒いでいる。
騒ぎに乗じて、そっと玄関を抜けたレイアである。カーン家の敷地を出て村の小道を歩いていると、自然、家々の向こう側に広がる、恵みの森に目がいった。
けえん、けえん。
少し肌寒いかもしれない、春の午前の空気が心地よい。
一枚羽織ってくるべきだった、と一瞬思ったが、すぐにレイアは別の事を考え始めていた。
ソーン村は魔薬士にとって、得難い場所だ。
件の森には多種多様な薬草が育っている。お陰で、思い通りの調合をすることができたし、特殊な効果のある薬を作ることができる。
(薬草ばかりじゃない……)
透明な日差しに腫れぼったい目をますます細くして、レイアは青々とした森を眺めた。
正面を見て歩いていないせいで、なんどか石にけつまづいた。
父ピタからの教えは骨の髄まで染みている。
薬草は、ただその草の種類だから薬になるというわけではない。同じ種類であっても、生えている場所によって効果効能が異なる。
ソーン村の森は、土に恵まれているのだ。
宝は薬草ではなく、土のほうなのである。
レイアは、森の中が好きだった。
子供の頃からなにかある毎に、青々とした影の落ちる森の中でしゃがみこんでいた。
湿った土からは様々な生き物の痕跡が見られ、匂いもする。
たった今生まれた生き物から、遙か昔に死んだ生き物が混沌とまじりあって、微妙な均衡を保っている。
食べて食べられて、出して生まれて、また食べて食べられる。
良い循環が護られているから、良い土になり、そこから良い薬草が採れる。
森はレイアの庭である。
森の穏やかなざわめき。
豊かな緑の薬草たち。
小さな鳥や虫。
だけど、食べて食べられる流れの上に、彼らは成り立っている。
(争いは平穏を産み、平穏はいずれ争いを産む)
レイアの目は何も映してはいないようで、遙かなものを映している。
タカークが来るように言った、カルガの家は森の側にある。
粗末な小屋に、カルガは住んでいるのだ。
老いて頑固な父母がおり、独り身のカルガは両親を養うために働き尽くしだ。
村の同年代の中でも、カルガは苦労人の方だ。
にこにこと愛想が良く、中肉中背で、優し気な顔立ち。女の子にももてるようだ。
タカークら村の武骨な野郎集団の中に、カルガは取り込まれている。武芸仲間同士、彼らはたいそう仲が良い。
武芸の道場に、カルガはなかなか姿を現すことができないのだが、それでも仲間として受け入れられている。
人徳だろう。
レイアはカルガとは親しくない。
(ただ、彼が気の毒だとは思っているんだ、私は)
森を背後に控えさせ、雨漏り三昧な粗末な小屋が見えて来た。
カルガの家に来い、みんな集まっているとタカークは言った。だとしたら、カルガの両親は不在なのだろう。
レイアは、カルガと接点がない。
が、カルガの置かれている状況はだいたい把握している。
なぜ、カルガが最近突然解雇されたのか。解雇されたと思ったら、すぐに別の仕事にありつくことができたのか。
カルガの元勤め先は、村の長者、モー家の屋敷である。下働きをしていたはずで、気の利く奴だと評判が良かったらしい。にも拘わらず、急に切られた。
さっきのタカークの表情を思い出す。
欅の枝に乗り、梢の緑に染まりながら、タカークはどこか浮かれていた。
苦境にあるはずのカルガのことで、浮かれるようなこと。一つしか思い浮かばない。
(色恋沙汰か)
釘の頭が飛び出ているような扉を押すと、簡単に開いた。
丸太をそのまま使っているようなテーブルを、野郎どもがずらずらと囲んでいる。その中にはタカークの顔も見えた。
カルガは仕事中なのだろう、肝心の彼がそこにはいない。
もちろん、カルガの両親も不在だ。
他人の家で、ずらずらと彼らはくつろぎ、煙管をふかしたり、菓子を喰ったりしているのまでいた。
扉を軋ませてレイアが現れた時、タカークは、お、と笑顔になった。そして皆を振り向き、こう言ったのだ。
「レイアに任せてみろ。たちまち解決する。この男なら、作戦に必要なモノを、いとも簡単に作ってくれるんだ」
武骨で無神経な連中の視線が一斉に、ひょろひょろのレイアに突き刺さる。猫背のがに股の骨川筋衛門が、開いた扉から差し込む光で逆光になっている。
ああ、俺こいつ知ってるぞ、カーン家のお坊ちゃんだろうがよ。
噂にたがわない間抜けヅラだなオイ。
タカーク、てめえ、どうしてこいつを呼びつけたんだよ?
慣れっこである。
レイアは無言で連中を見回した。
「作戦」と、タカークは言った。
生白いだの、三歩歩いてはなにかに躓いて転ぶ奴だの、無遠慮な言葉は耳を素通りする。
「で、カルガが好きな女の子って、モー家のご令嬢ということで良いのかね」
レイアはゆっくりとした、低い柔らかい声でそう言った。
とたんに野郎どもはしいんと静まり返り、突如、荒い声があがった。
タカーク、おまえこいつに秘密を言ったのかよ!
レイアが知るはずのない、カルガの秘密。
恐らく、仲間以外の誰にも言っていないはずの、極秘事項だ。
タカークは、仲間たちの騒ぎには構わず、誇らしげな顔で、生白いがに股の親友を眺めたのだ。
モー家の令嬢は、来月、王に召し上げられることに決まっている。
サイ国の王は年老いているが、色は健在だ。後宮は未だに賑わっている。
数多いる後宮の女の一人として、令嬢は嫁いでゆく。
(で、私になにを期待しているんだ、タカークは)
ざわざわ荒っぽい空気の中で、レイアは無言でタカークを見つめた。
浅黒くたくましい親友は、腕組みをして笑い、頷いた。
「すぐ入って、温まって」
昼頃戻ったレイアを最初に見つけたのは、薬房で作業をしていたセウランだった。
乾いた薬草の匂いを放ちながら庭に駈けだして、冷え切った兄の体を支えた。
思った通り、何も羽織らずに外出したらしい。白い薬師服が、はたはたと冷たい風に揺れている。
妙に紅潮させて、少し目が潤んでいるのは発熱が近い証拠だ。レイアは簡単に発熱する。わかっていないはずがないのに、どうして寒い格好で出歩くのか。
苛々とセウランは早足になり、ひょろ長いレイアが引っ張られてゆく。
家の中に入ると、セウランは兄を暖炉の前の丸椅子に座らせた。猫背で前傾する兄は、相変わらず無言で、目を輝かせている。
何か考えているのだ。
猫背の背中に毛布をかけてやり、セウランはいったん台所に戻って熱い薬湯を用意した。
盆に乗せて戻った時、兄はあかあかと燃える暖炉の炎を顔に映していた。
「兄さん」
薬湯が継がれた湯呑を兄の手に握らせると、セウランは側に丸椅子を寄せ、自分も座った。
ふうんと漂う強い風邪薬の匂い。
やがて兄はゆっくりを湯呑を口に運ぶと、一口飲んだ。
半開きのまなこではあるが、柔らかなまなざしで妹を見ると、ありがとう、と言った。
「何か、考えていたでしょう」
「ああ――まあ」
苦い薬湯を甘露のように兄は飲む。
実はセウランは、この薬湯だけは飲みたくないものだと日頃から思っている。
調合したのはピタである。効き目はあるが、なにしろ不味い。
(これを飲むくらいなら素直に風邪をひくわ……)
「セウラン、おまえ好きな人くらいいるだろう」
「……」
始まった。
兄はとつぜん、突拍子もないことを話し出す。
セウランは眉間にしわを寄せ、珍獣を見るような思いで兄を眺めていた。
ぐび。また兄は薬湯を飲む。
臭い。不味そう。信じられない――自分で出して置いて、セウランはぞっとした。
「婚前交渉をしたことは、あるのか」
目を輝かせ、真正面から見つめながら、兄は言った。
セウランは湯呑を奪い取ると立ち上がり、兄の頭に湯呑の中身を流した。
「もー、あのオヤジ、薄情。あれで国家の魔薬士なのかしら」
結局、カーン家を叩き出されたヨクラである。
大憤慨だ。
夜の闇の中を移動するからこそ、人目につかずにここまでこれたのである。
この巨体で白昼の村の中を歩いたら、嫌でも目立ってしまう。
いずれ、誰かが役人に連絡をつけるだろう。
トウ国セーガ家の長女、ヨクラ。
出奔してまもなく、追手がかかった。
「捕まえて連れ戻したら、報酬をはずむ」
父のことだ、相当気前のよい金額を提示したのだろう。
おかげで、何処に行っても人相書きが貼られている。
トウ国内だけならまだしも、サイ国の、こんな片田舎の村にまで、やけに美化された自分の顔が貼られているのを見て呆れた。
(冗談じゃないわよ……)
ヨクラの僅かな荷物の中身は、書物である。
古い書物だ。
立派な革の表紙が擦り切れそうになっている。
この書物の内容を解することができる者は、そう、いまい。
(星読みに従って、ここまで来たのよ。やっと見つけたのに、引き返せない)
魔薬士の名家に生まれたヨクラは、もちろん魔薬士の勉強を齧っている。
それなりに仕込まれてはいるが、ヨクラが本心から興味を持っているのは、全く別のものだった。
星読みの術だ。
古い書物にある、星読みの術を使えば、優れた人材に巡り合う事ができる。
今、トウ国は国家の危機に瀕していた。
その内情を知る者は、今はまだごく僅か。
(優れた魔薬士が必要)
父、セーガをしのぐほどの、魔薬士。
その魔薬士こそ、トウ国の救い主となるだろう。
ヨクラは確信している。
その星は、強い。
輝くことができたなら、五つの国の、近い未来に起こるべく争いを迂回し、平和な時代をより長く存続させることができるはずだ。
(あの子、レイア)
いささか頼りない子であるが、ヨクラの星読みでは、まさに彼がその、救い主なのだった。