カーン家 2
チュンチュンチチチ、という、爽やかな鳥のさえずりが聞こえて目を覚ました。
レイアである。
ぼんやりと天井を眺めていると、視界の端に人が過った。
華奢で小柄な体に、赤い前掛けを被り、薬師の衣を纏って動いている。
優雅に滑るように、部屋の中を移動している――母さんだ――レイアは未だ醒めない頭で、そんなふうに思った。
母は魔薬士ではなかった。
しかし、薬師としてはそれなりの腕だったと聞いている。レイアの記憶に残る母は、こんなふうに白い衣に赤い前掛けを被り、すり鉢を持って作業していた。耳の横の髪の毛を長く伸ばし、うなじの切りあげる髪型は、薬師の女性が好むものだ。
女性らしい髪の長さと、煩わしい後ろ髪の処理を同時に叶える画期的な髪型。
セウランもいつの頃からか、その髪型になった。
セウラン――徐々に目が醒めてくる――視界の中の母は、優雅に滑るように動いているようで、実はてきぱきと直線的に動作していた。
かちゃかちゃと器が鳴る音。
粥の香り。
かちゃんと音を立てて、寝台の側に盆が置かれた。
母ではない。セウランが、見下ろしている。
このガキャ、まだ喰らうか。
階下から、焦るような父の声が聞こえた。
「もう三日も食べてないのよー、ああ美味しい美味しい、おじさんが作ったの凄ーい」
だみだみとした声の女が、もごもご口の中いっぱいに頬張りながら喋り散らしている。でかい声だ。
美味しい美味しいっ、凄いこれ、サイ国のお米よね、すっごい美味しい、全然ちがーう。
……そこまで絶賛されたら、悪い気はしまい。
父さんも、米も。
「あーん」
丸椅子を引き寄せて、セウランが言った。
もうそのつもりで、熱い器を左手に持ち、右手に匙を持っている。あーん。兄さん、あーん。
レイアは首を起こした姿勢で、口をへの字にした。
セウラン18歳。
薬師の女性の独特な髪型をしているので、より一層白いうなじが輝く。
華奢で小柄な体型なので、一見、もっと幼いように見えるが、実は年齢より遙かに育っている。
……子供を五人くらい産んだおばさんのような、太い神経をしている――と、レイアは心の中で、妹を評している。
セウランは頭脳は明晰である。その上、反射神経も素晴らしい。生まれついて活発にできている。
魔薬士というものは、兵法と薬学の二つを請け負うものだ。兵法を学ぶ上で、武芸の心得もある程度は必要になる。
セウランは、こう見えて容赦がない。
この女に刃物を持たせてはならないと、幼馴染のタカークは言っている。
「解剖実験の蛙でもさばくように、人を殺るぜあいつは」
可愛い顔して、あの目は猛禽の目だよ。お前が昼間のフクロウなら、あいつは獲物を見つけたハゲタカだ。
……。
「冷めないうちに。兄さん」
あーん。
セウランがぐいぐい匙を突きつけてくる。
おじさんお代わり―、うっは、まだ行けるまだ入るうめーうめー。
こんガキャ、おひつの中が空になりおった、一体なんなんだお前は。
階下では、父と謎の太ましい旅人が、賑やかだ。
生真面目な顔を崩さないまま、セウランが言った。
「あのひとが全部食べちゃったから、これしかないのよ。取っておいたんだから全部食べてよね。あーん」
レイアは匙を妹からもぎ取ると、自分で口に入れた。
ついでに器も受け取った。
湯気が立ち上っている。父の料理は可もなく不可もない程度だと思う。それにこれはただの白粥だ。
(そんなに感激する程美味しいのか)
ぱくり。
「あのひと、誰なの」
頬杖をつき、兄が食べる様子を眺めながら、セウランが無表情に言った。
もとから食が進まないレイアは、早くも粥を持て余している。まだ半分以上ある――食べられるだろうか。
「知る訳がない。私が薬房から出て、玄関に立った時、振り向いたらそこにいた」
なにそれ、と、セウランは眉をひそめた。
どうして失神したのよ、あのひとに襲われかけたの。
恥ずかしげもなくセウランは言った。
冷やかされたのにも気づかずに、レイアは眠そうな顔で粥を飲み込んだ。
もう入らない。器をセウランに渡そうとして拒否される。兄さん食べないと、草むらのバッタみたいじゃないの、いい加減にしないと歩いているうちに折れちゃうわよ。
ピーイ。
空まで飛んで行きそうな口笛が聞こえる。
開かれた窓からは、やや冷たい朝の空気が流れ込んでいた。
チチチ、チュン。鳥たちが驚いて飛び去る羽音がする。
窓から覗く、大欅の枝に、がたいの良い男が一人、身軽そうに立っていた。
レイアは受け取ってもらえなかった粥の器を枕元に置いた。
あっ、兄さん。
セウランが抗議の声を上げるが、素通りするように寝台を飛び降りる。窓まで駆け寄ると、枝の上に乗った筋肉質が白い歯を見せて片手をあげた。
いつ見ても、ごつい体と顔である。
子供の頃からごつかったが、武芸を始めるようになってなおさらごつくなった。
タカーク・ゲン。
レイアと同い年の幼馴染である。
家柄の差を気にしないで付き合える敷居の低さが、カーン家の取り柄だ。
タカークは貧しい母子家庭で育った。妹がいたが、子供の頃に失っている。
レイアとはまるで違う体格、性質であるが、それでも奇妙にうまがあい、未だに友達づきあいが続いている。
親友だと、レイアは思っている。
「何だよ、また病気かー。はっは、久々に見たら、やっぱり生白いわー、肉のない深海魚みたいだわ」
タカークは無神経に言う。
レイアの背後で器をかかえたセウランが、一瞬殺気を放った。
しかしレイアは、親友の顔を見て一気に気分が上向きになったようだ。
幸いなことに、昨夜、失神したまま寝台に引きずり込まれたので、寝間着ではない。
「暇なら来いよー。ちょっとさー、面白い話があるんだよー」
タカークの言う「面白い話」が、平穏で上品なものであったためしがない。
セウランは兄を押しのけた。セウランの顔を見て、タカークは怯んだ――目が泳いだようだ――タカークがセウランの物言いに、ぎくしゃくし始めたのは何時頃からだったか。
レイアは好々爺のような顔つきで、二人の様子を眺めた。
「兄さんは昨晩倒れたのよ」
つけつけとセウランは言い放った。
「いやだけどほんの少し」
もたもたとタカークが言い返す。
「じゃあここで話せばいいじゃない」
セウランがつうんと言った。
タカークは無言になり、そっと視線を正面のセウランから、後ろでにこにこしているレイアに当てた。
(後で来な)
と、タカークは目で告げると、さっと右手の指で、暗号を使った。
カルガの家で。
みんな集まっている。
「じゃな」
するするっとタカークは欅を降りた。
セウランは振り向くと、疑いのまなざしで兄を見上げた。
レイアとタカークの使う暗号は、幼い頃に男の子たち同士で遊んだものである。女の子には秘密なのだ。
(笑えば母さんみたいなのに)
きついセウランの上目遣いを見て、レイアは不意に、そんなことを思った。
乱れた髪の毛を後ろで束ね直して、レイアは階下に行った。
暖炉のある部屋では、件の旅の大女が、どんぶり飯の最後の日と口を流し込むところだった。
空のお櫃を抱えたピタが、なんとも言えない表情で立ち尽くしている。
恐る恐る、父さんと呼ぶと、むっとした顔で振り向かれた。
尖った顎で、満足の溜息とゲップを同時に吐き出した女を指し示す。
(なんなんだ、あれは)
(知りませんよ私は)
無言のうちで二人は途方に暮れた。
「姉さん、あの、どちらから」
恐る恐るレイアが片手を伸ばして尋ねると、すべて言い終わらないうちに女は目を剥いて首を回した。
ぱつんぱつんの頬に、そばかすが散らかっている。
まん丸の目は愛らしいと言えば愛らしいが、なにしろ体が大きい。
「わたしねー、国外から来たの。サイ国初めてだけど、お米が美味しいってよく分かった」
いいところね、ここ。
にこにこ、げえっぷ。
レイアとピタは目を見合わせる。
二人とも、同時に気づいていた。
この大女のせりだした腹の、草色の帯に下げられた翡翠の根付。
見事な翡翠である。兎の彫刻だが、その彫刻は独特な手法で彫られたものだ。
芸術には詳しくない。
だが、最低限の知識ならばある。魔薬士だから。
「トウ国の者か、あんた」
ピタが低い声で言った。
その声に、微かな震えが混じっていることにレイアは気付く。
トウ国の者、それも一般人ではあるまい。
よく見れば高価な布を使った衣だ。その根付も安物ではあるまい――翡翠の兎だ――レイアははっとした。
翡翠の兎は、ある名家の紋章だったはずだ。
魔薬士ならば、誰もが知っている名家。
「セーガ家の」
レイアは言いかけて息を詰めた。
セーガ家。
トウ国、国家専属魔薬士、セーガ。
とんとんと軽い音を立ててセウランが降りてくる。
粥の器を持って兄を追ってきたのだ。
「兄さん、ちゃんと食べてよね」
セウランが言うのと、女が叫び声をあげたのは同時である。
「わ、まだある。ちょうだい食いだめするんだからちょうだいっ」
だむ、だむだむ。
丸卓をでかい手で叩きながら立ち上がる。勢い余って椅子が転げた。
いいですよ、私の食べかけですが。
レイアが言うより先に、ピタとセウランは声を揃えて叫んだのだった。
「だめ」
ぱくんと大きな口を開いた女に向かい、ピタは更に告げた。片腕を上げ、指先を玄関に向けながら。
「出ていけ。すぐに」
さもなければ、あんた、然るべきところに突き出してやるからな?
トウ国セーガ家の長女、ヨクラ・セーガ。
半月前から出奔し、行方知れずとなっている。
近隣諸国まで、人相書きが出回っていた。
そう言えばつい最近、どこかでその人相書きを見たなあとレイアは思う。
似ていない。実物はもっと、ぱつんぱつんと、でかかった。