お前と共に在る
「愛を奏でるマリア」シリーズPART2に当たる作品です。
シリーズでご覧下さい。
此処は何処だ
歌が聞こえる
聖なる歌が……
マリア
誰が真璃亜を泣かせるか
俺が真璃亜を泣かせたか
なのにどうして
どうして俺にはこんなにも
これほどまでにも救いがないのだ……!
「……ぱい! 遙希先輩……!」
一筋の光。
瞳を開ければそこには、
「真璃亜……」
見慣れた小さな、顔。
心配そうな表情をしながら、
「魘されていました……」
俺を見つめる。
「真璃亜」
俺はゆっくりと起き上がった。
「俺、は。どうして」
ここは。真璃亜の部屋……?
「先輩……私の部屋に来るなり、酷い、顔色で。少し横になる、て仰って、ベッドにそのまま……」
ああ、思い出した。
俺は……。
「真璃亜」
ベッドに腰掛けると膝の上で両手を組みながら、俺は呟いた。
「俺は。ヴァイオリンを、やめるぞ」
「なんですって……!?!」
どうして……と、呟きながら、真璃亜は後は言葉にならない。
しかし、それも束の間。
「どう……して。何故なんですか?! 先輩がヴァイオリンをやめるなんて思えません!!」
音楽のことになるとこいつは性格を変える。
いつもの大人しやかな佇まいからは想像できないような、激しい口調で、真璃亜は俺に詰め寄ってきた。
「それでなくても、この半月あまり……真璃亜は。本当に心配しました。一学期も終わり近くになってから遙希先輩は……突然、姿をお見せにならなくなって……。周りの方達から、先輩のお家に何かあったらしいことは伺っていましたが、詳しいことは誰にもわからなくて。先輩とは連絡が全く取れないまま、私は松朋での初めての夏期休暇に入ってしまって……」
真璃亜は俺を見つめて言った。
「一体。何があったんです?」
真璃亜はしかし、もういつもの落ち着きを取り戻していた。
その大きなすみれ色の瞳で俺をただ見つめる。
俺は、ようやく重い口を開いた。
「兄が。下の兄、8歳上の紘樹兄様が、倒れた」
「え……?」
俺は依然、顔の前で両手を組んだまま、部屋の片隅を見つめている。
「即日入院だった。詳しい精密検査の結果、再生不良性貧血という診断だ。……紘樹兄様は、日向ホールディングスの次期総帥の立場だ。しかし、今の健康状態では。「宗庵流」茶道は上の一貴兄様が継ぐにせよ、それ以外の日向の全ての事業を継ぐなど不可能なことだ」
「それで……」
「……俺、が」
そこまで言って、言葉を切り、飲み込む。
「遙希先輩が……何なんです?」
「俺が。後を継ぐことになった」
誰か。
誰か、嘘だと言ってくれ。
俺はあの日からもうずっと、悪夢を見続けているに違いない。
俺は、「日向」の本家の生まれとはいえ一番気楽な末っ子で、好きな音楽を、一生続けられると信じていたのに。
しかし。
俺は。
脳髄の奥底の密やかに、冷めやかに醒めた一点で。
俺は。
「そんな……。ヴァイオリンは……どうなさるんです?!」
「松朋は二学期以降、出席日数に足りるだけ通う。大学は、日向の事業を勉強しながら、外部の経済学部へ進学する。受験にせよ、日向の家についてにせよもう、家庭教師がついていて、今夜は。そのスケジュールを全て放棄して、ここに来た」
依然、重く暗い口調で、まるで自分に言い聞かせているように言葉を続けた。
「そんな……ウィーン音楽院留学はどうなさるんです? ヴァイオリン……ヴァイオリンをやめるだなんて、そんな……嘘です」
真璃亜の顔は真っ青になっている。
「いずれ遅かれ早かれ、こんな日が来るとは思っていたんだ」
俺は、溜息を吐いた。
「どうして……」
「おまえに出逢ったからだ」
言うな。
言ってはならない。
俺の最後の理性と真璃亜への愛が、必死に俺に語りかける。
「どういう意味です……?!」
真璃亜は一層、顔色を変えた。
「お前のピアノの。「音楽の才能」は本物だ」
「先輩だって、それは……!」
真璃亜は言葉に詰まりながらも、尚、言い募った。
「何より、先輩はこんなにも音楽を、ヴァイオリンを愛していらっしゃるじゃありませんか?!」
「真璃亜」
俺は真璃亜の瞳を見つめて、言った。
「では何故。お前はピアノを弾く?」
俺の冷たい射るような目つきに、一瞬、真璃亜がたじろぐ。
「それは……好きだから……」
「それだけではないだろう? お前は。お前だったら、例えどんな状況に陥ってもピアノを弾くことを止めはしないだろう。俺は……。俺はお前の言う通り、それでも確かにヴァイリンを愛しているんだ。だが、俺には……」
俺は、黙って両の拳をぎゅっと握った。
その手は生まれてこの十八年間、ヴァイオリンを弾く為に存在した掌だ。
「俺は、お前がピアノに向き合うように。ヴァイオリンに向かえ!何を犠牲にしても、血を吐いてでも……という天の啓示は。なかった……」
ああ、そうじゃないんだ!
こんなことを言いに来たんじゃない……。
真璃亜に逢いたくて。
ただ、真璃亜を抱き締めたくて。
俺に救いを与えて欲しくて、俺は……!
「そんな……」
「悪かった」
俺は、そのまま床へと座り込んでしまった真璃亜に言った。
「私の……私のピアノが……。先輩を」
真璃亜は涙を流している。
違う。
お前のせいじゃない……。
全ては俺が抗えない「運命」の中で悟ったことだと。
そう一言言えれば、お互いどんなに楽になれるだろうか。
しかし。
俺にはその一言が言えずにいる。
真璃亜は自身を追い詰めていく。
さながら「オフィーリア」のように。
狂気の中、精神を壊し、死んでいく。
それがわかっていながら……!
俺は──────
自分がどれほど真璃亜に残酷な仕打ちをしてしまったのか。
その時の俺にはまだわかっていなかった。
その松朋最後の夏期休暇を俺は、学院に行くこともなく、生まれて初めて、ヴァイオリン……俺の愛器「ストラディヴァリウス」に手を触れさえせずにただ翌春の、国内では最難関クラスの「東応大学」受験に備えて、そして、日向の家を継ぐ勉強だけに集中していた。
あの日以来、また真璃亜にも逢わない日が続いた。
俺は気が狂いそうだったけれども、それは俺に与えられた天罰なのだと。
そう自分に言い聞かせていた。
真璃亜を傷つけた。
その自覚はあった。
しかし。
まさか、真璃亜にもまた、生まれて初めてのどん底のスランプ……いや、そう形容するには余りある過酷な日々が訪れているとまでは、思いもしなかったのだ。
「日向先輩!」
送迎の車を降りた途端に、取り巻きの女子生徒の群れが俺を囲んだ。
その日は九月も半ば過ぎ。
残暑の厳しい午後だった。
一学期末、家からの連絡で早退して以降、俺は初めて松朋を訪れていた。
出来ればもう二度と来たくはなかった。
だが、出席日数という問題がある。
それに、生徒会長の仕事の引継ぎも。
「日向先輩。淋しゅうございました」
「日向先輩のヴァイオリンの音色が聴こえない学び舎は、まるで灰色の日々でしたわ」
鬱陶しい。
そう思いながらも、外面を取り繕う自分の気質には、我ながら反吐が出そうだ。
こんな風に思うようになったのも。
真璃亜に出逢ったせいなのか……。
「ああ、君」
俺は、その女子生徒の中の一人に声をかけた。
「高等部一年A室の小野さんに。放課後、生徒会室に来るように、伝えてもらえないだろうか」
しかし、この時ばかりはにっこりと、「日向スマイル」を発動する。
俺はどこまでいっても俺でしかないのか。
そう思ったのもひととき、
「小野さん……ですか?」
そう言うと、彼女たちは顔を見合わせた。
「何か問題でも?」
「小野さんは。二学期に入ってから登校していません」
「何だって!?」
「教授方の間でも大問題になっています。自主退学だとか……そんな噂が流れています」
俺は暫く無言のまま立ち尽くしたが、踵を返した。
「日向先輩?! どちらへ?」
「帰宅するよ。その旨、教授に伝えて欲しい」
そう言い残し、俺は車へと戻った。
真璃亜……。
待っていろ!
今、俺が行く!!
「真璃亜!」
その部屋は、午後二時過ぎだというのに薄暗かった。
カーテンが閉ざされたまま、電気も点いていない。
「せん…先、輩……?」
その時。
真璃亜のか細い声がした。
慌てて、声のする方へと歩み寄る。
「真璃亜どうした!? こんなに……」
俺は言葉を失った。
抱き寄せた真璃亜の両腕は今にも音を立て折れてしまいそうなほど細く、その顔色は酷く青く、身はやつれている。
元々細身の真璃亜がまるで幽鬼のように、ウィーンの名器・グランドピアノ「ベーゼンドルファー」の前に、ただ呆けたように座っていたのだ。
「遙希、先、ぱい……」
「真璃亜……!?」
真璃亜は、そう呟くと、俺の腕の中で崩れ落ち、そのまま気を失った。
「……せん、ぱい」
その時、真璃亜はようやく、うっすらと瞳を開けた。
「気がついたか?」
点滴の針が刺さった真璃亜の右腕を俺はそっと握っていた。
あの後、真璃亜を車へと運び、そのまま日向ホールディングスの経営する医療法人「志木会」の系列病院へと搬送した。
俺が一見しただけでも、真璃亜は明らかに栄養失調だった。
元々、45㎏あるかないかの体格だ。
そのか細い腕も躰も、それは見るも無残なまでに痩せこけていた。
「食べてなかった、のか……?」
真璃亜はまた瞳を閉じた。
ただ、微かに頷いた。
「摂食障害だそうだ。内科と神経科の医師たちの診断だぞ」
俺は呟いた。
「先輩……。私……」
真璃亜が絞り出すように呟く。
「私。……弾けないんです。ピアノが……弾けなくなったんです」
真璃亜はそう言うとそのまま泣き出した。
ここまで。
俺は、ここまで真璃亜を追い詰めたのか。
自分のしてしまったことの重大性を、俺はその時初めて思い知っていた。
「先輩が。私と出逢ったせいで……ヴァイオリンを、やめてしまわれたのかと思うと……」
やはり。
それか。
「私も。もう二度と、ピアノを弾きません。弾けません」
真璃亜は言った。
「もうピアノは弾いてはいけないんです……」
そう言った真璃亜は、酷く辛そうに顔を歪め、そして更に泣いた。
「お前は。ピアノを捨てられないよ」
俺は冷静に言い放った。
「お前は最後はピアノを選ぶ。そう生まれついているんだ。つまりは。神の啓示は、そんなに簡単に覆るものではないよ」
俺は真璃亜の瞳を見つめながら、言った。
「私は……。そこまでして、もうピアノなんて弾きたくありません!」
そう真璃亜が叫んだ刹那。
ぱしっ……!
その時、その広い特別室の病室に、俺が真璃亜の頬を叩く音が響いた。
真璃亜がただ、俺の顔を見つめる。
俺は言った。
「お前は「神」に選ばれた人間だ。「GIFT」(天与の才。神からの贈り物)はもっと大事にしろ。そうして、生きてきたんだろう? これからも、お前は音楽に彩られ、祝福された人生を歩むんだ。……歩んでくれ。俺の代わりに」
頼むから……。
不幸にならないでくれ。
音楽を奪い去られるのは俺だけで、俺一人で十分だ。
「では……では。先輩は……? 先輩はどうなんです?! ヴァイオリンは? 本当にやめてしまわれたんですか……?!」
真璃亜は尚泣きながら、絞り出すようにそう叫んだ。
「これからも弾く。極めて個人的にではあるがな」
ふっと俺は息を吐いた。
そうだ。
ヴァイオリニストだけがヴァイオリンを弾くんじゃない。
「俺だって……お前の言う通り、ヴァイオリンを捨てることなんて。出来ないんだ」
俺は我が手を、ヴァイオリンを弾き続けてきた両手を見つめて、言った。
そして。
「これからは。お前の為に。お前と共に在る為だけに、奏でていく」
俺はいつでもお前と共に在る。
それは、覚悟にも似た強い秘めた想いだった。
「だから、安心しろ」
俺は滅多に見せない極上の笑みを湛え、真璃亜の手を再び強く握り締め、言った。
「遙希、先輩……」
真璃亜の頬が微かに上気し、真璃亜は初めて安心したように、ようやく涙ながらも華のように、微笑った。
真璃亜は、その後一ヶ月近く入院し、医師と看護士の徹底した管理の元、摂食障害の克服に努めた。
その間、真璃亜は、入院生活を続ける特別室へ運びこまれた電子ピアノに時折触れながら、ピアノの勘を取り戻していた。
元々、本気でピアノを嫌いになったわけではなく、弾きたいのに弾いてはいけないという自己暗示に苦しんでいたのだから、その暗示が解けた今や、真璃亜は水を得た魚のように、日ごと順調に快復していった。
それでも。
毎日奏でていた愛器ベーゼンドルファーから暫くの間とはいえ離れていた期間の故、元のコンディションを完璧に取り戻すことには少々戸惑っているようだった。
ストラディヴァリウスから離れていた俺と同じように……
真璃亜の退院も近い或る日曜日。
病院内のロビーで、「ロビーコンサート」が開かれた。
それは毎月一回、日曜日の午後、病院のロビーでアマチュアの音楽家を招いて行われている演奏会だが、その日は、最初から最後まで真璃亜の「ピアノ独奏」が披露された。
真璃亜はクラシックに限らず、老若男女問わず誰もが親しめるような曲をできるだけ選択し、自分で即興でアレンジした上、真璃亜のナレーションに歌声までサービスして、殊に小さい子供達やお年寄りから温かい拍手喝采を受けた。
それは、一時的とはいえピアノに向かう自信を失いかけていた真璃亜にとって、何よりの励みになったようだった。
そして─────────
「真璃亜。準備はできたか?」
「はい。先輩」
真璃亜はこの日、深紅のカクテルドレスに身を包み、その髪を純白のリボンで細かく編み込んでいた。
サンタクロース・カラーを意識したのかもしれない。
それは、松朋学院内で行われる今年最後の「降誕祭演奏会」。
そのトリを、俺のヴァイオリンに真璃亜のピアノ伴奏という、学内でも「夢の顔合わせ」と噂された俺たちが飾るという、学院でも粋な計らいだった。
この日を無事勤め上げたら、俺はもう出席日数を気にすることなく、東応大学受験に集中することができることにもなっていた。
「遙希先輩の……、松朋での最後の舞台、なんですね……」
真璃亜は、しんみりと呟いた。
「今から泣いてどうする」
「痛……、ひどい。先輩!」
俺は真璃亜の頭を軽くこづいただけなのに、真璃亜は頬をふくらませ俺に抗議する。
こいつも。
こんな顔ができるようになったのか。
俺は、ホッとするような想いだった。
「でも」
真璃亜はまた、顔つきを変えた。
「あの……「愛の夢」と「スケルツォ・タランテラ」それに。……あの「アヴェ・マリア」を皆様の前で、今度は二人で披露するんですね」
「そういうことだ」
これからどんな人生が待っているのか。
俺にはまだわからない。
しかし。
こいつと……。
真璃亜と共に歩んでいく。
それだけは真実だと、俺は不思議なほどの確かさで、予感にも似たその想いを感じていた。
そして。
これが俺の最後の舞台……。
それを真璃亜と共に創り、奏でる。
それは幸せに満ち溢れていて、これからの俺の厳しく険しいであろう旅路への何よりの餞になるかのようだ。
俺は、ストラディヴァリウスを手から離すと、
「真璃亜」
「せ、せん、ぱい……」
真璃亜の、その躰に比して長い指をそっと握り締める。
「冷えてはいないな」
「は、い……」
真璃亜はドレスの色以上に、顔を真っ赤にさせ俯く。
暫し、二人無言のままだった。
初めて出逢った日。素顔を脱いだあの時。そして、院内コンクールが終わったあの、夕暮れの放課後……。
様々なシーンが一挙にフラッシュバックする。
それは真璃亜も同じのようだった。
その時間を共有する。
しかし。
「日向先輩、小野さん!時間です」
ステージ進行の係がそう声をかけた。
「俺の最後の舞台だ。よく聴いていてくれ」
「はい……!」
俺の心はいつでもお前と共に在る。
その覚悟を決めるように、俺は真璃亜を伴い、光の下へと歩いて行く。
それは、俺たちの輝かしい未来を祝福するかのように盛大な拍手で迎え入れられ、俺はストラディヴァリウスを構えた。