上
ビルの玄関ロビーで守衛に声をかけられた。
「ロドリゲスさん、お疲れ様です!いやいや、この前はありがとうございました。息子も大層はしゃいじゃって、それはもう・・・」
それに笑い返したつもりの俺の顔は、この男の目にはどう写っただろうか。
そして、「こんな俺でも誰かを笑顔にしたことがあったのか」と思った。
玄関ロビーから眺める自動ドアの向こうは既に暗く、こちらに背を向けて立っているメガネの姿だけがぼんやりと浮き上がって見えた。
「どうしたものか・・・」
先程までの姿が自分本来の姿だと思っていたので、このような自分の姿にいまだ違和感がある。心と体が乖離している様は『まるで着ぐるみをきているよう』だ。今の状態でメガネにどう接すればいいのか、全くわからなかった。
「蝶や蝉も羽化したての頃はこんな気持なんだろうか」
そんなことを考えながら自動ドアの前でもじもじしていると、急にメガネが振り返りこちらに気づいた。
「遅かったね。何かあったの?」
「ええ、まあ」
俺の返答が可笑しかったのか、メガネはまた軽く笑った。
「早く帰ろうか。まだ調子悪そうだし」
歩きだすメガネにつられるように、俺もゆっくりと歩きはじめた。そして、立ち並ぶ店のショーウインドウに映る自分の姿を見た。
それは長髪の美少年でも銀髪の美少女でもなかった。
年齢はメガネと同じくらい、おそらく20代前半だろうか。その年代の男の平均値という感じの、もし集合写真を撮ったら自分が何処にいるのかわからなくなるような、これが無個性の象徴ですと言われたら誰もが納得するぐらいの、それは紛れもなく「ただの男」だった。その顔からは、狂気も正気も、憎しみも慈愛も、喜びも悲しみも、なんの感情も読み取れなかった。
「ロドリゲスはアノニマス」
「アノニマスには顔がない」
「顔がないのはロドリゲス」
さっきまで『俺』だったあの着ぐるみ、そして相方のメガネによって自分が成り立っているような感覚に囚われたまま、俺は即興で適当に作った歌を口ずさんだ。
メガネと俺は地下鉄に乗って3駅目で下車し、それからまた歩いた。しばらくするとメガネは「いつも通り」という風にコンビニに寄った。カゴを手にし、350の缶ビール3本、納豆、卵の順に入れ、ふと俺の顔を見た。慌ててポケットを探ると1万円札が2枚、あと小銭がいくらか入っている。記憶喪失前の俺は財布を持ち歩かない主義だったのかもしれない。なんとなくメガネの真似をして、自分も雑な雰囲気の缶チューハイを3本選んだ。
レジで会計をしてると、ふと、メガネが俺に言った。
「あれっ。・・・いつものタバコ、買わないのかい?」
「タバコ?俺が、吸うの?」
「あ、うん」
会計を済ませた俺達はコンビニを出た。
先程の会話から何か考え事をしているかのように無言だったメガネが、大きめのマンションの前で立ち止まり、後ろをとぼとぼ歩いていた俺に振り返った。
「もしかして、本当に記憶が無いの!?」
「無いよ」
「ふざけてるのかと思ってた・・・いやいやいや、もっと焦ろうよ!!」
「とりあえず、今いちばん心配なのは『俺の家は何処なのか』ということ位か」
「ここ!!俺と一緒に住んでる!!」
そう言うとメガネは目の前のマンションを指差した。
「それなら良かった」
「良くないよ!!それ、記憶喪失だよ!!」
「正確に言うと、別の記憶ならある」
「なんだそれ!!」
「さっきから大きな声でぎゃあぎゃあうるさいよ。近所迷惑になるから中で話そう」
メガネの背中をぽんと叩いて自動ドアに向かった。
だが、玄関は開かなかった。どうやらオートロックらしい。
「すまない、これ開けてくれないか」
メガネは頭を抱えたまま、その場にしゃがみこんでいた。