第一王女の恐怖2
「お願い? 何だ、言ってみろ」
母の不躾な言葉に魔王の息子は鷹揚に応じる。
「ありがとうございます。実はリバークロス様に頂いたお部屋なのですが、有り難いことにとても広く、快適に過ごさせて頂いております」
「そうか、それはよかった」
「はい。ですが少しばかり広すぎるせいか、お恥ずかしながら掃除など行き届かないところが出ていますので、できれば従者を数人雇いたいと思うのですが、如何でしょうか?」
私は思わず天を仰ぎたくなった。母の考えが手に取るようにわかる。大方従者にかっこつけて少しでも盾の王国の民を救う気なのだろう。勿論私だってその手の交渉はするつもりではあった。でもそれは自分の立場がもっと明確になってからの話だ。
魔王の息子の中で私達がどの程度の価値を持っているのか? まずはそれを把握しなければ交渉も何もあったものではない。
確かに魔王の息子が何もしてこない現状、こちらからアクションを起こすのは一つの手だと思う。だがそれにしてもいきなり人を雇いたいはやりすぎだ。ここはもっと些細な要求を出してみて、それが通るかどうかを試すべきだろう。
勿論そんなことは母も分かっているのだろうが、王妃であった母は王女の私よりもずっと強く民に対して責任を感じていたのだろう。ぬるま湯のような現状に耐えきれなくなったのかもしれない。
「俺の部下を従者につけろと?」
母の要求を聞いてた魔王の息子にこれといった変化は見られない。その身から漏れ出る魔力も上級悪魔とは思えないほどに静かで、まるで波一つ立たない湖面のようだ。しかしコイツの場合は逆にそれが恐ろしい。なんというか、笑顔のままどんなことでもしそうな、そんな怖さがあるのだ。
「いいえ。魔族様方にそのようなことは。フルウ様にお願いして盾の王国時代の者達を何人か見つけてきてもらえればと考えております」
「そこまでして従者がほしいのか?」
私は全身から汗が吹き出すのを止められないでいた。魔王の息子次第では、そんなに広いのが嫌なら相応の場所に住まわしてやろうか? という類いの話になっても可笑しくないのだ。
「欲しいです。もちろん私にできることなら仰って頂ければどのようなことでも」
母は意味ありげに魔王の息子へと笑いかける。
正直母親の色仕掛けを見せられるのは娘として色々キツイ。でも、こうなった以上仕方ない。私にも王女であった者としての責務があるのだ。
私は震える体を止めるためにテーブルの下で拳を強く握りしめた。
「あの、リバークロス様。お恥ずかしながら私も従者が欲しいのですが」
魔王の息子の視線がこちらに向く。それに精々妖艶に見えるよう笑いかけてやった。それを見た魔王の息子はーー
「ぶはぁ!?」
紅茶を吹いた。…………は!? ……いや、は? え? 何? 何なのこいつ? この私が恥を忍んで色目を送ってやったってのに、まるで変顔を見せられたかのようなその反応は。つーかオーバーリアクションすぎるでしょうが!!
ブチリ。ここ最近溜まりに溜まったストレスがついに限界を迎えた。
「ちょっとアンタ!? いくらなんでも失礼でしょうが!!」
ドン! とテーブルを叩いて立ち上がる。魔王の息子は口元を押さえ肩を小刻みに揺らしている。どうやらツボに入ったようだ。
こ、こいつ殴りてー!
「いや、すまない。あまりにらしくないことをするから」
「はー? 意味わからないんですけど、アンタが私の何を知っているってのよ?」
「そうだな。確かに何も知らないな」
そこで黒金の瞳が私を見つめる。友好的な成分しか含んでいないはずのその視線に、しかし私の全身の血の気が一気に引いた。
「あっ、その、えっと」
ヤバイ。ヤバイ。私としたことが……やってしまった。
「リバークロス様。娘の無礼をどうかお許しください」
母が頭を下げる。魔王の息子は気にしていないのか、何でもないことのように肩をすくめて見せた。
「別にいいが、その代わり俺の頼みも聞いてくれないか?」
「なんなりと」
「お待ちください。罰なら私に…」
「別に罰じゃない。あと口調、直さなくても俺は構わないぞ?」
そんなこと言われても、ハイそうですかとタメ口で話せるはずがなかった。
「今から人と会わすが、そいつらの言う話を訂正するな。それだけだ」
「……分かりました」
魔王の要求は意味不明だったが、母は質問することなく頷いた。どうしよう。意味はわからないがとにかく私のせいだ。うう、胃が痛い。もう、ホント何なのよこの状況は?
「よし、じゃあ二人とも、悪いがこっちに来てもらうぞ」
「え? きゃ!?」
私と母が腰掛けている椅子が勝手に浮いて、魔王の息子の横まで丁寧に運ばれる。今までこんな近くでこの男を見たことはなかったが、人間とは根本的に違うその美貌に不覚にも一瞬だけ見とれてしまった。
「少し我慢しろよ」
「ちょ!?」
突然、魔王の息子が母の体に身を寄せた。驚く私に構わずそのまま魔王の息子は母の首筋に口付けをしていく。よほど強く吸い付いているのか、母の白い肌に口づけの跡がハッキリと残っていく。
母は毅然とした態度を崩そうとしないが、娘である私には母の強張りが目に見えて理解できた。ああ、どうかお願いです神様。今すぐこの場に隕石でも落として、この色ぼけ悪魔をぶっ殺してください。
魔王の息子は一旦母から体を離すと、自分が母の体に残した跡を見て満足そうに頷いた。
終わった? 何だ、その程度で済むのなら……などと安堵できたのは、しかし一瞬だけだった。
「よし、後は…」
母の肩に腕を回した魔王の息子の手が、母の服の中へと侵入する。
「……ん」
無言を貫いていた母の口から初めて声が漏れた。無遠慮に胸を弄られても母は一切抵抗せず、されるがままだ。いや抵抗するわけにはいかないのだ。私も母もこうなることは覚悟していた。だが、まさか、その、……ここで最後まで?
私が息を呑んでいる間も、魔王の息子は構わず母の体をまさぐる。母の着衣があられもなく乱れていき、やがてその体は魔王の膝の上へと移される。
ああ、今すぐ空間に穴でも開いて、その穴にこの悪魔がゴミのように落ちていかないかしら。
「そろそろ良いぞ。連れて来い」
魔王の息子の言葉で悪魔のメイドが部屋から退出。私は思わず拳を握りしめた。この場に更に誰かつれてくる? 何て最低な奴なの。いや、怒ってはダメよ。覚悟よ。覚悟を決めるのよ、私。
心臓が今までに無いくらいに五月蝿い。連れてこられるのがゲスな男共とかならどうしよう? 盾の王国の第一王女として毅然とした態度を貫けるだろうか?
いや、もうそんなことは気にする必要は無いのか。
様々な不安が妄想となって脳内で錯綜する中、連れてこられたのは……フルウ? いや違う。フルウが連れてきたのだ。誰を? あれはーー
「婆や?」
そこにいたのはメイド長兼、私の教育係であった婆やとその部下二人だった。
「王妃様。姫様」
私の顔を見るなりフルウを追い越して早足でこちらに近づいてくる婆や、私は自分の立場も忘れて思わずそんな婆やへと駆け寄った。
「婆や。本当に婆やなのね。ああ、良かった」
抱きしめたその体は随分とやせたように思えるが、それでも五体満足の婆やとこうしてまた会えるなんて思ってもみなかった。
「姫様、お元気そうで」
「うん。元気。私は元気よ。でも婆やはどうして?」
こういってはなんだが、高齢の婆やは捕虜としての価値が低い。魔王城に連れてこられ、離れ離れにさせられたときは、もう二度と会うことはないだろうと覚悟していた。
私の質問に何故か婆やは中々答えようとはしなかった。
「婆や?」
「……王妃様」
婆やは母を見ていたのだ。拙い。振り返ってみれば母は魔王の息子に抱かれたままの姿で、着衣は乱れ、その体には口づけの跡がハッキリと残っている。
その姿だけを見るならどうみてもーー
「あの、婆や? その、これは…」
母の名誉を何とか守ろうと咄嗟に言い訳を考えるが、しかしそもそも言い訳する必要があるのだろうか? 確かに今はまだ未遂ではあるが、この先どうなるかは完全に魔王の息子次第だ。何よりも盾の王国の国民を少しでも救おうと思えば、私達には資本となるものは最早この体以外に無いのだ。
ならば遅いか早いかの違いでしかないだろう。
しかしそれでも幼い時から面倒を見てもらった婆やに、悪魔に体を売った淫売として軽蔑されるのは中々にキツイものがあった。
そんな私の不安が伝わったのか、婆やは力強く頷いた。
「わかっております。この婆や、王妃様方の覚悟に泥を塗ったりは決して致しません」
そういうと婆やは魔王の息子の前まで行き、額を地面にこすりつけるようにして頭を下げた。婆やの部下もそれに続く。
「お初にお目に掛かります。偉大なる王の子よ。このたびは敵である我々に格別のご配慮。感謝の言葉もありません」
「お前達のことなどどうでも良い。俺はこの女を手に入れるための条件を呑んでやっただけだ。つまらんことをすれば容赦なく殺す。分かっているな?」
魔王の息子は私達に対するのとはまるで違う冷たい声でそう言うと、これ見よがしに母の頬に舌を這わせた。
「存じております。決して魔族様方にご迷惑をおかけしたりはいたしません」
「ならいい。行け。用があるならフルウに言えば大抵のことは叶えられる。だが調子に乗れば皆殺しだ。他の連中にも言い含めておけ」
他の連中? その言葉に私と母は思わず顔を見合わせた。どういうこと? もしかして? いけないとは思いつつも、その言葉に期待を抱かずにはいられない。
今すぐに魔王の息子にどういうことなのかと問いただしたかった。でもここで魔王の息子の機嫌を損ねるわけにはいかない。出かかった言葉をグッと堪える。
「ハッ。では失礼します」
婆やと部下達は私と母にも頭を下げると、来たとき同様フルウに連れられて部屋から出て行った。
悪魔のメイドが黒の魔力石が入った紅茶を魔王の息子の前に出す。ほんの僅かな、でも私にはとても長く感じられる沈黙。魔王の息子がティーカップを置いた。
「というわけだ。良かったな。従者ならちょうど居るぞ」
そう言って魔王の息子はようやく母を解放した。婆やがいなくなっても暫く揉んでいたので、やっぱり最後までやるつもりなんじゃないのかと緊張したが、そういうわけではなさそうだ。
「あの、リバークロス様。これは?」
乱れた服を整える母。その顔には隠しきれない戸惑いが浮かんでいた。
「お前達へのプレゼントだ。大体千人くらいか? 盾の王国の住民を保護した。喜んでくれるなら俺としても嬉しい」
「それは……本当に?」
母の目に涙が浮かぶ。もしもここで嘘だ。とか言われでもしたら、絶対に勝てないと分かっていても私はこの悪魔を殺そうとするかもしれない。
「本当だ。この階の一角に盾の国民専用の部屋を作った。空間をいじってあるので千人くらいなら余裕で暮らせるはずだ」
「そ、そこまで?」
驚きのあまり、私はまた敬語を忘れる。魔王の息子はやはり気にした素振りを見せない。
「ちなみに盾の王国の者達にはお前達が俺のモノになる条件として助けたことになっている。そういう風に振る舞えよ」
その言葉は色々な意味で衝撃だった。
まず魔王の息子が明らかに私達の立場を気遣っているとしか思えない点。
王族とはいえ負けた以上私達に負の感情を持つ者は決して少なくはないだろう。だが私達が自分を犠牲にして国民の保護を求めたとなれば、全員とはいわずとも怒りが少なからず緩和される者も出てくるだろう。
そしてもう一つ、魔王の息子はそういう風に振る舞えと言った。それはつまり魔王の息子は少なくとも現段階で私達をどうこうするつもりが無いということだろう。
ハッキリ言ってどれもこれも私達に都合がよすぎで逆に怖い。まるで初対面の人間に親友のように振る舞われているかのような、そんな不気味さがあった。
「何故、そこまでしてくださるのですか?」
母も似たような気持ちなのだろう。不安そうな面持ちで問いかける。それに対して魔王の息子は首を傾げて見せた。
「理由? そうだな。……感傷と好意だ」
それは意味の分からない言葉だった。敵国の会ったこともない人間に悪魔が感傷と好意? まだ体目的と言われた方が納得できる。いや、果たしてそう言われても本当に納得などできるだろうか?
私は魔王の息子の後ろに立っている護衛の悪魔に目を向ける。
帝国で採用されている軍帽と軍服によく似た服を着た黒髪黒目の美女。天族様もそうだが、上級魔族ともなればその存在感は人間とは比べものにならない。ただ美女が欲しいというだけならわざわざ人間などに目をつけなくても、魔王の息子ともなればそれこそ選り取り見取りだろう。
やはりゲームか何かなのだろうか? 例えば人間に優しくしてその後で絶望に突き落とすとか。
いかにも悪魔がやりそうなことだが、しかし天族様方との戦いが激化しているはずのこの情勢下で、魔王の息子がそこまで手間の掛かった遊びをするだろうか?
千人という話が本当なら、それはいかに魔王の息子といえども片手間に養える人数ではないと思うのだが。
……分からない。だからこそ嬉しいはずのこの状況が素直に喜べない。無邪気に喜んでしまった後、悪魔が嬉々として私達を絶望に突き落とすのではないかと不安になるのだ。
そんな風に悩んでいるとーー
「あー。お母さん? お姉ちゃんもいる!?」
「イリア?」
無邪気なその声に振り返ってみれば、まさかの妹の登場に目を見開く。堕天使に気に入られ、最近よく堕天使の部屋と与えられた部屋を往き来しているらしいが、まさかこんな所まで来ていたなんて。
「イリア。お姉ちゃん達お話してるから部屋に戻ってなさい」
妹を出来るだけ魔王の息子から遠ざけたくて言った言葉だったが、まだ幼い妹には通じなかったようだ。
「えー? だってここに来たらお兄ちゃんが外に連れていってくれるって約束したもん」
「鬼ちゃん?」
いや、ひょっとしてお兄ちゃんだろうか? え? いや、ちょ!? この場にいる男って……まさか!?
私は恐る恐る魔王の息子の様子を窺った。
「もうそんな時間か。外出の準備はできてるのか?」
奴はイリアへと笑いかけた。
「できてるー。ねぇ、ねぇ、お兄ちゃん。私、お母さんとお姉ちゃんも一緒がいい。良いでしょ?」
恐ろしいことにイリアの奴、自分から魔王の息子に駆け寄ると、そのまま魔王の息子の膝の上に腰掛けてしまった。
ちょっと!? そいつは人間を滅ぼすかもしれない魔王の息子なのよ!? アンタ仮にも盾の王国の元王女でしょうが。そんな化物の上で寛いでるんじゃないわよ。
つーか、魔王の息子も魔王の息子よ。何いイリアの頭なんか撫でちゃったりしてるわけ? その子は私の妹なんだから、間違って握り潰したりでもしたら承知しないわよ。
「俺は構わないぞ。お前達はどうだ?」
「え? いや、どうって言われても……」
しまった。頭の中で魔王の息子をボコっていたから反応が遅れた。
「勿論です、リバークロス様。是非ご一緒させてくださいな」
さすがは母。ナイスファローだ。私も慌てて精神を建て直す。平常心、平常心を取り戻すのよ、私。……よしいける。
「喜んでお供しますわ」
私は必死に余所行きの笑顔を取り繕う。しかし完璧なはずのその笑みを見た魔王の息子はーー
「あいつ、以外と愛想笑い下手だよな」
「お姉ちゃんへたくそー」
ま、魔王の息子、殴りてー!
そうして噴火寸前の怒りと戦いながら、私は魔王の息子と一日出掛けることに。最初はビクビク警戒していたがイリアの我儘を可能な範囲で叶える魔王の息子を見ていると、警戒するのが段々とバカらしくなってきた。
最後の方なんかは私もつい久方ぶりの外出を満喫してしまったくらいだ。
「なんなのよ、これ。訳分かんない」
夜、私はベットに入ると思わず愚痴っていた。
あの悪魔は人類の敵なのだ。盾の王国が崩壊した日のことを思い出す。憎しみは消えない。できることなら今すぐ毒でも盛ってやりたいくらいだ。
だが、だがそれでもここまで良くされると好意染みたものを感じてしまうのが人情というものだろう。第一、盾の王国を滅ぼしたのは魔王であって、別に魔王の息子では……。
「違う! 千人が何よ。それ以上の人が死んでるのよ? 私達は何も…何も…」
脳裏に浮かぶのは弄ばれた獣人達の末路。それに比べて今の私達はーー
「やだ。怖い。怖いわ」
ベットの中で猫のように丸まり、必死に自分の体を抱き締める。
いつか全部忘れてあの悪魔の横で笑っている。そんな未来が来てしまいそうで。何よりもそんな未来を思い描いてしまう自分自身の無神経さが、今はただただ恐ろしかった。