動き出す超越者達1
『時』が震えるのを感じた。幼く、でもとても強い『時』が。
どこか遠くで静謐だけが支配する私の世界に介入できる存在の誕生を感知したのだ。それはつまり四番目の超越者級が誕生したということ。その事実に私はーー。
「エイナリンお姉ちゃん。どうしたの?」
同じ湯に浸かっていた小さき者が不思議そうに小首を傾げて私を見上げてくる。私は顔の筋肉を動かし『笑み』と呼ばれる表情を作ってみせた。勿論間延びした喋り方も忘れない。
「ん~。それがですね~。ちょっとうちのお坊っちゃまが面白いことになってまして~。そっちに気をとられていました~」
「強いお兄ちゃんに何かあったの?」
「どうやら更に強くなったようですよ~。いや~子供の成長は驚くほど早いですね~」
「ええ!? 凄い。凄い」
嬉しそうにはしゃぐ小さき者。何が嬉しいのかは全く分からないが、嬉しいならきっとそれに越したことはないのだろう。
私は優しく見えるはずの表情を作って見せると、小さき者の頭を撫でてやる。それに小さき者は、
「えへへ」
とくすぐったそうな、あるいは嬉しそうな声を出した。可愛らしいと思われる小さき者のそんな反応を見ても、やはり私は何も思わない。何も感じない。ただ思い出すだけだ。
昔周りに言われて小さき者を育てたことがあった。私が育てたからか、あるいはその小さき者が特別だったからか、小さき者は成長し多少の力を持った。それから色々あって結果として小さき者は死んでしまったが、その死の際にほんの少しだけ感情……と呼ばれるモノを感じた。
生まれて初めて感じる制御できないさざ波。胸の内に広がる青い海を連想させるその音をもう一度感じてみたくて、こうして小さき者を拾っては育てているが中々に上手くいかない。
「お坊っちゃまは確かに強くなりましたけど~、何やら色々ときな臭そうなので、少し手伝いに行ってやることにしますー」
「強いお兄ちゃんを助けにいくの?」
「ん~。お坊っちゃまはどうでもいいんですけどー。アクエロちゃんがいますからねー」
いつものように適当な嘘をつく。縁があってあの娘に執着するふりをしているが、今のところあの娘に対して感じるものは特にない。他の小さき者達と一緒だ。興味とか関心とか、ましてや愛情などと呼ばれる類いの感情は何一つとして発生していないのだ。
そしてその事をあの娘は知っている。私が本当は誰に対しても、何に対しても何の感情も抱けないことを知って、しかしだからこそあの娘は私のことを好いている。
どうやっても得られないモノを求めて必死になっている私を見て、凄い凄いと笑っているのだ。
結果として好かれてはいるが、例え嫌われたとしてもやはり私は何も思わないだろうし、なにも感じないだろう。理性だけが存在する時が止まったような静謐。それが私が生きている世界。
湯船から出ると小さき者が私の裸体を見て声をあげた。特に珍しい反応でもないので、あらかじめ決めておいたパターンの一つを選択する。
「フフン。私のナイスバディに見とれちゃいましたかー?」
「うん。エイナリンお姉様凄く綺麗」
「当然です~。私の美貌を存分に見ると良いですよ~」
適当なポーズを取って裸体をこれ見よがしに見せつけてみる。すると小さき者は大いにはしゃいだ。
「うわ~。凄い。凄い。こう? こう?」
「チッチッチ、です~。私の真似をしようなんて千年早いですよ~」
「え~? 私もエイナリンお姉様みたいになりたい~」
「私のようにですか~?」
「うん。だってエイナリンお姉様綺麗で強いんだもの。私の憧れ。ねえねえ。私もエイナリンお姉様みたいなれるかな?」
「さぁ、それは分かりませんけど~。私だって結構苦労してるんですよ~」
「え~。例えば?」
「例えばですね~。道を歩くたびに私のあまりの美貌に目がくらんだ野郎共の視線が鬱陶しかったり~。まあとにかく色々ですよ~」
実際は生物としての本能が働くのか、私に直接性欲を向けてくる者は少ない。長い生の中でもひょっとすれば両手の指で数えられるかもしれない程だ。大抵の者は私の体を見たらこの小さき者のように呆けた顔でただ見とれるか、あるいは何処か恐れるように視線を逸らすかだ。
そういえば同種の子供は直接性欲を向けてきた数少ない一人だったなと、そんなどうでもいい思考が浮かんだ。
「さて、無駄話はこれくらいにしてそろそろ行きますかねー。もしも~し。誰かいますかー?」
「はい。エイナリンお姉さま。ご用でしょうか」
呼ぶとすぐに私の近衛を自称する者の一魔がやって来た。育て始めた頃はもっと嫌々だったり冷めた反応の者が多かったのだが、何度もやっているうちにコツが分かり、今ではすっかりと懐かれ易くなった。
「私はちょっと出てきます~。この子の面倒を見ていてあげてくださいねー」
そう言って同じ湯に浸かっていた小さき者達の中でも殊更に小さな者の頭を優しく撫でてやる。確かこの小さき者は第二王女とか大層な身分を持っていた気がするが、結局は他の者と一緒で見分けがつきにくい。一応は育ててみるが、この小さき者が私に何らかの感情を発生させるのは難しそうだ。
指を鳴らす。それだけで着替えは終わり、私の姿を見た自称近衛が声をあげる。
「え、エイナリンお姉さま。そのお姿は!?」
「ん~? あーこれですかー? ちょっと戦いになる予感がするので念のためですー」
私が空間魔法で取り出したのは白銀の鎧と二対の剣だった。武器や防具を装備して戦いに赴くのは一体どれくらいぶりだろうか? この世界で始めて出会った超越者級である魔王との戦い以来だから実に二百年ぶりか。
考えているとまた遠くで世界が大きく揺れた。
「盛り上がっているみたいですね~」
感じる。その戦場にはきっと私の命でさえ脅かす何かが現れると。あるいは私にとっての死地となりかねない。そんな気配がするのだ。
久しぶりに味わう死の予感。だが、そんなものは心底からどうでもよかった。
生まれた時からずっと、全てを理性でコントロールできた。感情などと言う騒音は私の世界には存在しなかった。完全に制御された私の世界。それが今日はこんなにも騒がしい。
この騒がしい波に触れていれば、私の内側にも伝播してくれるのだろうか? 試してみたい。試してみよう。私はそう考えた。そしてそう考えたのはこの騒音を出している一魔が長年目をかけてきたあの娘だからか、あるいはーー。
脳裏に形だけの主の姿が浮かぶ。あるいはあの子こそが私に感情を教えてくれる者なのだろうか? 私にあるのは思考だけ。期待というあやふやな感情はない。だからこそ可能性があるのならば試してみようと考える。
「そのためにもお坊ちゃまにここで死んで貰うわけにはいかないんですよね~」
もう一度、あの日感じた感情を味わうために。本当はその事さえどうでもいいと考えているのではと自分自身に疑問を抱きながら、私は漆黒に染まった翼を広げた。