無力感
「はい。はい。そこまでです~」
睨み合う一魔と二魔。何処までも高まり続ける魔力と戦意。その極限の状態が破れるその直前、場にそぐわない間延びした声が止めに入った。
「……エイナリン」
アクエロが抑揚のない声で突然の乱入者の名前を呼んだ。それと同時に声なき殺気が、殺気が、殺気が、周囲からたった一人の堕天使めがけて突き刺さる。
俺に向けられていた王の殺気すらエイナリンの方へと向けられた。その過剰すぎるほどの反応はまるで魔王の対極のようだと思った。嫌われすぎて、嫌われすぎて、そのせいでもっとも慕われている者と同等か、あるいはそれ以上の関心を意図せず集めている。誰も彼もが彼女から目を離せない。
魔族の中においてすら異端、最強の堕天使が試練の間へと降り立った。
心のどこかでエイナリンの介入を期待してなかったと言えば嘘になる。だが同時に恐れてもいた。果たして彼女はどちらにつくのだろうか? いや、どちらに付くかなど彼女を知る者なら分かりきっていることだ。問題はもしそうなった場合、エイナリンが何処までやるつもりかと言うことだろう。
エイナリンの力が並外れていることはこの十年で嫌と言うほど思い知らされている。もしも敵に回るなら厄介……いや、違う。違うぞ俺。自分を誤魔化すのはやめろ。今だ微かに世界との繋がりを維持している今だからこそ分かる。目の前の存在の途方もなさが。
何だあれ? 何だあれ? 何だあれ?
光だ。世界を覆い尽くさんばかりの巨大な十二枚の翼。その規模、密度。底が知れないにも程がある。……格が違う。魔将よりも、王よりも、この存在は並外れすぎている。
体が自然と震えた。それはまるで無力な一個人が自然の猛威に直面したかのような痺れるような恐怖。その中に混じる微かな感動。そんな戦きが俺の全身を駆け抜けた。そして同時に納得もした。これだからこそ、これだからこそ許されているのだ。元敵側、それも恐らくはもっとも魔族に仇なしたと思われる一人でありながら、魔族の本拠地で好き放題する堕天使。
始めはこの世界がもっと温いのではと期待もしていた。戦争はあっても明文化されたルールか何かがあり、悲劇は最小限に留められている。だからこそエイナリンのような存在が許されているのではと、そう考えていた。……検討違いもいいところだ。
エイナリンと言う堕天使が好き放題できる理由? 単純に強い。それだけだ。あまりにも単純でそして限りなく不可能に近い、それはまるで子供の妄想じみた根拠。それを現実にまで昇華させて今この堕天使はここに居るのだ。
そして他の多くの魔族と同じように俺も舞い降りた堕天使に目を奪われる。そんな中エイナリンの瞳は周囲のあらゆるものを意に介さず、ただ一人の悪魔だけを映していた。
エイナリンが笑う。困ったように、あるいは愛おしそうに。波打つような金色の髪が静かに揺れていた。
「まったくアクエロちゃんたら当初の目的を忘れすぎです~。自分が戦って勝つだけではつまらないから、喜びを分かち合える誰かを育てるんじゃなかったんですか~? アクエロちゃんが戦ったら結局今までと同じですよー?」
そう言ってエイナリンはアクエロの額を優しく指で突く。……何だろうか? 見ていて非常に面白くない。そう感じるこの感情がなんなのか、自分でも判断することはできなかった。
アクエロがいつもの無表情で淡々と応える。
「物事は必ずしも思い取りにはいかないもの。リバークロスが私の制御を離れた今、私が戦うしか道はない」
「何言ってるんですか~。昔から言っているでしょ? そう言うときは引けば良いんですよ、引けば~」
「そんな中途半端は嫌い。賽は投げられた。後は突き進むのみ」
グッと握った拳に力を込めるアクエロ。エイナリンはそれは違うだろうと言わんばかりに手を小さく左右に振った。
「いやいやー。もっと柔軟になってくださいよー。臨機応変万歳ですー」
「意味不明。そして断る」
「がーん。ショックです~。アクエロちゃんの反抗期が胸に突き刺さります~」
胸を押さえたエイナリンはアクエロから少しだけ距離を取るとシクシクと嘘くさ過ぎる泣き真似を始めた。
「シクシク……チラ。シクシク……チラ。シクシク…」
うぜー。エイナリンの奴、泣き真似をしてはアクエロに構って欲しいとばかりに視線を向けやがる。アクエロはアクエロでそんなエイナリンを冷ややかに見つめるだけで何も言わない。
当然緊張感など一瞬で霧散する。かといって事態が収まったわけではない。エイナリンと手を叩いて爆笑している魔王を除く全ての者に奇妙な沈黙が訪れた。
兄さんも姉さんも動かない。当然だ。エイナリンという超級の危険物を前にうかつな行動を取るのはただのは命知らずか、あるいはただの馬鹿だけだ。
やがて気がすんだのか、泣き真似を止めたエイナリンは顔を上げケロリとした表情を見せた。
「ま~、それなら仕方ないですね。お願いではなく命令することにします。いいですか~? 一度しか言わないですよアクエロちゃん。今回は引きなさい」
弛緩した場にようやく重さが戻ってくる。緊張感をありがたいと思ったのはひょっとすれば初めてかもしれない。何よりも嬉しいのは話を聞くにどうやらエイナリンと戦わずにすみそうだと言うことだろう。
「……断る」
返答までに間があったのは彼我の実力差を理解しているからか。そう、この場においてどちらが命令する側でどちらが命令される側かはハッキリしていた。それを実証するかのようにエイナリンの姿が消える。
「残念ながらそんな選択肢は存在しないのでした~」
そして次の瞬間にはエイナリンがアクエロの背後、ではなく周囲に複数現れていた。なんだあれ? 式…ではないな。単純な速さとも違う。あれは………スキルか?
俺は時間に干渉するエイナリンの無茶苦茶なスキルを思い出す。スキルーー『在りし日の残骸』
時間とは言わばエネルギーの移動だ。俺達が網膜で捉えるモノはかつてその物体が移動した残滓でしかない。それは距離があればあるだけより鮮明となる。だが見る者にとってその残滓は紛れもない今動き、今触れられる、確かにそこにある現実だ。
そのリアルがどんどん増える。まるで残像が何時までたっても次の時間に到達できない結果、実体を持ってしまったかのように沢山のエイナリンがアクエロを取り囲んだ。
「スキルは体術と同じてす~。一つの使い方に満足せずに色々と工夫することで面白いことがたくさんできますよ。さあ、アクエロちゃん。私の残骸を倒せますかー?」
「はあぁああ!!」
エイナリンの挑発に応じるようにアクエロの気が爆発した。アクエロの額から角が飛び出し両足が倍以上に膨れ上がった。
「スキル『旋風』」
左足を軸にまるでバレリーナのように回転しながら蹴りを放つアクエロ。体内で練られた気が刃物のような鋭さをアクエロの蹴りへと与えるのが分かった。
エイナリンの首が飛んだ。エイナリンの首が飛んだ。エイナリンの首が飛んだ。エナイリンの首がーー
「おー。パチパチ~。凄いですー。私の残骸を三体も消すなんて新記録じゃないですか~。子供の成長とはいつ見ても嬉しくもあり、寂しくもあるものですね~」
気づけばエイナリンは一人だった。たった一人のエナイリンが後ろからアクエロを抱き締めていた。
「くっ、エイナリン」
「はい。お休みですー」
エイナリンがアクエロの頬にキスをする。するとあっという間にアクエロは意識を失いその場に崩れ落ちた。そんなアクエロをしっかりと抱き止めるエイナリン。
「私は貴方に生き急いで欲しくないというのに、どうしてこうなるのかしら? 本当に、…上手くいかないものね」
いつもの飄々とした雰囲気はそこにはなく、幼い頃エイナリンの階層で見た画像。背景を黒く塗り潰された画の中に居た淑女然とした女性の姿がそこにはあった。
女性は愛おしそうに意識を失ったアクエロの頬をなでる。それが原因……かは分からないが、今まで黙って成り行きを見ていた姉さんがついにキレた。
「ちょっと、エイナリン。いくら貴方でも横槍が過ぎると言うものですわよ」
俺は僅かに取り戻した体力を練って何とか立ち上がる。エイナリンがどういう行動に出るか分からない以上休んでなどいられない。勝てるとは思わないが姉さんは何としても守ってみせる。
だが俺の心配は杞憂に終わったようだ。アクエロだけを注視していたその視線を上げたとき、そこに居たのはいつものエイナリンだった。
「イヤですね~、怒らないでくださいよ。お嬢様は笑顔の方が素敵ですよ~。お詫びに今度時間作って遊んであげますから、ほら笑って、笑って~」
「そ、そんな条件で私が引くとでも思ってますの?」
とか言いつつも、姉さんの体から戦意が急速に抜けていく。俺の体からも気力が抜けそうになった。
「エグリナラシア」
「お、お兄様?」
兄さんが姉さんを下がらせ前へ出る。黄金の瞳がエイナリンの金色の瞳を正面から射ぬいた。
「何ですかー? レオリオン様。そんなに見つめられると私照れちゃいますよ~」
頬に手を当て首を左右に振るエイナリン。兄さんはそんなエイナリンにいつもの微笑を浮かべて右手の人差し指を立てて見せた。
「エイナリンさん。これは貸し一つ、だからね?」
「えー。そう言われると何だか無性に踏み倒したくなるんですけど、まぁ私は優しいですから借りといてあげましょうかね~。ただし返すかどうかは気分次第ですよー」
「それで構わないよ。どうやら僕達の出番はここまでのようだね」
兄さんが持っている魔王の弓が一瞬輝いたかと思えば、次の瞬間にはそれはブレスレットになっていた。
「え? そ、そんなお兄様。せめてこれでアクエロを一刺ししたいのですが」
そう言って未だに高温を維持したままの魔王の剣を掲げてみせる姉さん。一刺しとか言いつつも殺る気満々だな、あれは。
「気持ちは分かるけど、この後のことを決めるのは魔王様だよ」
そして俺達はほぼ同時に魔王を見上げた。
「おお。おお。妾の可愛いレオリオン。魔王様などと他人行儀は止めるがよい。何時ものようにママと呼んでもいいのじゃぞ」
また同じことを言ってる。何だろうか? ひょっとして魔王はママと呼ばれたがっているのだろうか? そう呼んでやった方の良いのだろうか?
「ではママ。この場をどう納めるのかお伺いしても?」
さすがは兄さん。まるで怯まずママ呼びを受け入れた。あの堂々とした姿勢は俺も見習わなければな。……いや、だがやはりママはないか?
「ふむ。なかなか暴れたものよな」
魔王のその言葉に周囲を見渡せば確かに試練の間は酷い在り様だった。部屋に施されていた幾重にも及ぶ結界はその殆どが機能を失っており、床にも壁にも大穴がいくつも開いている。
「ん?」
そこで俺は気付く、試練の間の端っこに身を寄せ合うようにして立つ人間達を。
「……無事だったか」
正直に言えば守る必要のあるその存在を俺はすっかりと忘れていた。悪いとは思うがあの戦闘の最中に会って一時間も経っていないような他人を気遣う余裕などどこにもなかったのだ。
だがら無事だったのは、まぁ喜ばしいことだろう。喜ばしいことではあるのだがーー
「よく耐えたな?」
首を捻る。ギンカもマーレもボロボロで今にも精魂尽き果てそうだが、五体満足の上、しっかりとそれぞれ息子と妹を守りきっている。その力を与える為の眷族化なのだからある意味では目論見通りなのだが、ここで起こった戦闘はいくら魔王の息子の眷族といえども、魔族の仲間入りを果たしたばかりの人間とエルフが耐えきれるレベルではなかったはずだ。ハッキリ言って蒸発していないことが不思議でしょうがない。
疑念に突き動かされ自然と俺は目を凝らしていた。すると気付く。
「……風?」
マーレ達を守るように風が渦を巻いていることを。上位魔族の超感覚を駆使してようやく気付くかどうかの、それは風の強度から考えると信じられない程静かで完璧な構成で出来た魔法だった。その風を辿った先にはーー
「シャールエルナール」
俺の視線に気付いたシャールエルナールは気まづそうに軍帽を深く被りその美貌を隠した。恐らくは俺をアクエロごと殺そうとしたことを気に病んでいるのではないだろうか。
気にする必要はまったく無いのに。あれは未熟な俺と主にアクエロに問題があっただけで、シャールエルナールは当然の対応をしたまでだ。
そう思った俺はシャールエルナールに感謝を届けることにした。
「ありがとう」
俺は思念をシャールエルナールへと放った。するとシャールエルナールの頬が僅かに赤くなり、それを見た魔王が楽しそうに笑う。
「ふふ、良いな良いな。中々に面白い余興であった。本来ならこの後ドラゴンと戦わせるつもりであったが今更そんなモノを見せても興ざめになるだけじゃろうな」
「一つ聞くが悪魔王の娘についてはどうする気だ? 今に始まったことではないがあの娘の行動は目に余る。下手をすれば魔族全体に災いを呼ぶぞ。そうでなくともせめて小僧から引き離すべきではないか?」
魔王の態度から丸く収まるかと思えば、どうやらそう言うわけにはいかないようだ。
あれは確かエルディオンとか言う魔将だったな。チッ、余計なことを。もちろん俺としてもこのまま何もなしにアクエロを許すつもりはないが、あんな便利な悪魔を手放すつもりもなかった。今後取り扱いには今まで以上の注意が必要だろうが、勝手に取り上げられるのは困る。
「ふーむ。さて、どうするか。妾としては面白かったので特に気にしてはおらんのだが…」
「それでは示しがつかんじゃろうが」
直接声を出しているのはエルディオン一人だが、魔王の元に幾つもの思念が届いているのが魔力の流れで分かった。内容まではさすがに分からないが何となくそれはエルディオンに賛同しているように思えた。シャールエルナールは目を閉じ沈黙を貫いている。この流れは……不味いか?
「あー、それなんですけどー」
そんな時だった、エイナリンが手を上げたのは。再び全員の注目が堕天使に向けられる。エイナリンは言った。
「実はアクエロちゃんは私の指示でああいう行動を取ったんですよー」
そんな分かりきった嘘を。
「ほう? どういうことじゃ?」
魔王はやはり楽しそうな顔で問いかける。しかし心なし浮かぶ笑みの種類が変わって見えた。どこか影があるような、そんな笑み。
「いえいえー。ほら魔王様の子供ってみんな凄いみたいに言われていますけどー。私の育てたアクエロちゃんの方が凄いって所を見せてあげたくなりましてー。だから今日のアクエロちゃんの行動の責任は全部私にあるんですよ-。マジめんごです~。軽く笑って許してくださいー」
エイナリンは手を合わせて小さく舌を出した。か、可愛い。……ハッ? 俺は何を?
エルディオンが呆れたような視線をエイナリンに向ける。
「翼よ、それを我らが信じると思っておるのか?」
「え~? それ何かの冗談ですか~?」
「何じゃと? それはどういう意味だ?」
「いえいえ~。だって今の言葉を信じられないでアクエロちゃんに濡れ衣を着せる困ったちゃん達が、まさか生きてここから出られるとでも思ってるんですか~? ハハ。マジ笑えます~」
ちょ、おまーー。危うく俺は声を出して突っ込むところだった。いや、あのままなら実際にそうしていただろう。そうしなかった、いや出来なかった理由はーー
殺気。殺気。殺気。殺気。ヤバい。ヤバい。ヤバい。ヤバい。何がヤバいって、王達がヤバい。メッチャ怒ってる。四方八方から比喩でも何でも無く物理的な威力を伴った殺意がエイナリンにぶつけられ、空間がその質量に負けて歪んでいく。歪んだ空間の中で、しかしエイナリンはいつもの微笑を浮かべていた。それは凄い、それは凄いがーー
勝てると思っているのか?
確かにエイナリンの力は各種族の王を超越しているだろう。だがそれはあくまでも一対一での話だ。極限の個と言うのは素晴らしい。魔術師としてその巨大な在り方には敬服する。だがそれでもやはり数は数と言うだけで力なのだ。ここに居る全ての王が力を合わせたそれをエイナリンがたった一人で超えられるとはとてもではないが思えなかった。
何よりもここにはーー
「ふふ。相変わらず剛毅よな。お主のそういう所、妾は好きじゃぞ」
エイナリンに負けず劣らない、もう一人の超越存在が居る。
「笑ってないで部下を宥めてくれませんかね~? 鬱陶しくて仕方ないんですけどー」
「知っておろう? 彼らは妾の大切な同胞。部下ではない」
「それじゃあ彼らの意を汲んで私と戦ろうって言うんですかー?」
「ふむ。そうじゃの。……それも一興かもしれんの」
ザワリ、と魔王のその一言で試練の間の空気が大きく変わった。今までの威嚇を前提にした敵意ではない。号令一つでいつでも死地へと飛びこむであろう、それは訓練され統率された軍魔の殺意。
「おいおい!? おいおい!?」
想像していなかった展開と想像を絶する魔達の威に理性が痺れ、俺の頭は戦場に初めて出る新兵のように真っ白になった。
「リバークロス。エイナリン。ここは不味い。離れるよ」
兄さんが場を刺激しないようにゆっくりとエイナリンから距離を取る。おいおい!? おいおい!?
「エイナリン」
姉さんがどこか哀しそうにエイナリンを見ている。その表情を見てパニクっている場合ではないと、ようやく俺は少し落ち着いた。
「くそ。…マジか」
しかし落ち着いたからと言って何が出来るというのか? 精々無意味な悪態を付いて、心の中で二人が戦わないことを祈るくらいが関の山だ。そんな自分が恨めしい。それは本当に久しぶりの、魔王の息子に転生してからは初めて味わう無力感だった。