ララオラとテオ
「ついに。ついに完成じゃ。やりましたぞ、ララオラ様」
人目も憚らずにはしゃぐ年老いた少年の姿に私の胸まで熱くなる。
「ご苦労でしたテオ。貴方の作ったこの機械人形は必ずやこの国を、いえ、この世界を守ってくれることでしょう」
まだ二百に届くかどうかの年齢でこれほどの偉業を成し遂げるとは、三種族が持つ可能性の一端、それを目撃できる瞬間が私はたまらなく好きだ。
「すべてはララオラ様を始めとした天族様方の助力があればこそ。これで哀れな孫に引導を渡してやることが出来るでしょう」
テオの孫はエルフの賢者として三種族の世界で名の知れた存在だったのですが、盾の王国の戦いで魔王が直接率いる魔王軍と戦い敗北。死亡したものと思われていましたが最近になって『色狂い』の手によって魔族へと落とされたことが判明した、なんとも哀れな娘。
息子のように接してきたテオの孫です。私としても何とか助けてやりたいとは思うのですが、ルシファ様と同じ超越者級である『色狂い』の眷族にさせられたのならば、悲しいことですがその心を救い、その身を清めてやることは最早叶わぬ望みでしょう。
「全てはララオラ様が貸してくださったこの疑似天魂のお陰ですじゃ」
私の申し訳ない気持ちを察してくれたのか、テオが話題を変える。
疑似天魂とはかつていらっしゃった偉大なる天才達、三十三天が作り出した天魂を模して作られた魔法具のことであり、天魂とは肉体という天然の器以外で魂を物質世界に留め、かつ魂の成長を促すことができる魂成長促進型貯蔵魔法具のこと。
疑似天魂は本来の天魂とは違い、魂の貯蔵や成長を目的としたものではなく、魂の力そのものをエネルギーに変換する魔法具。勿論魂を完全にエネルギーに変換するのですから自我を持つ生命体の魂を使うことを禁止し、代わりに大樹など植物の魂を使用します。魂の力を充電するのにかなり手間の掛かる儀式を用いる必要があるなど、まだまだ課題は多いのですが、発生できるエネルギーは他の魔法具に比べて桁違いです。
今まで何度もこの疑似天魂を使った機械人形の製作が天界で行われてきましたが、疑似天魂が生み出すエネルギーがあまりに強くて、起動と共に器が砕け散る場合が殆どでした。唯一の例外は三十三天の唯一の生き残りであらせられるサリエ様だけですが、そのサリエ様にしても採算がとれないと仰られ、疑似天魂を使った機械人形の制作を断念したようです。
故に疑似天魂を搭載した機械人形の製造は天族の間ではほぼ諦められていました。しかしそんな中、テオは疑似天魂のエネルギーに耐えられる器を作るのではなく、先ずは疑似天魂の出力を下げるところから始めたのです。それでは動かせてもせっかくの疑似天魂という強力な動力の強みが失われ、何の意味も無いと思われたのですが、なんとテオは衝撃やエネルギーを吸収する特性を持つ原初の土と呼ばれる稀少な物質を大量に生産するすべを作り出し、それらを材料にすることで成長する機械人形を作り上げて見せたのです。
機械人形の成長に合わせて少しずつ疑似天魂の出力を上げていくことで、小さな子供から大人へと成長していく生き物のように、やがては疑似天魂の力を完全に扱える機械人形が完成するのです。
泥から作られた成長する機械人形。それはいつの頃からか初めから完璧な物を作ることばかり邁進しだしていた私達天族が久しく忘れていた、成長を念頭に置いた見事な発想でした。
今はまだ、テオの類い稀な技術によってのみ生産が可能な状況ですが、この技術が確立すれば機械仕掛けの人形を再び作りだすことも、いや、更には大量生産できる可能性さえあるのです。もしもそれが実現したならば、この異種族間戦争は瞬く間に終わりを告げることでしょう。私達の勝利という福音と共に。
その為にもーー
「テオ。貴方は今すぐ転移魔法を使って第一等区に跳ぶのです」
「何を仰いますかララオラ様。儂は最後までララオラ様と戦いますぞ」
「聞きなさいテオ。確かに我々は疑似天魂に耐えうる機械人形の製作に成功しましたが、この機械人形の制作には貴方の存在が不可欠なのです」
原初の土から機械人形の部品を作るのはかなり高度な錬金技術が必要で、現状それが可能なのはテオだけです。勿論天族の優れた錬金術者に製法を教えれば再現は可能でしょうし、サリエ様にお伝えしたならば、私達などが思いもよらぬ方法で量産化が実現するかもしれません。しかしそれを今口にしてしまうとテオがこの国からの脱出を嫌がってしまうかもしれないので、悪いとは思いつつも黙っておくことにします。
私はテオの肩にそっと手を置きました。
「貴方の持つ技能は素晴らしい。しかしだからこそ貴方の戦場は前線ではないのです。研究室での奮闘こそが貴方の孫を魔族の手から解放する唯一にして確実な手段と知りなさい」
「しかし……儂は」
ほんの百年ほど前ならともかく、今ではすっかりと聞き分けがよくなったテオが、これだけ強く言っても難色を示すのは珍しい。いや、当然ですね。孫の……家族への想いが掛かっているのですから。しかしそれはこちらも同じこと。私はテオに頭を下げた。
「テオ、お願いです。私達だけの問題ではないのです。このとおりです」
天族の勝利を願う者として、何よりもテオの成長を見守り続けた一天の天族として、なんとしてもテオを逃がす。私はそう心に決めているのだ。
その想いが伝わってくれたのだろうか、短くない葛藤の後にテオは頷いてくれた。
「分かりました、ララオラ様。どうか頭をあげてくだされ。今更この老いぼれが最前線に出張ったところで天族様方の足を引っ張るだけでしょうし。何よりも不肖の孫の罪を償うまでは死ぬわけにはいきませんしな」
「ありがとうございます。しかしテオ? 老いぼれなどと、とんでもない。私から見たら貴方はまだまだ出合った頃のままですよ」
顔に皺が出来ようが、杖をついたその背が丸みを帯びようが、私にとってテオはいつまで経ってもヤンチャな少年のままだ。
「ハッハッハッ。やはり幾つになろうともララオラ様には敵いませんな」
「そんなことはありません。貴方ならいつかきっと……」
もっと偉大なことを為してくれる。そう思うのは期待のしすぎでしょうか?
(ララオラ様。魔王軍が、魔王軍がやって来ました)
部下であるアラシアからの緊急思念。私は素早く返事をします。
「想定していたよりも随分と早いですね。要塞都市でもっと準備を整えるものだと思っていましたが…。何か急ぐ理由が? ………アラシア。防衛システムを起動しなさい。私はやることをやったら前線に出て直接指揮を執ります。それまで頼みましたよ?」
(お、お任せください)
「さて、それではテオ、今からお前を第一等区に飛ばします。名残惜しいですが暫しのお別れです。今日までお前とこうして机を並べられたのは私の誇りです。向こうでもお前の活躍を期待してますよ」
「ら、ララオラ様。それはあまりにも、あまりにも勿体なきお言葉」
顔を涙でグシャグシャにするテオ。普段はとんがって見せたりもするこの子だが、何だかんだで涙もろく、情に厚い。でもそれ以上に賢い、少しだけ悲しい子だ。
「ふふ。偉業を成し遂げて少しばかり大きくなったと思っていたら、やはりテオはまだまだ子供ですね」
三種族の中ではあまりにも飛び抜けすぎたその知能。早く私以外の理解者を作って欲しいところですが、難しいのかもしれませんね。
「ララオラ様。儂は……、儂は……」
泣き続けるこの子を見ていたら不意にある衝動に襲われました。……テオの手前決して弱音は吐けませんが、相手は『殲滅』に『轟く者』、更には若くして超越者級に至ったあの『色狂い』です。
今日が今生の別れとなっても何もおかしくはありません。ならばこそ、いいでしょうか? この子を師としてではなく親として抱き締めてみても。
私はゆっくりとテオに手を伸ばしてみます。私の手が皺だらけのその顔に触れようとした、まさにその時でしたーー
パチパチ。パチパチ。そんな不粋な音が響き渡ったのは。
「誰です?」
久しぶりに不機嫌と言う名の感情を味わわせてくれたのは。もっとも、聞かずともこんなことをしそうな部下は限られていますが。
そうして私が頭の中で困った部下の姿を思い浮かべていると、彼女はまるでここに居るのが当然のように堂々とその姿を現しました。
「素晴らしい。素晴らしいわ。何て美しくプリティーな二人なのかしら。あっ、もちろんそこのララオラ君が天族って言うのは分かっているわよ? でもここはあえて二人、と表現するのが一番だと私のプリティー魂が囁くのよ。だって今の貴方たち本当の父と子みたいだもの。見てて感動しちゃった。私も見習わなくっちゃね」
そう言って女はニコリと、一見とても魅力的な笑みを浮かべました。肩の辺りで切り揃えられた赤茶色の髪、透明なレンズに隠された血のように紅い瞳。……ああ。我が師であり誉れ高き天将であらせられるトーラ様。どうかこの不詳の弟子をお許しください。
あまりにも、あまりにもあり得なさずぎるこの状況を前に、トーラ様の軍団長と言う地位にある身でありながらもこのララオラ、目の前の女性が一体何者なのか、危うく見逃してしまうところでした。
彼女は自分の正体を隠す気がないと言うのに。あんなにも、あんなにも堂々としているというのに。まるで道ですれ違う名も知らぬ同族を見送るような自然さで、彼女の存在を許容してしまうところでした。
信じられない。とても信じられませんが彼女はーー
「ば、バカな!? 悪魔、なのか?」
テオが後ろで驚愕の声を上げます。
悪魔。そう、目の前の女性はどこからどう見ても間違いようがないほど完璧に悪魔なのです。
彼女も全くそれを隠してはおりませんし、確認せずとも彼女の体から漏れる魔力が彼女が悪魔であることを雄弁に物語っています。しかし、しかし、………そんな馬鹿な!? 魔王軍が現れたと言う報告を受けたのはつい先程、恐らくまだ戦闘が始まってすらいないはずです。
なのにこれは一体どういうことでしょうか? まだ戦闘が激化しこちらの防衛能力が落ちた隙をついたというのなら理解は出来ます。しかし防衛機能がフル稼働しているこのララパルナ王国の最重要施設の一つに悪魔が堂々と侵入?
この事態が理解できない。この状況はあまりにもおかしすぎる。不自然……いや、そもそもこんなことは不可能だ。なのに、なのにーー
「ど、どうやってここまで来たのですか?」
いけない。悪魔を前に声が上擦ってしまっている。しっかりしろ私。守るべき息子が後ろに居るのだぞ。
「あっ嬉しいな。私の話聞いてくれるんだ? 本当はね、私もこんな無茶をする気はなかったのよ。だって侵入したのはいいけど、中に天将が五天以上いたり、ルシファ君や評議会のお年よりな方々が肩を並べて居座っていたりでもしたら、プリティーでか弱い私なんてひとたまりもないもの。ほんとムリプリ。後デンプリって感じよね」
それはつまり一天や二天の天将では問題ではないと言うことなのでしょうか? いや、まさか。そこまでの力を持った悪魔なら私が知らないはずがない。
目の前の悪魔の顔をもう一度見てみる。…………やはり知らない顔だ。いや……まて? この底知れぬ不気味な雰囲気。…………かつてどこかで?
私が記憶の迷宮をさ迷っていると、悪魔は変わらない気楽な態度で話を続けました。
「大体さー。何があっても動けるように、せっかくエイナリンの側に張り付いていたのに、うちの可愛さ余って憎さ百倍的な妹がいらないちょっかいをエイナリンにかけたせいで、珍しく大人しくしてくれていた彼女が私の制御を離れちゃったのよね。お陰でエイナリンの傍で推移をじっくり観察大作戦があえなく失敗よ。ほんと、頭来ちゃうわ。でもただ愚痴ってても仕方ない。だから細かいことにはこだわらないプリティーな私はさっさとプランBを発動することにしたんだぜ、プリティー」
私に向かってビシリと親指を立てて見せてきますが、特に攻撃の気配はありません。だからといって油断することなく、私は目の前の悪魔にばれないように念話を飛ばしました。
(アラシア。ヒョクレ。スマブラン。誰でも良い、応答をしなさい)
私だけではこの正体不明な悪魔は手に余る。そう判断して部下を呼ぼうとしたのですが、どうしたことか、つい先程話したアラシアも含めて何故か誰も応答しません。念話が阻害されている? いや、むしろこれはーー
私の背筋に言いようのない悪寒が走りました。悪魔はそんな私の顔をじっと見つめると不満そうに頬を膨らませます。
「ちょっと、ちょっと~。念話なんて飛ばしてないでここは、ぷ、プランBだと? なんだそれは? なんなんだよぉおおー!! ……とかなんとか驚いてくれるところでしょ? しっかりしてよね、ララオラ君。そんなんじゃ私、プリショック」
貧血を起こした人間のように額に手を当てる謎の悪魔。そのまま是非倒れて欲しいものなのですが、そういうわけにもいかないのでしょうね。
いえ、今はそれよりもーー
「私の部下に何かしたのですか?」
連絡がとれない部下達のことが気がかりです。どれだけ思念を放ってもまるで受ける相手がいないのかのように虚しく宙に霧散するだけ。これではまるでーー
いや、そんな馬鹿な。アラシアとは念話したのは本当についさっきです。幾らなんでもそれはない。あるはずがない。
内面で狼狽する私を見透かしているのか、悪魔は無邪気な少女のような笑みを浮かべました。そして照れ臭そうに後頭部を掻きながら言うのです。
「うん。殺っちゃいました。ごめんね」
そんな恐ろしい事実を。
「…………あ、貴方は、貴方は一体誰なのですか!?」
部下を殺された怒りは勿論あります。その熱量は凄まじく、今にも目の前の悪魔に飛びかかってしまいそうです。しかしそれをしなかったのは、同時にその怒りに負けないほどの恐怖があったからです。まるで底なしの沼に足を囚われたかのようなそんな感覚。
そもそも目の前の悪魔の話を信じるなら、彼女は単独でここまで侵入しただけではなく、私の部下を誰にも、私にすら気付かれることなく殺害したことになりますが、そんなことはあの『殲滅』や『色狂い』にだって出来ないでしょう。
それほどの異常な力の持ち主を天軍軍団長である私が知らない? そんなことがあり得るでしょうか? 魔力を視るに目の前の悪魔は確実に百歳は越えています。八百年を生きた私よりは年下に見えますが、これほどの離れ業をやってのける悪魔が二百も三百も生きていたら話に出て来ないはずがありません。
侵入はともかく部下の殺害は事実かどうか怪しいですね。やはり念話を妨害されているだけなのでしょうか? 私が多少期待の入った推測を考えていると、何故か悪魔は傷ついたような顔をしました。
「あー酷いな。まさかと思ったけど、本当に忘れているんだ? 私はララオラ君のことをちゃんと覚えてたのに、ララオラ君は私のこと綺麗さっぱり忘れちゃってるんだ。プリショック」
「それは私とは初対面ではない、と言うことで良いのですが?」
「そうだよ。初めてあったときララオラ君は生まれたての小鹿のようにプルプル震えてたじゃない。あんな目で見られて私なにげに悲しかったんだから反省してよね」
「中々面白い冗談ですが私が悪魔に怯えるはずがありません。いい加減なことを言うのは止めてもらいましょうか」
急速に頭が冷えていく感覚。私としたことが、どうやら何時の間にか悪魔のペースに乗せられていたようですね。しかしつまらないハッタリを入れたところを見るに、問答による相手の許可か、あるいは特定の精神状態に誘導する必要があるスキルを保有していると考えて良いでしょう。
特定の手順を必要とする儀式スキルは嵌まると厄介ですが、逆に言えば条件さえ満たさなければそれほど恐ろしいものでもありません。
私に手の内を暴かれたのが不満なのでしょう。悪魔は不機嫌そうに目を細めました。
「うわー。その目、完全に勘違いしてるでしょ? このプリティーな私がそんなみみっちいことするわけないでしょ。あのお馬鹿な妹と一緒にしないで欲しいんだけど。その為にも、ほら。このプリティーな顔をよく見て。見覚えがあるでしょ?」
私は素早く悪魔の顔ではなく、その全身に焦点を合わせました。
「まだ言いますか? 無駄です。誘導には掛かりませんよ」
「いや、だから違うって。もっとよく思い出してよね」
やはり思った通りですね。きっとこうやって会話からスキルを仕掛けるつもりなのでしょう。本来なら先制攻撃を仕掛けたいところですが、悪魔の戦闘能力が未知数な以上、今は背後にいるテオを逃がすことを最優先に考えべきでしょうね。
「うわー。完全に思い出すの諦めちゃってるよ。もう、今日は本当にプリショク」
悪魔が未だに道化を演じていますが無駄なことです。大体この私が悪魔を前に子鹿のように震えた? そんなことは後にも先にもたった一度、あの…………あの?……………………ま、まさか!?
「ひう!?」
その存在に思い当たった瞬間、私の全身は震えました。悪魔の言うとおり、生まれたての子鹿のようにただただ震えました。
そんな無様な私を見て、悪魔が心底から嬉しそうに手を叩きます。
「あー、その顔は思い出してくれたんだ。よかった。よかった。やっぱり敵対してるとは言え、忘れられると悲しいもんね」
「ば、馬鹿な? な、何故貴方がここに? それにその姿は?」
そうだ。道化を演じているから気付きませんでしたが、この得体の知れない雰囲気。姿こそ違うものの、出会った頃のあの悪魔そのものではありませんか。し、しかし何故? 何故この化物がここに?
「えー? 私って今までも結構重要な場面ではガンガン前に出てたと思うんだけど何か変? この姿はアイドルとしてのものよ。言わば私のもう一つの顔ってやつね。とってもプリティーでしょ?」
そうして私の中に何百年と居座っている悪夢は、まるで花も恥じらう少女のように笑うと、スカートの端を摘まんでその場でクルリと回って見せました。
何も知らぬ者が見ればそれは美しき少女が下ろし立ての服に喜び、はしゃぎ回っている微笑ましい光景に見えたことでしょう。
しかし私には千の軍勢に囲まれるよりも恐ろしい、それこそ悪夢にしか見えませでした。
そもそも何故、何故このララパルナ王国なのでしょうか? 確かに悪魔自身が言ったように、この悪魔は今後を左右するような大きな局面では必ずその姿を現してきました。そしてこのララパルナ王国も戦略的な視点で見ればその価値は決して低くありません。
しかし、しかしです。この恐るべき悪魔がここまでの無茶をしてやって来るほど大きいかと聞かれれば、私は首を横に振ったでしょう。
第一もしもそのような価値があるのならば、ルシファ様を初めとした天将の方々が気付かないはずがありません。罠を張り、どのような犠牲を払おうが絶対にこの悪魔を亡き者にしたでしょう。
つまりこれは一つ間違えれば自滅に繋がる、あまりにもこの悪魔らしくない無謀な行動。何がそこまでこの恐るべき悪魔を駆り立てたのでしょうか? それが分からない。そしてそんな無知な私にも一つだけ嫌でも分かってしまうことがあります。
それは今現在このララパルナ王国にはこの悪魔に対抗できる者が存在しないという、あまりにも無慈悲な現実。
「大丈夫? 何だか凄い汗だよ?」
悪魔が心配そうな顔を浮かべてゆっくりとこちらに歩を進めてきます。
私は歯軋りしました。最早事ここに至った以上、私は絶対に助からないでしょう。運がよければ勝てる。そんなレベルの相手ではないのです。ならばせめてテオだけでもーー
私が決死の覚悟を決めた時、悪魔は何故かこちらに向かっていた歩を止めると、中空をぼんやりと眺め始めました。
「これは!? そう、そう言う流れなの。でも何故? ……ダメね。今の私ではここまでか」
何かブツブツと言っており、その姿はどこからどう見ても隙だらけ。ですが私は攻撃しようなどとはつゆほども思いませんでした。
私は出来るだけ静かに思念を放ちます。
(テオ、テオ。緊急脱出用の魔法具は持っていますね? 今すぐ起動させなさい。……テオ?)
返事がない。いや、無理もないでしょう。私ですら震えおののく恐るべき悪魔を目の前にしているのですから。エルフであるテオが恐怖で動けなくなったとしても、誰がそれを責められるでしょうか。
私は悪魔から目を離さず、それこそ悪魔が何か仕掛けてきたらこの命を賭してテオを守ると決めながら、今度は思念ではなく直接言葉で語りかけます。
「テオ、怖いのは分かりますが貴方ならできます。ここから脱出するのです」
さあ、私の自慢の息子。勇気を出して。そんな想いを言葉に込める。するとーー
ピチャリ。ピチャリ。
「……ん?」
それは水滴が地面に落ちるような音でした。そんな音が何故背後から聞こえてくるのでしょうか? 私が不思議に思っていると、いつの間にか私に視線を戻していた目の前の恐るべき悪魔が、何故か非難するように私を見てくるのです。
「ねぇ、ララオラ君。さすがにそれは酷いと思うよ?」
「なに?」
唐突に一体、何をいっているのでしょうか? この悪魔は。
「確かにララオラ君達は三種族の創造主なのかもしれないけど、死んだ後くらいはちゃんと休ませてあげなさいよ」
……………………………………は?
「な、なにを。貴方は一体何……を?」
い、いけない。これは悪魔の罠です。振り向くな。振り向くんじゃありません。
攻撃だ。テオが逃げる時間を稼ぐ為に悪魔の誘惑を振り切り攻撃するべきなのです。
だがーー
ピチャリ。ピチャリ。
この音、それに緊張のあまり気づきませんでしたが、この匂い。
そんな? そんな? まさか!?
私は振り向かずにはいられませんでした。悪魔の誘惑には勝てませんでした。そしてその結果、そこで見ることになったものはーー
「ああ!? ああ!? そんな。そんな!? テオ。テオ!?」
ピチャリ。ピチャリ。と新鮮な血液を吸って成長し続ける大量の血溜まり。その上に陣取っているのは自分の両腕で自分の首を引っこ抜いたままの姿で絶命している息子の成れの果て。
「貴様ぁあああああ!!」
怒りのままに私は渾身の魔法を放ちます。荒れ狂う怒りがこもったそれは、これ以上無いほど正確に私の五体をバラバラに吹き飛ばしました。
「…………え?」
何がなんだか分かりません。視界がぐるぐる、ぐるぐると回って落ちます。声が、聞こえた。
「全ての物事は一つの結果へと集束する為の仮定。でも集束した結果も所詮は他の結果の為の仮定に過ぎない。終わりはなく、ただそこには運命だけがある。……残念よ。君との運命がこんな形になったのは。本当に……残念」
最早私はかつて私を構成していた数ある部品の一部と成り果てていました。手も足もなく、残ったこの『私』という意識も急速に消えていく。私は眼球を動かします。
見上げた先で悪魔が外した眼鏡をそっと握り潰していました。ざわざわと赤茶色の髪が波打ちながらその色と長さを変えていきます。
「そうだ。気になっていたら可哀想だからプランBについて教えてあげる。それはね、とりあえず何か起こる前にさっさとこの国落としちゃおう大計画。その為に私がこうして内部に侵入したの。中ノ国の最大の利点である地脈点を押さえている術式を破壊されたら困るでしょ?」
確かにそれをされると地脈のエネルギーを吸い上げて起動する類いの兵器は軒並み使えなくなり、この国の防衛機能は著しく低下するでしょう。だが地脈に干渉する術式は本来なら一魔の悪魔が破壊できるようなものではありません。それはただの人間がダムを素手で破壊すると言っているようなものなのです。
ああ、しかしなんということでしょうか。この悪魔にはそれが出来るのだ。本来なら不可能なはずのそれを、この悪魔は必ずやり遂げる。それが、その恐るべき未来が、まるで生涯を誓い合った伴侶との約束以上の信用を伴って確信できてしまう。
この国は内部から決定的な一撃を受けることになる。くそ! くそ!! 何故こんな時に私には出せる手も足もないのだろうか? 頼む。頼む。愛しき三種族の者達よ。信頼で結ばれた同胞達よ。逃げろ! 逃げてくれ!! 無策のままでは誰もこの悪魔にはーー
「敵わ……な、い」
「さようなら、ララオラ君。私は君のことを忘れないわ。大丈夫。魂は廻る。出来れば次は争いのない時代で会いましょう」
そうして女が魔力を纏ったその手を向けてくる。こちらを見下ろすその瞳は既に血のような紅ではなく。まるでーー