勇者
光を感じ、そっと目を開ける。体に質量が戻り、魂が静かに定着して行く感覚に、私はそっと安堵の息を吐いた。
ああ、私は今生きている。
「ふふ」
ふと見上げてみれば、おぎゃーと泣く代わりに笑いだした私を、シスターと思わしき女性が目を大きく見開いて見つめていた。だから私はーー
「何か?」
と、普通に聞いてしまった。やってしまった。後にそう思う瞬間だった。
私、カエラ・イースターが生まれたのは辺境にある貧しくも信仰心に厚い村だった。
人は天の創造物であり、天の命に従うことこそが人間の使命であり、ひいては人類全体の為になる。それが創造信仰に基づく天の代弁者を主張する教会の教えであり、私が生まれたこの村もその教えを強く信じていた。
それ故に幼い頃から確たる自我を持った私のことを信仰心厚い村の皆は不気味がることもなく、むしろ大層大切に扱ってくれた。
もっともそれは分け隔てのない心から来る行動ではなく、私が彼等の信仰の対象、つまりは勇者だからだ。
勇者とは天から加護を授けられた人間のことで、幾つものスキルを持つ超人のことを指す。
私が自分が勇者だと知ったのは赤ん坊の時だ。私を取り上げたシスターが生まれてすぐに言葉を話せるのはスキルの恩恵であり、こんなにも幼い子がスキルを発現したのは勇者に違いないからだと、わざわざ教会から聖女を呼び寄せたのだ。
ちなみに聖女は勇者と並んで天からの寵愛を受けた人間のことで、補助や癒しに関するスキルでは勇者を遥かに凌ぐ力を持っている。それ故か勇者が人類の剣と称されるのに対して、聖女は人類の盾と呼ばれている。
そんな聖女が私には間違いなく天の加護があると宣言したのだ。
天の加護。それが言葉遊びでもなんでもなくスキルという形で実在しているのだと知ったのもこの時だ。
スキル『天の加護』。必要に応じて新たなスキルを獲得することができる究極の成長型スキル。能力だけ聞くと何でもありな無敵なスキルのように思われがちだが、スキルを扱うには肉体の力、つまりは『気』が必要で、あまり多くのスキルを発現させてしまうと気力を全てスキルに奪われて死にかねない。
それ故に普段は必要のないスキルが発現しないよう、意図して押さえておかなくてはならないと言う、中々厄介なスキルだ。
そんな稀少なスキルの影響かは分からないが、私の容姿は父にも母にもあまり似ていない。瞳は左右で色が違い、左が黒で右が銀だ。髪の毛も基本黒色なのだが、所々に銀の筋が入っていて個人的には気に入っているのだが、必要以上に目立ってしまうのが玉に傷だ。
勇者と言われても私はまだ幼い子供だ。特別何をするわけでもなく平凡に日々を過ごすだけ、そしてそんな私のことを村の皆はそれはそれは大切に扱ってくれた。
幼い私に対してまるで上位者に接するかのような皆の態度。私はそれに不満も疑問もなかった。まぁ、そう言うものなのだろうと受け入れてすらいた。村の皆が見ているのが私ではなく、その背後にある信仰だと気づいていたからだ。
そしてそんなある日、母が言うのだ。
「カエラ。貴方は勇者になるため十になると聖都に行くのよ。そこで教会に入信して、沢山修行するの」
この子は何て幸せ者なのだろうか。そんな顔をして娘を何処とも知れない地に送り出そうとする母に私は聞いてみた。
「どうして修行するの?」
母は言った。
「戦って皆を守る為よ」
母の笑みは揺るがない。その笑みが言っている。お前は本当に幸福者ね。
私は何を言っているのだろうと思った。
「誰から皆を守るの?」
だから問いを続ける。きっとこれから先も母が私を理解してくれることはないだろう。母の目に映っているのは娘ではなく勇者なのだから。それならばせめて娘として母の考えを少しでも理解してあげよう。それが最初で最後の親孝行。そう思ったのだ。
私の質問に母は答えた。
「魔族という恐ろしい者達からよ。彼等は血と争いを何よりも好む邪悪な存在。この世界を支配せんと虎視眈々と狙っているのよ。貴方はね、カエラ。そんな邪悪な者達から私達を守る使命を天から授かっているのよ」
魔族の名を出す時、普段温厚な母の顔にハッキリとした嫌悪が浮かんだ。この時、この世界に蔓延る根深い問題、その一端に触れた気がしたのは私が勇者だからだろうか。
「でもそんな相手と戦って私が死んだらどうするの?」
私のどんな質問にも母は揺るがない。
「大丈夫。貴女の魂は天に昇り、そこで再び地上に戻るその日まで安らぎを得るの。いいえ、もしも貴方がとっても頑張れば、永遠の安らぎを得ることもできるかもしれないわ。それはとっても素晴らしいことなのよ」
子供が死ぬ可能性さえ母は考慮し、そして既に受け入れていた。むしろ、いっそ望んでいるのではないかとさえ思えてしまう。
「死んだら誰もが天に昇るの?」
何故死んだ後のことをそんな自信をもって言えるのだろうか。娘としての感傷とは別に、ほんの少しだけ興味を覚えた。
「いいえ、誰でもではないわ。相応しい信仰を持つ者だけよ。貴方はね、カエラ。選ばれたの。それはとっても名誉なことなのよ」
そう言って私を抱き締める母。その迷いの無い抱擁にきっと何を言っても無駄なのだろうと、私は母の腕の中で静かに目を閉じた。母の背中に回ろうとしない自分の両腕がほんの少しだけ悲しかった。
そうして私の旅立ちが約束され、信仰心厚い村の皆は当然それを喜んだ。ただ一人の男の子を除いて。
彼の名前はポール。私の家のお隣さんで、狭い村ということもあり昔からよく私が面倒を見ていた。面倒を見ていたと言ってもポールとは同い年なのだが、勇者である私と同じ精神年齢の子供などいるはずもなく、必然として私がまとめやくだ。
ポールは弱虫でよく泣く。そのせいか他の子供達によく虐められるので、その度に私が守ってあげた。そんな弱虫なポールが私の旅立ちを聞いて僕も絶対付いて行くと言い出したのだ。
きっとこの子は私のことが好きなのだろう。ませてる……とは思わない。恋に身を焦がすその気持ちは私にもよく分かるから。
どうしても付いて行くと言って聞かないポールに、私は一つの条件を出した。もしも私が村を出るまでに私より強くなれたのならば、私が教会の人を説得してポールも一緒に連れて行くと、そう言ったのだ。
無論、本気ではなかった。勇者である私の『気』は常人とは比較にならず、身体能力もズバ抜けている。それを村の皆は知っており、話を聞いた大人達もこれでポールも諦めると胸を撫で下ろしていた。
だが、ポールは諦めなかった。
それからのポールは子供ながらに本当によく頑張った。大人の騎士がやるような修行方法を真似て朝から晩まで剣を振り、体だって必死に鍛えていた。まぁ、休憩も多かった気もするが、そこは年齢を考えれば無理もないだろう。
三年程で私を除いた子供達の中では一番強くなった。このまま鍛え続ければ将来はさぞ優秀な騎士になれるだろう。
優秀。そう、それでも優秀止まりなのだ。
悲しいかな、勇者と言う存在はポールの努力を易々と越えていく。元々勇者の体と言うだけでも信じられないほど強靭なのに、その上私は魔法の扱いがズバ抜けて上手かった。
せめて十歳になるまでは子供らしい生活をさせてあげようという教会の意向で、私が勇者の修行をするのは週に一度だけなのだが、私は教師の教えを悉く吸収し、ほんの数年で天才と呼ばれるようになっていた。
当然、そんな私とポールでは勝負にもならなかった。ポールは頑張った。本当に頑張った。でも努力なんてものは生きる道を定めた者ならば誰でも普通にするものだ。
ただの国の兵士だって日夜厳しい訓練を受けている。それも一人や二人でなく何千、何万と言う途方もない人達が互いに切磋琢磨し、その上でなお特別なのが勇者と言う存在なのだ。
子供がほんの数年努力して簡単に覆るような差ならばそもそも勇者が人類の剣と呼ばれることもなかっただろう。
「僕は……僕は君のことが」
勝負の日、私の軽い一撃で泥にまみれ、彼我の途方もない力の差を子供ながらに悟ったポール。その口からはきっとこんなはずではなかった告白が漏れる。
その姿は純粋だった。欲しいモノの為に挑み。敗れ。それでも諦めきれない、幼いながらも純粋な恋心。正直に言うと少しだけ胸が震えた。だから私も正面から彼の気持ちに向き合うことにする。
「ねぇ、ポール。今から貴方に一つの質問をするわ。その答えがもしも私の望んでいるものだったなら、私の全てを貴方にあげる。身も心も魂さえも全部全部あげる。でも、もしも貴方の答えが私の望むものでなかったなら、その時はどうか私を諦めて。……約束、できる?」
私の突然の言葉にポールは惚けた顔を見せた後、何度も何度も頷いた。
「わ、分かった。約束する。約束するよ。それで? 質問って…何?」
僅かな可能性にしがみつく目。だがそれは私も同じだ。もしも彼がそうならば、こんなにもドラマチックなことはない。
私はきっと違うのだろうなと確信しつつも、可能性を捨てきれない、しがみつくような声で聞いた。
私の目的。私の全て。憎くて愛しいあの人の名前を。
「貴方は、マイスター・クラウリーですか?」
「…………………は?」
何を言っているのか分からないと言った表情。それで私の確信は現実になる。彼は彼じゃない。
「そう、だよね。そんな分けないよね」
私の声にはただ失望だけがあった。そしてそれは幼い男の一つの恋の終わりでもあった。
その後、ポールとどういうやり取りをしたのかは、あまり覚えていない。私とポールの間にはただ失望だけがあり、互いの間を不理解の壁が隔てていた。
彼が私を理解して、この壁を取り払うことは最早一生涯無いだろう。
だがやがて時間がポールの失望を押し退け、私の代わりに別の誰かを出会わすことだろう。でも私は? 私の心にあるのは彼だけ。どれだけ時が経とうとも、変わることの無いこの気持ちこそが私の原初なのだから。
空を見上げる。何処までも澄みきった、とても広い空。あの地球とは違う。
この空の下に彼はちゃんと居るのだろうか? いや、きっといるはずだ。私はそう確信している。何故なら彼こそは現代最強の魔術師だったのだから。私にできた魔術を彼が万が一にでもしくじるなどありえない。
そっと目を閉じて、心の中にあの人を思い浮かべる。育ての親であり、魔術の師であり、何よりも愛し、そして愛されたかった愛しい想い人。
ねぇ、マイスター? 私来たよ? 貴方が夢見た世界に。私を一人置いて旅立った理想郷に。
「きっと会える。きっと貴方はこの世界にいる。私はそう……信じてる」
その数ヵ月後、私は教会に引き取られ、正式に勇者として世界に認められた。