白が恋しい黒ならば【長編】
とある山の雑木林。地上から僅かな、葉っぱと葉っぱの間に、蜘蛛の巣が張ってある。大きさが直径1m程の巣に、1匹の黒い蜘蛛が獲物を待ち構えていた。舌の肥えた蜘蛛は、特に蝶が好物であった。蝿や蛾、様々な昆虫を食していた蜘蛛にとって、蝶という美しいものをジワジワと壊すことにより、満足感を得ると蜘蛛は感じていた。
突然、蜘蛛の巣がビクビクと揺れた。獲物が引っかかった証拠だ。ゆっくりと現場に近づく。そこには七色に輝く蝶と、汚ない小蝿が蜘蛛の巣に張り付いていた。小蝿なんかにはもう、飽きたな。と蜘蛛は糸を吐き出し、グルグル巻にして、食すことなくあっさりと殺した。その様子を見ていた蝶は暴れるが、余計に糸に絡みつくだけで、効果は無かった。やがて、体力が無くなった蝶に向かい、蜘蛛はゆっくりと近づいた。糸に絡めた後、殺すことなく羽の一部を食べる。無論、蝶は暴れるが蜘蛛は無視し続けた。羽、体そして、頭の順で丁寧に貪った後の満足感は最高だった。これだから辞められない。月の光で更に光沢を放った黒い蜘蛛は、不気味な笑みを浮かべていた。
近頃、獲物の数が少なくなってきたのは気のせいだろうか。蜘蛛の巣に引っかかる獲物が、前と比べて減っている。噂では凶暴なオオカマキリと、1匹のはぐれ蜘蛛が獲物を横取りしてると聞いた。しかしあくまで噂だ、心配することはないだろうと蜘蛛はそう、思っていた。
ある日、いつものように巣で獲物を待ち構えていたところ、久しぶりにビクビクと反応があった。ゆっくりと近づくと、目の前の光景に蜘蛛は大変驚いた。1匹の白い蝶が巣に引っかかって、ジタバタと暴れている。しかもまだ、体長も小さく、羽も新しい。サナギから孵化したばかりだろうか。蜘蛛を見つけた蝶は、覚悟を決めたのか、暴れることを辞め、じっとしていた。だが、武者震いしてるようにも見えた。
流石に食べるのはよそうと、蜘蛛は考え、蝶を巣から離し自由にさせた。蝶は動揺を隠せなかったが、すぐさまその場から退散した。
ぽつんと蜘蛛1匹となり、先程の蝶について変な感情が芽生えていた。あの太陽光に浴びたときの、純白に輝いた蝶に恋してしまったのだ。ぜひもう一度会えたらと、蜘蛛はそう思いながら1日を過ごした。
季節が春から夏に変わったその日。蜘蛛はポイントを変えようと、次の場所を探していた。しかし、どこも他の蜘蛛達が場所を確保していたため、休憩しようと蜘蛛は近くにあった葉っぱの裏で休んだ。
その時だ。1匹の蝶が、遠くにある他の蜘蛛の巣で暴れていた。横取りされたと思ったが、よく目を凝らしてみると、どうも見覚えのある蝶だと感じた。あの時、自分が逃がした蝶だ、間違いないはず。蝶は立派に成長し、純白の輝きは更に増していた。しかし、なんとか必死に逃げようとしている蝶だが、身の前には、自分より体長が2倍もある、虎模様の蜘蛛が蝶に向かって、ゆっくりと近づいていた。
もしや、噂で聞いたはぐれ蜘蛛のことか?すると、はぐれ蜘蛛は糸を吐き出し、蝶をあっという間に巻き出した。ヨダレを垂らしながら、巨大な口を開いたその様子は、とても恐ろしいものだった。とっさに蜘蛛は、猛ダッシュで巣に向かい、なんとしてでも阻止しようと考えた。命を懸けてまで蝶を守る。蜘蛛はその信念しか無かった。
やがて、巣に到達した蜘蛛は、はぐれ蜘蛛に向かい、体当たりをかました。はぐれ蜘蛛はバランスを崩し、仰向けでひっくり返った。体が大きい分、元に戻るのは難しい。その内に、蜘蛛は蝶に巻かれてる糸を、解き始めた。
しかし、姿を現した蝶の姿は、とても悲惨なものだった。純白に輝いていた羽の大部分が、はぐれ蜘蛛に食べられボロボロになっていた。これでは、まともに飛べやしない。むしろ、この世界で生きることは不可能に近かった。蝶も力尽きる寸前まで来ている。だが、ここで諦めたら全てが終わりだと、蜘蛛は信念のまま、ひたすら周りの糸を全てほどいた。
糸が並の蜘蛛より太かったため、アゴが使い物にならなくなった。そして、はぐれ蜘蛛は元の体勢に戻り、こちらを睨んでいた。殺意を込めた眼差しを見た蜘蛛は、死を覚悟した。だが、任務ははぐれ蜘蛛と戦うことではなく、蝶を逃がすことだ。蜘蛛はすぐに、蝶を巣から離した。蝶は、ふらふらと力を振り絞って、ゆっくりと草原の方へ、羽ばたいていった。
これで安心だと感じたその瞬間、右足の方に痛みを感じた。はぐれ蜘蛛が一瞬で右足に噛みつき、そのまま食べられてしまった。なんとか体を離したが、前の右足が一本無くなっていた。後ろの右足ももう、動かすことは出来ない。
はぐれ蜘蛛は、口に含んでいたものを吐き出し、そのまま蜘蛛に突進した。頭から尻までの全てに、はぐれ蜘蛛の全体重の負荷がかかった。ボディプレスされた蜘蛛の全身も動かすことが出来なくなった。そのままはぐれ蜘蛛は、蜘蛛に対しひたすら噛み付いた。頭、腹、背中、尻、左足のほとんどが、はぐれ蜘蛛により無残な姿へと変えられた。さすがの蜘蛛も意識が朦朧としていた。
気が済んだのだろうか。はぐれ蜘蛛は、蜘蛛を巣から離し、地面に向かって投げ捨てた。距離が結構あったが、蜘蛛は痛みを感じることは無かった。まだぼんやりと、意識がはっきりとしている。噂は本当だったんだなと蜘蛛は感じた。だが、これで良かった。自分の命を無くしてまで、蝶を守ることが出来たのだ。
はぐれ蜘蛛の巣から離したあの時、一瞬ではあったが、蝶が自分の方を向いて、「ありがとう」と言ってくれただけでも大変嬉しかった。今まで孤独に生きていた蜘蛛にとって、蝶と最初に出会ってから運命が変わったのだった。まさか、自分のようなろくでなしが1匹の蝶を守るなんてなと感じながらも、後悔は何も感じなかった。
深い眠りに就こうとしたその時、目の前の光景に蜘蛛はまた、大変驚いた。と同時に目の前が真っ白になった。
草原の方に、1匹の凶暴なオオカマキリが立っていた。そこで何かを食べている。意識がぼやけながらも、視線に捉えたものは、先程逃がしたはずの白い蝶であった。
オオカマキリは、乱雑に蝶をボリボリと食べていた。オオカマキリの足元には、蝶の無残な姿が散らばっていた。足元にいる蝶の濁った眼差しが、蜘蛛の視線と合った。
嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ!!!
為す術もなかった。涙が出ようにも、神経もやられた体から流れることは出来なかった。
やがて、のしのしとオオカマキリがこちらに接近して来た。蜘蛛を真下に見下し、ニヤリと笑ったオオカマキリは、蜘蛛に向かって「ありがとうよ。おかげで、犯しがいのある良い餌だったぜ。」
何も言い返せなかった。オオカマキリは右手のカマを、真上からぶんとふり返し、蜘蛛の頭にグサリと突き刺した。意識が完全に真っ暗となった蜘蛛はただの、オオカマキリの餌へと成り果ててしまった。
今日もゆっくりと1日が終わる。夕焼けに染まる中、草原には蝶の残骸、地面には蜘蛛の残骸が仲良く、蟻の巣へと運ばれていった。
蜘蛛が、蝶に恋をした感じで書きました。
短編で終わらせるつもりが、一気に長編になるのは良くあるんですが、今回はちとやり過ぎた感があります。
お気に召されたら、十分です。