出産
結婚式を無事に終え、新婚旅行もなんとか乗り切った二人は、すっかり日常の生活に戻っていた。
晃は、相変わらず仕事中心である。
提携先の蔵元や造り酒屋が増るにつれて、全国地酒の専門店 愛田の売り上げも増えていった。また、日本酒だけでなく、積極的に焼酎やビールなどの種類も増やしていたのだ。
このような情報が、全国の地酒蔵元にも届くようになり、ぜひ提携したいという問い合わせを受けるようになっていた。
こうなると、もはや晃一人の手に負える規模ではなくなってしまった。
そこで、新しい社員も増やし、チームを作ることにしたのだ。
だが、若い晃にとって、チームをまとめることは、とても大変な作業だった。
「こんなことなら、一人でやってた方がましだったかな」
晃は思い通りに動かないチームに、少しイライラするようになっていた。
あまり家では仕事の話しをしなかったが、つい、身重の涼子にまでグチを漏らしてしまった。
「まったく、会社員なんて、ほんとに気楽でいいよ。いかに楽して金をもらうかだけを考えていればいんだから」
「そうね。だけど、みんなそうやって生活しているわけだし、みんなが晃さんみたいに仕事熱心だとは限らないわよ」
「それはそうだけど……
彼らには夢も希望のないのかな。しっかり夢や理想があれば、寝てるヒマも惜しまず働けると思うけどね。みんな、何が楽しくて生きているのか聞いてみたいよ」
「家庭のある人もいるだろうし、やっぱりワーク・ライフ・バランスは大切なんじゃないかしら」
「ワーク・ライフ・バランスかぁ。
あっ、ごめん。僕はバランスが悪すぎるよね」
「やっと、気付いてくれた」
晩酌の支度を終えた涼子は、晃の向かい側の席に座った。新しく増える家族のために、四人用のダイニングテーブルを購入していたのだ。
晃はどんなに遅くなっても、仕事が終わった後には、例えわずかでも、必ず何かしらの酒を飲んでいた。日本酒と焼酎が多かったが、実はワインが大好きだったのである。
それを知っていた涼子は、ワインにあうチーズや生ハムを用意した。
「おっ、今日は、ワインに合いそうなつまみだね。うれしいな」
「早く帰れそうだって言ってたから、今日はワインかなと思って」
「ありがとう。気が利くね、涼ちゃん」
晃のものはほとんど置かれていないアパートだったが、唯一こだわったワインセラーから赤ワインをとりだしてきた。
「涼ちゃんも一杯くらい飲む?」
「私は、やめとくわ」
こだわりのワイングラスをひとつとソムリエナイフを取ってくると、慣れた手つきでコルクを抜いた。晃は、その日の気分で飲みたい酒を自分で用意していたのである。
「いっただきま~す」
晃は、好きな酒と愛妻の手料理を楽しんだ。
「うん。うまい。ワインも料理も」
「そう。よかった」
「それで、涼ちゃんの方は順調?」
「なにが?」
「いろいろと」
「何それ。もう。私のことなんか全然興味がないみたい」
「そんなことないさ」
涼子はしばらく化粧品販売の仕事を続けていたが、お腹が目立つようになってきたので、寿退社をしていた。
「順調っていったら、マメたんでしょ」
「順調よ。この頃は特にお腹の中で蹴飛ばしたり、手を伸ばしたりしているのがよくわかるようになってきたの」
「あれっ、予定日はいつだっけ?」
「もう。来月よ。自分の子どものことなんだから忘れないでよ」
「ごめんごめん」
「あっ、今、蹴ってるから触ってみて」
向かい側へまわって、涼子のお腹を触ってみた。
「ほんとだ。うにうにしてる。すごいね」
「きっと、晃さんが予定日を忘れちゃったから怒ったんじゃない」
晃は涼子のお腹へ口を当てた。
「マメたん、ごめんね。元気に生まれてくるのを待ってるからね」
「ねえ、晃さんは出産に立ち会いたい?それとも、出産の瞬間なんか見たくない?」
「う~ん、そんなこと考えたこともなかったな。涼ちゃんはどっちがいいの?」
「私は、できれば立ち会って欲しいな。晃さんがそばにいてくれれば心強いし」
「そっか、じゃあ、なるべく立ち会うようするよ。予定日近辺は、出張しなくて済むようになんとか調整してみる」
「ほんと?ありがとう」
いつの間にか、夜も更けていた。
「私、先に休んでいいかしら?」
「うん。先に休みな。僕は前に録画してあった映画でも観ながら、もう少し飲んでるから」
「それじゃ、お休みなさい」
「お休み」
数日後、晃はチームのメンバーを集めていた。
「おはようございます。
早速、本題に入りますが、今日はみんなに大事な話しがあります。
というのも、先日、妻と少し話していたら、ワーク・ライフ・バランスという言葉がでてきました。
僕に言わせれば、そんなものは仕事を楽しみたくない無能なヤツのいいわけにすぎません」
チームのメンバーはざわめきだした。
「ですが、僕にも出産間近の妻がおりますので、やはり、バランスは大切だと考え直しました。
そこで、オリジナルフレックスタイム制を導入したいと思います」
「オリジナルフレックスタイム制?」
「例えば、IT担当の場合、自宅でもできる仕事なら出社しなくても結構です。
蔵元めぐりの担当は、自分で時間をコントロールしてください。家族の了解を得られるなら、家族旅行も兼ねて、自由に仕事をしてもらっても構いません。
どうですか?」
「なんかすごいな」
「ただし、
自由には責任も伴います。
とりあえず、導入は試験的に行います。試験期間は、現状の給料を保障しますが、結果次第では給料ダウンもあり得るということです」
また、ざわめきだした。
「僕は、ただ、みんなと一緒に、全国の地酒をどこにいても飲めるようにしたいんだ。
そんな夢を一緒に描ける人たちと仕事がしたい。
ここには、ただ給料がもらえるからなんとなく働いている人は必要ない。
以上で、ミーティングを終わりにします」
「あの、晃さん」
普段は目立たない新人が手を挙げた。
「意見があるなら、どうぞ」
「僕……、あの僕、こういうところでずっと働きたいと思ってました。僕自身の夢は自分でもよくわかりません。でも、今は晃さんの夢が僕の夢です。一緒に叶えられるように一生懸命頑張ります」
「そうか、期待してるよ。それでは、みなさん、オリジナルフレックスタイム制は、今この瞬間から開始します。一緒に夢を叶えましょう」
晃は先に出て行った。
「なんだ、お前、ちょっとかっこよかったな」
先輩社員の高橋も、少しやる気になってきた。
「ところで、名前なんだっけ?」
「あっ、山下です。つい晃さんの話しを聞いていたら熱くなっちゃって。すいません」
「別に謝ることじゃないよ。山下、きっとあの人は、俺たちに楽しんで働くことを教えたいんだと思うよ。一緒に頑張ろう」
「はい。高橋さん。頑張りましょう。僕、早速、蔵元めぐり行ってきます」
「まてまてまて。いいか。まずは効率のいいルートを考えて、先方にきちんとアポをとらないとダメだろ」
「ハハ、そうでした」
「頼むよ。給料下がったらシャレんなんないから」
IT担当の幸子には、幼い子どもが二人いた。
「子どもに何かあった時、すぐに保育園から呼び出されたりするから、自宅でも仕事ができれば助かるわ。私も給料が下がらないように頑張る」
そこへ、晃が戻ってきた。
「それから、言い忘れたけど、結果がよければ、みんなの給料も当然アップするから」
「やった~」
晃はさらに続けた。
「ワーク・ライフ・バランスも大事かもしれないけど、一生懸命頑張って仕事をしている人にしか味わえないタイムレスコンフォートだってあるよ」
数週間後、晃は涼子の予定日近辺の出張をなくすため、蔵元めぐりの予定を詰め込んでいた。
この日も出張先のホテルにいた晃は、真夜中の電話で起こされた。それは、光子からの電話だった。
「晃、涼子ちゃんが産気づいて、今病院にきてるんだけど」
「えっ、ずいぶん早いんじゃないの」
「私もビックリしてるのよ。あちらのお母さんから電話がって」
「そっか、でも、すぐには帰れないから、母さん頼むよ。僕も明日一度帰るから」
「わかったわ。晃も気を付けて帰ってきなさいよ」
「うん。ありがとう」
次の日の早朝に、また、光子から電話があった。
「赤ちゃん、無事に生まれたわよ。やっぱり、女の子」
「そっか良かった。二人とも元気?」
「母子ともに元気元気。お父さんなんか、一番最初に抱かせてもらって、大喜びよ」
「僕も午後には行けると思う」
「あちらのご両親もいらっしゃるし、私たちも一旦帰るわね」
「うん。それじゃ、また」
晃も、病院に到着した。
まずは、涼子の元へ向かった。
「涼ちゃん、お疲れさま。ごめんね、立ち会えなくて」
「ううん、いいの。それより早く赤ちゃんを抱いてあげて」
「うん」
晃は看護師に赤ちゃんを連れてきてもらった。
「これが、僕たちの赤ちゃん」
涼子のお腹の中にいたときは、それほど実感を持てなかった我が子だが、こうして今は実際に自分の腕の中にいるのだ。何とも言えない小さな小さなぬくもりとともに、晃は、女性の偉大さを感じていた。