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エギエディルズにとって一番古い記憶は暗闇だ。決して光の差さぬ暗闇。それが暗闇であり、黒と言う色であるとも知らぬまま、一番古い記憶の中の自分は其処で過ごしていた。閉じた瞼の裏とも異なる、まことの黒。時折紫に発光する封印の札が、己の自由を奪う代わりに、視力を守っていた。
泣けど喚けど誰もいないあの中で、思っていたことがある。この生ほど、碌でもないものは無いだろうと。
少なくとも、養父にあの闇から救い上げられたあの日まで、そう思っていた。
そんな自身の生家の名を、エギエディルズは知らない。知ったことではないと思う。封印が幾重にも張り巡らされた扉を開けて現れた養父が幼かった自分を抱き上げ、「今日から君はエギエディルズ。エギエディルズ・フォン・ランセントだ」と言ったその瞬間から、自分の家はランセントになった。
こそこそと囁かれる噂や聞こえよがしな陰口から察するに、どうも自分は、それなりの貴族の生まれであったようだ。だがこの漆黒の髪、つまりは魔力の高さに恐れをなした生みの親たちとやらは己を屋敷の奥深くに封印し、そして手に負えなくなった頃、当時唯一の黒混じりの髪を持っていた養父に押し付けた、とのことだ。
だが、だからなんだと言うのだろう。養父は素晴らしい人で、他人曰くの『実の親に捨てられた』などということに対して何の不満も無い。それを思えば、むしろ『捨ててくれた』ことに感謝すらしている。
堅固な封印の部屋から養父の手によって連れ出された自分は、そのままランセント邸に連れ帰られた。文字どころか言葉すらも碌に用いない自分に、辛抱強く『生きている』ということを教えてくれた養父には感謝してもしきれない。養父曰く、「エギエディルズの覚えがものすごく良かったからね」とのことだが、それにしても、男やもめが使用人の手も借りずひとりで栄養失調もいいところの子供を育てるなど、並大抵のことでは無かっただろうと思わずにはいられない。
そうして、ようやくエギエディルズが言葉を覚え文字を覚え歩行を覚え、『自分』というものを形成した頃。
養父と共に初めて訪れたアディナ邸で、エギエディルズは、後に婚約者となる、フィリミナ・ヴィア・アディナと出逢った。
正直なことを言ってしまえば、その頃には既に、自分の“人間嫌い”と言う感情は完成されていた。養父とて人間であるため厳密に言えば異なるのかもしれないが、それでも、それが一番相応しい表現であるように思えた。それが何故かなどと言うまでもない。こちらの姿を見た途端に、何か恐ろしいものでも…それこそ魔族でも見たかのようにその顔を引きつらせる者達のことを、どうして好きになれたと言うのだろう。
己の姿を見て恐怖しない存在は養父だけだった。ためらわずに手を伸ばし触れてくる存在は養父だけだった。何の気負いもなく声をかけてくれるのは、養父だけだったのだ。
そういうものだと思っていたし、これからもそうなのだろうと思っていたし、それでいいとも思っていた。今更期待することなど、とうにエギエディルズは止めていた。それなのに。
それなのに、それを見事にぶち壊した存在が、フィリミナだった。
初めて出逢った時のことを、エギエディルズはおそらく生涯忘れまい。
黒という色彩に対し、老若男女に関わらず、誰しもが一種の恐れを抱く。それは最早魂に刻み込まれた本能だ。
事前に話を聞いていた彼女の両親はそのような素振りを見せないだけの度量がある二人だったが、何も知らぬ彼女の幼い弟は怯えたように自分を見てきていた。だというのに、その姉である彼女は、瞳を大きく見開いて、何を思ったか「綺麗ね」と言い放ったのだ。
しかも彼女の所業はそれだけに収まらず、驚きに動けず覚えたばかりの言葉すら忘れた自分の手を取って、「わたくしはフィリミナ・ヴィア・アディナと申します。よろしくお願いしますね」と言い放ってみせた。
初めて触れた同い年の少女の手は、ともすれば壊れてしまいそうなほどに繊細だった。その温もりと柔らかさにあまりに驚きすぎて、思わず振り払ってしまった。そんな自分に驚いた。壊してしまったのではないかと、初めて後悔という感情を知った。彼女は子供らしからぬ、困ったような笑みを浮かべていた。
そんな彼女と二人きり、アディナ邸の中庭に残された時、どうすればいいのか解らなくなった。彼女は何を思ったか、さっさとベンチに陣取り読書を始め、こちらのことはまるで放置だった。
いつもならそれをありがたいと思っていた。下手に恐れられたり厭われたり、或いはその逆に、媚び諂われたり迎合されたりするよりも、単に関わられないほうが余程マシだからだ。
それなのに、何故だろう。あの時は、それが面白くなかった。奇妙に、不思議と。そんな思いも、近寄った途端に見えた、彼女が読んでいた書物の項目…すなわち、『魔力と容姿について』の項目を見てしまった途端吹き飛んだ。
流石にその項を読んでしまえば、彼女もまた己を畏怖の目で見るに違いないと、そう思った。これまでの奴らと、同じように。そうして離れようとした瞬間、彼女はこう言ったのだ。
「あの、エギエディルズ様? 最初から、一緒にお読みになる?」
「…!」
それが、始まりだった。