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――――――――――と、思っていたのだが。
これは夢だろうか。それとも幻だろうか。
とりあえず目の前にある白いかんばせに手を伸ばしてみた。温かい。そのままそっとその頬を撫でると、気持ちよさ気に朝焼け色の瞳が細められる。
すり、と擦り寄ってくるにその頭の重みを私の手に預けてくるそのお綺麗な顔が信じられない。
やはりこれは夢か。幻か。確かめなくては。そんな心の命ずるままに、私はその頬を思い切り、問答無用で抓り上げた。
「~~~~~~~っ!!!」
声にならない悲鳴と共に手を剥がされる。手を掴んでくる、骨ばった細い手もまた温かい。
力一杯抓り上げた頬が相当痛かったらしく、私の視線よりも高い位置にある朝焼け色の瞳にはわずかではあるが透明な膜が張っていた。
あらあら、情けないお顔ですこと。
口には出さなかったが表情は口よりも余程雄弁であったらしく、ぎっ!と睨みつけられた。
中性的なその美貌が本気で睨むと、本当にとんでもなく迫力がある。まあ私は見慣れたものだが。
「何をする!」
「白昼夢かと思いまして」
「誰が白昼夢だ誰が!」
耳触りの良い声音が、こんなにも荒げられているのを聞くのは何年ぶりだろう。うん、やはり夢である気がする。私の知るこの男は、こんなにも感情を露わにするような男ではない。
「最近あまり眠れていないせいかしら…。駄目ね、シュゼットの言う通りだわ」
「おい何を言って」
何やら目の前の幻がいろいろ言っているが、全てこれも私の寝不足による幻聴だろう。まともに眠れなくなってもう何か月になるのだったか。
あの男の訃報まがいの報せを受けて以来、よく眠れていない。
例え世間が魔王討伐成功に湧いていて、今日がその勇者たちの凱旋パレードだったとしても、私の寝不足は解消されない。
食欲が激減したおかげで痩せたのはありがたいが、お世辞にも健康的な痩せ方ではないため、寝不足とのダブルパンチでお肌はもうぼろぼろだ。目の下の隈はもう化粧では誤魔化しきれないくらいになっている。
あの男がしんだ今、ようやく容貌について比べられる心配もなくなったと言うのに、しんだ後でもとことん私を困らせてくれやがる男である。
両親はそっとしておいてくれているが、乳母には「お嬢様が眠れるまで私が傍におりますわ」と気を遣わせてしまうし、弟には「姉上、あんな男のことなんて忘れてしまいましょう。僕が姉上を幸せにして差し上げますから」とシスコンもいいとこの発言をかまされるし。
乳母はともかく、弟よ、お姉ちゃんはまず君にそのシスコンを治してほしい。
幼いころからついつい甘やかしてしまっていたのが仇となったか。ってそんなことはおいておいて、それよりも、弟が『あんな男』と評したあの男。
それが、目の前にいるという、この、現実とはとうてい思えない現状。
やはり夢を見ているとしか思えない。
「少し仮眠を取ろうかしら。ああそうだわ、確かまだ香草茶が…」
「いい加減にしろ、フィリミナ!」
「っ!」
目の前の幻から視線を外して踵を返した瞬間、掴まれた腕。かっとそこが熱を持った気がした。背中の傷が疼く。
まさか、と頭の何処かで『私』が囁く。そんなはずがないと“現実”を見ようとする『私』が必死に私を繋ぎ止める。
そんな『私』を振り切って、私は、夢にまで見たその顔を、恐る恐る見上げた。
其処に在るのはあのうつくしい朝焼け色の瞳。自分の唇が、震えるのが解った。
「―――――エディ?」
「ああ」
「どうして此処にいらっしゃるの」
「悪いか?」
「悪くはないですわ。ただ、不思議で」
どこか憮然とした声音に対して、自分でも不思議なほどに淡々と冷静に話を続けることができている。
この国ではこの男以外には持ち得ない、濡れたような漆黒の髪。旅装束そのままのその姿。
目の前に、あの男が。あの日の報せ以来、何一つ情報の無かった男が、エギエディルズ・フォン・ランセントが、此処にいる。これは一体どうしたことだろう。
「わたくしは、てっきり」
「死んだと思っていたか?」
「はい」
「残念だったな。俺が生きて戻ってきて」
「……はい。…いいえ、いいえ、はい」
「どっちだ」
苛立たしさが混じったその声が懐かしい。そういえばそうだった。いつも泰然としているこの男は、私がこうして明言を避けるような真似をすると、よく苛立たしそうにしていたものだった。例えばそう、結婚に、関して、だとか。
私にはいつも負い目があった。この背中の傷痕故に、この男は私と婚約したのではないかという負い目が。
だってそうではないか。そうでなければ、容貌も能力もせいぜい十人並み程度のこの私と、王宮筆頭魔法使いたるこの男が、婚約者と言う関係のままあり続けている理由などない。
いくらその漆黒の髪が人々から畏怖され敬遠されるとはいえ、それでも、それすらを乗り越えて、この男を得たいと願う、私よりも優良物件な存在が、いない訳がない。
私が持っていたカードは、幼馴染であるというカードと、この背中の傷痕というカードの二枚だけ。私から結婚したいなどとは言える訳がなかった。この男の持つ、私に対する負い目を利用するような真似だけはしたくなかった。それはこの男を思ってのことではなく、ただの私の意地だった。我ながらつくづく可愛げのない女だと思う。
こんな女と婚約関係にあるこの男を憐れんだこともある。それでもこれだけは譲れなくて、だからいつも明言を避けて、それで、だから、ええと―――――ああもう、訳が分からなくなってきた。
随分と自分が混乱していることを他人事のように思い知らされる。生きていた。いきていた。ただ内心でそればかりを繰り返し、呆然としたままその顔を見上げることしかできない私に、遠慮も何もあったものじゃなく男はさくさくと言葉を続ける。
曰く、確かに大魔法により、命を落としかけたのだという。
あの大魔法は命を引き換えにするなどというものではなく、ただその爆心地であるがゆえに使い手は命を落とすのだと。予てよりかの魔法を研究していたこの男はすんでのところで転移魔法を用い、ぎりぎり命を保たせた、らしい。
これが成功するかは賭けだったそうだが、結果としてこの男とはその賭けに勝った。ギリギリのところではあったが。後は魔王軍の油断を誘うため、仲間たちにすら己の生存を知らせず、暗躍していたそうだ。
そして最終地、魔王の城直前で合流し、見事勇者たちと、弟子と共に魔王を討ちとった、というのが事の顛末だと。
なんだそれは。いや確かに死んだと思っていた仲間が、実は生きていて、再度合流するという話もまたよくある話であるが。
なるほどなるほど、と遅ればせながら『私』が頭の中で頷いている。それに遅れて、私もまた成程と頷く。つまり目の前のこの男は、夢でも幻でも無い訳だ。
そこまではオーケーオーケー了解した。そこまでは良いのだが、ならば何故、此処にいるのだろう。
「エディ、もうすぐ凱旋パレードが始まるのでしょう。でしたら、このような場所に居る場合ではないのではありませんこと?」
「問題ない。あいつらにはもう言ってあるし、対外的には俺は重傷を負って寝台から動けないということにしてきた」
「…根回しのよいこと」
そこまでされれば最早呆れるしかない。何をやっているのだこの男は。無駄に良い頭をこんなことに使ってどうすると言うのだろう。私などのために使うべき頭ではあるまいに。救国ならぬ救世界の英雄となったこの男が。
ああ違うか。私のためなどではないのだろう。そういえば昔から、嫌なことは先に済まそうとする男だった。
「話があるなら手短にお願いいたしますわ。勝手に入ってきた件についてはこの際不問にしてさしあげますから、早く姫様の元へ行ってさしあげたらいかが?」
長き旅路を終えられて、ようやくこの王都へとご帰還された姫様。この男と同じく、救世界の英雄となられた御方。婚約解消を言い渡すつもりならさっさと言え。生きて戻ってきたのは大変結構。だが、宙ぶらりんな状況がこれ以上続くなどごめんだ。
だがしかし、私が姫様のことを持ち出したのが意外だったのか、訝しげに男の柳眉が顰められる。何を言っているのかと、そう表情が物語っていた。
「…俺が何のために生きて戻ってきたと思っている?」
「国と、勇者様たちの為でしょう」
姫の為でしょう、とは言えなかった。いくら姫様とは比べるのもおこがましいモブである私とて、女としてのプライドがある。
これまではその魔力の高さと性格のひん曲がり具合故に人々に敬遠され、畏怖の対象として孤高の立場に立たされていたこの男。だからこそ私が一番近くに居られた。けれどそれももう終わりだ。
この様子を見るに、勇者である彼(名前は忘れた)とも良い友人関係になれたようだし、あの団長殿ともそうだ。『あいつら』とこの男が言った瞬間に見せた柔らかい表情に、気付かないでいられるほど鈍くは無い。気付かないでいられるほど、浅い付き合いではなかったのだから。
今更ながら思い知らされる。やはり、覚悟を決めていた、なんて嘘だった。生きて戻ってきてくれて嬉しい。それは本当のことだ。いっそしんでしまいたいくらいに嬉しい。嬉しくて嬉しくてたまらない。けれど同じくらい嫉妬している。なんて勝手な私。
そんな私を知ってか知らずか、目の前の男は何やら驚いた様に両目を見開いて私を見下ろしている。なんだその顔は。まるで信じられないものを見るかのような目だ。ぱくぱくと何かを言おうとして何度も台詞を飲み込んで、男は、やっと意を決したように私の名を呼ぶ。
「フィリミナ」
「なんでしょう?」
「俺は確かに、一度死を覚悟した」
「はい」
馬鹿な真似をしたものだと思う。どうしようもなく馬鹿な真似だ。私のことなんてどうせ頭になかったのだろう。
そんな思いを込めて睨み上げるが、怯みも臆しもせずに見つめ返された。久々に見るその顔はやはりうつくしいけれど、その左目の下にうっすらと傷痕が残っていることに気付く。そこに思わず手を伸ばしかけて、かろうじて止めた手を、逆に掴まれてしまう。
痛いほどにきつく握り込まれた手に顔を顰めると、はっとしたようにその力が弱まった。けれど、その手は離されない。
向かい合わせになり、手を繋いだまま、男は続ける。
「その時思ったことがある」
姫様のことか。そう内心で自嘲しながら見つめれば、繋いだ手とは反対側の白い手が私の頬に触れた。驚くほど優しい手だった。こんな風に誰かに触れられるような男だったのか。朝焼け色の瞳が、確かな熱を持って私を見下ろしている。
「お前のことだ」
「わたくし?」
それは何だ。倖せになってくれとでも思ったというのか。
「『しあわせにならないでくれ』」
「は?」
よく聞こえなかった。というか聞こえたくなかった。思考が追い付かずきょとりと目を瞬かせるが、男の雰囲気は冗談を言っているようなものではない。どこまでも真顔で、真剣だった。
「『俺のいない世界で、倖せになんてならないでくれ』。そう思った」
「…それは、また」
何というか、随分とひん曲がっている。
そんな心配せずとも、おかげさまで嫁いでもいないのに未亡人のような扱いを散々受けた。この男のいない世界は、漆黒も朝焼け色も無い世界は、何の色も無い世界だった。辛くは無い。退屈も無い。ただ平穏で、そして、どうしようもない喪失感ばかりが胸を占める、そんな世界だった。そんな世界で、どうやって倖せになどなれたというのだろう。
死に際に不幸を願われるほど私は疎まれていたのか。―――――いいや、違う。違うのだろう。そうではないのだろう。朝焼け色の瞳が私を見下ろしている。うつくしい瞳だ。幼いあの日、私が目と一緒に心を奪われた瞳。そこに浮かぶ光の熱さに焼け焦がされてしまいそうだ。ああ、そうだ。そうだった。私は知っていた。そうだったのだ。これこそが、エギエディルズ・フォン・ランセントであると。
「ばかなひと」
声が震えた。訃報を聞いたあの日と同じ台詞を、あの日とは全く違う心境で呟く。馬鹿な男だ。本当に。これっぽっちも褒めていないというのに、何故か目の前の美貌は嬉しげにその瞳を細める。本当に馬鹿な男だ。冗談ではない。私が、どれだけ。そう罵ろうにも言葉にならない。声が出ない。ただその代わりに、頬を熱いものが幾筋も伝って落ちていく。
「泣くな」
「こんな時くらい、泣かせてくださいませ」
弾んだ声が腹立たしい。昔からそうだ。私が困ったり失敗したりした時ばかり笑って。けれど私は、そんな時にこの男が覗かせる、年相応のかわいらしい笑顔が好きだった。愛しかった。その胸に頬を寄せる。両腕をその背に回し、涙を隠す。応えるように私の背に回された温もりに、一層涙があふれた。
「おかえりなさい、エディ」
「ああ、ただいま」
ただいま。その一言が、ずっと欲しかった。
そして、私の様子を見にやってきた乳母が、部屋の中で抱き合っている私達を見て仰天し、文字通り腰を抜かすのは、この数分後の話だ。