7
懐かしい夢を見ていた。あの男と最初出逢ったあの朝から、最後別れたあの夜までの夢。
密やかに出立していったあの男の見送りには行かなかったから、事実、あの夜が最後の対面だった。
月明かりに照らされた白いかんばせを、伏せた長い睫毛が落とした影を、ゆらめく朝焼け色の瞳のうつくしさを。私は未だ、あれほどまでに明確に覚えていたのか。
そんな自分に失笑しながら、徐々に浮上していく意識に、内心で嘆息する。
なるほど、まだまだ私は考えが甘かったらしい。覚悟を決めていたつもりだったが、所詮『つもり』は『つもり』に過ぎなかったことを思い知らされた。まさか衝撃のあまりに倒れるなど、私らしくもない。
以前出席した夜会で、侵入者たちの襲撃を受けた際にすら、他の令嬢たちが散々泣き、喚き、失神する中で、泣きも喚きも失神もせずにいたこの私が。
いやあの時は単にそのどれもをする余裕がなかっただけなのだけれど。ああ、でも、本当に、らしくもない。
「お嬢様、目を覚まされたのですか?」
「…シュゼット?」
そう思いながら目を開いた途端に耳に飛び込んできたのは、産まれた時から慣れ親しんだ乳母の、ほっとしたような微笑みだった。
王宮からやってきた伝令が齎したのは、案の定、あの男の訃報だった。いや、訃報、というのは言いすぎか。ただその生存が絶望的というだけだ。
旅の道中、魔王の側近の中でも最強であるという謂れの残っている高位魔族の襲撃を受け、自ら囮になり、大魔法を使った、らしい。
それは、これまでその魔法を使った魔法使いは皆命を落としたという謂れのある、成功させたものは誰もいない大魔法。それは北に大きく広がる原生林の一部を容赦なく抉り取り、後にあの男の魔法によって最寄りの街まで転移させられた勇者たちが戻っても、あの男の杖だけが大地に突き刺さっていたのみであったという。
そんなあの男の代わりに、その弟子である少年が、勇者一行の後を追い王宮を出たとも聞いた。私も彼には一度顔を合わせたことがある。
当初、あの男が弟子なんてものを取るなどとは思いもしなかった。そんなことをする暇があれば自分の研究に没頭していそうな男だったからだ。
そんなあの男が弟子にとった少年は、ランセントのおじ様の髪とよく似た黒交じりの灰銀の髪を持っていた。このファザコンめ、と当時思ったものである。
人見知りするきらいがある、少々内向的なかわいらしい少年が死地へと赴いていったというのに、「どうでもいい」と思ってしまう私は冷たい人間なのだろう。
それでも、真実どうでもいいのだ。どうでもいいと。そう、思ってしまうのだ。
「お嬢様、気を落とされないでくださいまし。伝令の者はああもうしておりましたが、あのエギエディルズ様がそう簡単に魔王軍などにどうこうされるものですか。」
「シュゼット、ありがとう」
必死に言い募ってくれる乳母に笑いかける。その気遣いが嬉しい。普段は厳しい彼女であるが、それが全て私を思ってこそであることを知っている。その優しさに、温かさに、いつだって助けられてきた。
あの男ですら、この乳母には敵わない。そんな彼女のいう事だ、その通りだと頷きたい。頷いて、安心したい。
でも、お願い。
「少し、ひとりにしてくれるかしら」
そう笑いかけた瞬間、乳母は痛ましげに眼を細めた。ああしまった、失敗してしまったかもしれない。上手く笑えていなかったのかもしれない。
けれど私が何かを言う前に、彼女は一礼して部屋から出て行った。それを見送れば、部屋に残されたのは私一人。
ベッドの上で上半身を起こす。頭が痛い。ずきずきと痛む。頭の中を、倒れる前に聞いた伝令の言葉がぐるぐるとまわる。
『自ら囮になった』? なんだそれは。そんなことをするような殊勝な性格などしていなかったではないか。そんな、誰かの為に命を懸けるような、そんな男ではなかったではないか。
もっと嫌味で、皮肉ばかり言って、連絡も無しに淑女の邸宅にやってくるくらいに自分勝手で、仕事ばかりしている朴念仁で。
そんなあの男がどうして自ら、囮になるなどという真似をしたのだろう。それが使命だったからか。そうするのが一番合理的だと判断したからか。それとも、それほどまでに姫様に惹かれたのか。
「…ばかな、ひと」
だから反対したのだ。たった一度だけしかできなかったけれど。
いつの間にか“あの子”ではなく“あの男”と呼ぶようになっていたあの男に、初めて願い事をした。初めて我儘を言った。
「行かないで」と。
それを切って捨てられた瞬間から、私はずっとこうなることを予感していた。
「――――――――――ッ、あ、」
気を抜けば零れ落ちそうになる嗚咽を、唇を噛み締めることで押さえれば、ぐぅ、と喉が奇妙に鳴った。その代わりのように、涙が止め処なく溢れてくる。両手で顔を覆っても、それは変わらなかった。
せめて、せめて、せめて。
「いきていて、くれたら、それでよかったのに」
生きて戻ってきてくれさえしたらそれで良かったのだ。だからこその覚悟だった。例えもうあの瞳が私を映すことが無いとしても。婚約者という立場を失うことになったとしても。それでも、一人の友人としては傍に在れただろうから。
「…やっぱりまた、結婚できそうにないなぁ」
『私』の口調で呟いたその台詞は、思いの外情けなく部屋に響いた。