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魔法使いの婚約者  作者: 中村朱里
おまけ

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54/65

【SS】蓮のうてな

文字書きワードパレットより、No.15『アレ・サンプル』(眩む・一人・荷物)。

妻編その後。

――曰く、人生とは帰り道のない旅路であるという。


いと高き場所に坐す女神は人間ひとりひとりに、それぞれ異なる荷物を抱えさせ、人生という旅路に送り出すのだそうだ。

かつて一世を風靡したのだという偉大なる詩人が残したその文句を初めて聞かされた時、エギエディルズ・フォン・ランセントは、「ならば女神は、俺のことが大層お嫌いでいらっしゃるようですね」と言い放ち、養父に苦笑されたものである。

まだ幼かった自分のその発言は、我ながらあまりにもかわいくない、傲慢な発言であったと今ならば思う。

確かに自分は、混じりなき漆黒の髪をいただいて生まれ、生家においてはろくでもない扱いを受けたものの、それでも養父という素晴らしい人に引き取ってもらえた。この髪を恐れ、忌避する人間は山のように存在するけれど、同時に、当たり前のように手を差し伸べてくれる相手だって存在している。

女神は人間に荷物を与えるが、その荷物が疎ましいばかりのものではないらしいことを、最近になってようやく理解できるようになった。


だがしかし、ここに来てエギエディルズは、その女神が背負わせてくださったのだという荷物の中の一つ――いわゆる、人生の試練とでも呼ぶべき事態に直面していた。


才色兼備と謳われ、王宮筆頭魔法使いという地位にまで登り詰めた自分にとって、大抵のことは試練になどとはなり得ない。多くは片手間に片付けられることである。

だがしかし、その『多く』の範疇に収まらない、ほんのわずかの事態は、ほんのわずかであるからこそ、余計に厄介極まりないものである。


ひらたく言えば、喧嘩した。

誰と、なんて言うまでもない。

妻であるフィリミナ・フォン・ランセント、その人と、である。


何がきっかけであったのか、今となってはもうどうでもいい。正直それどころではない。

問題は、あのフィリミナの表情だ。

今朝、登城前の玄関先で、エギエディルズはフィリミナとちょっとした口論になった。その時のフィリミナのかんばせに浮かべられていたのは、当初は困ったような苦笑であった。だが徐々になんとも表現しがたい凄みを孕む笑顔になった。

その時点で気付くべきだった。黙るべきだった。もっと言ってしまえば、謝るべきだった。

それなのにこの口は黙ってはくれず、やっと気付いた時には、フィリミナの表情から完全に笑顔が消えていた。

はたと口を噤むエギエディルズを見上げて、いつもの穏やかな表情からは想像もできないほど冷え切った無表情で、妻は言った。


「もう、いいです」


怒りも悲しみもない、どこまでも淡々とした声音だった。

凍りつく夫を冷ややかに見上げて、妻は最後通牒を突き付けてきた。


「いってらっしゃいまし、エディ」

「ま、待て、まだ話は……」


ぐいぐいと背中を押して追い出そうとしてくるフィリミナに対し、エギエディルズは反抗できなかった。それどころか、そのまま玄関の外まで押し出されたかと思うと、かろうじて吐き出そうとした反論すら皆まで言わせてもらえないまま、バタン! と鼻先で扉を閉められてしまった。

そして、ガチャン! と内側から鍵が閉められる音が響き渡るのを、どこか遠くで聞く羽目になった。

呆然と立ち竦んでいたら、待ち構えていた馬車の御者に、大層おそるおそる声を掛けられ、そうしてやっとエギエディルズは、現状がとてもとてもまずいものになってしまったことに気付いたのだが……すべて、後の祭りだった。

後悔先に立たずとはよく言ったものである。先人は偉大な言葉を残してくれた。ありがたすぎて思わずこの拳を捧げさせていただきたいくらいである。


思い返すだに溜息を吐きたくなる。

というか、もう何度実際に溜息を吐いたのか、解らないくらいだ。


黒蓮宮の自分の研究室でいつものように魔導書や論文に目を通していたのだが、弟子であるウィドニコルに、「あ、あの、息抜きでもしてきたらどうですか?」と大層怯えた様子で進言されるくらいには、自分の機嫌は悪くなっているらしい。

いい歳をしていまだに自分で自分の機嫌が取れないなんて愚の骨頂だ。そんなことは解っている。理解している。もちろん納得だってしているとも。

だがしかし、感情はそれらばかりでは抑え切れるものではない。

駄目だ、また苛々してきた。


それもこれも全部、全部が全部、フィリミナが悪い。


自分をこんな風にするのなんて、後にも先にも彼女だけだ。自分自身が相手なら、自分はもっとうまくやれる自信がある。相手が他ならぬフィリミナだからこそ、こんなにも腹立たしく、苛立たしく、そして情けないくらいに寂しくて不安になる。

もう二度と笑いかけてもらえなくなってしまったら、「エディ」と呼んでもらえなくなったら。考えるだけで目眩がするようだ。

だからこれはやはりフィリミナが悪いのだと改めてそう思わずにはいられない。

フィリミナ本人が聞けば「責任転嫁という言葉、ご存知ですか?」と問いかけてくるに違いないことを思いながら、エギエディルズは歩み続ける。


途中、こちらの姿を認めた魔法使いや司政官、そして騎士や侍女といった王宮勤めの面々が何か恐ろしいものを見つけたように息を呑み、エギエディルズが通り過ぎた後で何事かをひそひそと囁き合っていた。

いつもならば気にならない彼らのそんな行動が今日はなんだか妙に癇に障って仕方がない。

何もかもが煩わしくてならなくて、国立図書館へと足を急がせる。

あそこならば、禁書が納められた書庫にでも入れば、人目につかずに息抜きできるだろう。

国立図書館勤め扱いになっているフィリミナの父や弟と鉢合わせする可能性がなきにしもあらずだが、前者は自分のことをそっとしておいてくれるだろう。後者は噛み付いてくるだろうが、むしろそれは願ったり叶ったりだ。存分に八つ当たりしてくれる。


そう心に決めていると、ようやく目的地へと辿り着く。


この漆黒の髪を晒していれば、わざわざ身分証を見せずとも、国立図書館に出入りできる。つくづくいらない面倒を招いてくれるこの髪も、こういう時ばかりは便利だ。

足を踏み入れた図書館の中は、いつも通りの静謐な空気に満ちていた。外のざわめきもにぎわいも置き去りにして、今も昔も変わらない静けさを保ち続けている。

慣れ親しんだ古い紙とインクの匂いが鼻先をくすぐっていく。それだけで、波立っていた心が少しずつ凪いでいくのを感じた。


そうだ。本当は、解っている。

いくら想像の中の彼女が言う通りに『責任転嫁』なるものをしようとしても無駄な足掻きだ。解っているのだ。

フィリミナではなく、間違いなくこの自分が悪いのだということくらい、痛いくらいによく解っている。

フィリミナが滅多に見せない本気の怒りを見せたということは、それだけ彼女にとって自分が許しがたいことをしたということなのだろう。


――もっとご自分を大切になさってくださいまし。


ああ、そうだった。喧嘩のきっかけは、ここ最近の自分の勤務状況だ。

興味深い古代魔法の研究に没頭し、休暇どころか寝食も忘れていた自分に、とうとうフィリミナが苦言を呈してきたのだ。

朝早く登城し、下手すれば泊まり込みも辞さず、帰ってきたとしてもそれは午前様と呼ぶべき時間帯で、しかも仕事を片手に持ち帰ってきていて。

そんな自分に対して、今日まで何一つフィリミナは文句を言わなかった。どれだけ帰りが遅くなっても、「おかえりなさいまし、エディ」とエギエディルズのことを待っていてくれた。

それがどれだけありがたく倖せなことであるのかを、今更ながらに痛感する。


「……最低だな」


一応まだ新婚と呼んでも差し支えのない関係だというのに。

現状に浮かれるばかりでフィリミナのことを振り返らずにいたせいで、取り返しのつかない事態にまで彼女を追い込んでしまったのに、それなのにまた自分は同じことを繰り返そうとしているのか。

本当に、最低だ。今度こそフィリミナに「実家に帰らせていただきます」と告げられても文句は言えない。

そう思うと、もう駄目だった。帰りたい。一刻も早く。そして謝って、それから力いっぱい抱き締めたい。

取り返しのつかなくなることになる前に帰りたい――帰らなくては。

そうエギエディルズが、足早に図書館の本棚の合間を歩いていた足を止めて、引き返そうとした、その時だった。


「……ですから、フィリミナ嬢。一刻も早く見限るべきです」


ふと鼓膜を震わせた、エギエディルズにとっては自身の名前以上に大切に思える響き。反射的にすぐ側の本棚の影に隠れてそちらをうかがえば、人目に付かない古書の本棚の間の狭い通路で、二人の人物が向かい合っていた。

片方はエギエディルズの妻であり、現在頭の中のすべてを占めていた人物、つまりはフィリミナだ。

数冊の本を抱えて立っているフィリミナの前には、その行く手を阻むようにして、一人の青年がいる。

黒いローブを羽織っている彼の横顔をしかと見つめてから、エギエディルズは眉をひそめた。

知らない顔ではない。黒いローブが示す通り、あの青年は自分が代表を務める黒蓮宮に所属している魔法使いだ。

エギエディルズは、黒蓮宮という組織のことを、ある程度は掌握している。魔法使いは基本的に実力主義だ。この漆黒の髪を厭おうとも、圧倒的な実力差の前では誰もが皆エギエディルズの前に跪く。

だが、その『ある程度』から逃れた一部――つまりは、若くしてエギエディルズが王宮筆頭魔法使いという立場にあることを面白く思っていない者達が、言うまでもなく確かに存在しているのである。

自分よりも年上の部下が、フィリミナのことを、“ランセント夫人”ではなく、わざわざ“フィリミナ嬢”と呼んだその意味が解らないほど、自分は鈍くはない。

二人がこちらに気付いた様子はない。それをいいことに、エギエディルズはその会話に耳を傾ける。


「あんな忌まわしい純黒を持って生まれたような男ですよ? きっと前世でさぞ罪深い所業を犯したに違いない。我らが女神は、今世にて抱えきれない荷物を背負わせ、償わせようとしているのでしょう。貴女が巻き込まれてしまわないか、僕は心配でならないのです」


そうして聞こえてきたのは、ある意味予想通りの内容だった。

先達て開かれた姫の夜会にて、フィリミナの存在は、エギエディルズ・フォン・ランセントの妻であるとして、正式に公表された。夜会に参加していた者はもちろんのこと、ある程度の立場にある貴族達の間で、フィリミナの名前は広く知られることとなった。

フィリミナは、今までよりも格段に増えた社交界からの誘いに、溜息を吐きながら頭を悩ませていた。

今フィリミナに話しかけているあの男は、彼女が“フィリミナ・フォン・ランセント”であると知りながら、あんな台詞を口にしているという訳だ。


思わず飛び出しそうになった舌打ちはなんとか飲み込んだものの、ひそめた眉によって眉間に寄ったしわがますます深くなるのを感じる。


忌まわしい純黒? そんなこと、言われずとも自覚している。

前世で罪深い所業? だったらもっと自分は不幸だったはずだ。

抱えきれない荷物? 言うに事欠いてわざわざ古い詩歌の引用などナンセンスすぎる。


そう、一つ一つに反論することは容易いことだった。だが、何故だが口の中がカラカラに乾いていく。さっさと二人の間に割り込んで、フィリミナを連れ去ってしまいたいのに、足は一歩も動かない。耳元で、つい先程の男の台詞がまた蘇る。


――貴女が巻き込まれてしまわないか、僕は心配でならないのです。


フィリミナが、先達ての呪いの一件の渦中に巻き込まれたのは、この自分が、抱えていたはずの荷物を取り落としてしまったからなのではないか。

ふとそう思った。らしくもないことは解っている。今更女神に対しとやかく文句を言うつもりなどない。

そうだろう、解っているとも。先達ての一件は、すべて自分のせいだったのだから。

今も昔も、エギエディルズはフィリミナを自身が取りこぼした荷物のせいで傷つけてきた。もう二度と繰り返すまいと誓ったのに、それなのに今朝、またやらかしてしまった。

今度こそ本当に愛想を尽かされるかもしれない。そんな、そんな、こと、は。


「少し前にもあの男ご自慢の王宮の結界に異変がありましたし、王宮筆頭魔法使いの名が聞いて呆れますね。まったく、陛下も何故あんな男を筆頭になど選ばれたのだか」

「……ええ、その通りですね」


穏やかな声音に、エギエディルズはぎくりとする。

気付けば俯かせていた顔を持ち上げてそちらを見遣ると、フィリミナは微笑んでいた。フィリミナの笑顔に、自らの台詞に同意が得られたのだと思い、にやにやと男は笑っている。

その笑顔が腹立たしいと思う権利が、自分にはあるのだろうか。

口を挟むことも、ましてや二人の間に割り込むこともできずに立ち竦むエギエディルズのことになどちっとも気付いていない様子で、男が更に何かを続けようと口を開こうとする。

だが、それよりも先に、フィリミナが口火を切った。


「陛下があの人のことを王宮筆頭魔法使いになんて地位に選んでくださったおかげで、わたくしは本当に何度もさびしい思いをさせられましたの。いえ、過去形ではありませんね。わたくし、今でも、とってもさびしいのです」

「え、は……?」


何を言っているのかと言いたげに、間抜けにぽかんと大口を開ける男に対し、エギエディルズの妻は笑顔で続ける。


「あの人は仕方のないおばかさんですから、その立場をいいことに、散々わたくしのことを放っておいてくれますの。酷いと思いません?」

「え、ええ、まったく甲斐性のない男ですね」

「まあ、そう思ってくださいます?」

「もちろんです! そうですとも! あんな男が王宮筆頭魔法使いなどという立場にあるなど、許されては……」

「ですが」


ぴしゃり、と。男に皆まで言わせずに、フィリミナは笑顔で言い放つ。その笑顔は穏やかで柔らかなものであるというのに、何故だか有無を言わせない迫力がある。

エギエディルズですら黙らずにはいられない微笑みを真正面から向けられた男は、思わずと言った様子で鼻白み、そのまま口籠った。

ふふ、とフィリミナは小さく声を上げて笑う。ふふ、ふふふ、としばし存分に笑ってから、そうしてようやくまた口を開いた。


「ですが、それもまた女神様が背負わせてくださった荷物のひとつであると思っております」


その言葉に、息を呑んだのは、男だったのか、それとも自分だったのか。

エギエディルズには解らなかった。解らなかったが、これからフィリミナが口にすることを一言一句聞き逃してはいけないような気がしてならなくて、呼吸すら忘れてフィリミナの言葉に聞き入る。


「あの人が自らの力で勝ち得た荷物です。もしもあの人が一人ではそれを抱えきれないというのならば、わたくしがその半分を背負います。半分でも耐え難いと仰るならば、更にもう半分を。いくらだって、どれだけだって、構うものですか。だってそれが、妻たるわたくしの役目でありましょう?」


何の気負いもなく、まるで「昼食はお手軽にサンドイッチにしますね」という台詞と同じような気安い口ぶりだ。

けれどその内容は、あまりにも途方もないあたたかさに満ちたものだった。

先程までとは違った意味で呆然と立ち竦むこちらに、やはり二人は気付いた様子はない。


「女神がくださった荷物を軽率に分け合うなど、そんな罰当たりな!」

「まあ、そうですね。確かにそうかもしれません」

「だったら……!」


気色ばんだ男が、図書館にあるまじき声量で怒鳴るが、その怒りを真正面から受け止め、怯えることも怒ることもないフィリミナの表情は、やはり穏やかなものだった。


「ですが、困ったことに、あの人こそ……エギエディルズ・フォン・ランセントこそが、わたくしに女神様が背負わせてくださった荷物のすべてだと思うのです。何にも代えがたい、唯一無二の宝物と呼ぶべき荷物です。だったらわたくしがあの人ごとあの人の荷物を背負うのは、当然のことではありませんこと?」


窓から陽光が差し込んでくる。曇っていた空に切れ目が入り、抜けるような青が覗き、金色の光がフィリミナを照らし出す。


――――目が、眩む。なんてまばゆいのだろう。


朝焼け色の目を細めてフィリミナに見惚れるエギエディルズの視界の端で、男がぶるぶると身体を震わせている。

遠目に見てもそうと解るほど明らかに顔を赤らめている男は、やがてその腕を勢いよく振り上げた。


「こっちが下手に出ていたら、いい気にな……っ!?」


だが、しかし。その腕が振り下ろされることは、ついぞなかった。

気付けば床を蹴っていたエギエディルズが、容赦なくその腕をそのまま捻り上げたからだ。

エギエディルズの顔を間近で認めた男は、突如襲ってきた痛みに悲鳴を上げることすらできず、赤かった顔を青――いいや、土気色にまで変じさせる。

ぱくぱくと口を声なく喘がせる男を後目に、フィリミナに「無事か」と問いかければ、それまで唖然としていた妻は、ようやくハッと息を呑んだ。


「エ、エディ、あなた、いつからそこに……っ!?」

「『一刻も早く見限るべき』、あたりからだな」

「ほとんど最初からじゃないですか!」


男とは違った意味で顔を赤らめるフィリミナが声を荒げるが、そんな妻に肩を竦め返し、腕を捻られながらもぶるぶるとこれまた先程とは違った意味で身体を震わせている男に、エギエディルズは囁きかける。


「さっさと消えろ。左遷されたくなかったらな」

「は、はいっ!」


腕を解放されるのとほぼ同時に、よろよろと身体をよろめかせながら、ほうほうのていで男は逃げ出した。

静寂を是とする図書館にあるまじき足音を立てて走り去る男に、周囲からいかにも迷惑そうな視線が向けられている。

そんな情けない後ろ姿を見送ってから、エギエディルズはフィリミナが抱えていた数冊の本を奪い取った。


「よこせ。借りていくんだろう。俺が運ぶ」

「え、あっ」


片手で軽々と何冊もの本を抱え、そして空いたもう一方の手で、フィリミナの片手を掴む。

そのまま歩き出せば、手を引かれたままフィリミナは大人しくついてきてくれる。そのことにどうしようもなく安堵しているエギエディルズの耳に、小さな声で、「ありがとうございます」と囁く声が聞こえてきた。

ほ、と、吐息を漏らしてから、足の速度を緩めてフィリミナと並んで歩ける場所に移動して、それから、エギエディルズもまた小さく呟く。


「今朝は……いいや、最近の俺は酷かった。すまない」

「……わたくしこそ、言いすぎました。ごめんなさい、エディ」


図書館に相応しい、小さな囁き声で交わし合った謝罪に、顔を見合わせてついつい笑ってしまう。たったそれだけのことが、こんなにも嬉しくてならない。

女神は確かに、自分にとんでもない量の荷物を押し付けてくれたのかもしれないが、その荷物を分かち合ってくれる存在が、こんな風に隣にいてくれるのだから、この人生、決して悪いものではない。


――曰く、人生とは帰り道のない旅路であるという。


だがその旅路は、一人きりの孤独な旅路であるとは誰も言ってはいない。

どれだけ長い旅路であろうとも、妻と手を繋いで歩いて行けるのならば、こんなにも倖せなことはない。引き返せなくとも構わない。

フィリミナとならば、どこへだって、どこまでだって行けると、そう思えてならないのだから。


「そもそも、俺の帰る場所は『ここ』だしな」

「はい? 何か仰いまして?」

「いいや、なんでも」


不思議そうに首を傾げる妻に、エギエディルズはそれ以上何も言わずにただ笑いかけた。身内の前以外では滅多に見られない極上の笑顔だ。

息を潜めてエギエディルズ達のやりとりを見守っていた周囲が息を呑み硬直するが、その笑みを間近で見せつけられたフィリミナはますます首を傾げるばかりである。

それでいいのだとエギエディルズは思う。

自分の帰る場所はいつだってお前の隣だなんて、流石に気恥ずかしくてこんな場所で言えるはずがない。

どうせなら今夜ベッドの上で、なんて考えているこちらの胸中など知る由もなく、やはりフィリミナは首を傾げたままだ。

そんな妻を見下ろして、エギエディルズは繋いだ手に力を込めるのだった。

2020年5月2日に書籍版『魔法使いの婚約者』シリーズ第10巻、『魔法使いの婚約者10 マスカレードで見つけてくれますか?』が発売されます。詳しくは活動報告にて。よければ何卒よろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
[一言] やはり二人の日常の話は本当に癒されます(^-^) 続編があったら良いなと思ってしまいます。
[一言] んぐぐぐ相変わらずの最強妻の笑顔 益々惚れて沼底に落ちる天才変態魔術師ʬʬʬʬʬʬ
[一言] そして才色兼備な王宮筆頭魔法使いさんは、今夜もまたオオカ……げふんげふんげふげふ……
感想一覧
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