【SS】おやすみなさいのそのかわり
文字書きワードパレットより、No.19『ラブルム』(おやすみ・合図・頬杖)。
エディとフィリミナの結婚したばかりの頃のとある休日。
込み上げてきたあくびを、エギエディルズは薬草茶とともに飲み干した。だがしかし、身体にまとわりつく眠気ばかりはどうすることもできず、結局、ほう、と溜息を吐かざるを得なかった。
物憂げな溜息はぞっとするほどの色を孕み、その姿を目にした者はどうしようもない引力に視線を引きずり込まれて見惚れることしかできないだろう。
自身の容貌が『そういう』ものであるという自覚を、幼い頃から身に叩き込まれてきたエギエディルズは、人前では、滅多なことでは『そういう』仕草――つまりは油断や劣情を誘うような仕草を見せることはない。
『そういう』仕草が必要であると判断した場合は、まあ不本意ながらも『そういう』真似をするのも致し方ないとは思ってはいるが、『そういう』場合は実に稀だ。そもそも、自分の『そういう』仕草に惹かれてほしい……要は、『くらりとキてほしい』相手には、ちっとも効果がないのだから、エギエディルズにとっては、女神にその美貌を認められているという夜の妖精すら恥じ入ると謳われる自身の容貌など、大した意味を成さないのである。
世の中の女性が聞けば「なんて贅沢な!」と腹を立てて地団駄を踏むに違いない結論だが、エギエディルズにとって唯一と言っても過言ではない存在が聞けば「お美しい方にはお美しい方なりのご苦労というものがございますものね」と苦笑するに違いない。
その特別な存在こそが、エギエディルズのここ最近の寝不足の原因であるだなんて、本人が聞けば「あらまあ」と瞳を大きく瞬かせて首を傾げることだろう。
特別な存在――もとい、先日晴れて婚姻を結んだ元婚約者にして現在のエギエディルズの妻であるフィリミナ・フォン・ランセント。
寝所を共にするようになって既に一週間以上もの時が経過するが、その間というもの、エギエディルズは安らかな眠りというものからすっかり距離を置いた生活を送っていた。
世間に言わせれば、間違いなく“新婚”と呼ばれるのがふさわしい、自分とフィリミナの関係。となれば当然夜の事情も絡んでくる。
いや、その件については深く語る気はエギエディルズはちっともない。フィリミナの夜の姿なんて、自分だけが知っていればいいのだ。
自身の夜の事情について、不満があるかないかと言われれば、もちろん後者である。不満などあるはずがない。結婚する前と比べたら、フィリミナのぬくもりを感じながらベッドに沈むことができる最近は、絵物語で語られるような女神の坐す天の国にいるかのようだとすら感じてしまう。
それなのに。それなのに、だ。
ほう、とエギエディルズは再び溜息を吐いて、テーブルの上に頬杖をつく。寝不足の頭が重くて仕方がない。
今日はいい天気だ。結婚式を挙げて以来、久々にもぎとった休日、それも連休である。明日も休みであるという稀有なる本日、フィリミナと共に越してきたこのランセント家別邸の中庭のテラスにて、薬草茶とともにエギエディルズは読書に勤しんでいた。
常であれば一字一句逃さず頭に吸収されていくはずの魔法言語が、今はまるで流れる水のごとく、とめどなくするすると指の隙から抜け落ちていってしまう。こんなはずではなかったのだが、と三度溜息を吐いてしまう。
こんな時、「溜息ばかりですと倖せが逃げていってしまいますよ?」と笑ってくれるフィリミナは、現在、茶菓子を焼くのに夢中になっている。
つい先日、エギエディルズの研究室の薬草園に勤める庭師が収穫してくれたハーブの類を渡したところ、「でしたらこれでシフォンケーキを焼きますね」と瞳を輝かせていた。大層嬉しそうなその姿に、勤勉な庭師に感謝しつつ、素知らぬ顔を装って「好きにしろ」と告げたのだが、今となってはその自身の浅はかさが悔やまれてならない。
シフォンケーキなんて今日でなくともいいではないか。それよりも、せっかくの休みなのだから、ずっと側にいてほしい。叶うならば、そう、叶うならば、ずっと、ベッドの上で。
――なんて、口が裂けても言えやしないエギエディルズの本音である。
繰り返すが、夜に不満がある訳では決してない。むしろ以前と比べたら、天と地の差であると言っても過言ではないほど満たされていると言えるだろう。
それでも。それなのに。いいや、だからこそ。
「ままならないな……」
「まあ、何がですか?」
誰に向けたものでもない、あえて言うならば自分に対して向けただけだった些細な呟きに対する問いかけに、エギエディルズはらしくもなく息を呑んだ。
思考を覆ってしまおうとしていた霞みを振り払うようにゆっくりと瞬きをして、頬杖をついたままそちらを見遣れば、愛しい妻がそこに立っていた。
不思議そうな表情を浮かべている彼女が押しているのは、キッチンワゴンだ。その上に乗っているのは、透明なガラス製のドームの中で見事に焼き上げられたシフォンケーキと、その付け合わせであるらしい生クリームである。
なるほど、どうやらシフォンケーキは無事完成したらしい。それをわざわざ持ってきてくれたことに感謝の言葉の一つでも手向けられればよかったのだが、現在のエギエディルズの頭と口は、思うようには動いてはくれなかった。
これは自分で思っていたよりも随分と重症であるらしいことにようやく気付くが、だからと言ってどうすることもできず、ぼんやりと頬杖をついたままエギエディルズはじっとフィリミナの姿を見つめた。
彼女は不思議そうに首を傾げながらもエギエディルズを見つめ返し――そして、ふと何かに納得したように一つ頷いて、ワゴンを押しながらくるりと踵を返した。
「フィリミナ?」
「ちょっと待っていてくださいまし。すぐに戻りますから」
エギエディルズが呼び止めるよりも先に、フィリミナは足早になってワゴンと共に屋敷の中へと消えてしまう。そして、どうかしたのだろうかとエギエディルズが訝しむ間もなく、フィリミナは再び目の前に戻ってきた。
その手にはもうワゴンはない。代わりに、大きなブランケットが抱えられている。何がどうしてシフォンケーキがブランケットに変化したというのだろう。
ますます訝しむことしかできないエギエディルズの元に、フィリミナは歩み寄り、まずはエギエディルズの手にあった魔導書を取り上げた。
未だ頬杖をついたまま、あ、とぼんやりとエギエディルズが見つめるその先で、フィリミナは丁寧な手つきで開きっぱなしになっていた魔導書を閉じてしまう。そして、にっこりと笑って、エギエディルズの美貌を覗き込んだ。
「エディ」
「なんだ」
「あなた、おねむさんでしょう」
「…………は?」
おねむさん、という言葉に、エギエディルズは朝焼け色の瞳を瞬かせた。「おねむさんでしょう」とはつまり、「眠たいのでしょう」とフィリミナは言いたいに違いない。
間違ってはいないのだが、それにしても、成人した大の男に向かってその言いぶりはないのではないか。魔王討伐の旅路を共にした仲間達が聞けば、全員が全員、揃いも揃って「お、お、おねむさん……ッ!!」と腹を抱えて爆笑することだろう。容易に想像がつくところが実に腹立たしい。
ついむっすりと眉をひそめるエギエディルズだったが、いつまでもその不満をあらわにした表情を続けていることはできなかった。自分を見つめるフィリミナの表情が、「おねむさん」という幼い言い回しとは裏腹な、実に心配そうな、不安げなものに変わっていたからだ。
そんな表情を彼女にさせたい訳ではない。いつだって笑っていてほしい。できれば、自分だけに。
そんな子供じみたわがままに蓋をして、エギエディルズはようやく頬杖をついていた頭を持ち上げて、ゆるくかぶりを振った。
「大したことじゃない。お前が心配するようなことなど、何も……」
「わたくしには言えないようなことですの?」
「いや、だから」
「エディ」
エギエディルズのありとあらゆる言い訳……そう、何を言っても言い訳にしかならないごまかしの台詞の一切を封じる、鶴の一声だ。他の誰でもなく、フィリミナにだけ許した自身の愛称を強く呼ばれて、エギエディルズは思わず目を逸らす。
正直言って、言いたくない。言いたいはずがない。けれどフィリミナは、いくら言っても誤魔化されてはくれないだろう。
結婚前であればいざ知らず、妻となってくれた彼女は、「わたくしには知る権利があるでしょう?」と譲らないに違いないのだから。その主張はエギエディルズのことをどうしようもなく喜ばせてくれるけれど、今ばかりは都合が悪い。
どうしたものか、と悩んではみたものの、悩むまでもなく勝敗は既に解り切っていた。結局、自分は、彼女に勝てるはずがないのだから。
そしてエギエディルズは、吐息にも似た小さな声で囁くように呟いた。
「……こわいんだ」
「え?」
ぱちり、と。本日一番大きく、フィリミナの瞳が瞬かれた。そのきょとんとした、何を言われたのか理解できていなさそうな、言ってしまえば間抜け面――それすらも愛しい妻の顔に、ずっと頬杖をついていたせいで凝り固まってしまっていた手を伸ばし、エギエディルズはその頬のラインをそっとなぞる。
「眠ってしまって、その果てに目が覚めたら、今のすべてが嘘になるのではないかと思えてならない」
現在がこんなにも倖せであるからこそ、エギエディルズは、ふとした拍子に怖くなるのだ。
こんなにも満たされている現在が、本当はすべて夢なのではないかと。本当の自分は、先達ての戦の中でとうに地の国へと旅立っていて、フィリミナと想いを通わせ合い結婚したなんて、すべて都合のいい幻なのではないかと。
そう、思ってしまうのだ。
だからこそエギエディルズは夜が怖い。魔王相手にすら感じなかった恐怖を、こんなにも満たされているはずの夜に対して感じる。自分の腕の中で穏やかに眠ってくれているフィリミナの寝顔を見つめながら、思うのだ。
このまま自分も眠りに就いて、次に目覚めたら、もうこの腕の中には、愛しいぬくもりはどこにもいなくなっているのかもしれない。
そう思うと、眠るのが恐ろしくてならない。
まあ眠れなくても、フィリミナの寝顔を存分に見つめていられる時間は、それはそれで得難く尊いものであるので、不快であるどころか役得であるとは思っている。
だが、だからといってこうも寝不足が続くと、色々と生活に支障が出てくる。
こんなにも倖せなのに、その倖せを心から信じることができない自分の弱さが情けない。
「フィリミナ。誰よりもお前が側にいてくれる今を知ってしまったら、俺はもう、前の俺には戻れない」
一度贅沢な暮らしを知ってしまった者は、もう元の質素な暮らしには戻れないのだという。先人は偉大な言葉を残してくれたものだ。まったく忌々しいものである。
屈強なる騎士の軍勢よりも、片手で百の兵士を薙ぎ倒す魔王よりも、他のどんなものよりも何よりも、目の前にいる無力で華奢な女一人の方がエギエディルズにはよっぽど恐ろしくてならない。
フィリミナは、エギエディルズの告白を、黙ったまま聞いていてくれた。エギエディルズを見つめる瞳の奥で、彼女が何を考えているのかは解らない。
呆れているのだろうか。情けないと思っているのだろうか。
何であるにしろ、やはり言うべきではなかった、とエギエディルズが後悔し始めたころ、ふと、フィリミナの手が、フィリミナの頬に宛がわれているエギエディルズの手の上にそっと重ねられた。
毎夜大切に腕の中に閉じ込めているぬくもりと同じ温度に、思わずびくりとするエギエディルズに向かって、彼女はふわりと微笑んだ。うららかな春の、よく晴れた日に、野に生える草花をそっと撫でていく淡い風のような笑顔だった。
「ではエディ、お茶は後回しにして、お昼寝にしませんか?」
そうして彼女の口から飛び出してきた提案に、エギエディルズは思わず目を見開き、その後で「何故そうなる」と呟いてしまった。
「お前、俺の話を聞いていたか?」
「聞いていましたとも。だからこそですわ。今から一緒にお昼寝して、そうして目覚めたときにわたくしが側にいたら、何よりも『今』の証明になるのだと、そう思いません?」
まるで子供のなぞかけの答えのようだ。けれど不思議と、確かにその通りかもしれない、と思ってしまう自分は、やはり本当にとても眠くて仕方がないのだろう。
ここは妻の提案に従うのも一興かと結論付けて頷こうとしたエギエディルズの唇に、そっとフィリミナの人差し指が押し付けられる。
思わず言葉を飲み込むと、愛しい妻は、それに、と小さく続ける。
その頬が美しく薄紅に染まる。一体何を言い出すつもりなのかと、ことりと首を傾げたエギエディルズの耳元に、フィリミナの唇が寄せられる。
「明日もお休みなのでしょう? でしたら、その、今夜は……あの、言わせないでくださると嬉しいのですけれど、ね?」
とにかく、だからこそ今のうちに寝てくださった方が――――。
そう、気恥ずかしげな声が、甘やかな言葉を紡ぐ。極めて珍しいフィリミナからの『お誘い』に、エギエディルズは一気に頭が覚醒したのを感じた。
許されるならばそれこそ今からでも、というエギエディルズの不埒な欲望が、視線に混じってしまったのだろうか。
さっと身を引いてエギエディルズから数歩分の距離を取ったフィリミナは、顔を思い切り赤らめたまま、頑是ない幼子を相手にしているかのように、ゆっくりとエギエディルズに言い聞かせてくる。
「夜、夜にですよ。今はゆっくりお昼寝しましょうというお誘いなんですからね」
解りましたか? と念を押すように問いかけられ、エギエディルズは心の底から渋々頷いた。
そうだとも、せっかく明日も休みなのだから、今日は無理をしても……と、更に己の欲望に極めて忠実なことを考え始めるエギエディルズの元に、おずおずと近寄ってきたフィリミナは、そんな夫を諫めるように、ぴんっとエギエディルズの額を人差し指で弾いてくれる。
「ほら、いいお天気なのですもの。ベンチに行きませんか? そのためにブランケットを持ってきたんですよ」
ほらほら、と促されるがままに椅子から立ち上がると、フィリミナの柔い手がエギエディルズの大きな手を取り、そのまま中庭の片隅に据えられたベンチへと引っ張っていく。
ベンチまで辿り着くと、一歩前を歩いていたフィリミナがさっそく腰を下ろし、隣をぽんぽんと叩いた。
「はい、エディ。どうぞ」
「……ああ」
フィリミナの隣に座ると、改めてあたたかな日差しを感じた。魔王討伐の旅路の中では決して感じられなかった、やさしい恵みの光だ。
ちらりと隣を見下ろせば、こちらを見上げている妻の姿があった。普段は「日焼けしてしまいますから」と言って、日傘を好んで使う彼女の姿が、太陽の柔らかな金色の光の中で浮かび上がっている。
じいとそのまま見つめていると、彼女の手が伸びて、エギエディルズの頬にかかった黒髪を、そっと耳にかけてくれた。
「大丈夫ですよ、わたくしのかわいいあなた」
――ああ、なんてまばゆいのだろう。
無意識に細めただけだったはずの瞼が、そのまま大層重くなってくる。抗えない重力に従って閉じようとする目が最後に見たのは、フィリミナの淡く色づく唇が、「おやすみなさいまし」と音を伴わずにその動きだけで囁く、その姿。
それを合図にしたかのように、急激にエギエディルズの元に眠気が襲ってくる。姿勢を正していられなくなって、そのまま身体を傾けて、隣に腰かけているフィリミナの肩に頭を預けた。くすくすと穏やかな笑い声が耳朶を打つ。
「どうせなら膝枕になさいます?」
「……そう、する」
ずるずると身体をスライドさせて、頭をフィリミナの膝の上へと落ち着けたエギエディルズの意識は、そのまま、ここ最近の不眠が嘘のように、眠気が大きな波となってエギエディルズの意識に打ち寄せ、そのままさらっていってしまう。
ふわりとブランケットが身体の上にかけられる。そうして穏やかな寝息を立て始めた夫の額に、妻が身を屈めて優しくその唇を落としたことを、エギエディルズは知るはずもないのだった。




