【SS】あなたは男の子
幼い思い出と、結婚後の今。
私の名はフィリミナ・ヴィア・アディナ。花も恥じらう御年八歳。蝶よ花よ……とまではいかないが、それなり以上には大切に育てられている、王都に住まう貴族の第一息女である。
今日も今日とて我が屋敷、すなわち魔導書司官を務めるアディナ家の人間が暮らすアディナ邸に遊びに来ているあの少年……すなわち、エギエディルズ・フォン・ランセントと、いつものように魔導書を読むために、その魔導書を父の書斎から運んでいるところだ。
それはいい。それはいいのだが、しかし。
ずっしりと両手にかかる重みに足元がふらつく。気を抜けばそのままひっくり返ってしまいそうになるところをなんとか耐えつつ、私は必死に足を前へ前へと進めていた。
がんばれ私、やれるぞ私。そういくら自分を鼓舞しようとも、やはり辛いものは辛い訳であって。
「お、重い……」
ずっと耐えてきたというのに、とうとう零してしまった台詞は、私以外に誰もない廊下に虚しく響き渡った。独り言なんて、普段であれば誰かに聞かれたいなんて思わないが、今ばかりは違った。誰かこの台詞を聞いてください。そして手伝ってください。そう切に願わずにはいられなかった。
私が両手で必死に抱えているのは、書斎から持ち出してきた分厚い魔導書だ。深い葡萄色の地に金の箔押しが立派な、それは美しい装丁のそれは、一目見るなり気に入って、「今日はこれにしよう」と即決した一冊である。だが、その即決がとんだ選択ミスであったことを私は現在進行形で思い知らされていた。
何せ重い。いかんせん重い。最近、あの子の魔法言語の読解力がどんどん向上しており、加えて、私自身の好奇心のせいか、「いつもよりも分厚い本を」と普段よりも背伸びして選んでみたのが仇となった。
ぷるぷると両手が震える。気を抜けば取り落としてしまうに違いない。それだけは避けねばならなかった。何せ魔導書は貴重品だ。迂闊に落としてページをぐしゃぐしゃにしてしまったら目も当てられない。
そして、それ以上にまずいのは、魔法言語の機嫌を損ねてしまいかねないことである。
魔導書に刻まれた魔法言語は、花も盛りの年頃の少女のようなものだと父は言っていた。気まぐれでわがままな魔法言語の機嫌を損ねれば、魔導書司官としての役割である魔法言語の転写にも支障を来してしまうだろう。
ぐぬぬぬ、と内心で淑女らしからぬ呻り声を上げつつ、なんとか魔導書を抱え直す。そのままよろよろと、客人であるあの子が待っている中庭へと足を運ぶ。
あの子を中庭においてきて、結構な時間が経過している。随分と待たせているから急がなくてはならないというのに。それなのに一歩一歩進むのが精一杯で、急ぎ足になんてなれそうもない。かと言って、ここまで来ては、今更引き返して他の魔導書に取り替えてくることもできやしない。
仕方がない、まだ距離はあるが何とか運んでみせようではないか。そう決意を新たにして、震える両手で魔導書を抱え持ち、よろめきつつも前に進む私に声がかけられたのは、そんな時だった。
「……フィリミナ?」
訝しげな、そこはかとなく躊躇いがちなその声に、ぱちりと瞬きをする。
まだまだ幼いと呼べる、可愛らしい声音だった。その声の持ち主が解らないほど、私はまだ耄碌していない。
自然と下へ向いていた視線を持ち上げると、そこには予想通りの存在の姿があった。
「エディ?」
中庭で待っていたはずのあの子が、何故か目の前にいた。
一瞬腕の中の魔導書の重みも忘れて、きょとりと首を傾げる私に、少年はその実年齢にそぐわない落ち着きぶりで、淡々と口を開いた。
「……遅いから、何かあったのかと思って」
「まあ、そうでしたの。ごめんなさい、お待たせしてしまって」
まさか「自分で選んだ本が重すぎてなかなか歩けませんでした」だなんて間抜けなことを正直に話すことはできず、曖昧に微笑む。
少年の紫と橙が入り混じる朝焼け色の瞳が、私が両腕で抱える魔導書を捕らえた。じぃっとそのまま見つめることしばし。一体どうしたのかと私が無言で首を傾げてみせると、少年は、その白く細い手を、私の前に突き出した。
「貸せ」
「え?」
口数が多いとはお世辞にも言えない少年の、その端的な台詞に理解が追いつかず、瞳を瞬かせる。いや言っていることは解るのだが、だからこそ解らないと言うか何と言うか。
戸惑いを露わにしておろおろと少年を見つめ返す私に対し、彼は更に言葉を重ねてくる。
「俺が持つから、貸せ」
「え? で、でも……」
そうは言われても、と、私は腕の中の魔導書を見下ろした。
この魔導書の重さは半端なものではない。いくらランセントのおじ様に引き取られて以来、その栄養失調ぶりが少しずつ改善されつつあるとは言え、未だ同年代の子供達の中では発育が遅い部類に入る、やせっぽちの少年に任せるにはあまりにも荷が重いのでは。
そう思うのは、決して私だけではないだろう。おそらく満場一致で私と同じ意見を言うはずだ。私よりもずっと細い腕をしているくせに何を言っているのかと訊きたくなってしまう。
けれど、私がそれを実際に口にする前に、少年の方が先に動いた。
「いいから」
いつになく強い口調で言い放った少年は、私の手から魔導書を奪い取った。ふわりと私の両腕が軽くなる。同時に、恐らくは彼にとって予想以上であったに違いない魔導書の重みに、エンジェルかフェアリーかと思わせられる顔が歪んだ。
ああほら、やっぱり無茶だったのだ。いくら慣れ親しんだ仲であるとはいえ、この少年はあくまでもお客様なのだ。そんな彼に無理はさせられない。やはりここは、私が持って運ぶべきであるはずだ。
「エディ、あの、やっぱりわたくしが……」
「~~っ、大丈夫、だ」
いや全然大丈夫そうに見えない。明らかに痩せ我慢と知れる様子である。正直なところ、手を差し伸べたくて仕方が無いのだが、それをしたが最後、私はこの子のプライドを思いっきり傷付けることになるのだろう。
うーん、と悩むこと数秒。そしてすぐに結論は出た。この子の精一杯の気遣いを踏み躙るような真似をするのは、私の本意ではない。だから私は、魔導書をこの手に取り返す代わりに、にっこりと心から笑ってみせる。
「エディ」
「……なんだ」
「ありがとうございます」
「…………別、に、大したことじゃ、ない」
私の礼に対して、少年の返事は訥々とした、実に味も素っ気もないものだった。けれどその耳がほんのりと赤くなっていることに、気付かずにいられるほど私は鈍くはない。
そうして私達は、中庭へと向かって、二人揃って歩き始めたのだった。
* * *
「――なんてこともありましたね」
「…………」
私達夫婦が暮らすランセント家別邸のリビングにて、かつては運ぶだけで精一杯だった葡萄色の装丁が美しい魔導書を手に私はそう締め括った。
私の隣に座っている男は、黙ったまま私の思い出話に耳を傾けていたけれど、訊き終えるとほぼ同時に、その人外じみた中世的な美貌に、非常に複雑そうな表情を浮かべて、すっと私から視線を逸らした。
普段は白いその耳が薄紅に染まっているのは、今私が話した思い出話が、男にとってはあまりにも気恥ずかしい過去の逸話だからだろう。私にとっては微笑ましくも大切な思い出なのだから、そう恥ずかしがることでもあるまいに、と思うのだが。
「……よく覚えていたものだな。大した思い出でもないだろう」
「あら、そうでもありませんよ?」
どこか恨めしげな低い声音――それでも美声なのがなんだか小憎たらしい――で、らしくもなくぼそぼそとそう呟く男に、私はくすくすと笑ってみせた。
よく覚えていたものだな、なんてよくも言ったものだ。その言いぶりから察するに、自分だって覚えていたに違いないくせに。
まあ私がこうして話を蒸し返したことで思い出しただけに過ぎない、男にとっては『大した思い出でもない』話であったとしても、私にとってはそうではないのだ。
そういう意味で口にした、「そうでもない」発言だったのだが、男にとってはその私の言葉は意外なものだったらしい。
逸らされていた男の朝焼け色の瞳がちらりとこちらへと向けられる。
……実際に口にするのは少しだけ気恥ずかしいけれど、「どういう意味だ」と問いかけてくるその美しい瞳を前にしては口を噤むことはできず、私は気恥ずかしさと懐かしさを織り交ぜた笑みを浮かべてみせた。
「だって、たぶんあの時が、わたくしがあなたのことを男の子なのだと意識するきっかけだった気がするのですもの」
いつものアディナ家の中庭のベンチまで、あの少年は息を切らしながらも最後の最後まで文句も弱音も吐かずに分厚い魔導書を運んでくれた。私が見かねて手伝おうとしても、頑として譲ってはくれなかった。その姿に、この子も男の子なんだなぁとしみじみと感動してしまったものである。
だってそうだろう、私よりも背が低くて細くて白くてかわいらしい美少年の存在は、私にとっては“男の子”――すなわち、“異性”という認識は極めて低かったのだから。まあだからと言ってその後の私のあの少年、すなわちこの男に対する態度に変化があったのかと問われれば、別にそんなことは欠片もなかったと答えるしかないのだが。
いやはやそれにしても、この男にもあんなにもかわいらしい時期があったのだなぁと思い返すと、本当に微笑ましいものである。
それがどうしてこんなのになってしまったのか、時の流れとは実に残酷だ。……いや、別に今のこの男がかわいくないとか、そう言っている訳ではないが。今は今で、いや、今だからこそかわいく思えてならないところだってたくさんあるのだけれど――と、私が思っていると、ふいに、私の身体に男の両腕が伸びてきた。
「え、あ、エディ!?」
ひょいっと。本当に、『ひょいっと』、という言葉がぴったりなほどに軽々と男が私の身体を抱き上げて、その膝の上にこれまた軽々と乗せる。
突然のことに目を白黒とさせる私を膝の上で抱き締めて、男は私の耳元で囁いた。
「俺が“男”であるということは、お前が一番よく知っているはずだろう?」
その甘く悪戯げな声音に、私が思い切り顔を赤くして男の腕から逃れようと散々暴れ、それでも男はそんな私の抵抗を易々と抑え込み、そのまましばらく私を解放してくれなかった。
確かにこの男は、私にとっては誰よりも“男”であるらしいと、男の膝の上で、つくづく思い知らされた私であった。
ただの思い出話がどうしてこうなったのか、誠に遺憾である。




