魔法使いの義弟
己の身体を巡る古い言語の響きは、まるで海のさざ波のようだと思う。時に優しく、時に荒々しく、書物に記された魔法言語は、旧き時代を朗々と謡う。
とは言っても、人生のほとんどを王都で過ごしてきたフェルナン・ヴィア・アディナにとって、海というものは絵物語で見聞きしたものに過ぎず、すべて想像に過ぎないものではあるのだが。
何人もの魔法使いの手に触れてきたことで既に黄ばみ傷んだ紙片から、真新しい紙片へと魔法言語の最後の一句を転写し終えれば、身体の中で寄せては返すを繰り返していた波が遠のいていった。
透明な魔法石を切り出して作られた特殊な眼鏡を外し、目頭を押さえる。ひとまず今日の午前中の目標が達成できたことに、ほう、と、安堵の息を吐いた。
次期魔導書司官にして次代のアディナ家当主である自分が、現魔導書司官である父の補佐として国立図書館に出入りするようになって数年が経過する。それなりに役に立てるようになったつもりではあるが、それでも未だに、貴重な書物に触れる時は緊張するし、上手く転写が成功した時は嬉しくなる。今日は特に調子がいい。目標は達成済みであるが、もう一冊くらい軽くこなせそうな気分だ。
どれにしようか、と椅子から立ち上がり書棚に向かおうとすると、じっと分厚い魔導書と睨み合っていた上司――すなわち、父である魔導書司官、ラウール・ヴィア・アディナが、ふと顔を上げてフェルナンを呼び止めた。
「フェルナン、終わったのか?」
「はい。まだ正午の鐘まで少し時間がありますし、もう一冊転写しようかと」
「いや、今朝渡した分が終わっているのなら、ひとまずそれでいい。それよりも一つ、重要な任務を頼みたい」
机の上で指を組み、極めて真剣な表情でそう告げてくる父の姿に、フェルナンは自然と背筋を正した。一体どういう任務だと言うのだろう。普段鷹揚で穏やかな父がこんな風に形式ばって自分に何かを託してくることなどそうそう無いことだ。
もしや何か魔導書司官という役職に関わる重大な依頼でもあったのか、と身構えるフェルナンに対し、父は重々しく口を開いた。
「先程連絡があったんだが、今日はフィリミナが昼食を届けてくれるらしい。お前にはそれを今から受け取りに行ってもら……」
「いってまいります!」
父の言葉を皆まで聞かず、フェルナンは書庫から飛び出した。背後から父の、「私の分を忘れるんじゃないぞ!」という恨めし気な声が聞こえてきたが、振り返ることなく足を急がせる。
書庫から突然飛び出してきた青年の姿に、国立図書館にやってきていた人々が驚いたような表情を浮かべたが、構ってなどいられない。国立図書館からその勢いのまま出たフェルナンは、いつも姉が昼食を届けてくれる時に待ち合わせ場所にしている、王宮の正面に立つ女神像の前へと向かう。
鼻歌交じりで歩を進めるフェルナンの足取りは、急ぎ足ながらも極めて軽い。途中で顔見知りの執務官や騎士や侍女に声をかけられたが、挨拶もほどほどにして、ひたすら足を急がせる。何事かという視線が向けられることもあったが、気にしてなどいられない。
今フェルナンの頭の中を占めているのはたったひとつ。誰よりも何よりも大好きで大切で愛している、唯一無二の姉の穏やかな笑顔だ。
そんな、フェルナンが誰よりも愛する姉は、数カ月前に、かねてからの婚約者の元へ嫁に行ってしまった。思い返すだに苦々しい思いで顔を顰めたくなる。フェルナンの愛する姉は、よりにもよってフェルナンが最も大嫌いな存在の元に嫁いでしまったのだ。
人当たりがよく、男性陣からはかわいがられ、女性陣からはそれなりに憧れの対象となっている自覚がフェルナンにはある。そう乳母や両親に育てられたおかげでもあるし、自分でも敢えてそう振舞っているからという理由もある。だからこそ、という訳でもないはずだが、フェルナンはこれと言って特定の誰かを嫌うことな滅多にない。だがしかし、『あの男』だけは別だ。『あいつ』の存在だけは、どうにもこうにも受け入れがたい。
――昔からそうだった。
歩を進めながらフェルナンは小さく舌打ちをする。姉の笑顔をかき消すように脳裏に浮かんだ無表情がとにもかくにも小憎たらしい。どれだけ見目が美しかろうが、どれだけ地位も権力も併せ持つ実力者であろうが、そんなことは関係ない。憎たらしいものは憎たらしいし、嫌いなものはどうあっても嫌いだ。大嫌いだ。
自分から、愛する姉を奪い去ったその簒奪者の名は、エギエディルズ・フォン・ランセント。先達て魔王討伐の任を成し遂げた、世界が認める英雄の一人である。
そもそも姉があの男の婚約者となった経緯も、フェルナンにとっては許しがたかった。幼かったあの男が召喚し、その男を庇って姉が背に消えぬ傷を負ったのが、姉とあの男の婚約関係の始まりだった。
それだけであったのならば、どんな手を使ってでもフェルナンは姉とあの男の結婚を阻止しただろう。けれど、他ならぬ姉本人があの男のことを選んだから。だからフェルナンは姉があの男の元に嫁ぐのを見送った。
その後で起こった大貴族の絡む事件の際には、思わずこの拳を振るってしまったし、今後もあの件に関しては許す気など毛頭ないが、それでもすべては姉が自ら選んだ倖せがあの男の存在であるのならばと涙を呑んだ。
だが、そう理性では理解していても感情が納得するかといえば、これまた別の話だ。
初めてあの男と出会ったばかりの頃は、こうではなかったように思う。強大な魔力の証である純黒の髪を持つあの男に怯え、近付くことすらできなかった。
だが、今ならば言える。何故そこで男気を自分は見せなかったのかと。初めて出会ったのは自分が四歳の頃であり、右も左も解らないような幼児にそんな気概を求める方が間違っているだろうとよく言われるのだが、誰よりも姉を愛する者として、それくらいはできて当然であったのだ。己の不甲斐なさが返す返すも口惜しい。
自分が怯えてあの男に近付けない間に、姉とあの男は親交を深めていった。気付いた時には何もかもが遅く、姉とあの男の繋がりは切っても切れないようなものになっていた。
それを思い知らされたのは、自分が五歳になったばかりの頃だ。
姉とあの男は八歳だった。我ながらよくそんな幼い頃の話を覚えているものだと思うが、あの事件はきっと自分の中でいつまでも残り続けるに違いない。
いつものようにアディナ邸にやってきたあの男に対し、当初に比べれば随分と自分は強気に出れるようになっていた。あの男に張り合うようにして、わざと姉を困らせるようなことを言っては、得意になっていたと思う。
あの時もそうだった。姉とあの男がいつものように中庭で魔導書を読んでいるところに乱入して、姉に鬼ごっこをしようとせがんだ。
いつもであれば、「じゃあ三人で遊びましょうか」と言ってくれたに違いない姉は、あの日に限って、いつになく困ったような表情を浮かべた。そのことに自分は、大層衝撃を受けた。
どれだけ記憶を遡ってみても、ずっと姉は、穏やかに微笑むばかりであったように思う。
滅多に怒ることもなければ、滅多に泣くこともない少女。それがフェルナンの知る姉だった。当時はそれは当たり前のことだったから気にしていなかったが、今考えてみると、それは少しばかり不思議なことであったのではないだろうか。気付いた時には姉は『姉』という存在で、フェルナンとたった三つしか歳の差が無いにも関わらず、弟という立場を存分に利用して甘えるフェルナンの相手をしてくれた。あの姉が嫌な顔をしたところなんて、フェルナンの知る限り一度もない。
そんな姉があの時浮かべた表情に、手酷く自分が拒絶されたような、裏切られたような気持ちになった。自分と遊ぶよりもあの男とつまらない本を読んでいる方が楽しいのかと思うと、悲しくて悲しくて仕方がなかった。
「姉上のばか!」と怒鳴りつけてその場から走り去った後、姉がどんな顔をしていたかをフェルナンは知らない。
部屋に閉じこもってぐずっていれば、すぐに姉は謝りに来てくれると思っていた。けれど、どれだけ待っても姉は来てくれなかった。自分で「ばか」と怒鳴っておきながら、嫌われてしまったのかもしれないと思うと涙で視界が滲んだ。
そして恐る恐る自室を出た自分は、姉の部屋に向かおうとした途中で出くわした乳母に、姉が実は体調を崩していたらしいということを聞かされたのだ。
本人は大したことなどないと思っていたらしいが、傍にいたあの男が、姉の様子がいつもと違うことに気付き、乳母にそれを伝えたらしい。その後、即刻姉は自室のベッドに運び込まれたのだそうだ。
気付かなかった。何も知らなかった。体調を崩していたのならば、鬼ごっこなんてできる訳がない。誰よりも自分こそが姉の近くにいたつもりだったのに、自分は姉の不調にちっとも気付けなかった。
慌てて姉の部屋へと向かった自分は、いざ姉の部屋の扉の前に立ってみたら、どうしたらいいのか解らなくなった。一方的に喧嘩別れをしたばかりの自分に対し、姉が怒っていたらと思うと怖くて仕方がなかった。あの時ですら自分は、自分のことしか考えられなかったのだ。
そうして、やっとの思いで、そっと、ほんの少しだけ開けた扉から姉の部屋を覗き込み、そうして目に映った光景に、ただただ自分は衝撃を受けた。
姉は、ベッドの上に横たわり、頬を赤く染めて浅い呼吸を苦しげに繰り返していた。そのすぐ傍に、まるでそこにいるのが当然のような空気を纏って立つあの男の姿に、何故そこにいるのが自分ではないのかと思わされた。
姉はどんな遊びにだって付き合ってくれたし、眠る前には物語や子守歌を語り歌ってくれた。魔導書司官としての勉強が辛いときも、姉はいつも手ずからお茶を淹れたりお菓子を作ってくれたりして励ましてくれた。フェルナンにとって、姉は、両親以上に親しい自分の守り手だった。
強くて優しい姉が大好きだった。けれど姉は、自分とたった三歳しか違わない女の子だったのだということを、あの時思い知らされたような気がした。
今まで見たことも、考えたことすらもなかった姉の弱弱しい姿に驚愕し、狼狽し、凍り付いたように硬直した。
いつも自分を支えてくれた姉に、一歩も近付けなかった、情けない自分。そんな自分を差し置いて、姉のすぐ傍に寄り添っていたあの男。
「エディ? 移ってしまったら大変ですわ。わたくしは大丈夫ですから、今日はお帰りになって……」
「いい。養父上が迎えに来てくださるまでだから、お前は気にするな」
「ですが」
「いいから」
そう言ってベッドの横の椅子にあの男は座った。梃子でも動かぬと言わんばかりの姿に、姉は困ったように笑って、そして目を閉じた。
そしてようやく眠りに就いた姉の、汗で頬に張り付いた髪を、あの男は、まるで繊細な硝子細工に触れるかのようにそっと整えた。まだ幼かったあの男は、そのまま何をするでもなく、ただ姉を見つめていた。
フェルナンの知る限り、いつだって何の感情も窺わせない、冷たいばかりだったあの男の朝焼け色の瞳は、あの時、見たこともないような光を宿していた。その朝焼け色の瞳に宿る光は、確かな熱を灯した温かなものだった。幼いながらもあらゆる人間の目を惹き付けてやまない美貌に浮かぶ表情は、無表情であるくせに、確かに穏やかで優しいものだった。
あの時自分は、何か見てはいけないものを見てしまったような気がした。声をかけることもできずに、慌てて自室へと走ることしかできなかった。
ベッドにもぐりこみ、枕に顔を押し付けて、言葉にならない声で一人で声にならない声で唸った。そうしなければ、泣き喚いてしまいそうだった。
悔しかった。ずっと一緒にいたはずの姉の変調に気付けなかった自分が悔しくて、自分が気付けなかった姉の異変にあの男の方が気付いたことが悔しくて、病に伏せる姉の側に当然のようにいるのが自分ではなくあの男であることが悔しくて。
そうして、結局一人で枕を涙で濡らしたことは、十年以上経った今でも確と覚えている。
「……本当に忌々しい」
この罵倒が理不尽なものであることも、八つ当たりに過ぎないことも、フェルナンはよく解っている。それでもそう呟かずにはいられない。自分にとって、姉は、かけがえのないたったひとりの存在なのだから。
「おや、フェルナン殿」
「――――はい?」
そんなことを想いながら王宮の回廊を歩いていた最中、背後からかけられた声に、フェルナンは足を止めた。
肩越しに振り返ったその視線の先にいた存在に、内心で、「げっ」と顔を引き攣らせる。もちろん表に出している表情は、父譲りの穏やかな微笑ではあったが。
そこにいたのは、大神殿勤めの神官だった。ちょうど中年と呼ぶにふさわしい年代に差し掛かっているその神官は、よく書庫にやってくる男であると認識している。だが、フェルナンとしては正直あまり好ましく思っている相手ではない。
書庫に保存されている貴重な書物目当てにやってくる訳ではなく、ただ単にサボり目的で書庫にやってくるような男のことを、どうして好意的に見ることができようか。
こちらが黙々と仕事をこなしているにも関わらず、ぺちゃくちゃと好き勝手に王宮に蔓延する噂のあることないことを吹き込んでこようとする態度も頂けない。
露骨にこちらが嫌がる素振りを見せないのが、相手を調子に乗らせる一因だとは解っている。だが相手はそれなりに権力を持つ大神殿の“神官様”だ。わざわざ要らぬ敵を増やすことはないだろうというのが、フェルナンと父の共通認識である。
親しげに声をかけてくる神官に一礼してみせると、神官はニヤニヤとフェルナンの不快感を誘う笑みを浮かべた。
「聞きましたよ。フェルナン殿の姉君と、あのエギエディルズ殿は、ご結婚されていたのですね」
「……ええ。発表が遅れて申し訳ありません。身内としてお詫び申し上げます」
「いえいえ、お気持ちはよく解りますよ。気軽に公表できるような存在ではないことくらい私も理解しております。フェルナン殿も災難ですな。伝統あるアディナ家が純黒と縁を持つことになられたこと、同情致しますよ」
神官のその言葉は、フェルナンを気遣っているようでありながら、明らかな揶揄と嘲笑が滲み出ているものだった。本人が意識して口にした台詞であるのか、はたまた無意識のままに出た台詞であるのかは定かではないが、どちらであるにしろ、そこに好意的な響きは一切感じられない。
訳知り顔で頷いている神官に、フェルナンはにっこりと笑みを浮かべてみせた。
「解っていただけますか」
「解りますとも。魔王が討伐された今、あのような忌まわしい化け物などさっさと排斥してしまえばいいものを。そうでしょう?」
フェルナンがにこやかに頷いたのをいいことに、我が意を得たりとばかりに得意げに神官は笑っている。気安くフェルナンの肩を叩こうとでもしたらしく、神官の手がフェルナンに向かって伸ばされた。
ふ、とフェルナンは肩から力を抜いて微笑む。
「失礼します」
一言そう告げて、フェルナンはその手を取った。目を白黒させる神官を余所に、そのまま手を引いて神官の足を引っかける。とすん、と、軽い音を立てて神官がその場に尻餅を着いた。
何が起こったのか解らないとでも言いたげに呆然とこちらを見上げてくる神官を見下ろして、フェルナンはフンッ!と鼻で笑った。
「確かにあの男は、愛想は無いし口は悪いしそのくせ見た目と実力だけは折り紙付きとかいう極めて嫌味でこの上なく腹の立つ非常に気に食わない男ですよ」
自分で口に出してみて、改めてフェルナンは、まったく以てその通りだと自分に同意する。
そうだ。あの男以上に気に食わない存在を、フェルナンは知らない。愛想の欠片もないくせに、姉からの愛情を当たり前のように与えられているあの男が、フェルナンは憎らしくてたまらない。何様のつもりだと何度言いたくなったことだろう。姉を賭けて様々な勝負を挑み、そのたびに打ち負かされては何度唇を噛み締めたことか。いつも適当に自分をあしらうばかりのくせに、姉が関わると大人げなくその実力をいかんなく発揮してくるところも気に入らない。
けれど、それでも。
「ですが、姉上への愛情だけは、この僕が認めるにやぶさかではないものです。あの男以上に姉上のことを想っている存在なんて、僕くらいなものです」
誰に言われずとも、自分は確かに知っている。あの男が、エギエディルズ・フォン・ランセントという男が、自分の愛する姉のためだけに王級筆頭魔法使いの座にまで登り詰めたことを。不器用ながらも必死になって姉を守ろうとしていることを。幼い頃からちっとも変わっていない、姉に向けるあの真摯な眼差しを。
「純黒? 化け物? 関係ありませんね。僕にとって重要なのは、あの男が姉上の夫となり、僕の義兄となったというその点だけです」
その事実は何よりも許し難いものだ。けれど、他ならぬ姉が、あの男を選んだのだ。
今でもはっきりと思い出せる。小さな神殿で挙げた結婚式で、倖せそうに微笑んでいた姉の姿を。あの瞬間、きっと世界で一番姉は美しかった。いや姉はいつでも世界で一番美しいが、その中でも特にあの日の美しさは格別だった。
その姉は、あの憎たらしい男のすべてを受け入れることができるだけの温かな情に溢れた、誰よりも素晴らしい人だ。他ならぬそんな姉が、自らあの男を選んだのだ。それだけで、フェルナンがあの男を認めるに足る理由になる。極めて、この上なく、非常に、不本意ではあるけれども。
きっと、いくら不本意でも仕方がないのだ。認めたくはないけれど、こうなるのが一番自然だった。運命だなんて陳腐な言葉は使いたくない。定められたものなんかではないのだ。
きっかけはどうあれ、あの二人は、自分達の意思で互いを選んだのだ。そうして、結ばれるべくして二人は結ばれたのだ。
だからフェルナンは、あの男のことを認めてやらなくもない。
あの男以外に姉を任せられる存在なんて、きっとどこにもいないのだから。
だってそうだろう。フェルナンにとってその姉はたったひとりしかいないが、あの男にとってもまたあの姉の存在はたったひとりしかいないことを、自分はもう十年以上も前から知っている。それこそ、あの男自身が、自覚する前から。だからこそ。
「何も知らないくせに、勝手なことを抜かしてんじゃねえよ、おっさん」
笑顔でそう言い放ったフェルナンに、顔色を蒼白から真っ赤に変えた神官は、ぶるぶると怒りで身体を震わせながら立ち上がった。
言葉を探すようにはくはくと口を喘がせた神官が、いよいよ罵声を発しようと口を大きく開いたその時、ぴたりとその身体が固まった。
神官は、「ん?」と首を傾げるフェルナンではなく、その背後を見ていた。一体何だ、とフェルナンは背後を振り返り、「あ」と口を開けた。
「随分と面白い話をしているな?」
濡れたように艶めく黒髪が、さらりと揺れた。そこにいたのは、感情を窺わせない中世的な白皙の美貌を惜しげもなく晒して、黒いローブに身を包んだ話題の人物――すなわち、王級筆頭魔法使い、エギエディルズ・フォン・ランセント。そして、その背後からひょこりと顔を覗かせたのは。
「姉上!?」
思わず声を上げたフェルナンの視線の先で、エギエディルズの背後からバスケットを抱えて現れた姉の姿に、フェルナンはそれまで感じていた不快感が一気に吹き飛ぶのを感じた。それまで相手取っていた神官のことなどすっかり忘れて姉――フィリミナ・ヴィア・アディナ改め、フィリミナ・フォン・ランセントの元にフェルナンは駆け寄った。神官が「し、失礼いたしました!」と顔をこれまた真っ青にさせて走り去っていったことになどさっぱり気付かなかった。
姉の横に立つエギエディルズを完全に無視して、フェルナンはにこにこと明らかに上機嫌な様子で姉に話しかける。
「姉上、今日は姉上が昼食を用意してくださったんですよね? すごく楽しみにしていたんですよ」
「まあ、ありがとう。お母様が今日はお茶会にお呼ばれしているから、わたくしがその代わりにエディの分と一緒に用意したのだけれど、そんなに喜んでもらえるなんて嬉しいわ」
柔らかくそう微笑み、姉はバスケットから二つの包みを差し出してくる。父と自分の分だろう。久々に姉の手料理が食べられる。そう思うだけで幸福感で胸がいっぱいになる。この男のおこぼれに与ったと思うと若干どころでなく面白くないが、それでも姉手作りの昼食には代えられない。これで午後からも頑張れるというものだ。もしよければこのまま昼食の時間だけでも一緒に過ごせないものか、なんて、子供じみたワガママまで言いたくなってしまう。
「おい、フェルナン」
「……なんですか」
横からかけられた声に、フェルナンは姉に向けていた笑みを一瞬で消して、明らかに不機嫌そうにそちらを見遣る。ただただ美しいばかりの朝焼け色の瞳は、いつになく悪戯げな光が宿っているような気がして、何やら嫌な予感がした。
警戒心も露わにその瞳を見つめ返すフェルナンに対し、エギエディルズは、本当に珍しくも、にやりとその薄い唇を吊り上げた。
「遠慮せず、いつでも『義兄上』と呼んでいいんだぞ?」
わざとらしく諭すようにかけられたその台詞に、フェルナンは、先程神官に向かって口走ったとんでもない台詞を、この男に聞かれていたことを思い出した。この男を庇うような発言になってしまったことが癪で、敢えて無視していたというのに、この性格の悪い男は、いちいちフェルナンの失言を蒸し返してくれやがったのだ。
思わず沈黙するフェルナンに、「どうした?」とわざとらしく問いかけてくるエギエディルズに対し、フェルナンは自らの顔が赤くなっていくのを感じた。ギリッと奥歯を噛み締めて、そして大きく声を張り上げる。
「ッ誰が義兄上だ! 冗談でもごめんです!!」
怒声が回廊に響き渡り、道行く人々が何事かとフェルナンを見遣るが、気にしてなどいられない。
あらあらと愛する姉は微笑んでいる。だが。フェルナンとしてはたまったものではなかった。基本的にフェルナンは姉の言うことは何でもその通りだと思っているが、「仲良しさんね」と嬉しげに笑うその台詞だけは受け付けられない。
「それは残念だ」とくつくつと喉を鳴らして笑うエギエディルズを、フェルナンは顔を赤く染めたまま全身全霊を込めて睨み付ける。
ああやはり自分は、この義兄が大っ嫌いだ!




