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やがて「エディでいい」という許しがあの子から出て、その呼び名が私の舌に馴染んだ頃。
実際の年齢や見かけよりも随分と大人びていたあの子と過ごすのは楽しかった…いや、正確には、楽だった。
馬が合ったからと言う訳ではない。ただ単純に、あの子が来る日は決まって他の子達は来ず、負担が少なかったからである。
何故誰も他に来ないのかなど、この世界においては考えるまでもない。当然だ。黒い髪の意味が何なのか、私よりも三つも年下の弟すら、本能で知っている。だから弟は、私があの子と一緒にいる時は、普段あれだけくっついて回るというのに決して近づいて来ようとしなかったのだろう。
ランセントのおじ様で慣れているはずの弟ですらそれなのだから、普段魔法使いとあまり親交の無い家の子達の場合など言うまでもない。
一度鉢合わせした時は酷かった。酷かったのだ、本当に。
泣きわめく子供達とは対照的に、あの子は泣くどころか一言も口を開かずにいた。これでどういう状況であったかをどうか悟って頂きたい。
そんな訳で、あの子の来る日は決まっていつもあの子と二人きりだった。そして私は、その日がいつも少しだけ楽しみでもあったのだ。
口数も少なく、笑いも泣きもしないあの子と居る間は、私は“良くできたお姉さん”ポジションから解放されていて、それが心地よかった。
我ながら酷い言い回しであるが、向こうは向こうで下手に干渉しようとせず、ただ共に本を読むだけの仲の私といることに異を唱えたことはなかったからお相子と言えよう。
子供らしい言い回しをすれば、『いちばんのなかよしさん』。そんな関係になるのにそう時間はかからなかった。まあ仲良しと言っても、前述の通り、ただ一緒に本を読むだけの間柄で、時折あの子の質問に私が答えるくらいの会話しか交わさなかったのだけれども。
それから、二年。
あの子との関係は良好だった。変化のない、前述したようなことを繰り返す日々は、ただ穏やかだった。
暴発したあの子の魔法に私が巻き込まれたのはそんな時だった。
否、巻き込まれる、というのは語弊がある。何故ならば、返す返すもあれは私の非であったからだ。悔やんでも悔やみきれない、私の罪である。
まさかあの子があの本を読めて、その上それを発動させることができるなどとは思わなかった。それは紛れもない本音であるが、そんなものは今となっては後付けの言い訳に過ぎない。
魔導書司官の家だからこそ保管されていた、上級魔法の書物。
本来ならば当時の私達が手を出してはいけない魔導書であったのだが、どんどん追い付いてくるあの子に、私は少しでも年上ぶりたかった。身体の年齢は同じとは言え中身は親と子並みに違うのだからと意地を張った。全く以てお恥ずかしい限りである。
父の書斎から勝手に持ち出してきたのがあの本だった。火の魔法について記されたあの魔導書を共にに並んで読んでいた時、ふと目に付いたのが挿し絵として描かれていた焔の獣であった。
魔法において重要なのは、普段は目には見えない精霊の存在である。その中で、魔法使いの召喚に応じること自体が滅多に無い高位の精霊を呼び出し、その形を現世に留めおくのは至難の業と言われている。
そんなことも解らずに、ただその挿し絵の火の獣の美しさに見惚れて、魔法ってすごいんですのね、と至極当然のことを口にした。
そんな私に、当時は口数の少なかったあの子が珍しく、私の名前をはっきりと呼んだのだ。
「…フィリミナは」
「なんでしょう?」
「フィリミナは、見てみたいのか」
気付かなかったのだ。その朝焼け色の瞳が、どこまでも真摯で、本気であったことに。気付くべきだったのだ。気付かなくてはいけなかったのだ。けれど私は気付けなかった。だからあの子の問い掛けに、私は何の疑問もなく答えたのだ。見てみたい、と。
そこから先は言うまでもないことかもしれない。あの子の魔力によって呼び出され練り上げられた焔の身体を持つ獣は、その実力も無いというのに己を喚んだ召喚者たるあの子に無慈悲にも襲い掛かった。その時の私はと言えば。
――――――――――エディ!
と。名前を呼んだことまでははっきりと覚えている。その後のことが朧気なのは、私があの子を庇い、この背にかの獣の焔を受けたからだ。
愕然と、茫然とするあの子の周りに、あの子の魔力が渦を巻き、何もかもを飲み込みかけたところ、ただ私は「大丈夫」を繰り返していた。大丈夫。大丈夫よ。大丈夫だから。
そうして意識を飛ばした私が次に目を覚ましたのは、自室のベッドの上だった。父がいた。母がいた。弟がいた。乳母がいた。
どうやら私は、三歳の時の流行病と同じ期間…つまり一週間、寝込んでいたらしい。じくじくと痛む背中が、あの焔が幻ではなかったことを証明していた。
父が安堵したように溜息を吐き出し、母と乳母が涙ぐみ、幼い弟があねうえあねうえと私に取り縋る中、私が最初に口にしたことと言えば、当然、あの子のことであった。
そんな私に家族は口々に気にしないでいいと言ってきたが、それこそ無茶ぶりである。別に怒っている訳ではない。謝ってほしい訳ではない。ただその安否が気になった、それだけに過ぎない。それだけに過ぎないからこそ、余計に気になって仕方がなかったとも言えるのだろうが。
私が退く気がないことを悟ったらしい父は、いつもの笑みを消し、あの子が魔法学院に入ることになったことを告げた。
魔法学院。それはその名の通り、魔法を学ぶための全寮制の学舎である。
魔法の才ある者が集うその学院へ、あの子は入ることを決め、それ以来ずっとランセント邸の自室に、食事すら摂らずに引きこもっているのだと言う。
なんだそれは。せっかく肉付きが良くなってきていたというのに、また元の痩せぎすに戻るなどという愚を犯すつもりなのかと苛立ちを覚えたものである。そうして私はその苛立ちを晴らすため、ランセント邸に突撃訪問することをすぐさま決めた。
まあ勿論のこと、当然の如く止められた。謝罪にやってこられたランセントのおじ様にすら止められたが、それで納得できる訳がない。
例え背中に受けた、焔の獣の爪痕が、治癒魔法を使ってでも消えぬ痕として刻まれていようとも、それであの子にどうこう…例えば怒りを覚えるだとか、そんなことはなかった。イラッとしたのは事実であるが。だがそれはあの子に対してではなく、自分自身に対してである。いくら私がどれだけ適当に生きてきたとしても、年齢に伴うだけの責任くらい解っているつもりであった。今回の件で、それが本当に『つもり』に過ぎなかったことをはっきりと思い知らされた。
それでも、いいや、だからこそ、あの子ひとりに全てを背負わせてたまるものか―――――なぁんてかっこよろしい決意を私が抱くことは別段無い。
そういう七面倒臭いことはそういうことを自ら進んでやりたがる『主人公』とやらにでもやらせておけばいい。
何と言ったらいいのか。ただ事実として、私の監督不行き届きであるということは認めざるを得なかったし、それははっきりと父にも指摘されたことだった。まあ父はそれ以上に、自分が無造作に魔導書を置いておいたことを悔やんでいたのだが。
単なる“年上”としての責任感か。はたまたそれまでに培ってきた友情故か。それとも、自分では思いつかないその他の理由故か。当時何故あれほどまでに無理を圧してランセント邸に向かったのか。
未だに解らない。詳しく覚えてもいないから所詮はその程度のことであったのかもしれない。
とにかく私は、体調が落ち着くが早いか、ランセント邸に赴き、あの子が引きこもっているという扉の前に、ひとり立っていた。
誰にも邪魔されたくなかったため、これまた無理を圧してのひとり合戦であった。
アディナ邸においてきた両親と乳母にはくれぐれも無理はしないようにと言い聞かされていたし、そこまで連れてきてくださったランセントのおじ様も同様であったが、それこそ無理な話である。何せ、その時の私は、立っているだけでももう限界だったのだから。
「ごきげんようエギエディルズ様。フィリミナ・ヴィア・アディナ、病床より馳せ参じましたわ」
我ながら嫌味ったらしい呼びかけであったことは認めよう。だがそれくらい余裕がなかったのだということで見逃して頂きたい。
部屋の中からの返答はなかった。けれどその代わりに、扉の向こうで、何かが床に落ちる音がした。姿こそ見えないけれど、あの子が息を殺してこちらの様子を窺っているのが解るような気がした。
「…エディ。聞こえていらっしゃるのでしょう。開けてくださいませ」
ノックを三回。二度目の呼びかけにも返事はない。扉を押しても引いてもうんともすんとも言わない。
天岩戸か。ならばあの子はさしずめ天照大御神か。となるとここで裸になって踊るのが私の役目だとでも言いたいのか。笑えない冗談であった。
いくら痛み止めを塗りたくり、たらふく薬を飲んできて、これでもかとランセントのおじ様に鎮静治癒魔法をかけてもらっているとは言っても、それだけで背中の火傷の痛みが消える訳では無い。当分は痛みが続くと医師からはっきり診断されている。
そう、痛いのだ。じくじくじくじくじくじくじくじくと、脂汗が出てくる程に痛くて痛くてたらまらないのだ。
その痛みと、あの子の無言の声が、私の闘争心に火を点けた。
「開けろと、申し上げているのです!~~~~~っ痛ぅっ!!!」
バン!と扉に手を叩き付けた瞬間、目の前が痛みのあまり真っ白になった。火花が目の前でスパークし、背中が焼ける音が聞こえるような感覚に、思わずその場に座り込んでしまったものだ。
ああうん、あれは痛かった。叩き付けた手も痛かったが、背中の方が余程痛かった。苦痛に自分の顔が歪むのをまるで他人事のように感じた。いたい、いたい、いたい。そればかりが頭を支配した。
そんな私に、差しのべられた小さな白い手があった。
「フィリミナ!?」
それは部屋の中に居たはずの、あの子の手だった。滲み出てきた涙で歪む視界の中、それでもあの子はうつくしかった。
どれだけ寝ていなかったのだろう、そのうつくしくも幼い顔立ちにはてんで似合わない隈を目の下に作って。私よりも余程痛そうで辛そうで泣き出しそうな、そんな顔をして。
あの子は必死の表情で、私よりも小さいくせに、今にも倒れそうな私の身体を抱えていた。
「フィリミナ、だいじょうぶか!? っ!?」
「…捕まえ、ました」
その細い腕を掴み、笑ってみせると、あの子は更に泣きそうな顔になった。朝焼け色の瞳が揺れていた。そんな顔を見たかった訳では無いのに。
「お久しぶり、ですわね」
「ッごめ、」
「謝らないで」
謝ってほしい訳でもない。それこそ冗談ではない。だってそうではないか。謝らなくてはならないのは。
「ごめんなさい、エディ。またわたくしと、遊んでくださらないかしら」
「…どうして」
声は震えていた。何故、どうして。言葉以上に雄弁に、その瞳が疑問を呈していた。その『どうして』が何に対しての『どうして』なのかは解らない。解らなかったけれど。
「どうして、も、なにも。わたくし、貴方のことがすきですもの」
でなければ此処まで来るはずがない。二年もの間、大して喋りもしないのに一緒に居たはずもない。
二年。二年だ。
それは決して長い期間ではないが、かといって短い期間でもない。その間に、私はあの子が見た目通りのエンジェルでフェアリーな性格ではないことを知った。
当初こそ感情が追い付いていなかったのか、無感動で何を考えているのかさっぱり解らない相手だった。
けれどだんだん、少しずつではあったけれど、表情が動くようになってきて。そして、時々笑みを零すようになったのだ。
それはまるで朝露が緑葉から零れ落ちるくらいに些細で、小さな笑みであったけれど、それでも時折あの子は笑ったのだ。笑みを見せるようになっていたのだ。そう、例えば私が魔導書を読み間違えた時とか。自分のドレスの裾に引っかかって躓いた時とか。
―――――ああ、かわいくない。思い返すだに、全く以てかわいくない。
人の失敗の何が楽しんだこんちくしょう。それはあの子の生い立ちが碌でもないものであったせいなのか、生来のものであったせいなのかは知らないが、とにかく、実はあの子はちっともかわいい性格なんかしていなかった。
そういえばそうだった。あの頃からあの男の性格の片鱗はあったのだ。子供らしさなんて皆無で、大人びていて。
いいや、あの子は『大人びて』ではない。あの子は既に大人だった。きっと、たった九歳で、あの子は私よりもずっと大人になっていた。
泣き言も我儘も言わない、それどころかまともな本音など数えるほどにも言わないあの子。
そんなあの子が、あんなにも。あんなにも、必死になってくれた。それが何よりの理由で、答えだった。
「フィリミナは、それで、いいのか」
「それが、いいのです」
笑う。精一杯の意地と根性で、笑いかける。痛みを堪えながらの笑顔がどれだけみっともないものであったとしても、私は笑った。
そして意識を失いながら最後に見えたのはあの子のやっぱり泣き出しそうな顔と、「とうぜんだ」とという形に動く唇だった。
そして目が覚めた時、私は再びアディナ邸の自室のベッドの上に寝かされていた。
両親と乳母から、あれほど無理をするなと言っただろうとこれでもかと大目玉を食らったものだ。あの普段は穏やかな母ですら、垂れ目の瞳を釣り上げて「ベッドに縛り付けて差し上げてよ?」とまるでどこぞの女王様のような台詞を言ってくださった。
そうして、もう一週間寝込んで、ようやくベッドから降りる許可が出た頃。あの子が魔法学院へ旅立つ日がやってきた。
結局のところ、私との一件があろうとなかろうと、あの子が魔法学院に入学することは決定事項であったらしい。ただその時期が、少しどころでなく早まった、それだけの話であったと、そういう訳である。
私の決死のランセント邸突撃は、若干私の早合点が含まれていたということになるが、とりあえず結果オーライということにしておいてほしい。天岩戸は開け放たれ、太陽の女神ならぬ夜の妖精は岩戸の中から出てきてくれたのだから。
両親と弟と、ランセント邸で見送ろうとする中、あの子は朝焼け色の瞳を真っ直ぐ私に向けてこう言った。
「フィリミナ」
「なんでしょう?」
「まっていてくれるか」
「はい、もちろん」
この時私は、あの子が長期休暇の際にはランセント邸に帰ってくるものだと、信じて疑っていなかった。
それまでのたかが数か月、本当の九歳児ならば随分と先の話になるが、何せ私は中身アラフォーだ。大した時間でもないのだから、その顔を忘れることなど無いと頷いた。
その横でランセントのおじ様は嬉しげにうんうんと頷き、父はこの世の終わりのような顔をして、母はそんな父を慰め、母の腕の中で弟はくうくうと寝息を立てていた。
そうしてあの子は魔法学院へ行ってしまった。
入学試験では最高得点を叩き出した、最年少での入学であったという。
さて、もうお解りであろう。私自身気付かなかったことであるが、この時、私とあの子…あの男の婚約が、結ばれた、らしい。
私としてはそういう意味で頷いたつもりなど毛頭なく、そもそも九歳であるあの子がそういうつもりであの台詞を言ったなどとは思うはずもなかった。が、よくよく考えてみなくとも、そういう意味であると私は解るべきであったのだ。そういう意味であると解ることができていたのならば、私は決してあの台詞に頷きなどしなかった。
元来、貴族社会において、十にも満たぬ子供が婚約者を持つことなど珍しいことではない。政略結婚が常とされる中で、アディナ家は魔導書司官を受け継ぐ家であるというその特異性から、早いうちに相手が決められるであるということは、そういう方面の知識は九歳児分しか持ち合わせていない私でも解っていたことだった。
アディナ家ははっきり言って優良物件である。派手ではないが滅多なことをしない限り破滅することもない、政治に直接関わることはできない代わりに一定の地位を約束された貴族。
そんな家の第一息女のこの私。当然優良物件である。我が家に連れてこられた貴族の子供達が、私には男の子が、弟には女の子がやたらとくっついてきたのはそういう訳だ。
だがしかしそんな私が背に負った火傷の痕は、今後医療技術や治癒魔法が進歩したとしても消せるものではないと判断され、事実、未だ私のこの背にある。
魔法という概念が色濃く根付き、それによって生活を成り立たせ、精霊の存在に重きを置くこの国において、精霊から受けた傷痕というのは厭われる傾向にある。
しかもそれが低位の精霊による、放っておけば消えるような傷ならいざ知らず、個としての真名を持つ高位の精霊による傷ならば猶更だ。
わざわざ好き好んで私を嫁にもらいたがる物好きなどそうそう居ない。
私のモテ人生はそこで終止符が打たれた。その代わりに、夜の妖精のようにうつくしいあの子が婚約者となった。
私はこの背に生涯消えぬ痕を背負ったが、同時に、あの子の小さな背に、重い十字架を背負わせたのだ。