(16)
そして、私の元には、以前と変わらないようでいて、確かに変わってしまった毎日がやってきた。
社交界では、“あの”エギエディルズ・フォン・ランセントの妻という立場にある私に対する興味は尽きないようで、茶会や夜会への招待状がひっきりなしに届き、とうとう郵便屋さんと顔見知りにまでなってしまった。
中庭に繋がるテラスにティーセットと一緒に陣取って、今日も届いた招待状と思しき手紙の差出人を確認しては溜息を吐く。
「またお誘いを頂いてしまったわ……」
つい先日、お断りの返信をしたばかりの相手からの招待状に、ついついうんざりとしてしまう。他の招待状も似たようなものだ。そんなものだから、封を切る前から気分が憂鬱になってしまうのも無理は無いと言えるだろう。
そんな私の反応を受けて、正面に座って薬草茶を飲んでいる我が夫たる男は、その朝焼け色の瞳で手紙の束を一瞥し、ふん、と小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「どいつもこいつも興味本位に過ぎない奴らばかりだ。断ればいいだろう」
「そう簡単にはいきませんわ」
男は簡単なことのように言ってくれるが、私にも私の立場というものがある。私よりも身分の高い相手からのお誘いを無碍にすることは憚られるし、親しい友人達からのお誘いはもっと断りにくい。
つい先日、とうとう重い腰を上げて、件の食道楽の友人が主催した茶会に出席したのだが、それはもう大変だった。
この男との関係を黙っていたことを責められることを覚悟して参加したのだが、幸いなことにそのようなことはなかった。黙っていたことが、私の本意ではなく、この男の意思であったということが、あの姫様主催の夜会で示されたことと、他ならぬ姫様が後見人であるということが、うまく効いてくれたらしい。
それは良かったのだが、その代わりに、この男との出会いから結婚に至るまでの話を、洗いざらい話させられてしまった。私よりも年下の少女達は、ルーナメリィ嬢とこの男の恋物語よりも、私とこの男の幼い頃から続く恋物語(笑)なるものをお気に召したらしかった。「エギエディルズ様が旅路にあられた時は、さぞお辛かったことでしょう?」だとか。「幼い頃からの恋を成就させるなんて、なんて素敵なのかしら」だとか。「障害を乗り越えての恋! ああ、憧れますわ」だとか。その話題の張本人であるはずのこちらの全身が痒くなるようなことを口々に散々仰ってくださり、非常に肩身の狭い思いをする羽目になった。
少女達が憧れるような恋物語がこの男と私の間にあったのか。……いや、無い。無いったら無い。例えあったにしても、それは世間の女性陣が憧れてくれるような甘く切ないものではなく、もっとしょっぱいものだろう。まあそんな塩辛い恋物語(笑)からなる現状に、結局のところ満足してしまっている私が、とやかく言えた義理は無いのだが。
内心で苦笑しながらティーカップを口に運ぶ。本日の薬草茶も、この男独自のブレンドだ。蜜を入れずともほんのりと甘い味は万人受けするに違いないが、今のところ、この男が私以外に自らブレンドした茶葉を渡しているという話は聞いていない。そんな些細な特権が、とても嬉しく感じる私がいる。
「何を笑っている?」
「いいえ、何でもありませんわ」
訝しげな男の声に、首を振って答える。ただ優越感に浸っていただけですだなんて言えるはずもない。この男に許された私だけの特権が、素直に嬉しい。そう、特権と言えば、もう一つ。
「エディ。エディは何故、ルナ様にあれほど心を砕いていらしたのです?」
私がこの男に許された数ある特権の一つの最たるものである、その呼び名。エギエディルズではなく、エディと呼ぶこと。それを自らもと願ったあの可愛らしい少女に対するこの男の態度は、確かに他の者達に対するものとは違っていた。
私の問いかけが意外だったらしく、男は僅かに目を見開いた。この男にとっては蒸し返したくない話題だったのだろう、いかにも嫌そうな表情を浮かべてこちらを見遣ってくる。そんな表情を浮かべても、やはり美しいものは美しい。が、それで臆する私では無い。真っ直ぐに見つめ返せば、しばしの沈黙の後、持っていたティーカップをソーサーの上に戻した男は、重々しく口を開いた。
「そう見えたか?」
「はい。いつものエディでしたら、初めからもっと手酷く突っぱねそうなものですもの」
「お前の中で俺は一体どういう奴になっているんだ」
「ご想像にお任せ致します」
にっこり笑って言い放てば、男はぐ、と口を噤んだ。普段の己の在り方が他人にどう受け取られるか、理解しながらも敢えてそのように振る舞っている男だ。私の言いたいことが解らないはずがない。
いくらルーナメリィ嬢がこの国における大貴族の中の大貴族であるとは言え、それでさして言動を変えるような男ではないだろう。王宮筆頭魔法使い、救世界の英雄という立場を得た今となっては余計にだ。
そんな私の疑問に、男は、思い出すだに忌々しいとでも言いたげに表情を歪めた。
「バレンティーヌ家は、表向きはともかく、その裏ではやることなすこととにかく狡猾だ。あの小娘も同類だと一目で解った。下手に刺激する方が面倒なことになるのは目に見えていたとはいえ、あれの相手をするのに耐えるのには苦労したぞ」
「あら、それだけですか?」
この男とて、一人の男性である。あれだけ可愛らしい少女に……その方向性はどうあれ、確かに慕われていたのだから、その状況を美味しいと思い、あえて甘受していたという可能性もなきにしもあらずだ。そう思って重ねて問いかけると、朝焼け色の瞳がきょとりと瞬く。
「それ以外に何があるんだ?」
その、どこまでも不思議そうな光を浮かべた瞳に、毒気が抜かれた。
「――いいえ、何も」
この男がそう言うのであれば、そういうことにしておこう。何やら釈然としないものも感じるが、この男がこの調子では、これ以上訊いてものれんに腕押し状態に違いない。
呪いのせいもあったのだろうが、それにしても、あれだけ悩んだ私が馬鹿だったような気がしてくる。お茶請けの焼き菓子を口に運び、黙々と咀嚼しているとふと視線を感じた。口の中の焼き菓子を薬草茶で押し流してそちらを見遣れば、男がテーブルに片肘を着いてこちらを見つめていた。
「お前こそ、まさかあそこで手を上げるとは思わなかったぞ」
その台詞に我知らずぎくりとする。男の言っている件とはつまり、あのバレンティーヌ家の牢で、私がルーナメリィ嬢の頬をひっぱたいたあの件だろう。
「……幻滅されましたか?」
いくら感情に任せてだとは言え、我ながらおっそろしい真似をしたものだ。
自分で言うのも何であるが、普段はしとやかで典雅な振る舞いを心がけている私である。そんな私があんな真似をするだなんて、一体誰が想像したというのか。私自身、想像だにしない真似であった。この男の場合、もっと予想外だったことだろう。今まで築き上げてきた私のイメージが台無しだ。
これで、幻滅されたら。そう思うと怖くてたまらなくなる。男の顔を恐る恐る見つめると、男は静かに、薄く微笑んだ。
「いいや、惚れ直した」
それがあまりにもさらりと言われたものだから、危うく聞き逃しそうになってしまった。
薬草茶を呑んで気分を落ち着けようとしていたところを止めて男を見遣れば、男はさっと笑みを消し、素知らぬ顔で薬草茶を啜っていた。だが、それで私が誤魔化されると思っているのならば、それは大きな間違いだ。どうして今の台詞を、無かったことにできるだろう。
「エディ、あの、今のは?」
「今のが、なんだ?」
逆に問い返されて、言葉に詰まりそうになる。だがしかし、ここで無かったことにされてなるものか。だって、だってだ。
「だって、エディ、あなたがわたくしに好きだと言ってくださったのは、これが初めてではありませんか?」
「……そうだったか?」
「ええ、確かに」
そう、これまで態度ででは散々示されてきたこの男からの好意だが、こうしてはっきりと言葉にしてくれたのは、これが初めてだ。結婚式での宣誓で、「わたしはあなたを愛する」というくだりがあるが、あれはあくまでも形式上のものであり、この男自身の言葉ではない。けれど今のは確かに、この男の言葉だ。
「ね、エディ。もう一度仰ってくださいまし」
視線を逸らそうとする朝焼け色の瞳を追い掛けて、笑みを含みながら私は両手を軽く合わせて小首を傾げて見せる。所謂あざといお願いポーズである。年甲斐もないと言われようが、今の私はそんな言葉よりも聞きたい言葉があるのだ。
さあ早く、と視線で促すと、男は私のお願いに答えることは無く椅子から素速く立ち上がる。
「――まだ昨日やり残した仕事が残っているから、王宮に戻る。今夜も遅くなるから、先に寝ておけ」
「たった一言を言う時間くらいあるでしょう? お待ちくださ……って、あっ!」
ほんの瞬きの後に、男の姿が目の前からかき消える。転移魔法だ。
「……逃げたわね」
思わず歯噛みしてしまう。おのれ、今日は休日だと言っていたのに。大体、何が「先に寝ておけ」だ。本当に先に寝ていたら、次の日妙に不機嫌になるくせに、随分と勝手なことを言ってくれる。全く、本当に。
「仕方の無い人だこと」
晴れ渡る空に向かって呟いた台詞に返ってくる言葉は当然無い。それでいい。誰かに同意を求めている訳では無いのだから。
人目がないのをいいことに、椅子の背もたれに身体を預けて思い切り伸びをする。そうしていると、ふと耳元で蘇る声がある。
――どうか僕を、ずっと許さないでくれ。
その穏やかな、それでいて切なる思いを秘めた声音に、内心で頷く。彼の言葉の通り、私はセルヴェス青年のことを、ずっと許さないでいるだろう。そして、セルヴェス青年のことも、ルーナメリィ嬢のことも、忘れずに生きていくのだろう。あの男と、一緒に。
あの男と一緒に、生きていく。例え何があろうとも、どんな障害が待ち受けていようとも。使い回された文句だろうが、一人では無理でも、二人でならきっと乗り越えられるから。だから、私は、『私』は、この世界で生きていける。
「とりあえず、帰ってきたら一勝負ね」
帰ってきたら必ず言わせてみせると、青空に誓う。ああ、今日も本当に良い天気だ。
これにて完結です。お付き合いありがとうございました。




