(15)
そうして、私がセルヴェス青年と面会してから、数週間が経過した。
白百合宮から退院した私は、ランセントのお義父様から受け継いだ、あの男と暮らす屋敷に帰るのではなく、実家であるアディナ邸にこの身を引き取られていた。広い屋敷に一人で放置して置くわけにはいかないという、家族の強い要望からだった。
まあごもっともである。水精の治癒魔法が碌に効かないこの身体は、退宮当初の時点では未だ安静を要し、あの男が登城している間に何かあってからでは遅い――というのが家族の弁であったし、私の治療を担当してくれた医官の先生もその方がいいだろうと言っていた。私としても、確かにそれが妥当な選択なのだろうと納得した。
だがしかし、あの男は私を傍から離したからず、当初は散々渋ってくれたのである。それを嬉しいと思わなかったわけではないが、私が全快するまで休暇を取るとまで言い出したのには参った。そんな馬鹿なことがまかり通るはずがない。それに、丸一日中あの男に世話をされるだなんてどんな拷問だ。しかし、そうして私がどう諌めても、首を縦に振らなかったあの男は、意外なことに、我が母と乳母には敵わなかった。
母はいつものように穏やかに、それでいて有無を言わせぬ様子で、「わがままはいけませんわ」とにっこりと微笑んだ。乳母は「申し訳ありませんが、お嬢様はエギエディルズ様の奥様でいらっしゃる以前に、当アディナ家のご息女でいらっしゃるのです」と、それはそれは低い声で言い放ち、あの男を睨み上げた。
今までに無い二人の様子に、珍しくも言葉に詰まるあの男に対し、父と弟は、それはもう楽しげにほくそ笑み合っていた。ざまあみろ、とその唇が動いていた気がしたのは、おそらく気のせいではない。
私は、私が思っていた以上に、家族に愛されていたらしい。だが、それにしても皆、あの男に対して厳しすぎやしないだろうか。そう思って口を挟もうにも、私の発言は全て黙殺された。「姉上はあいつに甘すぎるんです」とは、弟の弁である。そんなつもりは無いのだが、はてさて。
おかげで実家で過ごし続けているこの数週間、あの男とはほぼ全くと言っていいほど顔を合わせていない。見舞いに来ていないのではなく、来たとしても、我が親愛なる家族の面々に阻まれているのだ。
一度、とうとう業を煮やしたらしいあの男が、直接、今現在私が寝ている、アディナ邸のこの自室に転移魔法をかましてきたことがある。それには流石の私も大層驚かされた。が、運悪くそこを乳母に見つかり、あの男は、想像を絶する勢いの、とんでもない雷を落とされていた。あんなにも乳母が怒るのは、幼い時以来で、横で聞いていた私も震え上がってしまったものだ。「いくら相手がご自分の奥方であるとは言え、淑女の、それも怪我人の部屋に、断りもなくやってくる殿方がおられますか!」と叱りつけられ、反論もできずにたじたじとなっているあの男に、正直同情を禁じ得なかった。
結局あの男は、見舞いにと持ってきた雛菊の花束だけを置いて、アディナ邸を追い出され……もとい、出て行った。玄関から大人しく出て行く男を、私は自室の窓から見送ることしかできなかった。
そんな経緯を経て、今日に至る訳である。
ベッドの上で上半身を起こした状態で、膝の上に開いていた本の上に溜息を落とす。ベッドから降りる許可はとうの昔に医官から出ているし、痛みも既に無い。胸から腹にかけてばっさりと痕は残ってしまったが、傷そのものはちゃんと塞がっている。私としてはもうほぼ全快していると思うのだが、家族は未だ私をベッドに縛り付けようとするのだから困ったものだ。それが嫌がらせならばいざ知らず、愛情から来る心配によるものなのだから私も強くは出られないでいる。
とは言え――うむ。四の五の言わず、正直に言おう。
「退屈だわ」
現状は、この一言に尽きる。ぶっちゃけ暇なのである。退屈なのは平和な証だということくらい解っている。それがどれだけ得難く、尊いものであるのだと、あの魔王討伐の件で思い知らされていても、それでも退屈なものは退屈で、暇なものは暇なのだ。人間とは実に調子の良い生き物であるとつくづく思う。
刺繍も読書もいい加減飽きてしまった。そろそろ身体を動かしたいところだ。そう思い、誰も居ないところを見計らってベッドから降り、中庭のベンチに座っていたところを母に発見されたのは、つい先日の話である。
「本当にあなたはわんぱくさんですこと」と、にっこりと笑顔で言われた。父の仮面スマイルとは違う、ただ穏やかで優しげな笑みであるというのに、何故だろう。乳母が眦をつり上げて叱る表情よりも、余程恐ろしく見えた。あれが母は強しという奴なのであろうか。……ううむ、何か違う気がする。深く考えたら恐ろしくなりそうなのでここまでにしておこう。
それにしても、このまま実家暮らしを続けていたら、もう二度とあの屋敷に帰れなくなってしまうのではないかという気がしてくるのは気のせいだろうか。父と弟が二人揃ってここぞとばかりに私を実家に置いておきたがるのは想定の範囲内だったが、まさか母と乳母までタッグを組んでくるとは思いも寄らなかった。既に事態は長期戦に突入している。長引けば長引くほど、戦況は不利になるだろう。だが、この事態を打破する術を、私は持ち合わせてはいないのだ。
はたしてどうしたものか、と、つらつらととりとめもなく思考を巡らせていると、だんだん瞼が重くなってくる。とりあえず、このまま寝てしまおうか、と、ぱたんと本を閉じた。
こうして一人で何もせずにいると、どうしてもルーナメリィ嬢やセルヴェス青年のことを考えてしまう私がいる。もう既にあの二人は、王都から遠く離れた地に送られた後だというのに、だ。
もっと、と思う。もっと他の出会い方があったら、こんな結果にはならなかったのではないかと、未だにそう思ってしまうのは、私の甘えだろう。殺されかけたことはもちろん恐ろしかった。それに関しては、セルヴェス青年に言われずとも、私はきっとずっと許さずにいることだろう。
けれど、もしも他の出会い方があったならば。他の関係が構築できていたならば。たら、れば。そんな仮定の話を想像しては落ち込むのを繰り返している。だって仕方がないではないか。ルーナメリィ嬢も、セルヴェス青年も、結局のところ、真の悪人ではなかったのだと思うから。彼らはただ間違えてしまっただけだったのだ。だからこそ余計に、私は――……と、まあ、こんな具合に悪循環に陥っている。
ええい、止めだ止め。ここはもう寝て忘れてしまおう。悪夢に魘されるなど無いのだから、いつどこで寝ようとも怖いものなどない。敢えて言うのであれば、食っちゃ寝を繰り返すこの生活が導くおデブ……いやいや、ぽっちゃりさんのへ道が恐ろしい。
幸いというかなんというか、悪夢に悩まされていた期間、食欲が激減していた。そのおかげで、この身体は痩せ気味になっているため、元の体型に戻るだけだと思えばいいが、油断は禁物だ。
寝たきりでは返って身体に毒だとも思うので、こっそり部屋の中を歩き回ったり、ベッドの上で軽く柔軟体操をしたりしているのは秘密である。バレたら大目玉を食らうに違いないのだから。
あふり、とはしたなくも大きな欠伸を一つ。ベッドサイドテーブルに本を置いて、のそのそと布団に潜り込もうとしていると、ふとノックの音が耳に入った。
「お嬢様。失礼致します」
「シュゼット? どうぞ入って」
横になろうとしていた身体を起こすと、乳母が一礼と共に部屋に入ってきた。その手は大きめのトレーを持っており、ティーコゼーが被せられたティーポットとティーカップ、そしてお茶請けのクッキーが乗せられている。
「お茶をお持ちしましたわ」
すすす、と滑るように歩み寄ってきた乳母はベッドサイドテーブルにトレーを置いて、慣れた仕草でティーコゼーをティーポットから外し、カップにその中身を注ぐ。ごくごく淡い萌葱色の液体に満たされたカップから立ち上る湯気が、ふわりと鼻腔を擽った。
「これは……」
「ええ。今朝、エギエディルズ様から届けられたものです。なんでも、安眠効果があるのだとか」
仄かな甘い香りに目を瞬かせると、したり、とばかりに乳母は微笑んだ。視線で促されるがままにティーカップを口に運ぶと、自然とほう、と吐息が漏れる。相変わらず私の好みというものを熟知している男である。芳しい香りの通りに、ほんのりと甘いその薬草茶に舌鼓を打ちつつ、私の横で泰然と佇む乳母を、そろそろと見上げた。
「――ねぇ、シュゼット。もうエディを許してあげてくれないかしら。お父様達にもそう伝えてほしいのだけど」
まともに顔を合わせずに過ごしたこの数週間。会いたい、と、そう思っているのはあの男ばかりではない。限界なのはあの男の方ではなく、お恥ずかしながら、どうやら私の方らしかった。この長期戦において、私は既に白旗を挙げている。あの毒舌すらも恋しいと思えてしまうのだから、私もなかなか相当なものだ。
私がこんな風に家族と共に過ごしている間、あの男はあの広い屋敷の中、たった一人で過ごしているのかと思うと居ても立ってもいられなくなる。せめてランセントのお義父様のいらっしゃるランセント邸で過ごしていてくれればいいものを、あの男は律儀に、私達の屋敷に帰っているらしいのだから困ったものだ。本当は寂しいくせに、こんな時までとことん素直でない男である。
再びティーカップを口に運んで、飛び出しそうになった溜息を、お茶と一緒に飲み込むと、心なしか突き刺さってくる視線を感じた。嫌な予感しかしない視線である。
ティーカップをトレーの上に戻しながら、そろり、と顔を上げると、そこには予想通りの、眦をつり上げた乳母の顔があった。
「お嬢様」
「な、なにかしら」
ことりとテーブルにティーポットを置いて、乳母はその両手を腰に当てた。そのポーズが意味するのは、誰の目にも明らかだろう。それすなわち、怒りのポーズである。
「私や旦那さま方が怒っているのは、エギエディルズ様に対してのみではございません」
意識的に低められた声音が紡いた台詞に、乳母の顔をじっと見上げると、いかにも嘆かわしいと言わんばかりに大きな溜息を吐かれてしまった。その反応は、下手に怒られるよりもよっぽど胸に突き刺さる。
あの男のみに対する怒りではない。その言葉が意味することはつまり、と、乳母が次に言うであろう台詞が容易に想像がついた。そしてそれは、決して間違ってはいなかった。
「お嬢様にも怒っているのです。何故周囲を頼ろうとなさらないのですか。もっとご自分を大切になさってください」
「……ごめんなさい」
反論の余地などどこにも無かった。耳が痛いったらない。別に自分のことを疎かにしている訳ではなく、ただ思うがままに行動したが故の結果な訳だが、それを言っても、言い訳にすらならないだろう。
いっそ耳を塞いでしまいたくなるけれど、乳母の厳しい視線は、それを許してくれそうもなかった。「あーあーあー何も聞こえませんわ!」と振り払ってしまえばいいのかもしれないという考えが頭を過ぎるが、それをしたが最後、火に油を注ぐことになることは目に見えていた。
そうして、私が実家暮らしすることを許させられた時のあの男と同じように、言葉に詰まって何も言えない私に、乳母は更に畳み掛けてくる。
「解ってくださればよろしいのです……と、言いたいところですが、そう簡単には許しません。まだまだエギエディルズ様もお嬢様も、当分お互いおあずけです」
「シュゼット、そんな意地悪なことを言わないで」
「聞こえませんわ。私も歳を取りましたわね」
「シュゼットったら……」
溺れる者は藁をも掴むと言うが、その藁すら見当たらないのだからどうしたものか。「年寄り扱いしないでくださいまし。まだまだ私は現役ですわ」と普段は口を酸っぱくして言うくせに、こんな時に限って年を取ったなどと言うのだからずるい。何せ彼女は私の育て親だ、元より勝てるはずもないのだが。
ううう、と布団を頭から被ってしまいたくなる衝動と戦いながら俯くと、しばらくの沈黙の後、乳母はふと思い出したかのように口を開いた。
「そういえば、お嬢様。耳寄りな情報がございますよ」
「耳寄り?」
何のことだ。顔を上げてオウム返しに問いかければ、「はい」と乳母は頷いた。
「姫様が、もうすぐ夜会を開かれるそうです」
「夜会? 姫様が?」
それはまた、初耳である。姫様とはあの事件以来、白百合宮に一度だけ見舞いに来てくださった際にお会いしたっきりだが、そんなことを企画されていたのか。これまでに何度か夜会には出席してきたが、姫様が主催される夜会なるものは初めてだ。それはきっと、さぞ盛大で立派な、楽しい夜会となるであろうことが、容易に想像がついた。私が興味を示したことが嬉しかったらしく、乳母は笑みを浮かべて深く頷く。
「ええ。まだ日程は決まっていないとのことですが、盛大に催されるおつもりのようです。お嬢様もお招きに預かることになられることと思いますが」
楽しみですわね、と微笑む乳母とは対照的に、私はまたしても俯くことになった。そんな私の反応が意外だったのか、「お嬢様?」と乳母が問いかけてくる。何と答えたものだろうかと、一瞬迷い、そしてすぐに答えが出る。考えるまでもないことだった。再び顔を上げて、私は薄く微笑んだ。
「そう、ね。きっとお誘い頂けると思うわ。でも……」
下手な笑い方だと、鏡を見ずとも解る。乳母が眉尻を下げてこちらを見下ろしてくるが、上手く言葉が出てこない。姫様主催の夜会とあれば、誰もがこぞって参加したがるものだろう。けれど私は、とてもそんな気になれそうになかった。
他ならぬあの姫様からのお誘いである。大切なことなのでもう一度言おう。他ならぬ!あの!姫様からの!お誘い!である。身分を弁えても、心理的にも、そのお誘いを断るだなんてとんでもないと理性では解っているのだが、こればかりは仕方がないとしか言い様が無い。癒えたはずの傷がずきりと痛み、私の足を竦ませる。
「病欠、ということでは駄目かしら?」
「お嬢様、それは」
「だって、今のわたくしが行っても、きっと場の空気を壊してしまうだけでしょう? それに、まだ本当にお誘い頂けるとは限らないのだから」
皆まで言わせる前に、「ね?」と首を傾げて見せれば、乳母は困ったように眉根を寄せた。
「お嬢様、ですが……」
「ごめんなさい、シュゼット。少し眠ることにするわ。この話はまた次の機会にしましょう」
「……解りました。お休みなさいませ」
「ええ、お休みなさい」
ティーカップに残った薬草茶を一息で飲み干して、布団を被る。しばらく物言いたげにその場に乳母が残っている気配を感じたが、やがて茶器を片付けて出ていった。ぱたん、と静かに閉まる扉の音と共に、私もまた目を閉じた。
『どうか僕を、ずっと許さないでくれ』。脳裏に蘇るのは、セルヴェス青年のあの言葉と、最後に見せてくれた笑顔だ。許さないでいるということはすなわち、忘れないでいることだ。それは簡単なようでいて、その実とても難しい。それでも私は彼を許さないでいなくてはならない。それが、彼に嘘を吐き続けた私にできる、唯一の償いだ。
「――エディは今頃、どうしているのかしら」
一度は閉じたはずの目を再び開いて、誰にともなくぽつりと呟く。何も無い天井を見上げていると、今、無性にあの男に会いたいと思えてくる。手首に着けたままになっているブレスレットの、あの男の瞳の色と同じ朝焼け色の魔宝玉をそっと撫でる。冷たいはずのそれは、何故だか温もりを持っているような気がした。おそらく、このブレスレットを使えば、連絡を取ることなど容易いのだろう。けれど私はその使い方を知らないし、あの男が使ってこないことを鑑みると、それはすなわち、使うべきではないということなのだ。
「……薄情者」
いくら我が家族に阻まれているとはいえ、せめて声くらい、聞かせてくれればいいのに。今頃、城の黒蓮宮で、いつものように研究に明け暮れているであろう男に向けて呟いて、私は今度こそ瞳を閉じ、眠りの世界へと度だった。
* * *
それから、数日。家族からもベッドから降りて屋敷の中をうろつくことをようやく許された頃、それはやってきた。
上質な深い青の封筒に、白銀の封蝋。その印璽は、王族に連なる者だけが使うことを許された、満開の薔薇の花をシンボルにしたものだ。それを見ただけで、封を開けずとも、この手紙が何なのかすぐに解った。私の元に手紙を持ってきた乳母も心得たもので、既に返信を書くための紙や道具一式が、デスクの上に用意されている。
青の封筒の封を切ると、姫様がいつも纏っている香水がかすかに香る。流石姫様、と内心で呟きつつ、封筒から出した便箋の内容に、私は一つ溜息を吐き出した。
真白い、これまた上質な紙の便箋に綴られていたのは、予想通り、姫様主催の夜会への招待の報せだった。定型文と思われる文面の最後に付け足された、「貴女に会えるのを楽しみにしているわ」という、姫様直筆の一文に、図らずも思考が停止する。そっとその一文を指でなぞるが、当然それが消えるはずもない。
「お嬢様、どうなされますか?」
気遣わしげな乳母の声に、自分が、じっと便箋を見つめたまま固まっていたことに、はたと気付く。いけないいけない、また心配させてしまった。
そう、心配。思い返せば、私は今回の件にあたって、多くの人々に、心配と迷惑をかけてしまった。もうこれ以上気を遣わせる訳にはいかないだろう。
「姫様にも、随分と心配をおかけしてしまったから、この元気な姿をお見せしなくてはいけないわよね」
呟くようにそう言えば、ぱっと乳母は表情を明るくさせて、力強く頷いた。
「ええ、その方がよろしいかと! それに、お嬢様にとっても、きっと良き気晴らしになられますわ」
「そうかしら」
「そうですとも!」
「ふふ、そうね。そうなるといいわね」
更に重ねて強調してくる乳母に、思わず笑ってしまう。乳母の言う通りだ。そうだとも。いい加減くよくよしてばかりもいられない。そろそろこの辺で、一つ気持ちを切り替えなくては。
夜会が得意か否かと問われれば、どちらかと言うと後者に当たるのであるが、姫様主催の夜会であれば、下手に絡んでくるような輩もそうそう居ないだろう。久々に友人達にも会えるし、華やかな場に行けば、乳母の言う通り良い気晴らしになるに違いない。そう思うとだんだん楽しみになってくる。
「夜会なんて本当に久しぶりだわ。ドレスを屋敷に取りに戻らないと……」
姫様が主催される夜会とあれば、招待客の皆々様方は、ここぞとばかりに急ピッチで衣装を新調してくるのだろうが、生憎私にその気は無い。夜会と言えば、昔の母のドレスを何着も受け継いでいるので、それを私のサイズに直して着ていくのが以前からの私の常であった。そんなドレスの多くは、嫁入り道具としてランセントのお義父様から受け継いだあの屋敷に持って行ってしまっている。
ドレスに合わせて小物の類も準備しなくてはならないし、姫様ご指名の日取りも鑑みれば、そうそうゆっくりもしていられない。
これを機会に屋敷に戻ろう、という私の目論見に気付いたのか、乳母は私が何かを言う前に、微笑んで「お任せくださいませ」と口を開いた。
「大丈夫ですわ。当日までに、私が代わりに取りにきて参ります」
「……そう? でも、ドレスはともかく、小物の置き場所まで解るかしら?」
「誰がお嬢様を育てたとお思いですか。お嬢様がしまっておきそうな場所くらい、手に取るように解りますとも」
心配など無用だと言いたげに乳母は胸を張った。なるほど、ごもっともである。本当にこの乳母には敵わないことを思い知らされる。ここで下手にごねても、彼女は決して譲ってはくれないだろう。それが解ってしまうから、私は大人しく一つ頷いた。
「そこまで言うなら、お願いできるかしら。そうね、最後に夜会に出た時に着た、葡萄色のドレスがあったでしょう。あれなら傷も隠せるし、ちょうどいいのではないかしら」
「かしこまりました。では、そのように取り計らいますわ」
「ええ。お願いね」
最後に夜会に出たと言っても、それは随分前の話だ。恐らく、否、確実に、流行遅れも甚だしい装いになることだろうが、別に構いやしないだろう。
夜会とは、社交界における花形である。パートナーが居る女性はそのパートナーに、まだ居ない女性は近親者や知人にエスコートされてやってきたり、或いは敢えて一人でやってきたりと、訪れ方は様々だ。そんな参加者の目的は、単純に夜会そのものを楽しむ、という目的ももちろんあるが、それ以上の理由として多くを占める理由がある。それすなわち、他家と縁を結ぶこと、である。一般的に夜会とは、盛大なお見合いパーティーなのだ。実際、そこで縁を結んだ貴族も多く、何を隠そう我が両親もその一組であったりする。
あわよくば良家との縁を、と多くの参加者が思っている中で、私のような既婚者は気楽なものだ。公になっていないとは言え、既に婚姻を結んだこの身、今更婚活に励む必要など無いのである。素敵な縁を結びたがっている若いお嬢さん方の引き立て役になれればそれでいいだろう。
「楽しみでございますね」
「――そうね」
夜会まで、後少し。当日までにはもっと楽しみになってればいいのにと、まるで他人事のように、そう思った。
* * *
やがて、とうとうその日はやってきた。姫様主催の夜会が催される日である。前日までの雨模様が嘘のように晴れ渡り、汚れの洗い流された清々しい空気が王都中に満ちている。
自室の窓際の椅子に座って、ぼんやりと外を眺める。既に日は傾き掛けており、空は橙色に染まり始めている。そろそろ準備を始めなくては、定刻に間に合わなくなってしまうだろう。だがしかし、乳母がやってくる気配は無い。勝手に準備を始めてしまおうか、という思いが胸を過ぎるが、本日着る予定の葡萄色のドレスは乳母の預かりになっているため、そうすることもできない。髪や化粧も同様だ。髪を結うのも、化粧を施すのも、ドレスに合わせてこそのものであるため、まずは着替えをしなくてはどうにもならない。
「大丈夫なのかしら……」
こちらから乳母の元へ行くべきかと、椅子を立ち上がった、その時だった。
「お嬢様。申し訳ありませんが、扉を開けて頂けないでしょうか?」
「え? ええ、今行くわ」
計っていたかのようなタイミングの良さに驚きつつ、扉の向こうから聞こえてきた声に、ほとんど反射的にそちらに足を向ける。扉を開けると、そこには、金色のリボンのかけられた大きな箱を抱えた乳母の姿があった。一番大きな箱の上に、二段、三段と小さめの箱を重ねて持つ乳母の小柄な姿は、箱によってすっかり隠されてしまっていた。
「シュ、シュゼット? 大丈夫?」
「ええ、どうかご心配なさらず。失礼致しますわ」
よろよろとしながらも部屋の中に入ってきた乳母は、箱をベッドの上に置いて、ほっとしたように息を吐いた。
「遅くなりまして申し訳ありません。ようやく届きましたので、早速お召し替え致しましょう」
にこにこと上機嫌に乳母は言うが、私としては何が何やらさっぱり解らない。ベッドの上に置かれた箱と乳母の顔を見比べて、首を傾げることしかできない。『ようやく届いた』とはどういう意味だろう。戸惑うばかりの私とは対照的に、乳母は得意気に大きな箱を視線で示した。
「どうかお嬢様自ら、中身を開けてご覧になってくださいまし」
「……?」
促されるがままに、一番大きな箱の金色のリボンを解き、蓋を開ける。そして、私は息を呑んだ。引き寄せられるように手を伸ばし、その中身を取り出してみる。滑るような、心地良い手触りに、言葉が見つからない。
それは、私が『前』の世界の分も含めて、今日まで生きてきた中でも、見たことの無いドレスだった。
全体的なシルエットは、一般的に普及しているプリンセスラインやAラインのドレスとも異なっている。敢えて言うなればエンパイアドレスとマーメイドラインドレスの中間、という言い方が最も近いのではないだろうか。
淡い橙色で染められた上半身は、ごくシンプルなものだ。胸の谷間よりも高い位置から、ぴったりと身体のラインに沿うように下半身へと生地が流れている。どちらかと言えば身体のラインを隠す風潮にあるこの世界のドレスにしては非常に珍しく、身体の線に沿うような生地の流れだ。
身体の前身頃にも後ろ見頃にも、派手な傷痕がある私の身体では、おおっぴらに肌を見せるようなドレスは着ることはできない。結婚式の際には、背中の開いたドレスを着たが、あれは髪を下ろしていた上に、ヴェールを被っていた。加えて、参列客は内輪の知人だけだったためさしたる問題は無かった。
だが、今回の夜会はそれとは全く話が違う。精霊による傷に加え、闇魔法による傷という、傷物にしても程があるこの身を、おいそれと晒すような真似はできない。そんな私の意図を汲み取ってくれているかのように、このドレスは、ちょうど上手く前後の傷を隠してくれていた。
上半身の淡い橙色から、下半身に向かうにつれて、その色は徐々に薄紫色、紫色、深紫色、紫紺色とグラデーションになっている。
左胸下からアシンメトリーに、たっぷりとしたドレープが左右に流れており、美しい流線を描いている。そのドレープの合間からわずかに覗くのは、深紫色の、幾重にも重ねられたレースの長いパニエだ。歩む度、動く度に他者の目を奪うであろうそれは、年若い少女が着るような、スカートを膨らませるための用途ではなく、あくまでも装飾として、他者に見せるためのものなのだろう。その証拠のように、身体のラインを損なうことは無い上に、透けるような深紫色の上には、まるで星屑のように金や銀の装飾がなされている。
「これ、は……」
呆然と呟くと、乳母はしてやったりと言わんばかりに更に笑みを深めた。
「エギエディルズ様からの贈り物です。今宵の夜会には、これを着てくるようにと仰せつかっておりますわ。そちらの小さな箱には、装飾品や手袋の類が入っていると窺っております」
「エディから?」
一体何から驚けばいいのか解らなかった。あの男が、わざわざこのドレスを作らせたというのか。他ならぬ、私のために。今まで誕生日などであの男から贈られたことがあるものは、大半が本を占め、装飾品……ましてやドレスだなんて初めてのことだ。一体どんな顔をしてあの男がこのドレスを仕立てさせたのか想像もつかない。しかも、下世話な話になるが、こんな、全くの新しいデザインのドレスである。使っている生地も、触るだけで解る上等なものであるし、どれだけ値が張る物なのかと思うと気が遠くなる。一度乳母に雷を落とされて以来、ちっとも顔を見せないと思っていたら、こんなものを用意していたのか。
「さぁお嬢様、驚いている場合ではございませんよ。早く着替えて、準備をなさらなくては、間に合わなくなってしまいますわ」
唖然として固まっている私に、乳母はにこにこと笑いかけてきた。かろうじてそれに頷いて、早くドレスを脱ぐよう急かしてくる乳母に従って、今着ているドレスを脱ぎ捨てる。はっきりと残った傷痕に、乳母は一瞬痛ましげな表情を浮かべたが、すぐにその表情を打ち消して、あの男が贈ってきたというドレスを私に着付けていく。
なんとも驚いたことに、サイズは私にぴったりだった。このようなデザインのドレスであれば、少しでも太っていたり、また逆に痩せていたりしたら、目も当てられない悲惨な見た目になっていただろうが、幸いなことにそのようなことはなかった。これは、もしかして、もしかしなくとも。
「シュゼット」
「なんでしょう?」
「あなたも、このドレスを作るのに、一枚噛んでいるわね?」
ぴたり、と、後ろのくるみボタンを留めていた乳母の手が止まる。肩越しに首だけ振り返って彼女を見下ろすと、乳母はまるで悪戯がばれた子供のような顔をしていた。
「やはり、気付かれてしまいましたか」
「いくらエディでも、ここまでわたくしの身体のサイズを把握しているはずがないもの。あなたがエディに教えたのでしょう?」
私の言葉に、乳母はしばしの逡巡の後、こくりと頷いた。
「……あの事件以来、お嬢様は塞いでいるご様子でしたから。エギエディルズ様がお嬢様にドレスを贈りたいと仰ってくださり、正直私はほっと致しました。これで少しでも、お嬢様の気が晴れてくださるならば、と」
「わたくし、そんなにも解りやすかったかしら?」
普段通りに振る舞っていたつもりだったのだが。そんな、言外に含まれた言葉が伝わったらしい。乳母は呆れたように私を見遣り溜息を吐いた。
「明らかに食べる量が減っておられましたし、睡眠も碌に取れていないご様子でいらしたことに、私が気付かないとでもお思いですか?」
そう言われればぐうの音も出ない。口籠もる私に、乳母は苦笑を浮かべる。そして再び手を動かしだし、最後までドレスのボタンを留めると、ぽん、と軽く私の背を優しく叩いた。
「これでよろしゅうございます。さ、次はお座りになってくださいな。どんな髪型がよろしいでしょうか」
「――そう、ね。あなたに任せるわ」
「かしこまりました」
鏡台の前に座ると、手慣れた動作で髪を結われ、化粧を施される。いつもよりも複雑な、華やかな髪型に加え、若々しい色味の化粧。されるがままに大人しくしていると、鏡の中の私が、まるで私では無いような気がしてくるから不思議なものである。
あの男が贈ってきた小さな箱の方には、髪飾りからネックレス、イヤリングに手袋、それから靴に至るまで、本当にきっちり一式揃えられていた。それらもまた、ドレス同様に一級品のものだと一目で解る。乳母に促されるままにそれらを身に付ければ、いよいよ完成だ。
普段滅多に……いいや、初めて着けるくらいに高価な装飾品の数々に、自然と身が固くなる。そんな私の緊張をほぐそうとするかのように、乳母は誇らしげに微笑み、私の出来映えにうんうんと何度も頷いている。
「本当によくお似合いです」
「ありがとう。こんなドレスなんて初めてだわ。なんだか照れてしまうわね」
「胸を張っていらっしゃればよろしいのです。これでは、エギエディルズ様の見立てに間違いはなかったと、私も認めざるを得ませんわ」
鏡台の前から移動して、姿見鏡の前で自分の姿を確認するが、やはりなんだか落ち着かない。乳母の審美眼は折り紙付きであると解ってはいてもだ。前、横、後ろ、と角度を変えて立ち姿を確認する度に、ドレープが揺れて深紫のパニエがちらちらと覗き、金銀が煌めく。つくづく不思議な形のドレスだと思う。あの男がわざわざこのデザインを仕立て屋に注文したのかと思うと、なんとも複雑な気持ちになるものだ。一度や二度の説明では、このデザインは作れないだろう。王宮筆頭魔法使いとして、忙しい日々の中、こんなものを用意してくれたのか。
「どういう風の吹き回しかしら」
思わず呟くと、乳母は私のドレスの裾の乱れを直しながら苦笑を浮かべた。
「お嬢様、その言い振りではあんまりですわ。エギエディルズ様に、弁解の機会くらい差し上げてくださいまし」
「弁解?」
弁解も何も、私は最初から怒ってなどいないというのに。そんな私の内心の呟きは、そのまま表情に出ていたのだろう。乳母は苦笑を深めて、「流石にエギエディルズ様がおかわいそうになってまいりました」と呟いた。全く以て心外である。疑問符をあからさまに浮かべている私に対し、乳母はそれ以上何も言おうとはせず、私の手を取った。
「ではお嬢様、そろそろ参りましょう。若様が首を長くしてお待ちですよ」
「ええ、そうね」
乳母に手を引かれて、自室から出て向かうのは、我が弟たるフェルナン・ヴィア・アディナが待つ居間である。此度の夜会における、私のエスコート役だ。これまでの夜会においても、たびたび私のエスコート役として活躍してくれたのが、他ならぬ彼である。既婚者となった今ではもう必要がないだろうと思い、今回は一人で参加しようと思っていたところ、「何かあったらどうするのですか」という弟の強い要望により、結局以前と同様にエスコートを任せる運びになったのだ。
廊下を歩くことしばし、辿り着いた居間の扉を開けると、本を読んでいたらしい弟が、勢いよく立ち上がって駆け寄ってきた。
「姉上!」
身内の欲目もあるのかもしれないが、我が弟は、父譲りのそれなりに整った顔立ちを持ち、こうして貴族としての正装に身を包んでいる姿は、いかにもおモテになりそうなものである。だというのに、未だに浮いた話一つ出ないのは、おそらく……否、確実に、他ならぬ私に原因があるのだろう。
「まあ、フェルナン……あなた、なんて顔をしているの?」
こちらを見つめてくる弟を見つめ返し、その表情を認めて、私はつい呟いてしまった。
弟の浮かべる表情は、今は何やら甘いような苦いような、実に微妙なものを口に含まされたかのようなものだった。なんてもったいない、という私の内心の呟きを知ってか知らずか、「くっ!」と弟は拳を握り締めて歯噛みをし、苦々しく口を開いた。
「あの男の見立てということが非っっっっっ常に悔しいですが、大変よくお似合いですよ。今日の姉上は、いつもにも増して美しいです」
「あ、ありがとう。嬉しいわ」
弟から贈られた賛美は、シスコンフィルターがなせる技だと思うのだが。
そう、弟にいつまで経っても浮いた話が出ないのは、このシスコンが原因なのだろう。『前』の私は一人っ子で、初めてできた弟という存在が可愛くてならなくて、ついつい甘やかしてしまった結果がこれなのだから、チクチクと罪悪感が刺激される。うざいだとか面倒臭いだとか、そう思う訳では決してないのだが、それにしてもいい加減、義妹となるべき存在を見つけて欲しいものである。
「久々ですね、姉上のエスコート役なんて」
そんな私の願いなどまるで知らず、声を弾ませて言う弟に、そういえば、とふと気付く。
「あなた、他のご令嬢からお誘いがあったのではなかったの?」
そうだ。シスコンであることを除けば、この弟は、伝統ある、格式高いアディナ家の令息である。見目はいかにも女受けが良さそうな姿であり、性格は基本的には温厚で、女性には優しく!を幼い頃から私自ら仕込んできた弟だ。私のエスコートをせずとも、他の令嬢からお誘いの一つや二つくらいあってもおかしくないはずなのだが。
だが、私の意図に反して、弟は、心外だと言わんばかりに私と同じ色の瞳を瞬かせた。
「僕がどうして姉上以外の女性のエスコートをしなくてはならないのですか?」
「……まあ、あなたがいいのならわたくしは何も言わないわ」
素でこれなのだから、姉である私は一体どうしたらいいのだろう。どうしようもない。できることはと言えば、どうかこのシスコンを叩いて強制してくれる女性が現れてくれることを願うことばかりである。
「そろそろ時間ですね。では姉上、行きましょう」
「ええ。よろしくね、フェルナン」
差し出された弟の手に自分の手を重ねて、玄関前に留めてある馬車の元まで向かう。母と乳母に見送られ、弟に手伝われて馬車に乗り込み、目指すは王城、その中心である紫牡丹宮だ。
馬車の中で、口が酸っぱくなるのではと私が危惧するほどに「無理はしないでくださいね」と繰り返す弟に対して、何度も頷きを返していると、あっという間に到着してしまった。
「姉上、大丈夫ですか?」
先に降りて手を差し伸べてくる弟に、無言で頷きを返す。ここまで来たらもう引き下がれない。
慣れない割に履き心地の良い靴で馬車から地上に降りた途端、視線が一斉にこちらに向いた気がした。値踏みするかのような視線を、頭のてっぺんから足の爪先まで感じた。そうして、こそこそ何かを口々に言い合う周囲に、肩身が狭くてならなくなった。目に付く女性陣は皆、Aラインやプリンセスラインのドレスを身に纏っており、自分が異分子のように思えてならない。自意識過剰と言われればそれまでだが、決して気のせいではないだろう。その証拠のように、私の手を引く弟が、まるで自分のことのように得意気に、ふふん、と鼻を鳴らし、私に耳打ちしてくる。
「見てください。皆、姉上の美しさに釘付けですよ」
「フェルナン、それは単に、このドレスが物珍しいからだと思うわ」
「そんなことはありません。例えそうだとしても、そのドレスを着こなしているのは、他ならぬ姉上なのですから」
自信を持ってください、と続ける弟に、つい苦笑してしまう。全く、本当によくできた弟だ。私一人で来なくてよかったと、今更ながら思う。この弟のおかげで、私はこの場に立っていられる。
牡丹のシンボルが緻密に彫り込まれた大きな扉が開け放たれ、大広間へと足を踏み入れる。魔宝石で作られた豪奢な作りのシャンデリアの光が眩しい。広い大広間には、既に多くの貴族達が集まっていた。思っていた以上の盛況ぶりである。
そんな中、さざめくような話し声と、全身を舐めるように這い回る視線をかいくぐり、会場の片隅に腰を据える。姫様の姿はまだ見当たらない。主役は遅れて登場するものなのだから、それも当然か。
しばらく弟と何とはなしに話していると、オーケストラが奏でる曲がふと変わる。弟が再び私の手を取った。
「姉上、せっかくですから一曲僕と……」
「フェルナン様」
と、その時だった。可愛らしい声が、私と弟の間に割り込んできた。
そちらを見遣ると、薄桃色のドレスに身を包んだ、小柄な少女がこちらを見上げていた。何の用か、と問いかけるまでもなかった。頬を薔薇色に上気させ、潤んだ瞳を弟へと向けている少女の意図に気付く様子もなく、きょとんと目を瞬かせている弟の背を軽く押す。
「いっていらっしゃいな、フェルナン。あまりわたくしにばかりかまけていては駄目よ」
「姉上、ですが」
「フェルナン」
女性側から声を掛けてくるなんて、そうそうできることではない。勇気を振り絞って声を掛けてきた少女の願いを無碍になど、どうしてできようか。物言いたげに私を見つめてくる弟の背をもう一度、先程よりも強めに押すと、弟はようやく重い腰を上げたようだった。少女の手を取り、音楽に合わせて踊る人々の輪の中に加わっていく。
それを見送って、ほう、と一つ溜息を吐く。曲調が舞曲に変わってから、私に集まる視線は大分和らいだものの、それでも落ち着いていられない。このままこっそり壁の傍にいて、頃合いを見て撤退しよう。そう心に決めて、踊る人々を眺めていると、「フィリミナ様?」と聞き覚えのある声が私を呼んだ。そちらを振り返ると、見知った顔ぶれの令嬢達が、一斉に私を取り囲んできた。
「まあまあまあ、やっぱりフィリミナ様でしたのね! お久しゅうございますわ。そのドレスはどうなさったの?」
「なんてお美しいこと。どこの仕立て屋のものなのかしら?」
「デザインも素敵ですけれど、その生地も不思議な色合いですわね。まるで朝焼けの帳を切り取ったよう!」
「とてもよくお似合いよ。いつもとはまるで雰囲気が異なっていらっしゃって、最初はどなたかと思いましたわ」
「あ、ありがとうございます。勿体ないお言葉です」
口々に褒めてくれる友人達の勢いに気圧されてしまう。無性に照れくさくて俯くと、くすくすと友人達は好意的に笑い合った。
「こう言っては何ですけれど、フィリミナ様はいつも大人しいドレスばかりでしたから、心配しておりましたのよ」
「ええ、せっかくの夜会ですのに、いつも壁の花でいらっしゃって」
「なんて勿体ないのかしらって、皆で言い合っていましたの」
いやそれは既に私にあの男という婚約者が居た上に、夜会において目立つのは私自身が苦手だったが故の結果だったのだが。まさかこの友人達にそんな心配をかけさせていたなんて思いもしなかった。ありがたいやら申し訳ないやらで頭が上げられない。
曖昧に笑って誤魔化す私を見て、からかうように笑う友人達の内の一人が、ふいに「そういえば」と口を開いた。
「皆様、お聞きになりまして?」
「何をでしょうか」
「バレンティーヌ家の、ルーナメリィ様のことですわ」
息を呑んだ。どうして呑まずにいられただろう。けれど幸いなことに、そんな私の反応は誰にも気付かれなかった。この場に前触れ無く出てきたその名前に、友人達の耳が大きくなる。
周囲のそんな反応に気を良くしたように、ルーナメリィ嬢の名前を出した友人は、「あまり大きな声では言えないのですけれど」と一言置いてから続けた。
「なんでも、修道院に入られたのだとか」
「……!」
それぞれが、「まあ!」だとか、「あら」だとか、驚いたような声を上げていて、私が再び息を呑んだ音は、その中に綺麗に紛れてくれた。
「そんな、バレンティーヌのご息女ともあろうお方が何故そのようなことを?」
ごもっともな質問が飛びだしたが、そんな問いにも、どこか得意気に友人は答える。
「それが、恋に破れられたからだそうで」
「……と、いうことは、エギエディルズ様とは……?」
「上手くいかなかった、ということですわね」
「まだお若くていらっしゃるのに。それだけ本気の純愛だったということですのね」
「お労しいこと」と続ける令嬢に、「そうですわね」となんとか頷いた。なるほど、世間ではそういうことになっているのか。間違ってはいない、だろう。ただ色々と端折りまくっているだけで、大筋を言えばその通りだ。
ああそうだ、見舞いに来てくれた時に、姫様は言っていた。凄味のある笑みを浮かべて、「これでバレンティーヌとローネインに、大きな貸しができたわ。当分大きな顔はさせなくてよ」と。また、その柳眉を心底すまなさそうに下げて、「大々的に罰することができなくてごめんなさいね」とも。そんなことは構わないのに。
ただ、ルーナメリィ嬢とは違って、セルヴェス青年のことは、話題にも上らない。そのことにしくりとまた胸が痛むくらいだ。
と、気付けば俯き加減になっていた私の視線の先に、突然手袋に包まれた手が現れる。驚いて顔を上げると、そこには、見知らぬ青年が、爽やかな笑みを浮かべて私を見下ろしていた。その手と顔を何度も見比べていると、青年は苦笑を浮かべた。芝居がかった仕草で礼を取ったかと思えば、再びにっこりと笑ってみせる。目立って美形という訳では無いが、いかにも好青年といった言葉が似合う青年だ。
「私と踊って頂けませんか?」
「え?」
それは私に言っているのだろうか。大きく目を瞬かせる私の両肩を、左右から友人達がそれぞれ押してくる。
「フィリミナ様、せっかくのお誘いですもの。いつものように壁の花になるなんて、私達が許しませんわ」
「ええ、そうですとも」
「え、ええと……」
そうは言われましても。それが、私の本音であった。助けを求めようにも、周囲は皆、私が青年と踊ることを期待しているようで、瞳をきらきらと輝かせて私達を見つめている。弟をあの少女に譲ったのが仇となったか。ここは一つ、適当に一曲踊って場を収めるしかないのか、と内心で溜息を吐きながら、青年の手に、おずおずと手を差し伸べようとした、その時だった。
高らかにファンファーレが鳴り響く。大広間の出入り口である、観音開きの扉が大きく開け放たれた。ざわり、と大広間が沸いたのはほんの僅かな間に過ぎなかった。その二人が入場してきた途端、会場はほんの一呼吸の間に、一気に静まりかえった。そして一拍遅れて、ざわりと参加客達は色めきだつ。
「姫様だわ」
「エスコートなさっているのは、エギエディルズ様よ」
ぼそぼそと友人達が、小さな声で囁き合う。
生半可な容姿では着こなせないに違いない真紅のドレスをいっそ見事なまでに着こなして、我が国の生ける宝石たる姫様が大広間の中心を歩いていく。そんな彼女をエスコートしているのは、普段身に纏っている黒のローブを脱ぎ捨て、今は紫紺を基調とした貴族の正装を着ている我が夫たるあの男だ。
誰かが感嘆の吐息を漏らすのが聞こえた。その吐息はそのまま、大広間中の人々の心の声を代弁していたに違いない。二人の美貌に関して、他者よりも免疫があるはずの私ですら、溜息を漏らさずにはいられなかった。
なんて美しいのだろう。なんてお似合いなのだろう。国中の絵師がこぞってその姿を描き留めたがるに違いない二人の姿から、目が離せない。久々に目にするあの男の姿は、記憶の中にあるあの男の姿よりも、もっとずっと立派で綺麗だった。姫様をさしおいて、あの男の隣に立つのが私だなんて、一体誰が信じてくれることだろうか。
――私の方がフィリミナ様よりも若くて美しくて可愛くて、貴方によっぽど相応しいではありませんか。
ルーナメリィ嬢の台詞が耳元で蘇る。自身に絶対の自信を持っていたルーナメリィ嬢。そんな彼女以上に、あの男に相応しいに違いない姫様。居たたまれない気持ちがひたひたと胸を満たしていく。気分が悪くなったとでも言ってこの場を辞してしまいたい衝動に駆られ、それを正に実行しようとしたその時、男の朝焼け色の瞳が、こちらへと向けられた。
「ッ!」
男は、姫様を上座まで連れて行くが早いか、真っ直ぐにこちらに歩いてくる。足がその場に縫い止められたかのように動かない。ざわざわと再びざわめきだす参加客達の視線が、自然と男の行き先、つまり、私の元へと集中する。逃げ場は完全に失われた。示し合わせたかのように、友人達が私から離れていく。
そして男は、私の元まで辿り着くと、私に声を掛けてきた青年に一瞥をくれることもなく、恭しく、指先まで完璧に洗練された優雅な所作で手を差し伸べてきた。
「踊って頂けますか、レディ」
誘いの形を取っていながら、その台詞には否を許さぬ響きが込められていた。だからだろうか、その男の手を取ったのは、最早反射と言えるものだった。男の手に私の手を重ねた途端、流れるように引き寄せられ、大広間の中心へと連れていかれる。姫様が片手でオーケストラに合図をするのが視界の端に映った。そうして奏でられ始めるのは、昔も今も変わらない、伝統的なワルツだ。
「エ、エディ? これはどういう……」
「黙っておけ。舌を噛まれるのも足を踏まれるのも、俺はごめんだ」
音楽に合わせて踊り始めれば、周囲の人々も遅れて踊り始める。が、その意識がこちらに向けられているのは嫌でも感じるし、踊っていない人々に関しては言うまでも無い。三拍子に合わせてステップを踏むものの、周りの反応が気になって足がまろびそうになる。その度に上手いことフォローを入れてくれる男のおかげで、なんとか体裁を保てていた。
――そういえば。そうふと思う。
こんな風に夜会でこの男と踊るなんて、初めてのことではないか。結婚どころか婚約自体大っぴらにしていなかったし、そもそも衆目を集める場に出ることを嫌うこの男が夜会になど出席するはずもなく、今日まで至っている。そんな男が、こんな目立つ真似を自らするなんて、何故だ。何が何だか解らない。これは一体どういう状況なのか。ステップを踏みながら必死に脳内で現状を噛み砕いていると、ようやくワルツが終わる。
久々に長く動いたせいで上がった息を整えていると、姫様がこちらに近付いてきた。静かに礼を取る男に続いて、私もまた慌てて礼を取って頭を下げる。そんな私達を見て、くすくすと姫様は笑った。
「楽になさいな。あたくしと貴方達の仲ですもの。堅苦しく接するなんて今更でしょう?」
会場中の人々の耳が、私達の会話に傾けられているのが解る。姫様の言葉に恐る恐る顔を上げると、姫様は私を見てはいなかった。男の方を見上げ、どこか挑発的にその琥珀色の瞳を煌めかせる。
「エギエディルズ。ようやくね。遅まきだけれど、まあ貴方にしては上出来だと褒めてさしあげてよ」
「お褒めに預かり恐悦至極に存じます」
「ふふ、素直で大いに結構。さあ、貴方のパートナーを、会場の皆にお披露目なさいな」
「言われずとも。そのための今宵なのですから」
「エ、エディ? 姫様?」
だから、一体、何の話なのか。らしくもなくおろおろと二人の顔を見比べていると、姫様が悪戯げに微笑んで、ぱちんと一つウインクをしてくださった。ああ、そんなレアな表情を見せてくださるなんて、なんて尊いのですか姫様……なんて、言っている場合ではない。
姫様のウインクに目と心を奪われていると、ぐい、と男に手を引かれ、その横に並ばされる。どういうつもりかと男を見上げれば、男は私を見下ろして、その唇に笑みを刷いた。それは、幼い頃から見てきた、朝露が緑葉から零れ落ちるかのような些細な、けれど確かな微笑みだ。そして、その笑みを刷いた唇が動く。
「お初にお目にかかる方も多くいらっしゃるかと存じますが、彼女が私、エギエディルズ・フォン・ランセントが妻、フィリミナ・フォン・ランセントです」
「―――――ッ!」
大して大きな声を上げた訳でもないというのに、その声は大広間の隅から隅まで響き渡った。ざわりと周囲はざわめくが、男の発言に誰よりも驚いているのは、何を隠そうこの私である。こんな場所でどうどうと何を言い出しおったのかこの男は。あれだけ隠したがっていたくせに、久々に会えたと思ったらこれなのだから、付き合わされるこちらとしてはやっていられ……ない、と言い切りたいのに言いきれない自分が悔しい。
呆然と男を見上げる私の手を取り、男は更に続けた。
「紹介が遅くなり申し訳ありません。私のわがままで、彼女には随分と我慢を強いてしまいました」
男は、何らかの魔法を使ったのだろう。殊勝な言葉の副音声が、私だけに聞こえるように、私の耳元で囁かれる。
「背筋を伸ばせ。俺の隣に立つのだろう?」
その言葉に、はっとさせられた。そうだ。そうだった。この男の隣に立ちたいと、そう願ってきたのは他ならぬ私自身だ。こんなところで臆していてどうするというのか。今この時こそが、意地の見せ所だ。男の手を握り返し、もう一方の手でドレスの裾を持ち上げて礼を取る。
「ただ今紹介に預かりました、フィリミナ・フォン・ランセントと申します。どうぞお見知りおきくださいませ」
飾り気も何もへったくれもないシンプルな挨拶は、幸いなことに震えることはなかった。痛いくらいの視線を感じようとも、今は何故だか何とも思わない。男の方をちらりと見上げれば、無表情に見せかけた、その実、満足げにしている男の顔があった。美しくも小憎たらしいその顔を抓り上げたくなるが、流石にこの場でそれを実行に移すのは躊躇われた。
ぱちぱちぱち、と。私の台詞から一拍置いて、拍手の音が聞こえてくる。振り向けば、姫様が満面の笑みを浮かべて、その華奢な手を打ち鳴らしていた。姫様に続くようにして、大広間のあちこちから拍手が聞こえ始め、やがてその音は波の音のように大広間中を埋め尽くす。その拍手には、未だ戸惑いが多く含まれていたけれど、それでも確かに祝福の意が込められていた。なんだか気恥ずかしくなって、男と顔を見合わせる。ふ、と、どちらからともなく微笑み合えば、そんな私達の前に大広間中を歩き回っていたウェイターとウェイトレスから、それぞれ細身のグラスが差し出される。反射的に受け取ると、背後から姫様が声を張り上げた。
「では、若き二人の前途を祝して」
乾杯、と姫様がグラスを高く掲げる。続いて、大広間中で乾杯の音頭が取られ、私達もまた、グラスを一度掲げてから、口へと運んだのであった。
* * *
夜会はその後滞りなく終了した。というか、あの挨拶の後、友人達に問い詰められる前に、早々に男と共に撤退した私には、あの後どうなったのかなど知る由も無い。弟を残してきてしまったから、おそらくはあの子の元に質問が集中していることだろう。気の毒な真似をしてしまうことになると解っていながら、それでも男に手を引かれるままに会場を後にしてしまった私は悪い姉である。
帰り道の馬車の中、男は何も言わなかった。私の方から話しかけようにも、男の纏う空気が、私がそうすることを拒絶しているように思えて、結局何も言えやしない。ただ、互いに繋ぎ合った手の温もりだけが、とても温かく、まるで子供の頃に戻ったようだ。
ガタゴトと揺れる馬車の中から、手を繋いだまま窓の外を見遣れば、風景は行きとは異なる光景が広がっていた。どこへ向かっているのだろう、という疑問が浮かんだのはほんの瞬きの間のみで、すぐに行き先に気が付いた。随分と久々なような気がする、窓の外の光景。この道の先にあるのは。
「エディ?」
呼びかけに対する応えはない。そうして馬車が停車する。手を引かれて馬車から降りて、私はその建物を――ようやく帰ってきた、私と男の屋敷を見上げた。
そんな私を余所に、男は私の手を引きながら鍵を開けて、屋敷の中へと入っていき、それに続いて私もまた中へと導かれていく。
屋敷中に設置してある魔宝石が、主の帰還と同時に明るく光る。数週間ぶりに目にする屋敷の中は、不思議とどこか閑散としていて寂しげであり、同時に、ようやくの主の帰還を喜んでいるかのようでもあった。
相も変わらず男は何も言わない。ただ無言のまま、手は繋いだままの状態で連れてこられたのは、この屋敷の中でも一際大きなバルコニー付きの窓のある、私達の寝室だった。
ぼんやりと仄かに光る魔宝石の光よりも、窓から差し込む青い月の光の方がずっと強く感じられる。男が私から手を離して、窓を開け放つ。心地良い夜風が吹き込んできて、私の頬を撫でていった。
男が私を振り返る。月明かりの逆光に、男の、夜の妖精も恥じ入る美貌が冴え渡る。私を見下ろす朝焼け色の瞳が、惑うように揺れた。一体何だ。言いたいことがあるのならばさっさと言って頂きたいのだが。私とて、この男に言ってやりたいことはたくさんあるのだから。
男の言葉を促すようにことりと首を傾げてみせる。これ以上待たせるようであれば、私の方から話し始めるぞ、という意図を込めて男を見上げれば、男はらしくもなく、はくり、と言い淀むように音のない台詞を紡いだ後に、ようやく言葉を発した。
「その、ドレスだが」
たっぷり間を置いて言われた台詞に、ぱちりと瞳を瞬かせた。そのドレス、とは、私が着ているこのドレスのことに違いない。男の視線に、何故だか無性に気恥ずかしくなって、瞳を伏せてぼそぼそと呟く。
「その……エディが用意してくださったのだと、シュゼットから聞きました」
「ああ。思った通りだ。……よく、似合っている」
「……ありがとう、ございます」
これは誰だ、と思わず突っ込みたくなった私を誰が責められるというのか。この男がこんな風に私を素直に褒めるなんて何年ぶりだろう。かろうじて発することができたお礼の言葉は、まるで壊れたからくり人形の如くぎこちないものになってしまった。
男の手が伸びて、私の頬に触れた。ほんのりと温かい男の手の温度が、じわりと頬から全身へと伝わっていくような感覚がした。何か、大層貴重な、大切なものに接するかのように、するりとそのまま撫でられて、やがて柔らかく温かな感触を額に感じた。口付けられたのだと、遅れて気付く。
「ッ!?」
反射的に両手で額を押さえ、思わず一歩後退ろうとして、それよりも先に男に抱き竦められる。身体が硬直する音が聞こえた気がした。それはもう、こう、カチーン!と。おかしい、こんな口付けや抱擁以上のことなど、何度もしているというのに、何故だか今はそれが酷く気恥ずかしい。身動こうにも、男は私の抵抗の一切を許してはくれず、ただ私は大人しく男の腕の中で固まっていることしかできない。
「エ、ディ?」
「しばらく」
「え?」
「しばらく、このままでいさせてくれ」
囁くように、ともすれば聞き逃してしまいそうな程に小さな声で言われた台詞に、私は二度目の硬直を味わう羽目になった。この男が……他ならぬこの男が、こんなことを言うなんて。この男を知っている人も、知らない人も、きっと信じてはくれないだろう。付き合いの長い私ですら信じられないでいる。
固まっている腕をなんとか動かして、恐る恐る男の背に腕を回すと、更にきつく抱き締められた。ぐえっと思わず呟きそうになったところをなんとかやり過ごし、男の腕の中から、そろそろと問いかける。
「あの、エディ」
「なんだ」
何か文句でもあるのかとでも言いたげな声音に、何故この状況でこの男はこんなにも偉そうなのかと内心で突っ込みつつ、話を続ける。
「せめて声くらい、聞かせてくださればよろしかったのに。このブレスレットを使えば、それくらい可能であったのではありませんか?」
私が今もなお着けている、男から贈られたブレスレットには、そういう機能があるということを、既に知らされている。いくら王宮筆頭魔法使いとして忙しい日々を送っていたとはいえ、「おはよう」だとか、「おやすみ」だとか、日々のなんてことのない挨拶を交わすことくらいできたはずではないか。
少しばかり恨めしげになってしまった私の声音に気付いたのか、男は、ぐ、と息を一つ呑んで、ぼそりと何事かを呟いた。これ以上無いくらいに近くに居るというのに聞き取れなかったその台詞を、もう一度せがむように男の顔を見つめれば、ぼそり、と再び男は口を開く。
「声を」
「はい?」
「声を、聞いたら。我慢ができなくなると思ったからだ」
アディナ家総出で顔を合わせることを禁じられていた私達である。言いたいことは解る。だが、『我慢ができなくなる』だとか、そんな子供のようなことを言うだなんて。
何を言ったらいいのか解らず、ただ唖然と男の冷然とした美貌を見上げていると、男はその朝焼け色の瞳を伏せて呟いた。
「―――――会いたかった」
その、短くも万感の意が込められた台詞に、硬直していた身体から、すとんと力が抜けた。なんだ。結局、それが言いたかったのか、この男は。
「……ええ、わたくしも」
私は。私だって。男の背に回した腕に力が籠もる。ああ、そうだとも。私だって。
「わたくしも、ずっと会いたかったのです」
今更すぎる、その事実。結局、そういうことなのだ。何が言いたかったか、色々と考えてはいたけれど、結局、この一言に全て集約されてしまう。
ずっと、ずっと会いたかった。会いたくて仕方が無かった。そう思っているのは私だけなのかと思うと悔しくて、ずっと口に出しては言えなかったけれど。ただ、ずっと、会いたかったのだ。
引き寄せられるかのように、そうするのが当たり前であるかのように、自然と背伸びして、男の唇に触れるだけの口付けをする。朝焼け色の瞳が見開かれた。思わず微笑むと、今度は男の方から、深く、深く口付けられる。
いい加減息苦しくなってきたところになってようやく解放された。酸欠でふらつく私を支えて、男は微笑んだ。それは、至極嬉しげな、幸せそうな笑みだった。その冷たく凍える真白い雪が溶けるかのような、温かな柔らかい笑みに、私は今度こそ言葉を失う。
ああ、もう。そう、私は内心で嘆息する。なんて悔しいのだろう。こんな表情一つで、何も言えなくなってしまう自分が悔しい。決してその美しさに惑わされているからではない。この男の顔は確かにいくら見ても飽きることはないくらい美しいものだけれど、そんなものは慣れてしまえば何も問題は無い。問題はその表情だ。お世辞にも愛想が良いとは言い難いこの男に、こんな表情を見せられて、文句の一言も言えなくなる自分が悔しくてならない。これが、この男自身が解っていてやっているならいざ知らず、無意識なのだから始末に負えない。
本当に、仕方の無い男だ。けれどもっと仕方が無いのは、他ならぬ私の方なのだろう。
男の微笑みにつられるようにして、私も笑う。額をこつりと押し当て合って、吐息が触れあう位置で笑い合う。
そんな私達を、夜空に輝く青い月だけが見つめていた。
活動報告(http://mypage.syosetu.com/mypageblog/list/userid/285180/)にお知らせ(その3)があります。
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