(14)
さて、それから起こったことを、一体どこから話そうか。
とりあえず、極度の緊張と、未だ塞がりきっていなかった身体の傷故に、とうとうあの場でぶっ倒れた私は、そのまま白百合宮へと運ばれたらしい。白百合宮の医務室で、ようやく再び目を覚ました時には、私は、両親と弟、そして乳母に囲まれていた。まるで七歳の時のあの事件の時のような状況に、これは一体何事かとつい混乱してしまった。
そんな私に、よってたかって我が親愛なる家族達は、口々に私に話しかけてきた。曰く、「無茶をするな」だの、「無事で良かった」だの。ありがたいお言葉の数々に、ベッドの上でありながらも平身低頭するしかなかった。
意外であったのが、父が心底安堵した様子で私を気遣うばかりであったのに対し、母の方が、私に対して怒っていたことだった。てっきり父の方が私を叱るかと思っていたのだが、そうではなかったらしい。母はその垂れ目がちな瞳の目尻をいつになくつり上げて、「あなたはどれだけわたくし達を心配させれば気が済むのですか」と、普段の柔らかな声音を、底辺を這うような低い声音に変えて仰ってくださった。常ならばどこまでも穏やかで、私が何かをしでかした時には困ったように「あらあら」と微笑むのが母であり、怒るのはいつも乳母の役割であったというのに、今回ばかりは違っていた。
普段が普段なだけに、母のその怒りは、正直に言って、大変怖かった。そんな母を、乳母は宥めるでもなく、安堵の涙で顔を濡らしながら「全くその通りですわ」と何度も頷いていて、私の味方はどこにもいなかった。沈黙を保っている弟に助けを求めて視線を向けると、彼はにっこりとその女性受けする顔に深い笑みを刷いて一言、「反省してくださいね、姉上」と言い放ってくれやが……いや、くださった。こういう時にこそ庇ってくれてもいいんじゃないだろうかと思った私は決して間違っていないはずだ。弟よ、お姉ちゃんは悲しい。
そんな私のかわいい弟は、私の物言いたげな視線に聡く気付いたらしく、更に笑みを深めて言葉を続けた。「安心してください。姉上以上にもっと反省すべき奴には、既に僕が制裁済みですから」と。
制裁とは、なんともまあ不穏な単語である。なんだそれは。どういう意味かと視線で問いかけるが、弟は笑うばかりで何も言わない。父や母、乳母にも視線を向けたが、皆顔を見合わせては、何とも言えない笑みを浮かべるばかりでそれ以上はやはり何も言わなかった。
一体何が、と、ベッドに横たわったまま首を捻る私に、「そろそろ面会時間も終わりだから」と、それぞれ私の頬や額に口付けをして、家族は名残惜しげにしながらも帰っていった。弟は特にそれが顕著であり、いっそ泊まり込みするとまで言い出したが、左右から両親に挟まれて、半ば強制的に医務室から連れ出されていった。「また明日も来ますからね!」と諦め悪く言い残していく弟の姿に、最早苦笑するしかなかった。
――そうして、話は現在に至る。
帰路に就く彼らをベッドに横たわったまま見送って、私は何をするでもなく、ふかふかの枕に身を預け、ぼんやりと白い天井を見上げていた。
ルーナメリィ嬢はどうなったのだろう。セルヴェス青年はどうしているのだろう。考えても解るはずがないというのに、そう思わずにはいられなかった。
目を閉じてまず思い浮かぶのは、ルーナメリィ嬢のあの曇り無き笑顔だった。菫の花のように可憐な、可愛らしい笑みの下、彼女はずっと私を殺したいと思っていたというのか。それも、憎悪や嫌忌という感情からではなく、ただ単に邪魔だから、という理由だけで。たったそれだけのことで、と他人は思うことだろう。その殺意を向けられた私とてそう思う。たったそれだけのことで殺されてなるものかと、そう思う。
……私が思うに、結局のところ、彼女は子供だったのだ。稚い、善悪の区別も付かない、命というものの重さを知らない、幼いばかりの子供。ただ自分が欲しいからという、たったそれだけの理由で他人の命を奪おうとするその心の有り様は、理解できないし、したいとも思わない。だが、それでも。
「わたくしが、甘いのかしらね」
あんな目に遭わされたにも関わらず、それでもルーナメリィ嬢を、心の底から憎もうとは思えないのだ。
だって、そうではないか。駄々をこねているだけに過ぎない幼子を、心底憎む者がいるだろうか? 皆無とは言わないが、そうそういやしないだろう。少なくとも私は憎いとは思わない。ただ、かわいそうに、と思う。私などに憐れまれるなど御免だろうし、そもそも何故憐れまれるのかを彼女は理解しないだろうけれど、それでも私はルーナメリィ嬢に同情せずにはいられない。彼女がああなったのは、周囲が彼女にそうあることを許し続けたからだろう。彼女に本来進むべき道を示してあげなかった周囲の人間にも責任はあるのだ。
とは言え、あの男に対する彼女の言葉の数々に関してだけは、許せないものがあった。何が黒持ちだ。何が王子様だ。あの男のことを何一つ解っちゃいないくせに、よくもまああれほど好き勝手に言えたものだと逆に感心してしまう。あの男を、まるでままごと遊びするのにちょうど良い人形程度にしか思っていないような口振りに、気付けば手を上げてしまっていた。我ながら、あれはまずかったと今更ながら反省する。年下のお嬢さん相手に、私の行為はあまりにも大人げがなかった。
しかし、だからと言っても、どうしても許せなかったのだ。あの男のことを、あんな風に言うなんて。あの男は確かに他人より魔力がずば抜けて高くてそれはもう美しいが、それが何だ。たったそれだけのことだ。それ以外には、ただの、一人の生きた人間であると言うのに。それも、お世辞にも完璧だとは言えない、性根が知恵の輪のように複雑な人間。それなのにルーナメリィ嬢は、そんなあの男の上っ面だけを見て、あの男を欲しいと言った。どうしてそれが認められるだろうか。許せるだろうか。到底許せるはずもない。譲れるはずが、ない。
……そうだとも。まあつまりは、うむ。そういうことなのだ。結局、私があの男を渡したくないだけで、残りの理由は全て後付けだ。そんな自分に失笑する。
心の狭い女だと誹らば誹れ。あの男の隣に立つその権利を、私は今のところ誰にも譲る気は無い。そうだとも。相手が誰であろうとも、私は。
「――フィリミナ」
そうして、ふと耳朶を打ったその声に、閉じていた目を開けた。いつになく気遣いに溢れた、耳障りの良い美声。そちらへと視線を遣れば、そこにあるのは、予想に違わぬ、夜の妖精のように美しい、中性的な美貌。それは、非の欠片も無い完璧な――……って。ちょっと待て。
「――エディ!?」
「叫ぶな。傷に響くぞ」
一瞬、我が目を疑った。ぱちぱちと瞬きをして、ベッドの横に立つ男の顔を確認すれど、何も変化は無い。思わず身を起こそうとして、押し止められた。ひとまずそれに従ってベッドに再び身を預けるが、それでも私の驚きは収まらない。私の驚愕を余所にして、男の様子は常日頃と変わらぬ淡々としたものである。そんな男に対し、私はと言えば、男の言う通り、声を上げた途端に身体が思い切り痛んだが、それどころではなかった。
今度こそ男が私をベッドに沈めようとするのを遮って上半身を起こす。ずきりと傷が痛んだがそれどころではない。私が退く気が無いことを悟ったらしい男は、ベッドサイドの椅子に腰を下ろして私と視線を合わせてきた。そんな男の腕を掴む。
「こ、これが叫ばずにいられますか! どうなさったのです、そのお顔は!?」
動揺のあまり、ついどもってしまった。それくらいに驚いていた。衝撃だった。
そう、男のその、老若男女問わずに惹き付けて止まない、いっそ恐ろしいとすら評されるその美貌の顔に現在あるのは、殴られたような痕だ。「随分と男前な顔になって」、などと笑い飛ばそうとするにはあまりにも痛々しく、冗談でも言い辛い。
ちょうど左目の下に走る傷の下を殴られたらしく、唇の左端が切れて血が出ていた。明らかに赤くなっている頬は、放っておけば青あざになってしまうだろう。男本人は平然とした表情を浮かべているが、痛いに決まっている。だが、それを、治癒魔法を使うどころか、冷やすことすらもせずに放置しながら、男は私の問いに答えた。
「フェルナンに殴られた」
「フェルナンに!?」
二度目の衝撃が私を襲う。何でもないことのように男は言うが、こちらとしてはたまったものではない。この男の言うフェルナンとは、先程までこの部屋に居た、私より三つ年下の弟のことであるに違いない。
なんということだ。先程あの弟は「制裁」と言っていたが、もしやこのことか。このことなのか。私の記憶が確かであれば、弟はやがて父の跡を継ぐ魔導書司官、つまりは文官志望であったはずである。そんな弟がこんな体育会系なノリの真似をするなんて。そもそも、この男であれば、あの弟の拳の一つや二つ、容易く避けられたのではないか。
以前、忌々しげに弟が言っていたことを思い出す。日頃から父に倣って文官でありながらも剣術の稽古に励む弟が言うには、「非常に悔しいですが、あの男は僕よりもずっと腕が立つんです」とのことらしい。魔法ばかりでなく武術に関してもそれなり以上の腕前を発揮するこの男は、つまり、自ら甘んじて弟の拳を受けた訳だ。
なんとまあ、と、言葉を失う私に、男は口の端の血を手の甲で軽く拭った。その美貌が痛みで僅かに歪むが、そんな表情はすぐさま、いつもの感情を窺わせないものへと塗り替えられる。
「結婚式での誓いは嘘だったのかと。そう言われた」
その言葉に、ぱちり、と大きく瞬きをした。結婚式での誓い、とは。
我が国で執り行われる、所謂結婚式というものは、神殿に祀られている女神像の前で、男性が女性に対して許しを請い、女性がそれを許すという形で、女神に誓うのが一般的だ。その中に、男性側の誓いにおいて、「わたしはあなたを守る」という一説がある。もしかしなくともあれか、と男を見つめていると、男は私の頬にかかる髪に手を伸ばし、そっと私の耳にかけさせた。そのあまりにも優しい仕草にほぼ反射的に固まる私の背に、男の両腕がまわされる。怪我に負担を掛けない程度に力を込められた。抱き締められているのだと、一拍置いて気が付いた。
「エディ……?」
「見るな」
男の腕の中で身を捩って、その顔を見ようとしたけれど、そうする前に止められた。だがしかし、見るなと言われると余計に見たくなるというのが人間の性である。先程よりも力の込められた腕の中から、無理矢理身を離させて、その顔を見上げ、「あらまぁ」と、思わず呟いた。顔を背けようとする男の顔を、無理矢理こちらに向けさせて笑いかける。
「あなたったら、なんて顔をしていらっしゃるのですか」
そんな、今にも泣き出しそうな、悲痛な顔をして。その理由が、殴られた痛みのせいでないことくらい私にも解る。男よりもよっぽど重傷な私よりもずっと情けない表情を浮かべている男に、私は思わず苦笑した。本当に、仕方の無い男だ。
今度は私の方からその肩に顔を寄せて、艶やかな黒髪を指で梳く。腹が立つくらいに心地よい手触りである。私は昔から、この男の髪に触れるのが好きだった。幼い頃からちっとも変っていない、そのさらさらと指の隙間を流れる手触りに目を細めつつ、もう一方の手で、ぽんぽんと背を叩く。
「大丈夫ですわ、エディ。わたくしは大丈夫です」
「っ!」
息を呑む男に、更に擦り寄って言葉を紡ぐ。大丈夫。大丈夫。私は、私として、そして、『私』として、生きて、ここにいる。他ならぬ男の腕の中にいる。ねえ、解るでしょう。解ってくれるでしょう。
そんな思いを込めて、男の背をゆっくりと叩き続けていると、ふとその温もりが離れた。顔を覗き込まれ、こつりと額を額に押し付けられる。吐息すら触れ合う位置にあってすら、男は大層美しい。例えその顔に殴られた痕があったちしても、左目の下に消えぬ傷痕があったとしても、男の目が醒めるような美しさには何ら遜色が無いのだから、いっそ恐れ入る。
朝焼け色の瞳に、私の顔が写り込んでいた。微笑みを浮かべた私の顔が写り込む瞳を縁どる、その長く濃い睫毛を伏せて、男はぽつりと呟いた。
「すまなかった」
その言葉に、男の瞳の中の私が、ぱちり、とまた一つ瞬きをした。そんな私を再び慎重に抱き締めた男は、それ以上何も言おうとはしなかった。
男の言う謝罪が意図するのは、私を囮として使ったことに対してか。側に居ると言ったくせに、結局私を一人にしてルーナメリィ嬢達に攫わさせたことに対してか。
それついて、思うところが無い、なんてことはもちろん無い。嘘つき。怖かったのに。ともすれば本当に死んでいたのかもしれないのに何をしてくれているのですかあなたは。そんな風に、言おうと思えばいくらでも言いたいことは出てくる。
けれど、こんな姿を見せつけられては、何も言えないではないか。弁解も釈明も言わないなんて、なんてずるい男なのか。言い訳の一つでもしてくれていたら、私はこの男のことを心置きなく責めることができたのに。けれどそんなものは一言として無く、ただ何を言われても諾々と受け入れようとしている男の様子に、一体何が言えるだろう。何も言えるはずがない。きっとこの男にとっては、私に何も言われないことよりも、頭ごなしに責められることのほうがずっと楽なのだろうけれど、私にはそれができなかった。ただできるのは、私を包むこの温もりを、大人しく甘んじて受け入れることくらいだ。
あの牢屋で、騎士団長殿が言っていた台詞を思い出す。この男は最後まで、私を囮にするのを反対していたのだという。ならばいい。それで、それだけで、もう充分なのだ。けれどそれをそのままこの男に言ったとしても、きっとこの男は納得しないだろう。律儀だと褒めるべきか、面倒だと貶すべきか。果たしてどちらかな、と思いつつ、そっと肩を押して、男から身を離し、その朝焼け色の瞳を覗き込む。
私は今から、とてもずるいことをしようとしている。けれどこんな時でもなければ、決して聞いてはもらえないだろうから、私はそれを存分に利用させて貰う。そんな私の言葉にはしない心の声が伝わったのか、訝しげに眉を顰める男に、微笑みかけた。
「ではエディ。お願いがあるのですが、聞いて頂けますか?」
どうしても、叶えて欲しいことがあった。それは私一人の力では叶わず、この男の力を借りる必要があることだ。常ならば「内容による」とでも言われるだろうが、今は違う。とてもずるい真似だ。我ながら性格の悪い真似である。それが解っていても、解っているからこそ、私はこの場でそれを言おうとしている。男が無言で先を促す。私は続けて、言葉を紡いだ。
* * *
私がルーナメリィ嬢に攫われ、そして夫たる男と騎士団長達の手によって助けられてから数週間が経過した。
毎日の白百合宮の医務官の献身的な治療と、あの男による治癒魔法により、私はようやく一人ででもベッドから降りて動けるようになっていた。それでも過保護な家族と男によって、一人でベッドから出ることは許されなかったが、今日ばかりは違っていた。
「……エディ、そんな顔をなさらないでくださいまし」
「別に、いつもと変わらないだろう」
「そんなに眉間に皺を寄せて、どのお口がそんな台詞を仰るのです?」
長い回廊を二人並んで歩きながら話しかければ、返ってくるのは普段よりも低められた美声。気の弱い者であればそれだけで身を竦ませてしまうだろうが、私にとっては慣れたものである。非常に解りやすく機嫌の悪さを露呈させている男に対し、私としては苦笑するしかない。何せ、この男をここまで不機嫌にさせているのは、紛れもなくこの私だ。よって、その機嫌を向上させてあげられることは、今の私にはできないのである。これから私がしようとしていることこそが、この男が不機嫌である原因なのだから。
私の苦笑に、男は何か言いたげに口を開いたが、結局何も言わないまま、私に寄り添うようにして歩みを進める。そうやって男に支えられている分、大分歩きやすい。私に対してこんなにも苛立っているくせに、こういう心配りは忘れないのだから、ありがたいやら申し訳ないやら、非常に複雑な気分だ。
そうして、互いに無言のまま回廊を歩き続けること数分。すれ違う人影が、男の姿を認めるとほぼ同時に、ぎょっとしたように頭を下げてくるのを後目に、黙々と歩き続ける。
やがて、そんな人影の多数を騎士団員が占めるようになり、菖蒲の花の紋章が刻まれた扉が見えてくる。
そう、ここは青菖蒲宮。この国の騎士団員が駐屯する宮である。その宮の扉の前で、見知った人物が、こちらに気付くとほぼ同時に軽く手を上げた。
「よお。早かったな」
「アルヘルム様。わざわざ待っていてくださったのですか」
「そりゃあまあ、事が事だしな。身体の調子はどうだ、フィリミナ」
青菖蒲宮の扉の前で、この宮のトップである騎士団長殿が気遣わしげに私を見遣った。数日前に見舞いに来てくれた時には私はベッドの上だったから、余計に気になるのだろう。私がルーナメリィ嬢に攫われて以来、彼は随分と私に気を遣ってくれている。全く気にすることはない……とは流石に言わないが、こうしてなんとか無事日常に戻ろうとしている今、ここまで気遣ってくれなくても構わないと言うのに。そんな意図を込めて、騎士団長殿に微笑みかけた。
「お気遣いありがとうございます。ご覧の通り、つつがなく……」
「短時間の散歩がやっとできるくらいだ。本来ならばまだベッドに括り付けておきたいところだな」
「…………」
私の気遣いをぶった切る横の男の発言に、思わず沈黙してしまった。騎士団長殿は、横に居る男を見上げて苦い表情を浮かべる私と、私を見下ろして無表情ながらも明らかに不機嫌そうな男の顔を見比べて、「そ、そうか」と、目を逸らした。藪蛇だったと気付いてくれたらしい。気を取り直すように、ごほん、と一つ咳払いをして、騎士団長殿は背後の大きな扉に手を掛けた。
「まあ何はともあれ、とりあえず入れよ。もうこっちの準備はできてっからな」
その台詞に、無意識にごくりと唾液を飲み込んだ。
音を立てて扉が開かれ、先に入っていく騎士団長殿の後に続く。行き交う騎士団員は、騎士団長殿に話しかけようとしては、その後ろに続く私達の姿に何かを察したように敬礼するだけに留めている。騎士団長殿は随分と部下達に慕われているらしい。同じく宮のトップであるはずの横の男とは大違いである。この男の場合、話しかけようとするどころか見なかったことにされることの方が多いだろうということが容易に想像がつく。ついくすりと笑うと、痛くない程度に軽く頭をこづかれた。抗議の意味を込めて横の男を見上げるが、男は素知らぬ顔で前を向いている。全く、こんな時にまでその聡さを発揮しなくてもいいものを。付き合いの長さがこういう時は裏目に出るなぁと思わずにはいられない。
そんなやり取りをしていると、気が付けば青菖蒲宮の中でも、随分と奥の方に来ていた。左右に番号が銘打たれたドアが等間隔で並んでいる。その間を進める足が、だんだん重くなっていくのが自分でも解る。それは、傷が痛んできたからだとか、久々に長距離を歩いたからだとか、そういう理由からでは無い。
自分で言い出したことのくせに、身体は正直にこんな反応を示してしまうのだから世話は無い。男が私を横目で見つめてくるのを感じた。「やめたいのならばやめればいい」と、言われているような気がした。むしろ「やめてしまえ」と思っているのかもしれない。
けれど、そうはいかないのだ。他の誰に強いられている訳でもない。他ならぬ私が、私自身が、こうすることを望んだのだ。今更踵を返して逃げ出そうなんて都合のいいことがどうしてできるだろうか。
やがて、目の前を歩いていた騎士団長殿が、とある扉の前で立ち止まった。ドア、ではなく、扉、だ。長かった廊下の奥の奥に位置している扉には、番号は無い。ここまでに前を通り過ぎてきたどの扉よりも豪奢であるが、同時に、どのドアよりも重厚で堅固な造りをしているであろうことが、一目で見て取れた。そして何よりも目立つのが、そのドアノブに取り付けられた大きな南京錠だ。白銀に光るそれが、確固たる存在感を主張している。
「ここだ。どうする?」
私の方を振り返り、騎士団長殿は私に問いかけた。鳶色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。「どうする?」と改めてはっきりと問いかけられ、一瞬言葉に詰まった。足が竦むのを感じた。今、騎士団長殿は、私の友人の一人としてではなく、この国の騎士団団長として、私の目の前に立っているのだ。今回の件にあたって、私の横に立つ男と、騎士団長殿には、随分とわがままを聞いてもらった。
騎士団長殿の問いかけは、最後通牒だ。これを逃せばもう二度と、こんな機会は巡ってはこないに違いない。だから私は、男から離れて一歩前に踏み出し、深々と頭を下げた。
「ご案内くださりありがとうございます。ここからはわたくし一人ででも構いませんか?」
「……大丈夫か?」
気遣わしげな騎士団長の声に、こくりと頷く。私の決意を汲み取ってくれたらしい彼は、懐から、南京錠と同じ白銀の鍵を取り出し、ガチャリと南京錠を取り外す。そして、その場から一歩退いて、彼の背後にあった重厚な扉を私の前に晒した。
緊張のせいか汗が滲む手でドアノブを掴むと、その手首を、横の男に掴まれる。男を見上げれば、真剣な表情を浮かべて、こちらを見つめていた。どうしても行くのか、とその視線が語っている。この男は、やはりここまで来てもなお、この先に私を進めさせたくないらしい。この期に及んで何を、と言いたくなるが、それが私を思ってのことだと解るから、下手に無碍にすることもできない。
手首を掴んでくる男の手に、もう一方の方の手を重ねて、私は男を真っ直ぐに見上げた。
「エディ、大丈夫ですから。それに、これがあるのでしょう?」
ドアノブを掴む手首に光るブレスレット。男の杖の魔宝玉の子供石だという石がメインに据えられたデザインのそれを示してみせる。『前』の世界で言う、GPS、盗聴器、通信機の代わりにもなるのだという、何やら執念じみた、空恐ろしさすら感じさせるそれを見せると、男はぐっと言葉に詰まったようだった。何せこれは、男が自分で私に渡してきたものだ。ざまあみろ、とやかく言えるはずもなかろう。
諦め悪く私の手首を掴んでいる男の手をそっと剥がさせると、男は何やら物言いたげに口を開き、そして結局閉ざす。やがて一拍置いて、ぼそりと呟いた。
「何かあれば、問答無用で乗り込むからな」
低い声音に、男の確かな本気を感じ取り、私は苦笑しながら頷いた。そして再び、扉へと向き直る。
気付けば緊張はどこかへ消え去っていた。背中に男と騎士団長殿の視線を感じながら、殊更ゆっくりとドアノブを引く。そうして私は、その部屋の中へと、足を踏み入れた。そして後ろ手で、すぐさま扉を閉める。
部屋の内装は、ごくごくシンプルなものだった。部屋の中心に置かれた小さなテーブルと、その前後に置かれた椅子が二脚。後は壁際に簡素なベッドが置かれているだけで、他には何も無い。窓すらもなく、代わりの光源として常設されているのであろうランプの灯りが、ゆらゆらと揺れて、この部屋をやけに明るく見せていた。
そして、そんな中で、ベッドに、一人腰掛けている人物の姿を認め、私は息を呑んだ。彼はゆっくりとその首を擡げると、今まで見たことも無いような穏やかな笑みを浮かべてみせた。
「やあ、シュゼット。……いや、フィリミナと呼ぶべきか」
「セルヴェス、様」
この部屋……高貴な身分の人間に割り当てられる牢とも言えるこの部屋に、彼が――セルヴェス青年がいることを、私は確かに知っていたはずだった。けれどそれでも、驚かずにはいられなかった。
扉の前で固まっている私にセルヴェス青年は苦笑を浮かべ、そしてベッドから立ち上がり、部屋の中心に置いてある椅子に座り直す。
「君も座るといい。まさか、もう本調子という訳ではないんだろう?」
テーブルを挟んだ椅子を指し示すセルヴェス青年に、なんとか頷きを返し、勧められるがままに椅子に腰を下ろした。
私があの男に頼んだお願い。それは、拘留中のセルヴェス青年に会わせてくれないか、ということだった。当然の如く止められた。「お前は馬鹿か」とまたしても言われた。私自身、馬鹿な真似をしていると思う。何故会おうと思ったのか、会いたいと思ったのか、その理由は私の中でも未だはっきりしていない。けれど、何故だろう。会わなくては、と思ったのだ。我ながらとんでもないわがままを言ったものだと思うが、結局男は折れてくれた。騎士団長殿に話を付け、この場を設けてくれた。
その件に関して、感謝してもしきれない。だが、いざセルヴェス青年を前にしてみると、私は一体何を言いたかったのか解らなくなってしまった。口を開こうとしても、その口から零れるのは吐息ばかりで、何の音にもなりやしない。それでも言葉を探して、私はどうにか言葉を紡いだ。
「あの、セルヴェス様、その髪は……」
第一声がこれとは、我ながら随分と間抜けなものだと思う。それでも、訊かずにはいられなかった。
私の知る限り、彼の髪は、言い方は悪いが“老人のような”と呼ぶのが相応しい、白と灰色が入り混じる髪色であり、それが背の中程まで伸ばされ、三つ編みにされていたはずだ。だが、今の彼の髪は違う。長かった髪は肩口で短く切り揃えられ、以前までは確かに混ざっていたはずの灰色の一切が失せて、完全なる真白の髪になっている。姫様の御髪のように光にきらめく白銀であるという訳でもなく、ただの、白。これでは“老人のような髪”ではない。正しく“老人の髪”そのものだ。髪の色が変わっただけだと言うのに、彼の姿は、私の記憶にある姿から、随分と老け込んでしまったように見えた。
私の問いかけに、セルヴェス青年は、何でもないことのように指に髪を絡める。
「ああ、これか。この魔封具をはめられた時からかな。色が抜け落ちてしまったんだ」
セルヴェス青年が私に見せたのは、その両腕に巻き付くように残る赤黒い痣を断ち切るかのように、両手首に嵌められた細い白銀の輪だ。それはどうやら溶接されているようで、取り外しができないようになっている。
言葉を失う私に、セルヴェス青年はただ穏やかに微笑んだ。
「そんな顔をしないでくれ。自分でも不思議だが、こうなって以来、随分と気楽になったのだから」
その言葉は恐らく、私に対する慰めでも何でもなく、確かにセルヴェス青年の本心だったのだろう。今まで接してきた彼の空気は、どこかピンと糸を張り詰めたようなものだった。けれど今は違う。彼が浮かべる穏やかな笑みが全てを物語っている。
――髪の黒は魔力の証。髪が黒に近いほど、その者の魔力は強いという。
幼い頃、あの男と共に呼んだ魔導書の一説を思い出す。白髪になってしまったと言うことは、それすなわち、セルヴェス青年から、魔力が失われたのだということに他ならない。大貴族ローネイン家の子息であり、栄えある黒蓮宮のエリート魔法使いであった彼の末路にするには、それはあまりにも残酷なことなのではないか。
けれど、セルヴェス青年は、こうしてただ穏やかに微笑んでいる。何も言えない。言えるはずがない。沈黙する私に対し、セルヴェス青年は続けた。
「僕が言えた義理じゃないが、君が生きていてくれて、本当に良かった」
「っ!」
びくり、と肩を震わせてしまった。他ならぬ彼にこうも真っ向から言われると、どう反応したらいいのか解らなくなる。結果として沈黙を返すしかない私に、セルヴェス青年は困ったように笑った。
「こんなことを言ってすまない。けれど、この部屋で、君が一命を取り留めたと聞かされて、僕は確かに嬉しかった。信じられないかもしれないが、本当に嬉しかったんだ」
「セルヴェス様……」
「けれど、喜んでばかりもいられなかった。僕が“ランセントの妻”の抹殺に失敗したと知れれば、彼女は……ルナは確実に、自分から動くに決まっていたから」
「……セルヴェス様が、ルナ様の命でわたくしを呪ったのだと証言してくださらなかったら、ルナ様を捕らえることは叶わなかったとアルヘルム様は仰っていました」
「はは。ルナはさぞおかんむりだっただろうな。昔から、あの子は僕が反抗するのを許さない子だったから」
その親しげな口振りに、ルーナメリィ嬢が言っていた通り、セルヴェス青年とルーナメリィ嬢が、確かに婚約者という間柄であったことを思い知る。しかも、「昔から」という台詞から察するに、どうやら、私とあの男同様、幼い頃からの婚約者だったのだろう。そんな少女を裏切った彼の証言が、私の命を本当の意味で狙っていたのがルーナメリィ嬢であったという真実の糸口になった。
けれど、ただセルヴェス青年が自白しただけでは、かのバレンティーヌ家の御令嬢を捕らえるまでには至らない。だからこそ騎士団長達は、私が誘拐されるのを見逃したのであり、だからこそのこの魔宝玉のブレスレットだ。
私がルーナメリィ嬢の手の者達によって攫われた際において、あの牢屋での会話は、全て魔宝玉を介して聞いていたのだと、先日騎士団長殿が見舞いに来てくださった時に聞かされている。
あそこでの会話の全てが、ルーナメリィ嬢が黒幕であるという、動かぬ証拠となったのだそうだ。ルーナメリィ嬢が全てを語ってくれている間、あの男と騎士団長殿達はその話を魔宝玉に録音しつつ聞いていたらしいが、話の途中で何度も我先にと現場に転移しようとするあの男を止めるのは、相当骨が折れたと騎士団長殿は気まずそうに言っていた。
そうして、その証拠を元にしてルーナメリィ嬢もまたセルヴェス青年と同様に捕らえられた。聞くところによれば、彼女は未だ自身の状況を理解せず、あの男に会いたがっているのだという。そんな彼女の中に、セルヴェス青年の存在は無い。セルヴェス青年は、誰に言われた訳でもなくとも、それを理解しているようだった。
「――元々、無理があったんだ」
「え?」
ぽつり、と呟かれた言葉に、気付けば俯いていた顔を上げる。セルヴェス青年は、遠くを見つめているようにして、その澄んだ海のような紺碧の瞳を細めた。
「僕が黒蓮宮に仕えることも。ルナの婚約者であり続けることも。そもそも、ローネイン家の子息であろうとすることも」
ぽつり、ぽつりと。雨雫が落ちるように、青年は語り出す。それは、私の知らない、“セルヴェス・シン・ローネイン”という青年の独白だった。
「僕には優秀な兄が二人居てね。上の兄は既に紫牡丹宮の執務官として頭角を現している。下の兄は騎士団の中でも指折りの実力者だ。どちらも、ローネイン家の子息として、どこに出ても恥ずかしくない二人なんだ」
私が聞いていようが聞いていまいがお構いなしだと言わんばかりに、彼は落ち着いた声で続ける。
そういえば、と思い出す。ルーナメリィ嬢は、セルヴェス青年が三男だと言っていた。紫牡丹宮は、この国の政治を司る、もっとも大きな宮だ。その中で頭角を表しているということは、セルヴェス青年の一番上の兄君は、相当なエリートであることは間違いない。そして、実力主義の騎士団においても指折りの実力者であるという二番目の兄君もまた、同様にエリートであるのだろう。
そんな兄君の後ろ姿を見てきたであろうセルヴェス青年は、一体何を思って生きてきたのか。尊敬か。それとも羨望か。セルヴェス青年の穏やかな声からは、どちらも読み取れない。ただただ彼の声音は、静かに凪いでいる。
「僕の元の髪の色を知っているだろう? 灰混じりの髪は、確かに魔力がある証だ。お笑い種だが、僕の両親は、両親とも兄達とも違う色のこの髪を厭っていたくせに、僕に、兄達と同様に大きな結果を残すことを求めていたんだ。僕程度の灰髪なんて探せばいくらでも……いいや、僕よりも強い魔力を持つ者のほうが、魔法学院ではほとんどだったというのにな」
くつり、と、セルヴェス青年はそこで初めて、自嘲気味な笑みを唇に刷いた。紺碧の瞳が真っ直ぐに私を射貫く。ただ話を聞いていることしかできない私に、彼はただ穏やかに続ける。
「その中でも突き抜けていたのは、エギエディルズ・フォン・ランセント。君の夫だった」
「ッ!」
「羨ましかった。黒持ちを羨むなんてどうかしているのかもしれないが、僕には決して手の届かない場所に立つランセントが妬ましかった。周りの評価など一切気にせずに、ただ有り余る才能を惜しげもなく振るうあいつが、いつしか憎いとすら感じるようになっていた」
その声音の穏やかさからはかけ離れた内容の台詞に、膝の上で拳を握りしめる。いくら私が気にしていないとは言っても、世間からしてみれば黒持ちというものは忌避され恐れられるものだということくらい、私とてよく知っている。そんな中でも、純黒であるあの男を羨んだというセルヴェス青年のその心の有り様が如何なるものであったのか、私には想像ができない。
無言のままでいる私をどう思ったのか、セルヴェス青年は、テーブルの上に両手を置いて、過去を思い返すように遠い目をした。手首の白銀の輪が、ランプの灯りを反射する。決して外れないその戒めを、セルヴェス青年はそっと、いっそ愛しげにとすら見える仕草で撫でた。
「必死になって修業したよ。けれど生まれ持った魔力ばかりはどうしようもない。いくら努力しても、実技は『それなり以上』程度にしかならなかった。だったらせめて、と思った座学は、まあなんとか結果を残せたが、所詮座学は机の上の学問だ。結局魔法使いに求められるのは実技なんだと思い知らされるばかりだった」
ゆらゆらとランプの灯りが揺れる。浮かび上がるセルヴェス青年の表情は、この部屋に入ってきた時から何も変わらない。今までに見たことの無いようなほど穏やかで優しく、懺悔をする者としての表情ではない。
「それでも黒蓮宮に入れたのは、その座学のおかげだった。けれど、黒蓮宮に入ってからは、どうせ実家からの圧力のおかげなんだろうと陰で散々言われたよ。そして、それは恐らく間違っていなかったんだろうな」
「そんな……」
そこで初めてその笑みを自嘲気味なものに変えたセルヴェス青年に、かける言葉が見つからなかった。
何を言えばいいのだろう。何が言えただろう。頭ごなしに責めればいいのかもしれないが、そんなことで気が晴れる訳もない。むしろ一層気が滅入るだけだ。
そんな私の内心の葛藤を知ってか知らずか、淡々とセルヴェス青年は話し続ける。
「僕よりの魔力の高い部下に、陰口を叩かれる毎日だった。そんな時だったよ。君に出会ったのは」
「わたくし、ですか?」
「ああ。あの国立図書館で、一目で黒蓮宮の魔法使いと解るギネアとトーネイに自ら喧嘩を売っていた君を見た時、正直驚いたよ」
そう言われて思い出すのは、国立図書館に通い始めたばかりの頃、黒蓮宮の魔法使い二人組に絡まれていた黒持ちの少年を助けた時のことだ。実際に助けたのは目の前の青年だが、そのきっかけとなったのは恐らくは私だろう。あの一件が、セルヴェス青年と関わるきっかけとなった。だが、そこまで驚かれるような真似をしたつもりは無いのだが。「喧嘩を売る」とはこれまたなかなか物騒な物言いだ。別に喧嘩を売っていたつもりはな……いや、あの言い方だとそう思われても仕方が無いか。だがしかし――……と、内心で言い訳を連ねる私に気付いたのか、くつくつとセルヴェス青年は小さく喉を鳴らして笑う。
「解らないか? 黒持ちを自ら庇うような真似をしておいて、そのくせ黒髪を特別視しているという訳でもなく、僕の髪を見ても見下す素振りもない君に、僕は会う度に驚かされていたよ。そうして気付けば、君に会えるのが楽しみになっていたんだ」
自分でも不思議なくらいにな、とセルヴェス青年は続けた。その微笑に、ずきりと胸が痛む。何故だか、自分が取り返しの付かないことをしてきてしまったような気がした。
「君の前では、僕は、黒蓮宮の魔法使いでもなく、バレンティーヌ家の息女の婚約者でもなく、ローネイン家の子息でもなく、ただのセルヴェスとしていられたんだ」
それが救いだった。青年は静かにそう続けた。
いっそ責めてくれればいいのにと思う。「よくも騙したな」と。「君のせいで」と。そう言ってくれれば、私はきっと楽になれた。私もまた、セルヴェス青年を責めることができた。けれど彼は何も言わない。だから私もまた、何も言えないでいる。
数瞬の沈黙の後、セルヴェス青年が再び、「そういえば」と口を開いた。
「ルナの処罰はどうなったか、君は知っているか?」
「……我が国の中でも指折りの、際立って戒律の厳しい修道院に送られることになられたと窺いました」
今回の一件……すなわち、王宮筆頭魔法使いたるエギエディルズ・フォン・ランセントの妻、フィリミナ・フォン・ランセントが、大貴族のセルヴェス・シン・ローネインにより呪いを受け、更に、同じく大貴族のルーナメリィ・エル・バレンティーヌ嬢に誘拐され殺されかけたという一件は、公にはされていない。王宮筆頭魔法使いの妻である私の存在が公になっていないことに加え、二つの大貴族の血族がその存在の殺害に関与したなどという醜聞は秘匿されるべきだと、上層部が判断したのだそうだ。
我が夫のあの男は、それはもう不服そうにしていたが、私としてはありがたい措置だった。下手に公表して、事をこれ以上荒立てたくなかったのだ。こんなことであの男の妻になったことが周囲に知らしめられるなんて御免である。
ルーナメリィ嬢の送られる修道院は、そちらの方面に興味の無い私ですら知っているほど戒律が厳しい修道院だ。彼女がそこからいつ俗世に戻れるかは誰にも解らない。一年もせずに戻ってくるかもしれないし、一生戻って来られないかもしれない。花も盛りの年頃の美少女に対する処罰としては随分と厳しい処罰だろう。
私の言葉にひとつ頷いて、セルヴェス青年は薄く笑った。
「ルナも、かわいそうな子だよ。僕の婚約者なんて立場でなかったら、あんな馬鹿なことを言い出すことはなかったかもしれないのに」
「っそれはちが……っ!」
「違わない」
私の台詞を遮るようにして、セルヴェス青年は言った。
「全て僕のせいだよ。そもそも、本当にあの子のことを思うのならば、僕は君に呪いをかけるような真似はしてはならなかった。結果として、あの子に余計に罪を重ねさせることになってしまった」
そして、彼は瞳を閉じて、深く深く息を吐く。肺腑の中の空気を全て吐き出してしまおうとするかのように、深く息を吐き、再び瞳を開いた。
「僕はもうすぐ、ローネイン領の中でも僻地にある神殿に封じられることになる。もう二度と、俗世に戻ることはないだろう」
「はい。存じております」
頷きを返すと、セルヴェス青年は軽く笑った。この部屋に入ってきてから、彼はずっと笑い通しだ。狂ってしまったからという訳でもなく、確かに正常だと言える精神状態のまま、彼は微笑み続けている。王立図書館で顔を合わせていた時には滅多に見られなかった、嫌味も何も含まれていない穏やかなその笑みを、私はただ見つめていることしかできない。
「ルナに対する処罰も、僕に対する処罰も、魔族に関わった者に対するものにしては随分と軽いものだ。本来ならば極刑も免れないものなのにな。いくら僕らが大貴族の一族であるにしても軽すぎる。君が減刑を申し入れてくれたんだろう?」
その台詞は、問いかけの形を取っていながらも、確信に満ちた確認だった。最後まで黙っているつもりだったその事実を突きつけられて、結局私は頷いてしまった。
「……余計な真似を致しましたか?」
死ぬのは、とてもこわいことだ。きっと私は、そのことを誰よりもよく知っている。他ならぬ『私』がそれを教えてくれた。その死というものを、私が原因で他人に与えるということが恐ろしかった、という理由もある。私は他人の死を背負えるほど強くはない。
また、同時に、一瞬で終わる死と、娯楽も何も無い修行に明け暮れる日々と、一体どちらの方がマシなのだろうと考えた末の嘆願でもあった。未だ夢物語に浸っているようなあの少女にとっては、修道院での生活は、死以上に辛いものだろう。そして、目の前の青年の場合は、単純に、私が彼に死んでほしくなかったという、ただそれだけの理由だった。我ながら随分と勝手なものだと思う。
大体、いくら被害者であるとはいえ、本来であれば私風情の嘆願で、セルヴェス青年やルーナメリィ嬢が減刑されることなど有り得ない。今回は、私ばかりではなく、あの男の力添えと、ローネイン家とバレンティーヌ家、両家からの嘆願もあったからこその減刑だ。
そんな私の問いに、緩やかにセルヴェス青年は頭を振った。
「いいや。僕はともかく、ルナにやり直す機会を与えてくれたことに感謝しているよ」
そう言ってまた微笑む青年に、またしても言葉を飲み込ませられる。どんどん言葉が見つからなくなっていく。話したいことがあるはずだった。聞きたいことがあるはずだった。けれど、セルヴェス青年が、あまりにも穏やかでいるものだから。ここが牢であることを忘れそうになる。国立図書館のいつものあの席で、こんな風に穏やかに話すことが叶うのならばどれだけ良かったか。けれどそれは最早叶わない。私と彼の間には、深い溝ができてしまった。その溝は埋めることも、飛び越えることもできない溝だ。
私を呪ったのが、どうしてこの目の前の彼でなくてはならなかったのだろう。ルーナメリィ嬢が選んだのが、どうしてあの男でなくてはならなかったのだろう。今更問いかけても詮無き問いだと解っていながらも、それでもそう思わずにはいられなかった。
気を抜けば俯いてしまいそうになる頭をなんとか真っ直ぐ保たせてセルヴェス青年を見つめていると、彼は、「ああ、そうだ」と一つ頷いた。
「なんだか僕ばかりが話してしまっているな。君も話したいことがあって、僕に面会しに来たんだろう?」
「……そうですね」
なんだか聞かせてほしかったことは全て聞いてしまった気もする。だが、これで終わりではない。もう一つだけ、聞きたいことがあった。私の過ちを自ら突きつけられるようで聞き辛いけれど、それでもこれだけは聞いておくべき問いかけ。
「もしもわたくしが、“シュゼット”ではなく“フィリミナ”であるとご存じだったとしても、セルヴェス様はわたくしを呪われましたか?」
紺碧の瞳が、静かに見開かれる。惑うようにその瞳が揺れた。けれどそれはほんの一瞬のことで、すぐにセルヴェス青年の視線は、私の視線と絡み合う。
「―――――ああ」
長いようで短い沈黙の後、彼は頷いた。
「僕は、何があろうとも、どんな前提であっても、“君”を呪っただろうな」
「然様、ですか」
目を閉じる。セルヴェス青年の言葉が、すとんと胸に落ちていく。これで、全てだ。私が聞きたかったことは全て聞き終えた。今、この胸の中を占める感情は何だろうか。怒りではなく、哀しみでなく――……ああ、そうだ。ふと出てきた答えに納得する。そうだとも。私は寂しいのだ。私は今、ここで、一人の友人を失おうとしている。それが寂しいのだ。寂しくて寂しくてならないのだ。目を開けば、滲み出てきた涙で視界が歪んでいた。その歪んだ視界の向こうで、セルヴェス青年は微笑んでいる。
ずるい、と思う。今まで、そんな顔、一度だって見せてはくれなかったというのに。あの男のようにつんけんしていて、笑顔なんて滅多に見せないで、それでも時折覗かせてくれる優しさが嬉しくて。
ああ、なんだ。私は思っていた以上に、彼のことが好きだったらしい。そのことに今更気付く。
もっと早くに、本名を名乗っていれば。セルヴェス青年は、私が“フィリミナ”であろうとも私を呪ったというが、それでも、もしかしたら、と思えてならない。本人から直接聞いてもなおそう思ってしまう自分の甘っちょろさに吐き気がする。
「……この上何を、と思うだろうが」
ふ、と。セルヴェス青年が呟いた。それが私に向けてのものなのだと遅れて気付く。視線を向ければ、彼は絶えず浮かべていたその穏やかな笑みを、真剣な表情へと変えた。
「君に頼みたいことがあるんだ」
「なんでしょう?」
既に処罰の決まった彼に対して、私ができることなどほとんど、否、皆無と言っていい。そのことを彼が理解していないはずがないというのに、その上で私に、一体何を頼もうと言うのだろう。
首を傾げる私に、セルヴェス青年は続けた。
「どうか僕を、ずっと許さないでくれ」
息を、呑んだ。そんな私に構うことなく、セルヴェス青年は言葉を紡ぐ。
「憎んでくれ、とまでは言わない。だがどうか、ずっと、ずっと、許さないでい続けてほしい」
淡々としていながらも、そこには確かな哀願が込められていた。
誰かをずっと許さずにいること。それは決して楽なことではない。きっと、私が思っている以上に辛いことだろう。誰かを許すことは難しいけれど、許さずにいることもまた難しいことだ。特に、今の私のように、許したいと思っている相手に対しては。
「――はい」
それでも私は頷いた。どうして頷かずにいられただろう。
「はい、セルヴェス様。わたくしは、あなたを許しません」
何があろうと、決して。私はこの青年を許さないでいると誓おう。それが、彼を騙し続けた私にできる、唯一の贖罪なのだから。
「ありがとう」
私の答えに、心底嬉しそうに、セルヴェス青年は笑った。初めて目にする満面の笑みは、まるで子供のように純粋なそれだった。そうして彼は、笑顔で続ける。
「さよならだ、“シュゼット”」
それは決別だった。もう二度と相見えることは無いに違いない相手に対する、別れの挨拶だ。手を伸ばせば触れられる距離に居るというのに、もうこの手は、決して彼には届かない。
私は椅子から立ち上がり、今まで彼にしてきたのと同じ、貴族に対する礼を取った。
「ええ。さようなら、セルヴェス様」
これで、終わりだ。おしまいなのだ。踵を返して、ドアノブに手を掛ける。背中に視線を感じたが、振り返ることはしなかった。振り返ってはいけないことを、私は知っていた。
入ってきた時と同じようにゆっくりとドアノブを引いて、部屋の外へ足を踏み出す。セルヴェス青年の顔を最後まで見ることなくドアを閉めて、深く溜息を吐いた。
「……やっと終わったか」
「きゃっ!?」
真横から振ってきた声に、びくっと思わず背筋を正す。そろりそろりとそちらを見遣れば、そこには、壁に背中を預けて、我が夫たる美貌の男が立っていた。一緒に居たはずの騎士団長殿の姿は無く、ここにいるのは男だけだ。
「エ、エディ? 驚かせないでくださ……」
「どけ。鍵を掛ける」
「は、はい」
有無を言わせぬ様子で、男は、どうやら騎士団長殿から預かったらしい南京錠を扉に掛ける。ガチャン、と思いの外大きな音を立てて鍵が掛けられる様子をなんとなく見守って、そのまま視線を上方の男の顔へとスライドさせる。それはそれは不機嫌そうな表情を浮かべ、こちらを見下ろしている男に、ピンとくるものがあった。
「エディ、あなた、話を聞いていらしたのでしょう」
「…………」
返ってきたのは沈黙だったが、それが何よりの答えだった。
手首のブレスレットをちらりと見下ろして、小さく溜息を吐く。ぴくりと男の片眉が動いた。男を見上げてその目をじっと見つめると、先に視線を逸らしたのは男の方だった。盗み聞きしていたことに関して、一応思うところはあるらしい。
まあ、恐らくは聞かれているのだろうな、とは思っていたので、今更驚くことも不快に思うこともない。そんなに私は信用ならないのかと訊いてみてもいいのかもしれないが、藪蛇になりそうなので止めておくことにする。それだけ心配を掛けさせているのは、他ならぬ私自身なのだから。
そんな私の内心を知ってか知らずか、男は私を引き寄せて抱き締めた。唐突な男の動きに足がまろんで、そのまま男の胸に飛び込む形となる。顔を男の胸に押しつけられ、身動きが取れない。いきなりなんだ、と男の腕の中で抵抗しようにも、全て見かけよりも力強い腕によって封じ込められる。ぬうう、と内心で唸る私に、男は言った。
「泣かないのか」
一瞬、息が詰まった。それでも。
「泣きませんわ」
結局私は、男の言葉を否定した。そうだとも。泣いてたまるものか。部屋の中で滲んだ涙は既に引っ込んでいる。これでいいのだ。後はセルヴェス青年を許さないまま生きていくだけだ。それでいい。それがいい。それなのに。
「誰も見ていない。泣いてしまえ」
それなのに、この男はこんな風にして私を甘やかす。そのたった一言に、堰き止められていたはずの涙が一気に決壊する。
「――ッ!」
言葉にならない嗚咽が漏れる。涙が男の胸を濡らすけれど、男は何も言わなかった。それがありがたくて、その温もりが心地良くて、より一層涙が溢れた。
セルヴェス青年は、私と会うのが楽しみになっていたと言ってくれた。それは私も同じだった。この男によく似た不器用な青年が覗かせる優しさに、確かに癒されていた。こんなことになるなんて思わなかった。だから寂しい。だから苦しい。私はたった今、確かに、一人の友人を永遠に失ったのだ。
男の腕に一層力がこもる。その腕に取り縋り、顔をその胸に押しつけて、騎士団長殿が様子を見に来るまで、私は男の腕の中で泣き続けた。
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