(10)
眩しすぎる白銀に、思わず目を瞑る。一体何が起こったのか理解できない。瞼の裏にまで焼き付いた白銀は、決して目を射るようなものではないけれど、それでも閉じた真黒の視界の中で光がちらつく。目を開けるタイミングが掴めず、そのまま閉じた状態でいると、ぐい、と強く腕を引っ張られた。
「っ!?」
息を呑み、身体は反射的に反抗しようとする。けれど、それはできなかった。身を捩るよりも先に、思い切り抱き込まれてしまう。
耳元で響く、深々とした安堵の溜息。鼻孔を擽るのは、様々な薬草や香草の匂いが入り混じった匂い。その独特の匂いを纏う存在を、私はよく知っていた。
「…エディ?」
恐る恐る目を開けて、私の背に両腕を回して強く抱きしめてくる存在を見上げる。そこにあったのは、予想に違わぬ、中性的な白皙の美貌。その美しい顔に安堵を色濃く乗せて、私の夫である男は、私を更に強く抱きしめた。必然的に顔を男の胸に押しつける体勢になってしまい、私の視界は男の着ているローブの黒で染まり、男がどんな顔をしているか見えなくなる。
「…じで、……った」
「え?」
掠れた声で呟かれた台詞に、つい目を瞬かせる。今、何を言われたのだろう。『無事で、良かった』。そう聞こえたような気がするのだけれど、それは私の願望だろうか。
力強く抱きしめてくる腕の力が弱まる様子は一向に無い。いつにない男の様子に、突き放すこともできず、かと言ってこのままでいることを甘受している訳にもいかず、男の腕の中で途方に暮れていると、耳に凛とした声音が飛び込んできた。
「エギエディルズ、気持ちは解らないでも無いけれど、今はそんな場合ではなくてよ」
その言葉に対する男の応えは、盛大な舌打ちだった。おいこらそれはまずいだろう、という私の内心の突っ込みが伝わったのか、私を抱きしめる男の力が緩み、ようやく人心地が付く。とは言っても、依然男の片腕は私の腰に回されたままであったけれど。
それでもなんとか身動きは取れるようになり、男の腕の中で身体を反転させて、私は先程の声の出所へと視線を向ける。そこには、陽光に輝く波打つ白銀の髪と、光の加減で金色にも見える琥珀色の瞳を持つ、我が国の生ける宝石、クレメンティーネ姫が立っていらっしゃった。
侍女も護衛も付けずに、何故こんなところに。そんな私の疑問は、ありありと顔に出ていたに違いないが、それに答えることもなく、姫様は大輪の百合の花が綻ぶが如く優美に微笑んだ。
「この間ぶりね、フィリミナ。無事なようで何よりだわ」
「は、はい」
とりあえず頷きを返したものの、状況は全く掴めない。男の方を見上げると、男は私を片腕の中に閉じ込め、もう一方の手に杖を顕現させながら、私の無言の問いに答えるべく、その薄い唇を開いた。
「犯人と接触すれば、例の核は反応するはずだと言っただろう。同時に、俺と姫がお前の元に転移できるよう、略式の転移術もかけておいただけだ」
「『だけ』だなんて。姫様まで巻き込むなんて、何を考えているのですか」
さらりと男は言ってくれるが、聞かされているこちらとしてはたまったものではない。転移術って、またか。またなのか。それも、男だけならばいざ知らず、姫様まで抱き込んでやらかすとは、一体この男の神経はどうなっているのだろう。
私の胡乱な視線に、男は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「俺に言うな。本人達ての希望だ」
実に不本意そうにそう続ける男の声と表情に、男が嘘を言っている訳では無いことを知る。どういうことかと姫様の方を振り返ると、目が合った姫様は、にっこりと笑みを深めた。
「あたくしの大切なお友達の危機ですもの。その男だけでは頼りないだろうと思ってのことだったのだけれど…どうやら、その予想は当たっていたみたいね」
「どういう意味だ」
「あら、自覚が無いとは重症だこと。見たところ、フィリミナを一人にしていたのではなくて? この肝心な時に、弱っている自分の妻を一人にするなんて愚を犯す夫のどこに頼りがいがあると言うのかしら?」
そこはかとはくどころでなく怒りの滲むその声音に、男はぐうの音も出ないようだった。私を抱きしめる腕の力が強まるのを見て取って、姫様は、男を小馬鹿にするように、小さく鼻で笑った。そんな姿も優雅な絵になるが、いやはや、相も変わらず容赦のない御方である。
そもそも、一人になったのは、この男が止めるのも聞かずに私が勝手に研究室を出てきたからであって、この男に非は無いと思うのだが。けれどそんなフォローも、今の姫様には通じそうもない。年下の少女相手に情けないと言われるかもしれないが、それだけの迫力が、今の姫様にはあった。これでは、姫様というよりも女王様だ。彼女がそういう御方だとは、確かに知っていたけれども。
それでも、こんな風に解りやすく怒りを露わにしている姫様を見るのは初めてで、一体どうしたらいいのか解らなくなる。固まる私を抱えた男は、苦々しげに顔を歪めて口を噤んでいる。この男をこんな風に黙らせることができる姫様は、やはり尊敬に値する御方だと改めて思う。
「なぁ、こりゃあ一体どういう状況だ?」
場違いな程にのんびりとした声が割り込んできた。すっかりその存在を忘れていた騎士団長殿の声だ。
視線を巡らせてそちらを見遣り、私はまたしても息を呑むことになった。騎士団長殿の、そののんびりとした声にはそぐわない、その状況。騎士団長殿はその場にしゃがみこみ、セルヴェス青年を後ろ手にして地に伏せさせていた。
セルヴェス青年の両腕の包帯は焼け焦げてほどけかけている。包帯の合間から覗く、肌に刻まれた赤黒い文様は、何故だかあの魔族を連想させた。まさかという懸念が、じわじわと確信に変わっていく。それでもこの目の前の事実を受け入れがたくて、目を塞ぎたくなる。
どうして、と思わずにはいられない。何かを言おうとして開いた口からは、結局何も出てこなかった。男の腕にまた力がこもる。そこで私は初めて、身体が震えていることに気付かされた。
「説明は後だ。アルヘルム、お前はそのままその男を拘束していろ」
低く、冷えた声音だった。状況を今一つ理解しきっていない騎士団長殿ですら、これが洒落や冗談で済まされないことを悟らざるを得ないような声。聞きたいことなど山ほどあるだろうに、それでも騎士団長殿は、「へぇへぇっと」と、異を唱えることなく男の言葉に従った。セルヴェス青年が抵抗できないよう、その両腕を、包帯で縛り上げて地に押さえつけ、これでいいかとばかりに騎士団長殿はこちらを見上げてくる。
それに無言の応えを返し、私を片腕で抱きしめて、もう一方の手で杖を突きつけながら、男はセルヴェス青年を睥睨した。
「―――随分と、小賢しい真似をしてくれたものだな。セルヴェス・シン・ローネイン?」
「…ッ!」
騎士団長殿によって地に伏せさせられながらも、首を擡げて男を睨み上げるセルヴェス青年の視線が一層鋭くなる。憎悪に染まった紺碧の瞳に、びくりと大きく身体が震えた。そんな私を見て、憎悪から一転、その海のような瞳は泣き出しそうに揺れる。セルヴェス様、と、無意識にそう声をかけようとした自分がいた。けれど、それは叶わなかった。私が声をかけるよりも先に、男の方が口を開く。
「俺の妻に呪いをかけるなど、よくもふざけた真似を。楽に死ねると思うなよ」
淡淡としているからこそ、尚更ぞくりと寒気を誘う声音で男は言い放った。『楽に死ねると思うなよ』だなんて古今東西散々使い古された文句だろう。そう笑い飛ばすことは簡単なことのはずなのに、口がカラカラに渇いて、空笑いを浮かべることすらできない。
そろそろと、男の顔を振り仰ぐ。そしてすぐに後悔した。見なければ良かった。見上げた男の顔に、表情は無かった。喜怒哀楽、その一つとしてそこには無い。一切の表情が削ぎ落とされた、美しいばかりであるからこそ恐ろしいそのかんばせ。ただその朝焼け色の瞳だけが、絶対零度の光を宿し、セルヴェス青年を見下ろしている。
この男がここまで怒っているところを見るのは、もしかしたらこれが初めてかもしれない。いいや、怒っている、だなんて表現するだけでは生易しい。今のこの男を支配しているのは、単なる怒り以上の、底知れない何かだ。
「呪いィ!?」
セルヴェス青年を押さえつけている騎士団長殿が、男の発言によって凍り付いていた空気を打ち砕くような、すっとんきょうな声を上げた。鳶色の瞳を見開いて、その視線をセルヴェス青年と男の顔の間を何度も行き来させ、「マジかよ」と呟く。
「呪いってあれか、魔族と契約したってことか?」
「それ以外に何があるというの? いいから貴方はしばらく黙っていらっしゃいな」
「いや、姫さん、黙ってろって言われてもなぁ」
姫様の台詞に、困ったように騎士団長殿は眉根を寄せた。そして、杖をセルヴェス青年に突きつけて今にも攻撃魔法を放ちそうな雰囲気の男を見上げて苦笑する。
「おいエギエディルズ、頼むから勝手に殺すなよ? 魔族と契約してたって言うんなら、こいつは騎士団の方で引っ張ってって、然るべき場所で裁かれるんだからな」
騎士団長殿の仰ることはごもっともである。魔族との契約は、女神信仰のこの国においては大罪にあたる。いくらセルヴェス青年が大貴族の一角を成すローネイン家の血族だとしても、例外ではない。
…信じたくも認めたくも無いことではあるが、やはりセルヴェス青年が私を呪っていた犯人であるらしい。魔族と契約した者は、その証として身体のどこかに特有の文様が浮かび上がると聞く。セルヴェス青年の両腕の赤黒い文様こそ、その証なのだろう。実物を目にしたのはこれが初めてだが、そんな知識の浅い私ですら、それが魔に属するモノであるということが知れる禍々しさだ。
それを目にしてもなお、まだどこかで「そんなはずは無い」と思いたがっている自分がいる。どうして彼が犯人だと言うのだろう。彼でなくてはならなかった理由が、あったとでも言うのだろうか。
「…がう」
地に押さえつけられたセルヴェス青年が、ぽつりと何かを呟いた。「あん?」と騎士団長殿が訝しげに首を傾げるのとほぼ同時に、セルヴェス青年の包帯で縛られた両手に澱んだ光が宿り、猛り狂う炎のように迸る。
「うおっ!?」
じゅっ!と音を立てて包帯が燃え尽き、その光の勢いで騎士団長殿はセルヴェス青年の上から跳ね飛ばされた。そのまま近くに生えていた木に叩き付けられ、騎士団長殿は呻き声を上げる。それに気を払うこともなく、すぐさまセルヴェス青年は立ち上がった。セルヴェス青年の両腕の赤黒い文様が、禍々しい光を宿して揺らめいていた。彼の紺碧の視線が向かう先に居るのは、私の夫である男ではなく、その腕に抱かれている私だ。
「違うんだ! 僕は、シュゼット、君を苦しめたかった訳じゃない!」
「セルヴェス様…」
「僕は、僕は…!」
―――君、名前は?
初めて出会った時の問いかけが、耳朶に蘇る。それは、今のように苦悩に満ちた声なんかではなかった。もっと澄んだ声だった。それをこんな風に変えてしまったのは、他ならぬ私だ。
―――わたくしは、シュゼットと、申します。
あの時私は嘘を吐いた。その嘘が巡り巡って、私ばかりでなく、今この場にいる人々を巻き込んだ。
私のことを“シュゼット”と呼ぶセルヴェス青年を、姫様と騎士団長殿は怪訝そうに見つめている。私を抱えている男の朝焼け色の瞳が、「どういうことだ」と言わんばかりに私を見下ろしていた。そして、セルヴェス青年の紺碧の瞳が、縋るように私に向けられる。その瞳に対する答えを、私は確かに持っている。けれどそれは、青年を傷付けるに違いない答えだ。
許してほしいなどとは言えない。言えるはずもない。あの時嘘を吐いた対価は、支払われなくてはならないものだ。あの時は大した嘘では無いと思っていた。その結果が、これだ。
男の腕から抜け出して、一歩前に出る。止めようとした男の手を避けて、セルヴェス青年の前に立った。
「…わたくしは、フィリミナ・フォン・ランセントと申します。ここにいる、エギエディルズ・フォン・ランセントの妻です」
セルヴェス青年の整った顔が、絶望に染まる。いつも毅然としていた青年の、こんな表情なんて見たくなかった。けれど目を逸らすことは許されない。これは私の罪だ。あの時私が吐いた嘘が、この青年にこんな表情を浮かべさせた。この青年をこんなにも傷付けた。
それなり以上には付き合いのあった間柄だ。友人というには烏滸がましいのだろうけれど、それくらいには私は彼のことを好ましく思っていた。セルヴェス青年もまた、それくらいには、私のことを好ましく思っていてくれたのだと思う。だからこそ、こんなにも苦しい。
セルヴェス青年と話すのは楽しかった。サンドイッチを食べてくれて嬉しかった。不器用な気遣いな言葉のひとつひとつが微笑ましくて、友人として在れることが嬉しかった。友人であると、思っていた。偽りの名前の上に成り立つ、最初からセルヴェス青年を裏切っていた関係であったのに。
もしも初めて会ったあの時、正直に本名を名乗っていれば。姓を言わずとも、せめて、名前だけでも、シュゼットではなくフィリミナと名乗っていたならば。そうすればまた、何かが変わっていたのかも知れない。そう思っても全ては遅い。後悔しても今更だ。
両手を握りしめることしかできない私を庇うように、男が私とセルヴェス青年の間に割り込んでくる。ぎらり、と紺碧の瞳が不穏な光を宿して輝いた。
「っお前など! お前さえ、いなければ!!!」
怨嗟に満ちた声音と供に、その両腕の文様の赤黒い光もまた強くなる。舌打ちと供に、男が私を抱き込んできた。それを甘んじて受け入れることもできたはずだというのに、何故だろう。私の身体は、それとは逆に動いていた。
「―――――エディ!」
全身全霊の力を使って男を突き飛ばす。見開かれる朝焼け色の瞳。そして、身体に走る衝撃。最後に見えた宙に舞う鮮血は、薔薇の花弁よりも鮮やかだった。




