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魔法使いの婚約者  作者: 中村朱里
おまけ
26/65

      (9)

夫たる男から魔族の核と姫様の髪からなる“お守り”を受け取ったはいいものの、やはりこれと言った変化は無い。

日々は淡淡と過ぎ去り、私はただただ悪夢に魘されては、その度に男に起こされる日々が続いている。おかげさまで本格的に肌荒れは酷くなり、目の下の隈はとうとう化粧では隠しきれなくなってしまった。けれどそれ以上に心配なのは、あの男のことの方だ。

お守りを受け取った日以来、多少その生活態度は改善されたものの、それでも無理をしていることは明らかだ。元々研究馬鹿であり、一度のめり込むと寝食を忘れてしまう節があったことは知っていたが、今回はその比ではない。白い磁器のような肌にうっすらと浮かぶ隈は、男の美しさを損なうものではないけれど、それでもその本来の顔を知っている身としては、申し訳なくなってしまう。


悪夢は眠る度に私の元にやってくる。それは昼夜を問わず私を捕らえ囲い込もうとするけれど、その寸前でいつも男に救い上げられる。目を覚ます度に、心底安堵したような表情で私の顔を覗き込む男に対して私ができることと言えば、いつものように微笑みを返すことくらいであることが歯痒い。


そんな風に私を見張っている男だが、我が国筆頭魔法使いとして働くその身が、一日中私の側で、私が眠ってしまわないかどうかを見張っていることなどできるはずがない。

私に呪いをかけた犯人を見つけ出すためには、お守りを持つ私自身が外出しなくてはならないはずではないかと思うのだが、あの男は、自分の目が届かないところに私が行くのをどうにも嫌がるのである。まあ気持ちは解らないでもない。眠気覚ましにと、ひとり勝手に外出して、その外出先で倒れでもしたら目も当てられないだろう。


あの男は、任される仕事を、できうる限り自宅である館に持ち帰ってきて、私の側で仕事するように努めてくれているが、あの男の仕事は、それで全てを賄えるようなものではない。

よって私は、あの男特製の、眠気覚ましの香草と薬草をたっぷりと使った香草茶を飲むことで、なんとか眠気を乗り越えて、毎日登城する男を見送り、また、出迎える日々であった。


が、しかし。ここ数日は、そんな日々とは、少々どころではなく、勝手が違っていた。


「……やっぱり苦いわね」


何の気も無しに呟いた台詞は、周囲を囲む書物の山の中に吸い込まれて消えていった。

空になったティーカップをソーサーの上に戻し、ほう、と溜息を吐く。ローテーブルの上に置かれたポットから、香草茶を注ぎ足して、再び口に運んだ。思わず顔を顰めたくなるような苦みが口の中に広がる。お世辞にも一般受けはしそうに無い味であるが、これくらいが今の私にはちょうどいいのだろう。眠気覚ましの香草茶の特有の匂いと味が、気を抜けばそのまま眠りの中に引きずり込もうとする意識の靄を取り払ってくれる。

瞼の重みを取り払うように瞬きを繰り返して、ソファの背もたれに身体を預け、天井を見上げた。その視線の先にあるのは、自宅の見慣れたアラベスクにも似た淡色の花柄ではない。もっとシンプルな、なんの飾り気もない単色の天井だ。周囲を見回せば、古今東西を問わない様々な書物や、何に使うのかさっぱり解らない道具などが、所狭しと並べられ、積み上げられている。一見として雑然としているというのに、何故だかこの空間は生活感を感じさせない。

自宅とはまるで違う雰囲気は、私を何となく落ち着かなくさせて、その感覚を誤魔化すように、再びティーカップを口に運んだ。うむ、苦い。が、不味くはない。『前』の世界で愛飲していた珈琲と、どこか似た味わいがある。それがなんだか懐かしい。

こういうことに関しては、あの男は本当に器用なものだと思う。全く以て羨ましいものだ。そのくせ、職場の片付けは、この目の前に広がる現状を見る通りに、下手くそなのだから、つい笑ってしまいたくなる。本人に言わせれば「何がどこにあるかくらい解っている」とのことらしいが。


ここまで言えばもうお解りだろう。

私が現在居るのは、王城の一角たる黒蓮宮にある、あの男の研究室である。


図書館に行く訳でもなく、何か届け物がある訳でもなく、本当に用も無く登城、それも、いくら妻だからとは言え、筆頭魔法使いの研究室に足を踏み入れて寛いでいるなど、本来ならば褒められた行為ではない。そんなことは解っている。だが、これには、それなり以上にのっぴきならない事情があるのである。


それもこれも、先日、食事を作っている最中に、睡魔に負けて倒れてしまったことに起因する。


呪いのことが判明して以来、今までの遅い帰宅が嘘のように定時の帰宅をしてくれていた男であるが、そんな男が、いつもであれば出迎えに出てくる私が出てこないことを不審に思って、台所を覗いたところ、そこで目にしたのが、ばったりと倒れている私の姿。私が、自分自身が倒れたことに気付いたのは、男に必死の形相で抱き起こされてからだった。何が起こったのかと事態が掴めない私に、深々と男は安堵の息を吐いていた。幸い大事には至らなかったものの、この事態を重く見た男は、こうして私を研究室まで伴って登城するようになったのである。

予備の黒いローブを私に着せて、堂々と登城するその面の皮の厚さを、いっそ見習うべきなのだろうか。私としては、いつばれるかと気が気で無かったというのに。

ここ数日噂になっているのだという、あの最高峰の“黒持ち”であり、“救世界の英雄”たる美貌の男が連れ歩く、黒のローブのフードを深く被った謎の人物とは、何を隠そう、私のことである。


ウィドニコル少年には、深い事情は話していない。しかし、彼は聡い少年であるから、何かしらあったのだろうということには薄々勘付いているようだ。それでも何も言ってこないのは、師である男のことをそれだけ信頼しているからか、はたまた、訊いたとしてもあの男は答えないだろうと思っているからか。……おそらくは両方なのだろう。

全く、あの男は本当に、よくできたお弟子さんを貰ったものだ。明日にでも、何か差し入れを作って持ってこようか。ここに入り浸るようになって以来、昼食は彼の分も私が用意しているが、まだ年若い少年には物足りない部分もあるだろう。焼き菓子のひとつやふたつでも有った方が、休憩のお茶の時間も盛り上がるというものだ。


「―――フィリミナ」

「…はい?」


思考に割り込んできた呼び声に、ゆっくりとそちらを向く。そこには案の定、私のよく知る男の姿があった。それこそ正に、目が醒めるような、とでも言いたくなるような白皙の美貌が、ソファに身を預けて座る私を真っ直ぐに見つめている。

分厚く、いかにも重そうな魔導書を、慣れたものだとばかりに軽々と片手に持って、男は私の横に座った。その横顔に滲み出る安堵に、どうやら私はまた、この男に心配を掛けさせていたいたらしいと気付く。

過保護だとか心配性だとか、そう一言で言ってしまうのは簡単なことだけれど、そうしてしまうには、躊躇われるものがあった。だから私はその代わりに、安心させるように微笑むのだ。そんなことくらいしか、私にはできない。


「わたくし、寝てはおりませんよ?」

「なら、いい」

「はい」


本音を言えば、いくら香草茶を飲んでいるとは言え、眠いことには変わりない。だが、それを今ここで口にしても、何の解決にもならない。ただ悪戯にこの男を急かし、焦らせるだけだろう。眠らないように努めることは、とても難しいことである。この男とてそれが解っているに違いない。だからこそこうして、暇を見つけては、私の居る、研究室の奥の休憩場にやってくるのだ。


「エディ。申し訳ありませんが、少々肩を借して頂いてもよろしいでしょうか」

「…眠いのか」

「ええ、少し。エディがあちらの席に戻るまでで構いませんから」

「魘されるようであれば、すぐに起こすぞ」

「はい。よろしくお願いします」


よし、言質は取った。膝の上に、持ってきた魔導書を広げる男の肩に、頭を傾けて預ける。ちょうど良い高さにある男の肩に少しだけ笑って、私は目を閉じた。

瞼の裏の暗闇が心地良い。このまま深い深い眠りに落ちてしまいたくなるけれど、それをしたら最後、またあの悪夢に苛まれることになるのだろう。だから、この隣の温もりを頼りにして、浅い眠りの中で微睡むことにする。

微かに聞こえる、男が魔導書のページを捲る音。一定のリズムを刻む時計の秒針の音。書物を傷めないように、窓はカーテンで閉め切られているけれど、その向こうからは小鳥の囀りが聞こえてくる。

完全に寝入る訳ではない。かと言って、起きている訳でもない。そんな、曖昧な意識の中をたゆたいながら、頭を預けた男の肩に、無意識にすり寄った。すると、ふわり、と何かが身体の上に掛けられた。恐らくは男が膝掛けか何かを私の上に掛けてくれたのだろう。目を閉じたまま思わずふふと笑えば、何やらむっとしたような気配を感じた。あらあら、これは失礼。それでも私を起こそうとはせずに、身じろぎすらせずそのままの体勢を取ってくれている男に感謝しながら、とろとろと溶かされていくような微睡みに身を浸す。


けれど、その安らかな時間が壊されたのは、それから幾何もしない内にだった。

ぴくり、と男の身体が震える。同時に、こちらに近付いてくる話し声に、私も薄らと目を開ける。この研究室に今居るのは、私とこの男、そしてウィドニコル少年だけのはずである。私も男も口を開いていないことを鑑みれば、後に残ったのはウィドニコル少年のみだ。けれど、近付いてくる話し声には、どうも彼以外の声が混じっているようだった。

男の穏やかだった雰囲気がなんとなく変わったような気がして、凭れ掛けていた身体を起こして男の顔を見上げる。そこには今にも舌打ちせんばかりの表情で、通路を見つめる、男の美貌があった。


「そっちに行ったら駄目ですっ! 駄目ですってばぁっ!」

「あら、どうして? エギエディルズ様はこちらにいらっしゃるのでしょ?」


聞き覚えのある二人の声―――特に、後者の小鳥の囀りのような可愛らしい声音に、私は一瞬固まった。この声は。忘れようにも忘れられない。何せ、毎夜のように、夢の中で聞いてきた声なのだから。

反射的に男に寄せていた身体を離して、ソファの反対側に寄る。男が音もなく立ち上がり、私の姿を隠すように通路の前に立ち塞がった。


「エギエディルズ様! やっとお会いできましたわ!」


喜色に富んだその声に、つい身体が震えた。可憐な面立ちに満面の笑みを浮かべ、丁寧に梳かれたストロベリーブロンドを背に流した美少女が誰かだなんて、今更誰何するまでもない。そっと身体をソファから乗り出して、男の背の向こうを窺うと、こちらにはまだ気付いていない様子のルーナメリィ・エル・バレンティーヌ嬢は、春風のようにふんわりと笑った。


「最近はお忙しいようでしたので遠慮していましたが、我慢できなくなってしまいましたの。怒ってしまわれました?」

「…そのようなことは」

「ああ良かった! そうだ、私、お土産も持ってきましたのよ。当家の料理人に作らせた焼き菓子なのですけれど、エギエディルズ様のお口に合えばいいのですが」


ころころ次から次へと、表情を豊かに変えながら話すルーナメリィ嬢は、同性である私の目から見ても至極可愛らしい。

そうして彼女は、その手に持っていた小振りのバスケットを男の目の前に誇らしげに差し出した。こちらからはその中身は窺い知れないが、あのバレンティーヌ家の料理人のお手製の焼き菓子であれば、さぞ立派なものであるに違いない。それこそ、私が作るものよりも。

にこにこと誇らしげにバスケットを抱えて、ルーナメリィ嬢は男の腕をごく自然な仕草で引いた。そこには恐れも怯えもない。そうすることが当然のことのように、彼女は男に触れた。その瞬間、ずきりと痛んだのはどこだっただろう。

男の背しか見えないこちら側からでは、男がどんな表情を浮かべているかなんて解らない。気にならないと言えば嘘になるけれど、それと同じくらいに、見えなくて良かったと思う私がここにいる。


声を掛けることなどできなかった。それを、男が望まないことが解っていた。男としてはこのまま、ルーナメリィ嬢が私に気付かない内に、彼女をこの場所から連れ出したいところだろう。それが解るからこそ、私もまた、ソファの上で息を潜めて状況を見守るしかない。

すると、ルーナメリィ嬢の背後で、途方に暮れたような顔をして、男とルーナメリィ嬢の様子を、私と同じように見守っているウィドニコル少年と目が合った。その口が、ぱくぱくと動く。「す・み・ま・せ・ん」。その台詞に音は無かったが、確かに彼がそう言っているということが見てとれた。ウィドニコル少年の責任では無いだろうに。それでも律儀に私に謝罪してくる律儀な少年に、私としては苦笑するしかない。


「エギエディルズ様、この焼き菓子をお供に、そろそろお茶なんていかがでしょう?」

「いえ、私はまだ仕事が残っておりますから」

「駄目ですわ、エギエディルズ様。あまり根詰めてお仕事をなさっていては、お体を壊してしまいます」

「ご厚情、痛み入ります。話があるのであればあちらで聞きましょう。ですから、これ以上は…」


美少女のいじらしい言動も、あっさりすっぱりさっぱりと、すげなく切り捨てる我が夫。男として大丈夫かと若干心配にならなくもない。とは言え、ここで下手に口を挟むことなどできるはずもなく、結果として、無言で見つめていることしかできないでいる。すると、ひょこり、と、男の横から、私の方へ、ルーナメリィ嬢が顔を覗かせた。彼女の紫水晶のような美しい瞳が、私の姿を捕らえる。


「あら、フィリミナ様?」


意外だとでも言いたげに、ことりとルーナメリィ嬢が首を傾げた。その拍子に、ストロベリーブロンドがさらりと肩から滑り落ちる。直接触れなくても、その指通りの良さが如実に解る髪に目を奪われながらも、私は立ち上がった。見つかってしまった以上、いくら相手が年下であるとは言え、バレンティーヌ家の御令嬢相手に、座ってただ見ているだけなどという真似は許されない。両手で左右のドレスの裾を持ち上げて礼を取った。


「ごきげんよう、ルナ様。ご無沙汰しております」

「ふふ、ごきげんよう。フィリミナ様も、またエギエディルズ様に会いにいらしたのかしら?」

「…ええ、少々用がありまして」


まさか馬鹿正直に「最近毎日通っているのです」とは言えるはずもなく、曖昧に笑って誤魔化した。男の朝焼け色の瞳が、何かもの言いたげに私を見つめてくるが、それをスルーしてただ微笑んでみせる。それをどう思ったのかは解らないが、ルーナメリィ嬢は、その可愛らしい笑みをより一層深め、薄紅色に色付く唇を開いた。


「でしたら、フィリミナ様もご一緒にお茶にしませんこと? エギエディルズ様のお話を聞かせて頂けると嬉しいわ」

「ルーナメリィ嬢、それは」

「ルナと呼んでくださらないエギエディルズ様の仰ることなんて聞けませんわ」

「……ルナ様。私の昔の話など、面白いものではありません。フィリミナに訊くまでも無い話ばかりです」

「あら、それはエギエディルズ様ではなく、私が決めることですわ。ねえフィリミナ様。貴女もそう思うでしょう?」

「それは…」


思わず言葉に詰まった。きらきらと深紫色の瞳を輝かせて、問いかけてくるルーナメリィ嬢。そこには悪意など感じられず、ただ純粋な興味と好奇心、そして、男の過去を知る私に対する羨望が窺い知れる。

好きな人の昔話を知りたいと思うのは、恋する乙女としては当然の心理だろう。この男のように、普段から昔話をすることなどほぼ皆無であるような男相手であれば余計にだ。

これは前回会った時にも問いかけられた話題である。とは言え、おいそれと簡単に話せるような話ではない。お世辞にも、楽しい話ばかりだとは言えないのだから。

好いた相手の色好くない態度にもめげずに、果敢に挑む少女に協力するのは、普段であれば吝かではない話である。だが、それは、その相手が、この男では無かった場合の話だ。今こうして、二人が並んで会話しているのを見ているだけでも、心がざわつくのを感じる。凪いでいたはずの心に波風が立つ。それは、前回ルーナメリィ嬢と出会した時よりも大きな波だ。

あの悪夢の中、二人が仲睦まじく並んでいた姿が、何故だか今のこの光景に重なる。目を閉じてしまいたくなる衝動にかられるけれど、それをなんとか耐えた。違う、今はあの夢の中ではない。これは、紛れもない現実だ。そう、現実だからこそ、余計に私は―――…私は。


「フィリミナ?」

「…っ」


男の声に、は、と小さく息を呑む。気付けば、男とルーナメリィ嬢、そしてウィドニコル少年の視線が、まとめて私の元に集まっていた。ああ、いけない。また意識が飛びそうになっていたらしい。

私の返答を待つルーナメリィ嬢の視線が痛い。さて、何と言ったらいいものか。そう考える私は、困ったような微笑を浮かべていたのだろう。「余計なことを言うな」と前回のように言葉よりも雄弁に語る朝焼け色の瞳が私へと向けられている。

―――はいはい、解っていますとも。

例え相手がバレンティーヌ家の御令嬢であろうとも、私の中での優先順位は、初めから決まり切っている。


「ルナ様、お許しくださいまし。エディが望まない話を、わたくしが勝手に話す訳には参りませんわ」


幼い頃の話は、この男にとっては消し去りたい黒歴史が多々含まれているということを私は知っている。もちろんそればかりではないけれども、蒸し返したくない過去というものが、この男には他の人々よりも多いようなのだ。私とて、それら全てを知っている訳では無い。けれど、この男が「話して欲しくない」と言うのであれば、私がそれに否と答える理由などない。

私の返答が意外だったのか、ルーナメリィ嬢はその深紫色の瞳を見開いた。バレンティーヌという家柄や、彼女の容姿上、こんな風に彼女の望みを断るような者など居なかったのだろう。これは失敗だったかもしれない、と密かに内心で焦る私を余所に、ルーナメリィ嬢は、きゅっと一度唇を引き結び、そうして、もう一度口を開いた。


「そう、ですか。……解りましたわ。フィリミナ様がそう仰るのでしたら、私、自分でエギエディルズ様から聞き出してみせます!」


それは、勇ましい宣誓であった。思わず拍手を贈りたくなってしまった。ルーナメリィ嬢は、「お覚悟をしてくださいませ」と男にその手の中のバスケットを押しつける。それに対して、男はバスケットを思わずと言った呈で受け取りつつも、ルーナメリィ嬢に気付かれない角度で顔を顰めた。ウィドニコル少年が、「うわぁ…」と戦々恐々とした様子で、男とルーナメリィ嬢を見比べている。三者三様の態度に、私としては最早何をどうしていいのか解らなくなってくる。

男は、押しつけられたバスケットを何とも言えない顔で見下ろしている。その様子を見つめる少女が浮かべているのは、満足げな笑顔だ。人間離れした中性的な美貌の男と、お人形のように可愛らしい顔立ちの少女。あの夢の通り、それは本当に絵になっていた。お似合いだと、ごく自然とそう思える。思えてしまう。

なんだか酷く居たたまれなくなって、俯いてしまいたくなる。けれどそれをしたら、それこそ本当に二人が並び立つのを認めてしまうことになってしまうような気がして、それはできなかった。


「エディ、わたくし…」

「まあ!」

「え?」


一旦気を落ち着けようと、この場を離れてお茶を煎れにいこうかと口を開いた途端、ルーナメリィ嬢が声を上げた。私がきょとりと瞳を瞬かせると、彼女はその大きな瞳を私へと向けて、それはそれは可愛らしく笑いかけてきた。


「フィリミナ様はエギエディルズ様のことをエディ様と呼んでいらっしゃるのね!」

「え、あ…」

「素敵ね、ぜひ私もそう呼ばせて頂きたいわ! ねえ、よろしいでしょう?」


両手の指をを胸の前で絡ませあって、ルーナメリィ嬢は男を見上げた。傍から見ているだけでも、その上目遣いが如何に愛らしいかが解る。

何と男は答えるのだろう。男が黒持ちであっても恐れない、私よりももっとずっと外見も中身も可愛らしい少女相手に。

もしも、「構わない」と。そう男が答えたら。そう考えるだけで身体の芯の温度が下がり、全身が冷えていくような気がした。男の答えを聞きたくない。聞くのが怖い。気付けば拳をきつく握りしめていた。掌に突き刺さる爪の痛みに遅れて気が付いて、それからようやく力を抜く。そして私は、父譲りの仮面スマイルを顔に貼り付けた。


「エディ、わたくし、これで失礼させて頂きますね」

「フィリミナ?」

「フィリミナ様? ご一緒にお茶は…」

「申し訳ありません、ルナ様。それはまた、次の機会の楽しみにさせてくださいまし」


ドレスの裾を引いて礼を取り、ルーナメリィ嬢の後ろで、最早空気と化していたウィドニコル少年の元へと歩み寄る。びくりと驚いたように身体を震わせる少年が抱えていた分厚い本を、彼が硬直しているのをいいことに、その手から奪い取る。ずしりと腕にかかる重みは少々どころでなく重いものであったが、この際気にしてはいられない。


「ウィドニコル様、これは、図書館へ返却なさるものでしょうか?」

「そ、そうですけど…」

「ならば、わたくしが代わりに行って参りますわ」

「えっ!? で、でも」

「お気になさらないでくださいまし。図書館は帰り道ですもの」


慌てる少年に微笑みかけていると、背中にぐさぐさと視線が突き刺さってくる。肩越しに振り向けば、男が眉尻を釣り上げて私を見つめていた。


「待て、フィリミナ」

「エディ、ちゃんとルナ様をおもてなししなくては駄目ですよ」


それ以上何か言われる前に、私は視線を前へと戻して歩き出した。馬鹿な真似をしているという自覚はある。今の私の状態で、あの男から離れて一人になることがどれだけ危険なことかくらい、少し考えれば解ることだ。それでも、これ以上この場に留まることはできなかった。あの悪夢と全く同じ光景を見せつけられているようで、眠っているのか起きているのか、その境界が曖昧になる。


「フィリミナ!」


前回ルーナメリィ嬢と出会した時にはかけられなかった、私を追い掛けてくる男の声。けれどそれに答えることはできず、足を止めることもまた、私にはできなかった。


そして、その足で、男の研究室を出た。逃げるようだなと我ながら思う。いいや、実際に、逃げてきたのだろう。

他人事のようにそう思いながら、腕の中の分厚い魔導書を抱え直し、足早に黒蓮宮を突っ切っていく。

黒蓮宮勤めの魔法使い達は、黒のローブを着ていない上に、髪に黒などひとまじりも無い私がこの宮に居ることに、疑問を抱こうとも、声を掛けてくるまでには至らない。基本的に他人に興味のない研究馬鹿が多いのだ。それは、あの男を見ていればよく解る。まあ流石に、ここ数日、あの男が連れ回していた、黒のローブのフードを深く被った人物については噂になっていたようではあるが、それをあの男に直接追求する勇気のある者は居なかった。流石というか何というか、一人や二人くらい、あの男に真正面から挑む輩が居てもいいと思うのであるが…まあ、居なかったことで余計な面倒が避けられたのは、ありがたいことではあったけれども。


黒蓮宮を抜けて、しばし回廊を歩いた後に辿り着いた図書館で、手続きを終える。禁出の魔導書だったせいか、少々手間取ってしまった。

「何故この書を魔法使いでもない貴女が持っているのですか」ときつく問いかけられたが、常に身に付けるようにしているあの男から貰ったブレスレットを見せることで、何とか事なきを得た。それ以上は特に邪魔されることもなく、さくさくと事は進んだ。一体このブレスレットは何なのかと、いい加減あの男に訊くべきなのかもしれない。


そのまま自宅である屋敷へ帰ろうとしたのだが―――何故だか私の足は、黒蓮宮へと再度向いていた。

そろそろルーナメリィ嬢も帰った頃合いだろう、というのは私の希望的観測に過ぎない。それでも、そう願わずにはいられない。

正規の道ではない、中庭の道無き道を歩きながら、脳裏に浮かぶのは、あの男とルーナメリィ嬢が並び立つ姿だ。


―――フィリミナ様はエギエディルズ様のことをエディ様と呼んでいらっしゃるのね!


小鳥の囀りのように愛らしく、弾む声音で彼女は言った。


―――ぜひ私もそう呼ばせて頂きたいわ! ねえ、よろしいでしょう?


あの可憐な声が紡ぐ、些細な“お願い”に、いくらあの男でも、そう簡単に否やと答えられるだろうか。いいや、そうはいかないだろう。

足早に進めていた足の歩みが、暗く沈んでいく思考と供に、だんだん遅くなっていき、とうとうぴたりと止まった。足が重くて、これ以上前に進めない。

このまま黒蓮宮のあの男の研究室に戻って、ルーナメリィ嬢とあの男が並んでいる姿をまた見ることになるのが怖い。けれど、あの男の姿を見て安心したいというのも本音なのだ。我ながら随分と勝手なものだと思う。

自分がここまで狭量な人間だったとは思いもしなかった。私にとって、『エディ』という呼び名が、どれだけ特別なものであったかを、今更ながら思い知らされる。何よりも大切で、かけがえのない唯一の呼び名。エディ、と。そう呼ぶことを許されていることに、私は知らず知らずの内に優越感を抱いていたことに気付かされた。そんな自分が恥ずかしい。


「情けないこと」


誰にともなく呟いた台詞は、青空の下に溶けて消えていった。溜息を一つ吐いて、前へ進もうとしない足を無理矢理動かす。

あの男が引き留めるのも聞かずに出てきてしまったため、このまま帰るのは気が引けるものがある。かと言ってまだルーナメリィ嬢が居るかも知れない研究室に再び戻ることもできない、というか、したくない。

結局私が選んだ道は、前回もお世話になった東屋へと続く道だった。


緑の芝生を踏みしめて、整えられた庭木の間を擦り抜けて、黒蓮宮近隣に位置する中庭の東屋にようやく辿り着く。間違えずにここまで来れたことに安堵しながら、ベンチに腰を下ろした。

心地良い風が吹き抜けていく。目を閉じたのは無意識だった。瞼の裏の暗闇の中で聞こえてくる葉擦れの音は穏やかで、小鳥の囀りが彩りを添える。

このままここで寝てしまったらどうなるだろうなどという、洒落にならない考えが頭を過ぎった。起こしてくれる相手もいないこの場所で寝てしまえば、今度こそ本当に、二度と目覚められなくなってしまうかもしれない。


夜毎私を苛む悪夢は、いつも変わらない。

汚泥のような暗闇の中、大切な人達が私の元から去っていく。あの男すら、私に背を向けて去って行ってしまう。その横に並ぶ、ストロベリーブロンドの面影は、私から、男を追い掛けようとする気力を奪ってしまう。手を伸ばすことすらも諦めた、その瞬間に、ずぶりと足下が粘性の液体のようになり、抵抗することもできないまま、私は泣き声の沼の中に沈んでいくのだ。

そうしてまた、辿り着いた底で私は見つけるのだろう。たったひとり座り込んで泣きじゃくる『彼女』の姿を。


「どうして、かしら」


目を閉じたまま一人呟く。何故『彼女』なのだろう。『彼女』はもう居ないのに。いや、居ない、と言い切るには若干の語弊があるが。それでも、あの暗闇の底でどうして他ならぬ『彼女』が泣いているのか。そもそも、『彼女』は本当に『彼女』なのか。解らない。私には何一つ解らないのだ。


―――ああ、まただ。


また泣き声が聞こえてくる。その泣き声を聞かされれば聞かされるほど、どうしていいのか解らなくなる。睡魔がまた忍び寄ってくる。それは私の足下から這い上がってきて、そのまま意識を闇の中に攫おうとする。

いけない。寝てはいけないのに。またあの男に怒られてしまう。そもそも、研究室から勝手に飛び出してきてしまったこと自体、あの男に怒られる理由の一つになり得るというのに。瞼を必死に持ち上げようとしても、あまりにも重くて持ち上がらない。けれど。


フィリミナ、と、あの男に呼ばれたような気がしたのはその時だった。


「…エディ?」


重くて仕方のなかった瞼が、ようやく持ち上がる。何故だろう、胸が熱い。それは比喩表現での「熱い」ではなく、本当に感覚的な意味合いでの「熱い」だ。

首から提げてドレスの下に隠していた、男から受け取った紫の袋の“お守り”を、襟ぐりから手繰り寄せて引っ張り出す。明らかに熱を持っているその中身を、紐を解いて掌の上に出した。

魔族の核であるという赤黒い正八面体に、姫様の御髪である白銀の糸が何重にも巻き付いたそれは、何故か仄かな光を放っていた。確かな熱を持って発光するそれをまじまじと天にかざして見つめる。眠気は未だあるけれど、先程までと比べれば随分とましになっていた。


「どうして…」

「―――――シュゼット」

「っ!?」


前触れ無く掛けられた声音に、反射的にびくりと身体が震えた。同時に、天に透かして見つめていたお守りを握りしめて隠す。ベンチの背凭れに預けていた身体を起こして、声を掛けられた方向を見遣ると、案の定の人物が、そこに立っていた。私のことをシュゼットと呼ぶのは、彼の他に誰もいない。


「セ、セルヴェス様?」


三つ編みにして纏められた、白と灰色が入り混じる長い髪と、海を映したかのような紺碧の瞳。いかにも貴公子然とした整った顔立ちには、今は訝しげな表情が浮かんでいる。黒のローブを翻して、セルヴェス・シン・ローネイン青年は、こちらへと近寄ってきた。

彼に気付かれないように、手の中のお守りを改めて握り直して、彼の目から隠す。幸いなことにそんな私の行動は気付かれずに済んだことに安堵しつつ、彼を見つめていると、セルヴェス青年は私の横に座って、持っていた魔導書を膝の上で開いた。


「今日は一体何の用でこんなところまで来たんだ?」

「え? その、何と申し上げたらよいのか…」


まさかここで全てを打ち明けられるはずもなく口籠もると、セルヴェス青年はそれ以上私に問いかけてくることはなく、黙々と魔導書を読み始めた。

前回に引き続いて今回を鑑みるに、どうやらこの東屋は、彼の特等席のようだ。黒蓮宮の魔法使いであり、ローネイン家の血族でもある彼がここを占拠することに異を唱える者などそうそう居ないことだろう。そんな場所に長居するのは、いくら私でも憚られるものがあった。

読書の邪魔にならないように、できる限り音を立てないように立ち上がる。そのまま場を辞そうとすると、「待て」と短く呼び止められた。


「どこへ行くつもりだ?」

「邪魔になってはいけないと思いまして」

「別に、邪魔だとは言っていないだろう」


いいから座れ、とその紺碧の瞳が語る。視線で促されるままに、元の位置に再び座るが、その後、何を話すでもなくただ時間ばかりが流れていく。風の音と葉擦れの音、小鳥の囀りに、更にセルヴェス青年がページを捲る音が加わっただけの静かな時間。

ちらりと横目でセルヴェス青年を見遣る。前回会った時と変わらず…いいや、それよりも更に彼の顔色は悪くなっているようだった。ちゃんと寝ているのだろうか、食事は摂っているのだろうか。そう問いかけたくなるが、大きなお世話だと思われそうで、それができない。あの男には、「お前がそれを言うのか」と言われてしまいそうだ。盛大な溜息と供に眉を顰める白皙の美貌が容易に想像がつく。自分だって、自分のことを後回しにしていたくせによくもそんな台詞が吐けるものだ。

想像に過ぎないけれど、実に信憑性のある想像に、つい笑いたくなるのをなんとか堪えながら、何の気も無しに、視線をセルヴェス青年の手元へと向けた。セルヴェス青年もまた、あの男と同じような分厚い魔導書を読んでいる。魔法言語の並ぶ紙面を、彼の指先がなぞっていく、その様子を見て、私は無意識に首を傾げた。


「…?」


セルヴェス青年の、ローブから覗く両方の手には、白い包帯が巻かれていた。それは手首を越えて、どうやら腕まで巻かれているようだった。怪我でもしたのだろうか。手から腕まで、それも両方を怪我するだなんて、随分と器用な怪我の仕方だ。


「セルヴェス様」

「何だ?」

「あの…」


魔導書から目を離さずに、口だけで答えてくる青年に、はたと気付かされる。彼の両腕の包帯は、誰の目にも明らかに普通のものではないと解るものだ。それを興味本位で私のような者が問いかけるのは、なんだか申し訳ないことのような気がした。

自分から呼びかけておいて、それ以上の言葉を発さない私を、魔導書から顔を上げたセルヴェス青年は怪訝そうに見遣ってくる。どうしよう、と思ったのは一瞬。気付けば私の口は、勝手に動いていた。


「殿方はやはり、若くて可愛らしい女性の方が好ましいものなのでしょうか」


我ながら、もう少しましな質問はなかったのだろうか。セルヴェス青年の表情に、そう遅れ馳せながら気付かされた。唖然と私を見つめてくるセルヴェス青年の視線が痛くてたまらない。握りしめたお守りの熱が、心なしか上がった気がした。かあっと顔が熱くなるのを感じる。


「いきなり何を言ってるんだ、君は」


心底不可解そうな声音であった。全くである。


「も、申し訳ありません。どうか忘れてくださいまし」


震える声と供に頭を下げる。それもこれも、咄嗟に浮かんだのが、ルーナメリィ嬢の姿だったからいけないのだ。私よりも若くて可愛らしくて、それだけでも充分あの男の心を癒してくれるに違いない存在。だが、それにしたって、他に話題が有っただろうに。ああもう、穴があったら入りたい。


「―――そんなものは、個人の好みによるものだろう」


羞恥に内心身悶えている私を知ってか知らずか、セルヴェス青年は何故か吐き捨てるようにそう言い放ち、私を睨め付けた。


「それとも、何か? 君の方こそ、若くて容姿の優れた男の方が好ましいのか?」

「いいえ。……いいえ、そのようなつもりはありませんが」


あの夜の妖精もかくやと謳われる美貌を持つ男を夫に持つ私が言うと、説得力に欠ける台詞だろうけれど。だが、付け加えさせて貰うが、そんな白皙の美貌を差っ引いても、問題が余りあるあの性格や毒舌を考えれば、容姿ばかりであの男を選ぶことなどできるはずがない。

…困ったことだ。例えどれだけ解りにくく面倒臭い性格で、どれだけ口が悪かろうとも、それでもあの男はあの男なのだと、あの男だからこそ側に居たいと思ってしまうのは、他ならぬ私自身なのだから。

そんな私の返答に、鋭かったセルヴェス青年の目尻が少しだけ緩んだ。


「―――――だろう。つまりは、そういうことだ」

「そう、ですね。ありがとうございます」


頭を下げる私を見つめていたセルヴェス青年は、再びその表情に理解しがたいと言わんばかりの色を乗せて、僅かに首を傾げる。


「そもそも、何故そんなことを訊くんだ?」


これまた、ごもっともな質問であった。ええと、と言葉を探しつつ話を逸らそうにも、セルヴェス青年は私がそうすることを許してはくれない。彼の紺碧の瞳は私を真っ直ぐに見つめ、話どころか目を逸らすことすらもできやしない。万事休す。誤魔化したくても誤魔化せないことは明らかだ。瞳を伏せ俯き加減になることで、彼の視線から逃れながら、私はぼそぼそと口を開いた。


「…わたくしの夫は、あまりこのようなことを口にしないものですから。セルヴェス様の、一男性としての意見を聞かせて頂きたかったのです」


そうだ。思えば、その類のことに興味を持つ前に、あの男は私と婚約してしまったのだ。

あの男の、異性に対する趣味嗜好など、あまり気に留めてこなかったが、もっと深く考えるべきだったかもしれないと今更思わされる。

隣に並んだ時に、少しでも恥ずかしくないよう努力してきたつもりではある。が、そもそものあの男の好みというものを知らないままでは、その努力が見当違いな方向に向かってしまっていたかもしれない。まあ、どう努力しようとも、この最近の睡眠不足で、現状は絶不調であるけれども。

思わず飛び出しそうになった溜息を飲み込んで、顔を上げ、セルヴェス青年を改めて見遣ると、彼は、その紺碧を大きく瞠って、私を見つめていた。


「セルヴェス様?」


どうしたのだろう。セルヴェス青年の瞳に浮かぶ驚愕に、私の方が驚かされる。紺碧の瞳に映り込む私が首を傾けると、セルヴェス青年は、その薄い唇を戦慄かせた。


「―――シュゼット、君は」

「はい?」

「君は、結婚していたのか?」


その問いかけに、思わず瞳を瞬かせる。あ、と気付いた時にはもう遅かった。しまった。うっかり『夫』と言ってしまった。私とあの男の結婚に関しては相も変わらず秘匿されたままである。ここでボロを出す訳にはいかない。とは言え、セルヴェス青年には、私の本来の身元はばれていないので、まあ許される、はずだ。

こくりと頷きながら、私は小さく微笑んだ。


「はい。一応ですが」

「一応?」

「一応、なのです」


訝しげな声音の反芻に、私もまた同じように反芻する。上手く笑えていただろうか。生憎声は、力ないものになってしまったけれど、せめて顔だけは取り繕っていたかった。けれど鏡の無いこの場では、私自身が今どんな顔をしているかなんて解らない。未だ定まらない私の立場は、あまりにも心許なくて、私を不安にさせる。あの男にあそこまで言わせて置いてこれなのだから、つくづく私という女は強欲なものだと思う。ぎゅう、とお守りを握りしめる手の力を、気付かれないように強める。

あの男に持たされたお守りは、仄かに熱を持っている程度だったはずだったというのに、気付けば温石ほどの熱を放つようになっていた。耳朶に、「反応したら解る」と言っていた男の声が蘇る。これが反応なのだろうか。今すぐ手を開いて確認したいが、セルヴェス青年の前でそれをするのはまずいということくらい私にも解る……そうだ。これが、男の言う『反応』であるならば。それが、意味すること、は。

無意識に身体が震えた。目の前のセルヴェス青年の顔を見つめる。紺碧の瞳に映る、呆然とした私の顔。手の中で熱を放つお守り。―――まさか、そんな。

脳裏に浮かんだ考えに硬直する私をどう思ったのか。セルヴェス青年はふいに真剣な表情を浮かべて、私を見つめた。


「シュゼット、君が望むなら僕は―――ッ!?」

「っ!?」


何かを言いかけたセルヴェス青年の声を遮るようにして、がさり、と、すぐ側の緑の茂みが動いた。それまで何の気配も感じていなかっただけに、セルヴェス青年と揃って身体をびくつかせる。

と、一目で長身と分かる人影が、わさわさと茂みを掻き分けて出てきた。その予想外の人物に、私は自分の目が見開かれていくのを感じる。そんな私を余所に、その人物は、口に入ったらしい木の葉を吐き出して、ふう、と分かりやすく息を吐いた。


「あー、やっとここまで来た…って、ん?」


ばちり、と彼の鳶色の瞳と目が合った。そして、その鳶色の視線が私とセルヴェス青年の間を行き来した途端に、彼の瞳に、悪戯気な光が宿る。


「なんだ、フィリミナじゃねぇか」

「ア、アルヘルム様?」


さも「面白いものを見つけた」とでも言いたげな笑みを浮かべて、こちらへやってくる長身の人物を私は知っていた。というか、この国において、彼のことを知らない者はモグリだろう。

肩にようやく届く程度に短く伸ばされ、首元で一つに引っ詰めて纏められている髪は鮮やかな赤毛。瞳の色は先程述べた通り鳶色で、顔立ちは少し野性味が入った精悍なもの。城下に降りれば、さぞかしおモテになられることだろう。纏う衣装はこの国の騎士団の証そのものであり、その衣装越しにでも彼の鍛え抜かれた身体の無駄の無さを感じさせる。そんな彼の名は、アルヘルム・リックス。平民の出でありながら我が国の騎士団長にまで上り詰め、そして、勇者一行の一員として魔王を倒した、救世界の英雄が一人である。

あの男との結婚式で対面したのが最初だった。明朗快活を絵に描いたような人物である彼は、黒持ちであるあの男のことを恐れるどころか、毒舌にも負けず、めげず、からかってまでしてのける剛の御仁である。

私は立ち上がり、慌ててその場で礼を取った。


「お久しゅうございます、アルヘルム様」

「堅苦しいのは無しにしようぜ。オレがそういうの苦手なの、教えただろ?」

「…相変わらずでいらっしゃるのですね」

「そりゃあ当然。そうそう性格なんざ変わらねえもんさ」


呵呵と騎士団長殿は笑い、更にこちらに近付いてくる。私もまた、彼の方へと足を踏み出した。彼の前まで足を運び、その鳶色の瞳を見上げる。

騎士団が駐在している青菖蒲宮は、ここからは結構な距離があるはずだ。現在の時刻からして、まだ彼は青菖蒲宮に居なくてはならないのではなかろうか。


「アルヘルム様。どうしてこのようなところに?」

「ああ、ちっと騎士団の上層部で会議が有ってな。面倒なんで抜け出してきた」

「まあ。よろしいのですか?」

「ああいう場では、オレは座ってるだけのお飾りだ。実際に話を進めて纏めてんのは部下達だからな。良くできた奴らに囲まれて、オレは幸せもんだよ。で、それはそれとして、お飾りでも座ってろって副官が煩くてな。いくらあいつらでも、オレがここまで逃げるだなんて思わねえだろ」

「そ、そうですね」


そう言ってまた騎士団長殿は悪びれもなく笑う。つられてつい私も笑ってしまうが、それは空笑いに過ぎない。これは笑いごとではないだろう。今頃、青菖蒲宮では、消えた騎士団長殿を探して包囲網が敷かれているに違いない。上司の捕獲にかり出される彼らに、つい同情してしまう。

アルヘルム・リックスという人間が騎士団長という座におさまっているのは、先代からの指名故だそうだが、それは、実力は随一のくせに自由人で、ともすれば諸国漫遊の旅にでも飛び出していってしまいそうな彼を、この国に縛り付けるためであったのかもしれないと邪推してしまう。

幸いなことに、彼の言う通りに“騎士団の優秀な騎士の御方達”が、この騎士団長殿の手綱を巧みに操り…きれていない部分も多々あるが、とにかく、そのおかげで、彼は、黒蓮宮の魔法使いと供にこの国を守る青菖蒲宮の騎士のトップとして、日々活躍してくださっているのである。

そんな彼は、私を見下ろして、にやりと笑う。


「それにしても、こんなところで密会なんてな。あいつの耳に入ったら大事だぞ?」

「密会、ですか」


密会。それはなんともイヤンアハンな響きを持つ言葉である。密会って、誰と、誰がだ。思わず半目になってしまった私は、よっぽど微妙な表情を浮かべていたのだろう。騎士団長殿は、悪戯気な笑みを苦笑に変えて私の肩をぽんぽんと叩いた。


「悪い悪い。そんな顔すんなよ。フィリミナ相手だと、あのお綺麗な顔が崩れるのが見られて面白くてな!」

「アルヘルム様…」


何と言って良いものか分からず、曖昧に笑っておくに留めた。あの男にこんなことを言える存在は、世界広しと言えどもそうそう居ないことだろう。あの男は素直に認めたがらないだろうが、騎士団長殿は紛れもなくあの男の友人の一人なのだと、改めて思い知らされた気がした。こうやって、あの男の世界は、これからも広がっていくのだろう。それが嬉しくて、喜ばしい。ほんの少しだけ寂しく思うのは、私の我が儘だ。本当に強欲なものだと自分に呆れるしかない私の耳に、背後から呆然とした声が入ってきたのは、その時だった。


「フィリミナ、だと?」

「あ」

「ん?」


忘れていた。騎士団長殿の出現ですっかり頭から抜け落ちていたが、東屋にはまだセルヴェス青年が居たのだった。私の背後を訝しげに見遣る騎士団長殿の視線を追い掛けて、恐る恐る振り返ると、セルヴェス青年はベンチから立ち上がり、こちらを見つめていた。

その表情に私は悟った。ばれてしまった、ということを。どれだけ視線を彷徨わせて紺碧の瞳から逃れようとしても逃げられず、言い訳の言葉もひとつとして出てこない。いや、言い訳なんてそもそも無駄なのだ。私が彼を騙していたことに変わりはないのだから。


「セルヴェス様、わたくしは…」

「君は、シュゼットだろう!?」

「きゃっ!?」


つかつかと大股で歩み寄ってきたセルヴェス青年が、私が皆まで言うのを待たずに、私の両肩を掴んで詰め寄ってくる。そのあまりの勢いと力の強さに、思わず声を上げてしまった。穏やかではないやりとりに、側に居た騎士団長殿が、すぐさまセルヴェス青年と私の間に割って入った。


「おいおい、いきなり淑女に掴み掛かるたぁどういう了見だ?」

「退け、お前に用は無い!」

「へえ? なら尚更退けねえな」


私を背後に庇って不敵に笑う騎士団長殿と、そんな騎士団長殿を鋭く睨め付けるセルヴェス青年。一触即発のその雰囲気に呑まれそうになりながらも、私は騎士団長殿の纏う衣装を引っ張った。


「ア、アルヘルム様。セルヴェス様がお怒りになるのも当然なのです。ですから…熱ぅっ!?」


私の手から、ずっと握りしめていたお守りが落ちて、地に転がった。あまりにも熱くて、持っていられなかったのだ。火傷したのか、掌がひりひりと痛む。取り落としたお守りは、今や煌々と輝いていた。尋常ではないその様子に、これがあの男の言っていた『反応』なのかと嫌でも解る。


地に落ちた輝くお守り、すなわち、魔族の核を目にしたセルヴェス青年の紺碧の瞳が、零れ落ちんばかりに見開かれる。なぜ、と音もなくその口が動いた。そして。


「ぐああっ!!」


セルヴェス青年の口から、悲鳴が迸った。じゅうう、とセルヴェス青年の両腕から赤黒い煙が立ち上る。その色は、魔族の核と同じ、肌が粟立つような、生理的嫌悪を催す色。

魔族の核に、ぴきり、とひびが入る。まるで白銀の糸に締め上げられているかのようだ。あ、と思った瞬間、そのひびは一気に核全体へと広がり、そのひびから次々に白銀の光が漏れ出てくる。


ぱぁん!


そうして音を立てて核は砕け、白銀の光が、辺りを染め抜いた。

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