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魔法使いの婚約者  作者: 中村朱里
おまけ

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      (6)

沈んでいく。沈んでいく。どこまでも深い暗闇に沈んでいく。泣き声に満ちた暗闇の中では、頼りになるものなど何一つとして存在しない。だれか、と助けを呼ぼうにも、私の声は泣き声にかき消され、暗闇の中に溶けていってしまう。瞼の裏の真黒よりも深く暗い暗闇は、助けを求めようとする私の口から身体の中に入ってきて、私の存在そのものを無かったことにしようとする。


息が苦しくてたまらない。胸が痛くてたまらない。ごぽり、と口から吐き出したのはやはり真黒の闇そのもので、私の内部が既に暗闇に侵し尽くされていることを、否が応にも教えてくれる。

だれか、と叫んだ。だれか、たすけて。声にならない叫びでは、暗闇を揺らすこともない。何も変わらない。ただ音もなく、ずぶずぶとこの身体が沈んでいくだけだ。

たすけて、なんて今更言えた義理ではないのに、それでも助けを求めてしまう自分が情けない。助けを求めるなら、もっと早くにそうすべきだった。それができなかったのは他ならぬ私自身で、だからこんなことになっているのだと、責められても反論できない。


光など一切差さぬ暗闇の中、この目が捕らえるのは、父であり、母であり、弟であり、乳母であり、ランセントのおじ様であった。誰もが暗闇に染まった私のことなど気付かぬように、楽しげに談笑している。

そして、紙芝居のように場面が移り変わる。あの男が、バレンティーヌ嬢と供にいる。あの男はこちらに背を向けており、その表情を窺い知ることはできない。けれど、バレンティーヌ嬢の、頬を薔薇色に染めて笑うその姿だけで、あの男がどんな表情をしているか解るような気がした。


それ以上見ていられなくて目を瞑る。ああ、泣き声が聞こえる。止むことのないその声だけが、この暗闇の中で唯一許された音だけれど、それは救いにも何にもならない。

身体はただただ沈んでいくばかりだ。沈んでいくにつれ、どんどん近付いてくるその泣き声に耳を塞ぐ。それでも泣き声は耳にこびりつき、頭の中で反響し続ける。


―――…った。

『…?』


泣き声の中に、震える声が混じった。その声に、知らず知らずの内に目を開く。周囲を取り囲み、纏わり付いてくるのは、やはり澱んだ暗闇に過ぎなかった。けれど、その中で、ぼんやりと浮かび上がる人影があった。

その存在のことを私は知っている。知らないはずがない。暗闇の中に座り込み、肩を震わせ、しゃくり上げている、『彼女』は、他ならぬ―――…



「『私』…?」



ふっと、無意識に零した呟きと共に、ゆるやかに意識が浮上した。現実と夢の境目が解らず、ふわふわと意識が宙を彷徨う。どうやらベッドに寝かされているらしい、と遅れて気が付いた。ふかふかの枕の感触が心地良い。だからこそ余計に戸惑わずにはいられない。ここはどこだ。私は一体、どうなったのか。

泥のように重い身体をなんとか動かして、上半身を起こす。そして私は首を傾げた。傾げずにはいられなかった。いや、本当にどこなんだここは。


意識を失う直前、最後に覚えているのは、あの男の私を呼ぶ驚いたような声音だ。そのまま自室に運ばれたのかと思ったが、どう見てもそうとは思えない。

私が寝かされているベッドは、所謂天蓋付きベッドという奴で、細かなレースで装飾が施された透ける布でベッドの周囲が取り囲まれている。部屋を見回せば、配置されている調度品はそれぞれどれもが、細かな細工が施されている豪奢なもの。かと言ってそれは嫌味などではなく、全体的に品良くまとめられている。どれもこれもが、美術品と言っても過言ではないような一品ばかりだ。

我が家もそれなりに立派な家具が揃えられている屋敷であるが、この部屋はそれ以上に、この部屋だけで一つの芸術として呼んでも差し支えないだろう。そんな部屋にどうして私は寝かされていたのか。さっぱり意味が解らない。


これは一体どうしたものか。そう考えようにも、上手く思考がまとまらない。耳元に残る泣き声が、思考回路の邪魔をする。

あの男に続いて、家族までもをあの悪夢は奪おうと言うのか。となると次に持っていかれるのは、友人達だろうか。笑えない冗談だ。いや、冗談などでは済まされない。そうして、奪われ続けた暁の私には、最後に何が残るのだろう。


先程、暗闇の中で最後に見たのは、この世界では私以外に誰も知らないはずの存在だった。泣きじゃくっていたあの存在を知っている。知らないはずがない。なにせ、『彼女』は。


「―――あら、目が醒めたのね」

「!」


ガチャリと扉が開く音と供にかけられたその声音に、思わずびっくう!と肩を揺らしてしまった。扉の方を見遣れば、予想外すぎる存在が、微笑を浮かべてそこに立っている。

女神の愛し子の証である、波打つ白金の長い髪。どちらかと言えば吊り目がちの、気位の高い猫を思わせる大きな瞳は、蜂蜜のような琥珀色だ。髪の毛の一本、睫毛の一本すら、極上の細工物のように繊細で、透き通るような白い肌は羨ましいと思うことそのものが馬鹿らしく思えるほど。通った鼻筋に、紅を履かずとも可憐に色付く唇は、さながら春に咲く花の花弁の如く。その絶妙に配置された目鼻立ちは、美しさと可愛らしさを併せ持ち、誰もの目を奪ってしまう。


あの男の美貌を見慣れている私ですらも、目覚めのジャブとばかりにとばかりに視界に飛び込んできたその眩しいばかりの麗しさに一瞬硬直した。他者を圧倒するかのように咲き誇る、大輪の白百合が人の姿を取ったならば、きっとこんな風になるに違いない。

目を見開いて彼女を見つめることしかできない私を余所に、彼女は、躊躇うことなくこちらに歩み寄ってきて、優雅な所作で、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。ふわり、と花の香りが鼻孔を擽る。


「ひ、め、さま…?」


呆然とそう呟いてしまった私を責められると言うのなら、そいつには是非前に出てきて貰いたい。

「何かしら?」と可愛らしく小首を傾げて微笑む白金の髪の美少女こそ、救世界の英雄が一人、我が国の生ける宝石と名高い、クレメンティーネ姫である。

彼女とは、あの男との結婚式の際に初めて顔を合わせて以来、何故か何かと親交を深めさせて頂いているのであるが、例えそうでなくても、我が国の国民であれば誰もが知るであろう、見間違えることなど決してあり得ないその姿に、私はただただ唖然とするしかない。


「どうして…」


必死になって言葉を探した挙げ句に、結局出てきたのはこんな台詞だった。呆然とする私を見つめて、姫様は、にっこりと微笑んだ。とんでもない美貌の持ち主が浮かべる笑顔は、やはりとんでもなく迫力があるものである。それが、憧れの存在の笑顔であるなら尚更だ。

絵姿だけから見れば、ふわふわとしたいかにもな“お姫様”を想像しそうな容貌の姫様であるが、実際の中身はむしろ“女王様”と呼ぶに相応しいものであるということを、私は知っている。「幻滅したかしら?」と艶然と笑って私に向かって問いかけてきた年下の美少女に、反射的に「むしろ惚れ直しました」と言い返して、声を上げて笑われたのも、今となってはいい思い出だ。

そんな彼女が、何故。

それ以上言葉を続けることが叶わず、姫様の顔を見つめていると、くすくすと姫様は笑って、私の額をとんっと突いた。その、朧気だった意識を一気に覚醒させるような軽い衝撃に、額を押さえて目を白黒させると、ふふ、とまた姫様は笑う。


「その『どうして』は、『どうしてあたくしがここにいるのか』ということ?」


問いかけに対する答えが出てこず、それでもなんとか頷くと、姫様は、その美貌に笑みを浮かべたまま、私の顔を覗き込んでくる。間近で見てもそのかんばせは美しく、それどころかますます光り輝くようで、らしくもなくどぎまぎしてしまう。我が国の生ける宝石は、今日も今日とて眩しいくらいに麗しい。

言葉のない私をどう思ったのかは解らないが、姫様は笑みを浮かべたまま続けた。


「その質問は正しくはないわね。正確には、貴女は、『どうして自分がこんなところにいるのか』という質問をすべきところよ」

「…?」


それはどういう意味だ。そんな私の疑問は、如実に顔に浮かんでいたらしい。姫様の笑みがより深まった。ああ、その悪戯気な表情もお美しいです、なんて、ついついうっとりとしていると、姫様は、そんな私の浮き立つ心を、見事に叩き落とす発言をしてくださった。


「ここはあたくしの部屋よ。ついでに、このベッドはあたくしのベッド」

「!?」


思わず我が耳を疑った。凍り付く、とは、こういうことを言うのだと思う。ざあああ、と、音を立てて頭から血が引いていく中、我ながら恐ろしいまでに冷静に現状を理解していく私がいる。

だからこそ、「なるほど、だからこんなにもこの部屋は豪華なんですね、納得しました」なんて言っていられない。なんですと、ちょっと待て。待ってください。ここが姫様の部屋で、これが姫様のベッド、だと?


「も、申し訳ありません! こ、こんな、恐れ多い真似を」


いくら親しい仲であるとは言え、姫様のベッドで寝ていただなんて、許されることではない。それは身分の問題でもあるし、姫様の人気の問題でもある。この現状、世の中の老若男女にどれだけ羨まれることだろう。羨むを通り越して恨まれる気すらする。

何せ、あの、クレメンティーネ姫の、ベッド、である。そこには夢と希望がこれでもかというくらいに詰まっているに違いない。実際、ふかふかだし良い匂いだし、知らぬこととは言え随分と役得に預かってしまったものだ。ここまで言うとなんだか私が変態のようだが、しかし、それくらいに、国民の間での姫様の人気は高いのである。


私も、元々ファンだったことに加えて、その内面を知ってから、ますます彼女の魅力に惹かれるようになった。

あの男は「どこがいいんだ、どこが」と本気で訝しげに私を見遣り、私の目が節穴であるかのように言うが、それはこっちの台詞だ。一緒に旅までしていたくせに、どうして姫様の魅力を理解できないのか。

まあ、その姫様の魅力に気付き、理解して、それこそRPGのテンプレのように姫様に恋に落ちたりなんかしたらと思うと、それはそれで私を非常に複雑な気持ちに陥らせるのだけれど。

その恋心の代わりと言っては難だが、バレンティーヌ嬢とはまた違った魅力を持つ姫様と、あの男の間には、私には割り込めない繋がりがあるように見える。私には理解しがたい、“選ばれた者”としての繋がり。

私とあの男の結婚式で見た、ふたりのやりとりから、その間に、恋愛感情は欠片も見受けられなかったことに、人知れずほっとしたなんて、例え今更のことであっても言えやしない…などと、現実逃避をしている場合ではない。


慌ててベッドから降りようと身を乗り出したが、姫様はそんな私を、その白くほっそりとした手で押し止めた。


「気にしなくてよくてよ。それより貴女は安静にしていらっしゃいな。この部屋を使うことを許したのはあたくし自身であるし、もし責められるべきとするならば、それは貴女の夫なのだから」

「エディが、ですか?」


予想外の台詞に瞳を瞬かせる。解せない。何故あの男が責められるというのだ。

そんな私の感情は、ありありと顔に浮かんでいたらしく、姫様は心底呆れ果てたとでも言いたげに、肩を竦めてみせた。


「ええ。突然意識のない貴女を抱えて、あたくしの目の前に転移してきたのよ、あの男は」


事と次第によってはただではすまさなかったわよ、と至極軽いノリで、怒るでもなく笑って姫様は言ってくださった。が、その台詞を聞かされた私としてはそれどころではない。

ちょっと待とうか。頼むから待ってください。何をしているのだあの男は。姫様の元に、直接突然の転移魔法って、それはありなのか。…いや、無い。いくら救世界の英雄で、王宮筆頭魔法使いだとしても、考えるまでもなくそれは無いだろう。

まさかそんな、という思いを込めて姫様を見つめるが、姫様は笑顔を浮かべたままそれ以上何も言わない。その反応が、姫様の言葉が真実であることを証明していた。


「……真に申し訳ありません。夫に代わって、心よりお詫び申し上げます」


姿勢を正し、ベッドの上でできる限りの礼を取る。内心であの男を罵るのも忘れない。仕方が無い、どころじゃない。やはり馬鹿だ。無駄に頭が良かったはずだというのに、何をしているのだあの男は。姫様の寛大すぎる処置がなければ、首が飛んでいてもおかしくないということくらい、解っているだろうに。それなのに、一体何をしているのか。理解に苦しまずにはいられない。

私の疑問を正確に汲み取ったらしい姫様は、ふいにその笑みを消し、真顔で私を見つめてきた。琥珀色の澄んだ瞳に、私の戸惑ったような顔が映り込む。


「気にしないで、と言っても、素直に貴女は受け取ってはくれないでしょうね。でも本当に、貴女が謝る必要なんてどこにも無くてよ。特に、“今”の貴女はね」

「どういう、ことでしょうか」

「貴女自身、気付いていたはずだと思うのだけれど。でも、そうね。それはあくまで、張本人である貴女だからこその話。黒蓮宮の魔法使いでも、そうそう気付けはしないでしょうね」


姫様の台詞の意味が、半分も理解できない。首を傾げて姫様の言葉の続きを待つと、姫様はひとつ溜息を吐いた。それは、呆れが如実に滲み出ている溜息だった。


「とは言っても、それはただの黒蓮宮の魔法使いの場合よ。全く、未だに気付かずにいたなんて、どれだけ新婚生活に浮かれていたのかしら」

「…?」


姫様は一体何の話をしているというのだろう。ますます首を傾げるしかない私の耳に、何やら騒ぎ声が聞こえてきたのは、その時だった。

扉の外で、何やら揉めている声がする。その中に、非常に聞き覚えのある声が混じっている気がするのは、気のせいではない。


「あら、来たようね」


姫様の、扉の向こうの騒ぎには似つかわしくない、どこかのんびりとした印象を抱かせる台詞と同時に、バン!と盛大な音を立てて扉が開かれる。反射的に身体をびくつかせる私の視線の先に居たのは、案の定の存在だった。


「フィリミナ!」

「エ、ディ」


朝焼け色の瞳が私を捕らえるが早いか、我が夫である男は、つかつかと大股で近寄ってくる。男のその勢いは、そのまま掴み掛かられるのではないかと危惧せずにはいられないほどのものだ。

なんだ、どうした。これまでにもこの男を怒らせたことはあったが、今回はその比ではなく迫力がある。


ひっ!とつい内心で悲鳴を上げる私と、不穏すぎる空気を身に纏う男の間に、私を背に庇うようにして立ちふさがってくださったのは、無言で椅子から立ち上がった姫様だった。

その勇ましく、余裕に溢れた後ろ姿の格好よさに、またしても改めて惚れ直してしまいそうになる。

それに比べて、男の姿といったら、なんということだろう。元々白かった肌は青白く見えるほどで、つやつやさらさらとした髪は振り乱され、余裕のよの字も見られない。何より、その表情には、明らかな焦りが浮かんでいた。だからこそ余計に、迫力があるように見えるのだが。


姫様の後ろ姿越しにその様子を窺う。男は「そこを退け」とばかりに姫様を睨み付けている。その迫力がどれほどのものかなど最早言うまでもないことなのだろうが、そんな視線を受けても、姫様は微動だにしなかった。それどころか、くす、と笑い声すら上げてみせた。場違いにも思えるような、やはり余裕のある笑みだった。


「淑女の部屋にノックも無しに入ってくるなんて、一体どういう了見かしら」

「…」


揶揄するような姫様の口振りに、男は瞳を眇めて姫様を見据えた。姫様と男の間で、見えない火花が散った気がした。未だかつて、この男にこんな口を利いた存在が居ただろうか。もしかしたら居たのかも知れないが、少なくとも私の知る限りでは存在しない。

これは止めるべきか。いやしかし、今のこのふたりの間に割って入る勇気は無い。結局私にできるのは、姫様の後ろ姿と、男の険しい顔を見比べて、沈黙を保つことしかない。

そのまま、しばらく沈黙は続いた。いい加減その沈黙が息苦しくなってきた頃、姫様の琥珀色の瞳が、私へとちらりと向けられ、そして再び男の方へと戻る。え、今の視線は何ですか。

疑問符を飛ばす私を余所に、姫様は、その本来耳に心地良いはずの声音にはてんで似つかわしくない、冷え切った声音で男に問いかけた。


「ねえエギエディルズ? 我が国の筆頭魔法使いも、随分と落ちたものね?」

「………ああ、その通りだ」


男の、その重々しく、そして苦々しい声と表情に、驚かされずにはいられない。この男が、いくら姫様相手だとは言え、言われるがままに嫌味を受け入れるだなんて。普段のこの男であれば、例え姫様相手だろうとも、倍以上にして返しそうなものだと言うのに。

私と同じく、姫様にとっても男の反応は予想外だったのか、「あら」と姫様は意外そうな声を上げた。


「思ったよりも素直に認めるのね。流石の貴方も、今回の件に関しては思うところがあるということかしら。これで開き直るようだったら、張り手の一つでもその頬にくれてやっていたのに」


残念なこと、と至極つまらなそうに姫様は続けた。こちらからは見えないが、さぞかし冷たい表情を浮かべているに違いないことが窺い知れる声音であり、物騒な内容の台詞であった。


「ひ、姫様…?」


恐る恐る声を掛けると、姫様は私の方を振り向いた。そこにあった表情は、私が想像したような冷たいものではなく、優しく温かなものだった。女神の愛し子、巫女姫の称号に相応しい柔らかな表情は、年下の少女に使うには不釣り合いかもしれないけれどやはり『麗しい』と表するべきものだ。実に眼福である、と思いつつ、その琥珀色の瞳を見つめ返すと、姫様は本日一番の笑みを浮かべてくださった。


「フィリミナ」

「は、はい」

「何かあれば遠慮無くあたくしを呼びなさいな。このベルを鳴らしてくれれば、すぐに駆けつけるから」

「はい…?」


ベッドサイドテーブルの上に置かれた可愛らしい金色のベルを、その白く細い指で指して、姫様は言った。いまいち現状を理解しきれないのだが、とりあえず頷いてみせる私に、姫様は満足げに頷いて、そして、今度は男に向き直り、更に言葉を続ける。


「エギエディルズ」

「…何だ」

「あたくしの大切なお友達をこれ以上傷つけてごらんなさい。今度こそあたくし自ら、鉄槌を下してさしあげてよ」


『大切なお友達』。それは私のことですかと訊きたくなるが、この話の流れから察するに、私のことでまず間違いは無いだろう。その言葉に、自分でも驚く程に感動している自分がいる。

私とて、姫様には、結婚式以来人知れず交友を深めてきた中で、勝手ながらも親愛の情を抱かせて頂いてきたのだが、姫様本人にそう言われるとなると話は違う。年下の、身分違いもいいところの少女相手に何を、と言われるかもしれないが、ひとりのファンとしてではなく、ひとりの友人として、姫様にそう言って貰えることが嬉しい。


だが、それはそれとしてだ。

その『お友達』の後に続いた、姫様の台詞の物騒さに、私は顔を引きつらせた。鉄槌って。箸、もといフォークよりも重いものなど持ったことが無いような容貌の姫様の口から出たとは思えない言葉である。


ぴくりと男の眉が動いた。姫様を見つめていた朝焼け色の瞳が、こちらへと向けられる。布団の中に潜り込んでしまいたい衝動は流石に抑えたものの、その瞳を見つめ返すことまではできず、目を伏せる。

男の纏う雰囲気がますます重くなるのを肌で感じた。この場を今すぐにでも逃げ出したい衝動にかられるが、そんな真似が叶うはずもない。

再び沈黙が部屋に横たわる。それを打ち破ったのは、やはり姫様だった。


「さて、それじゃああたくしはしばらく席を外させて頂くわ。その間に、まずはふたりでとくと話し合いなさい」


『いや、無理です』。そう口にせずに済んだのは、我慢した、と言うよりは、驚きで声が出なかった、と言う方が正しいだろう。

こんな状態の男と二人で部屋に残されるとか、なかなかどころではなく辛いものがある。だがしかし、姫様はそんな私を笑みと供に一瞥して、颯爽と男の横を通り過ぎて扉から出て行った。残されたのは、ベッドの上で上半身を起こして固まっている私と、無言を貫いている男である。

このままでいる訳にもいかず、かと言って男に声を掛けることもできず、俯いていると、ふと頭上に影が落ちる。


「…っ」


反射的に顔を上げると、男が、気付けば間近に近寄ってきていた。椅子はすぐそこにあるというのに、座りもせずに私を見下ろしている。


「何故」


ぽつり、と短く零された台詞は、普段よりも格段に低い声音だった。美声である分だけ、その分恐ろしさは倍増している。無意識に布団を握りしめる私を見下ろす男の顔には何の表情も無い。ただ、その瞳だけが、男の感情を何よりも解りやすく表していた。紫色と橙色が光の加減でグラデーションのように揺らめく朝焼け色の瞳に浮かぶ感情の名を、私は知っている。それは、怒りだ。


「何故、何も言わなかった?」

「何を、でしょうか」

「解っているだろう。夢のことだ。最近、悪夢を見ていたんだろう?」


この期に及んでもなお往生際悪く誤魔化そうとしても、もうそれは無駄なことなのだと、その台詞に思い知らされる。逃げることなど許さないとでも言いたげな朝焼け色の瞳に貫かれ、動けなくなる。


「それ、は」


男の言う夢とは、くだんの、つい先程まで見ていた悪夢のことだろう。ただ倒れただけだというのにどうして夢のことまで知っているのかという疑問が湧くが、それを訊けるような状況ではないことくらい理解できる。

そもそも、あの悪夢は恐らく呪いなのだろうと、素人である私ですら見当が付けられたのだ。元々私には及びも付かないくらい回転の速い頭の持ち主で、魔法を専門職としているこの男だ。私が懸命になって行き着いた結論にすぐさま行き着いても、何の不思議も無い。むしろ、今までばれなかったことの方が不思議なくらいだ。呪いと判断したからこそ、女神の巫女でもあらせられる姫様の元に私を連れてきた、と考えるのが正解な気がしてきた。

言葉に詰まる私をどう思ったのか、男は淡々とした、空恐ろしくなるほど感情の無い声音で続けた。


「俺に言っても、無駄だと思ったのか」

「え…?」


一瞬、何を言われたのか解らなかった。どういうことだと男の顔をまじまじと見上げると、男はそこで初めて苛立たしげな表情を浮かべる。秀麗な、ただびとのものとは到底思えない中性的な美貌は、そんな表情を浮かべてもなお美しい。いつになく表情を表に出している男に、呆然としていると、男は吐き捨てるように言い放った。


「俺はお前にとって、それほどまでに頼りない存在だったのか?」


その声は、何処か途方に暮れているようにも聞こえた。男がきつく拳を握りしめる。そんなにも力を込めては、掌に爪が突き刺さってさぞ痛かろうに。それなのに男は、そんなことは知ったことではないとばかりに私のことを睨め付ける。


「ちが、」

「何が違う。俺が当てにならないからこそ、お前は勝手に自分で何とかしようとしたのだろう」


そうではない。そういうことではないのに。私は。私はただ。

そう伝えようとしても、喉に何かが詰まってしまったかのように、言葉は私の中で押し止められて出てこない。唇が戦慄くのを、他人事のように感じる。口から出てくるのは薄い吐息ばかりで、言葉どころか音にもならない。

朝焼け色の瞳が私を見下ろしている。そこに宿る光の強さに、私は布団を握りしめる手に力を込める。


「―――申し訳ありません」

「何故謝るんだ」

「ご迷惑を、おかけしてしまいました」

「っお前は!」


男の怒声に、空気がびりりと震えた。瞬間、肌が粟立つような感覚が全身を襲う。

“名”には力が宿り個を縛ると言うが、その前提されるのは、“音”だ。力有る魔法使いは、音そのものを支配し、だからこそ詠唱が重要とされるというのは、この数週間の間に読み耽った魔導書にも書いてあったことだが、どうやらこういうことらしいと思い知らされる。魔力があればあるほど、詠唱に要する単語の数も減り、この男に至っては無詠唱すら可能とするのだと。

ならば今のも魔法と呼べるものなのかもしれない、と、そんな場合でもないのにそう思う。


自分が声を荒げたことが信じられないのか、男はそれ以上言葉を連ねることなく台詞を切った。後悔しているのだな、とその顔を見ればすぐに解る。


どうして、上手くいかないのだろう。こんな顔をさせたい訳ではないのに。

やはりバレてはいけなかったのだ。一度隠し通すと決めたのであれば、そのまま何としてでも隠し通さなくてはいけなかった。でなければ、この男が自分を責めることくらい、容易に想像がついたのだから。


男の手を取って、その握りしめられた拳を解かせる。ほらやっぱり。爪の後が赤く残っている。これは相当痛かっただろうと、そっと慰めるようにその手を撫でると、男は疲れたように、先程まで姫様が座っていたベッドサイドの椅子に腰を下ろした。するり、と私の手から、男の手が離れていく。


「…お前は、どうしてそうなんだ」

「申し訳ありま…」

「違う。違うんだ。俺はお前に謝らせたい訳じゃない」


違う、違うのだと何度も男は繰り返し、両手で顔を覆って俯いた。エディ?といつものように呼びかけようとしたけれど、何故だかそれが躊躇われた。

そうして、声を掛けることができず、その肩に手を伸ばすこともできずにいる私の耳に届いたのは、細いけれど確かに男性のものだと解る骨張った手の指の隙間から零れ落ちた、予想外の言葉だった。



「―――――すまなかった」



その一言は、私と男しかいない、しん、と静まりかえった部屋に確かに波紋を描いた。自分の目が大きく、そして丸くなっていくのを感じる。一体何をこの男は言っているのか。理解に苦しまずにはいられない発言に、気付けば口が動いていた。


「エディこそ、どうして謝るのですか」


私の問いに、男は顔を上げる。乱れた漆黒の髪がさらりとその白い頬にかかり、左目の下に走った傷を隠す。瞳の中の朝焼けが揺らめいている。思わずその顔に手を伸ばしそうになったのを、布団をもう一度握りしめ直すことで堪えた。

男が浮かべている表情に滲むのは、この男らしくもない、後悔という感情だ。戸惑う私に気付いているのかいないのか、男は懺悔するように続ける。


「もっと早くに気付かなくてはならなかった。俺にはそれができたはずだった。それなのに気付かなかったのは、完全に俺の手落ちだ」

「そのような、ことは」

「お前がそう思わなくとも、これはれっきとした事実だ。姫が言っていたことに、俺は反論できない」

「そんな、エディ、それは違います」

「違わない」

「違います」


この男が何を言おうとも、私は、これだけは譲る気は無かった。いつになく強く言い切った私の反応が意外だったのか、男の瞳が瞬いた。長く濃く生え揃う、髪と同色の男の睫毛は、瞬きするだけで音がしそうで、いっそ腹が立つ…なんて、我ながら余裕ぶったことを考える。実際はちっとも、余裕なんて無いのに。


「どうしてあなたの所為などと言えるでしょう。これは、わたくしが招いてしまった結果です。わたくしがあなたに気付かれたくなかったのです。気付かれないように、振る舞ってきたのです」

「…俺が、頼りないからか」


まだ言うか。いい加減しつこい男である。長い付き合いなのだから、私が言いたいのはそんなことではないと汲み取ってくれればいいものを。

けれど、それができるような奴であったら、それはもうきっと、この男ではないのだ。男の台詞に、ふるり、と首を振って、私は続ける。


「いいえ。ただ、わたくしは」


馬鹿な人だとこの男を私は評した。仕方の無い人だと、そう評した。でもそれはきっと、私も同じなのだ。いいや、男よりも私の方がもっとずっと馬鹿で、仕方の無い奴だったのだろう。

心配を掛けさせたくなかった? それは本当。迷惑を掛けたくなかった? それも本当。でも、一番の本当は。私は、ただ。


「わたくしは、ただ、強くありたかったのです」

「…なんだ、それは」


男の眉間に皺が寄る。訝しげなその表情とは対照的に、私は笑った。上手く笑えていないのは承知の上で、それでも顔に笑顔を貼り付けた。でなければ、泣いてしまいそうだったから。


「守られているのは解っていました。それが嬉しかったのは本当のことです。けれど、いつの間にか、私はそれだけでは足りなくなっていました」


私との婚姻を公にしない理由は、言われずとも最初から解っていた。英雄の妻の座などという、誰もが欲しがるその椅子に、私は座っていたのだから。

その心地良さに浸って過ごす日々の、どれだけ甘かったことだろう。それは何物にも代え難い、得難い幸せだった。

それで十分ではないかと、何を贅沢なことを言っているのかと、他人には言われるかもしれない。けれど私の心には、いつしか寂しさが芽生えた。それは、止めることもできないまま、深く深くこの胸に根を張って広がっていった。そうして、バレンティーヌ嬢と一緒に居る姿を見て、その寂しさは見事に花を開かせた。


私はこの男にとって何なのだろう。隣に立つこともできぬまま、ただ隠されて過ごしているだけの私という存在は、この男に本当に相応しいのかと、そう思うようになった。

元々あったその思いが、より強くなり、確かなものとして胸を占めるようになった。


「あなたの隣に立てるだけの強さが欲しくて、それだけの強さを持っているのだと思いたくて、意地を張りました」


バレンティーヌ嬢のように可愛らしくもなく、この男の横に立つだけに足る身分がある訳でもないこの私。こんなこと、今まで気にもしていなかったというのに、気付けばそれは私の足枷になっていた。

だから、だろうか。せめて、心だけは隣にあれる存在でありたかった。自分が、たかが悪夢くらいでどうこうされるような弱い女であるだなんて認めたくなかった。例えそれが、第三者の干渉によるものだったとしても、自分でなんとかしたかった。

姫様くらいに、とまでは言わない。そこまで求めるのはいくらなんでも恐れ多すぎる。でも、ただその腕の中で守られているばかりなことに、いつしか我慢ならなくなっていたのだ。守られるのではなく、その隣に立ちたかった。

例えこの男がそれを望まなくても、ただ大人しく守られているのが最善であると解っていても。それでも、私は、この男の隣に並びたかった。対等でありたかった。


なんて可愛くない女だろう。なんて烏滸がましい女だろう。バレンティーヌ嬢の爪の垢でも煎じて飲むべきなんじゃないのか私は。あの可愛らしい少女なら、きっとこの男の隣で、幸せに微笑んで過ごしていけるだろう。この男の、望む通りに。

布団を握りしめる手が痛い。力を込めすぎて白くなっていることが容易に想像がつく。けれど力が抜けない。脳裏に浮かぶのは悪夢の暗闇だ。その中に在るのは、自ら輝くように美しい、この男と、バレンティーヌ嬢の隣り合って並ぶ姿。噂の通り、それはとてもお似合いで、想像するだけで胸が痛くなる。


男が驚きに目を見開いて私を見つめている。そのまま何も言われないのをいいことに、私は「ごめんなさい」と呟いた。


「ごめんなさい。ごめんなさい、エディ。結局、もっと、ご迷惑をおかけすることになってしまって」

「…もういい」

「いいえ、言わせてください」

「フィリミナ、もういいんだ」

「何もよいものですか。こんな、姫様にまでお手数をおかけしてしまって」


私の言葉を押し止めようとする男に、私は首を振って言葉を重ねる。

私は何をしていたのだろう。下手に意地を張って、その結果がこの体たらくだ。事態を悪化させるばかりで、何一つ成し遂げられないままで。

頬を熱いものが伝っていく。それが涙だと気付くのに、少しだけ時間が掛かった。ああ、結局こうして泣いて逃げることしかできないのか。そんな自分が悔しくて、情けなくて、余計に涙があふれ出る。


「ごめんなさい」

「もういい」

「ごめ、なさい。こんなわたくしでは、あなたに…」

「っもういいと、言っているだろう!」

「ッ!?」


あなたに、相応しくなんてない。そう続けようとした台詞は、最後まで言わせて貰えなかった。他の言葉を紡ぐことも叶わない。当たり前だ。こんなにも荒々しく口付けられていては、何も言えるはずがない。

仮に何かを言おうとしても、全て男の口の中に飲み込まれていく。やがて呼吸すらままならなくなって身を捩ると、やっと口が解放される。けれど、ほっと息が吐けたのはほんの一瞬だった。口付けの代わりに、きつく、きつく抱きしめられる。


「もう、いいんだ」


苦しいくらいに抱きしめられているのに、抵抗することができない。ただただ固まることしかできないでいる私の耳に、私を力の限り抱きしめている男は囁く。


「誰が何と言おうと、何があろうと、俺の妻はお前だけだ。お前以外の妻など、俺は認めない。欲しいとも思わない」

「エ、ディ」


その声音の、なんて熱いことか。恐る恐る男の背に手を回すと、更に強く抱きしめられる。苦しくてたまらないのに、何故かその苦しさがいとおしく感じてしまう自分が信じられない。余計に溢れ出てくる涙が男の服を濡らしていくけれど、そんなことが気にならないくらいに、ただ、ただ胸の内が満たされていくのを感じる。

私だけ、とこの男は言った。言ってくれた。たったそれだけの言葉がこんなにも嬉しいなんて、幸せだなんて。涙の色が変わるのがわかる。悲しみの色ではなく、喜びの色になっていく。目を閉じるとそこにあるのは暗闇だけれど、私を抱きしめるこの温もりが、私が独りではないことを教えてくれる。


そして、どれほどの間、抱き合っていただろうか。男の腕の力が緩み、顔を覗き込まれる。こんな酷い泣き顔、正直見られたくなんてないのだが、男は気にした様子もなく、私の涙を指で拭い、更にそこに口付ける芸当までしてのけた。その温かな感触に、ぼっと顔に灯が灯るような気がした。


「ッエディ!」

「何だ」

「なん、何だ、ではありません…!」


先程姫様のベッドに寝かされていたと知った時とは逆に、一気に顔に血が集まっている。私の顔は今、真っ赤になっているに違いない。

そんな私を見て男は笑った。その笑顔は、左目の下にうっすらと残る傷が、笑んだことによってひきつれてもなお美しい。幼い頃、私が何かを失敗した時に限って見せてくれたものと何一つ代わらない、その笑い方。

ますます恥ずかしくなって、その顔を見ていられなくなって、私は顔を男から背けた。くつくつという笑い声が耳朶を打つ。あの泣き声とはまるで違う、心地良いその笑い声が、今ばかりは憎たらしい。

そんな笑い声が、ふと止まった。


「ところで、フィリミナ」

「……なんでしょうか」


至極真剣な声音は、私が男から視線を逸らしていることを許してはくれなかった。明後日の方向へ向けていた視線を再び男へと向ける。

そこにあったのは、声音と同じく真剣な表情で、男の腕の中で、私は反射的に居住まいを正した。とうとう夢に関することを訊かれるのだろうか。そう予想した私にとって、男の口から出た問いかけは、とても意外なものだった。


「ローネインとはどういう関係だ?」

「セルヴェス様、ですか?」


問いかけの意味が分からず首を傾げるが、男は、私がセルヴェス青年の名を出した途端にその眉を顰めた。ただ名前を言っただけだというのにこの反応である。

夕食の時に「もう会うな」と言われたことといい、余程あの青年とこの男は仲が悪いのだろうか。確かに、相性がよさそうには到底見えないけれども。

だがしかし、それを言ったら、この気難しい男と相性がよい存在などごく僅かな訳で、取り立ててあの青年に目くじらを立てることもないと思うのは私だけだろうか。


「以前絡まれていたところを助けて頂きまして。以来時折お話させて頂いておりますが」

「……それだけか?」

「? はい」


それだけか、と問われても、それ以上も以下もない。他に何があると言うのだろう。他に何かあるとすれば、サンドイッチを食べてもらったことくらいだけれども、そこまで言う必要があるとも思えない。

こくりと頷く私を、しばらくじっと見つめていた男は、小さく息を吐いた。そして、ぽつりと「なら、いい」と呟いて、また私を抱きしめた。誰に見られている訳でも無し、恥ずかしいだなんて思う必要など無いのだが、やはり照れずにはいられない―――――って。



「―――水を差すようで悪いのだけれど、そろそろよろしくて?」

「!!!!!」



いつの間にやら扉を開けてそこに立っていた姫様の姿に、私は悲鳴を上げそうになったところをかろうじて飲み込んだ。


「っは、はい! エディ、離してくださいまし!」


おいこら、不満げな顔をするな。舌打ちを打つな。いくら敬語を使わないでもいいくらいに姫様と親しい仲であるとは言え、普通に失礼だからそれは。

あまりの恥ずかしさに遠慮を忘れてばしばしと男の背を叩くと、いかにも渋々といった様子で、男は私から離れていった。そんな私達を実に生暖かい視線で見つめていた姫様は、ベッド脇まで歩み寄ってくると、男を椅子から「代わりなさいな」と一言で退かせて、自らその椅子に座った。男の鋭い視線などものともせずに、姫様は微笑みながら私に問いかけてきた。


「フィリミナ、お腹は空いていないかしら? もし何か食べるようなら、すぐに用意させるけれど」

「い、いえ。夕食を摂ったばかりですから」


私の台詞に、ふたつの美貌がそれぞれきょとりとした表情を浮かべる。


「あの…?」


何かおかしなことを言っただろうか。私の記憶が確かであれば、私が倒れたのは夕食の際だった。半分も食べられなかったとは言え、最近は食も細くなっていたから、あれで充分なのだが。

首を傾げる私に、姫様に椅子を奪われ私の横に立っている男が、すい、とその長い指で窓を指差した。


「気付いていなかったのか。お前は、丸々一晩眠っていたんだぞ」

「一晩?」


そんな馬鹿な。私が寝ていたのは、体感時間としては決して長い時間ではない。

男の台詞を反芻しつつ、男が指差した方向を見遣る。すると、窓の硝子越しに差し込んできていたのは、銀色の月の光ではなく、金色の太陽の光だった。ああそうか、道理で明るいと。どうやら本当に、一晩経過していたらしい。

どう答えたものか解らず、男と姫様の顔を見比べていると、姫様が微笑みを消して口を開いた。白百合のような美貌に見据えられ、ごくりと思わず息を呑む。


「結論から言うわね。フィリミナ、貴女は呪いにかけられているわ。それも随分と手の込んだ、厄介な呪いに」

「呪い、ですか」

「ええ。自分でも解っていたのではないかしら」

「それは…」


男の手前、はい、とは言い難く、つい口籠もってしまうが、それが何よりの答えになってしまうことに遅れて気付いた。男の視線が痛い。『何故言わなかった』という先程の台詞を再び言い出しそうな雰囲気を醸し出す男に対し、姫様は呆れたような溜息を吐いた。


「エギエディルズ。そう凄むものではないわ」

「……別に、凄んでいるつもりは…」

「貴方がそんなつもりではなくとも、こちらからしてみればそう見えるのよ。そんな風だから、フィリミナは余計に何も言えなくなるのだということ、その無駄に賢いはずの頭はまだ解らないのかしら?」


流石姫様、容赦無い。言葉を失って沈黙する男を鼻で笑って、姫様は再び私に向き直る。


「解りやすく例えるなら、この呪いは、花の種ね」

「種?」

「ええ。魔族が作り上げた呪いの花の種を、魂の根幹に植え付けられているようなもの。そうして魂に寄生した種は、深く根を張って、宿主を内側から侵していくの。どう侵すかは様々だけれど、貴女の場合は夢を媒介にしているようね」


姫様の琥珀色の瞳が、真っ直ぐに私を見据える。光の加減で金色にも見えるその瞳が見ているのは、私の外見のようでそうではない。外側ではなく、ただびとの目には見ることが叶わない、もっと深いところを見つめられている気がして落ち着かない。


「この呪いの質が悪いところは、周囲に呪いを呪いとして関知させないところにあるようね。普通の呪いであれば、大なり小なり、常に呪者との繋がりが宿主にあるものよ。そうなれば他者の気配が宿主に付きまとうことになるから、腕の立つ魔法使いであれば、遅かれ早かれいずれは気付けるはず。けれどこの呪いは違う。“種”と言ったでしょう? 蒔かれた種は、呪者の手から離れて勝手に育っていくの。宿主の魂に寄生しているのだから、そこに他者の気配は存在しない。よくできた呪いだわ。この男が、貴女が倒れるまで気付けなかったのもそのせいね」


情けないことだけれどね、と嫌味を含んで姫様は皮肉気に笑う。


「まあ、気付いてしまえば単純な呪いよ。だからこそ巧妙な呪いと言えるのだけれど。あたくしの光魔法で無理矢理解呪させることもできない訳では無いわ。魔族が介入した闇魔法ですもの、そこの男よりはあたくしが解いた方がいいに決まっているわ。それが解っているからこそ、あたくしの元に貴女を連れてきたのだし」


魔族の力を借りる闇魔法は、神の力を借りる光魔法と表裏一体だと魔導書には書いてあった。すなわち、闇魔法に対抗するには、光魔法こそが求められるのだ。光魔法を会得するには神殿に入り神官となる必要があるが、生憎我が夫は神官ではない。男が得手とするのは、自身の魔力を用いる狭義の意味での魔法と、精霊の力を借りる霊魔法だ。呪いを解くには向かない。呪いを解くにあたって、女神の巫女姫であらせられる姫様ほど、適任な存在はいないだろう。

だが、だからと言って、いきなり姫様の元に転移をかますのはいかがなものかと思う私は間違っていないはずだ。それだけ焦ってくれたということが嬉しくないと言えば嘘になるが、それでも、やっていいことと悪いことがある。

微妙な表情を浮かべている私に、姫様は少しばかり笑ったが、すぐにその笑みを消して更に言葉を続けた。


「でも、呪いを解くには危険が伴うの。種は貴女自身が思っている以上に、貴女の中に根を張っているようだから」

「そうなのですか?」

「この男が気付けなかったくらいに深いところに埋め込まれている種よ。下手に解こうとすれば、魂にも傷が付くわね」


さらりと姫様は言ってくださるが、その内容は私にとって非常にありがたくないお言葉である。


「なら、どうすればいい?」


それまで沈黙を保っていた男が、ようやく口を開いた。「それはもちろん」と姫様は冷たく、何故だか怒りを含んだ笑みを浮かべて言い放つ。


「犯人を捜し出して、本人に解かせるのが一番よ」

「―――――そうか」


短く呟いて、男もまた、姫様同様に笑った。


「ならば、話は早いな」


この男の美貌も、その美貌が作り出す様々な表情も、散々見慣れているはずの私ですら寒気が走る、その凄絶な笑み。私に向けられている訳でもないというのに、冷たいものが背筋を思い切り駆け抜けていく。部屋の温度が、一気に下がった気がした。


「エ、エディ?」

「何だ?」

「………いえ、なんでもありません」


触らぬ神に祟りなし。偉大なる先人の言葉は正しかった。被害者である私が言うのも難であるが、犯人に同情したくなる。そして私は、まだ見ぬ犯人に、内心で合掌したのであった。

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