(5)
ルーナメリィ嬢と、あの男の薬草園で出くわして、早数週間が経過した。
近頃、社交界を賑わす話題がある。すなわち、救世界の英雄となったあの男と、バレンティーヌ家の御令嬢の関係についてだ。
それは密やかでありながらも、まことしやかな噂となって、人々の間に広まっていく。
本日お呼ばれして久々に出席した、貴族の令嬢の友人達とのお茶会も、当然のようにその話題で持ちきりだった。
曰く、「とうとうお相手が決まったのね」だとか。「あのバレンティーヌの御令嬢ならお似合いだわ」だとか。「近頃はエギエディルズ様の元に日参していらっしゃるそうよ、余程本気でいらっしゃるのね」だとか。「バレンティーヌ公も、エギエディルズ様がお相手なら、文句なんて言えるはずないもの」だとか。
年頃のお嬢さん達にとって、これほど美味しい話題は無いのだろう。うっとりとしながら、救世界の英雄と、大貴族の御令嬢との恋物語にそれぞれ思いを馳せている。今までは、あの男の名を出すだけですら怯えたように身を震わせていたというのに、今ではこの有様なのだから、救世界英雄という名の威力をしみじみと思い知らされる。
まあ、それを悪いことだとは思わない。これまで散々怯えてきたくせに今更何を、と若干思わなくもないが、それ以上に、あの男の存在が確かに認められていくことを喜ばしく思う。あの男の狭かった世界が、こうして広がっていってくれることが嬉しい。
ほんの少しだけ寂しく思うのも本当のことだけれど、それは私の身勝手なわがままだろう。
そんな私を余所に、友人達は楽しげにくだんの噂話に花を咲かせている。その様子は精神年齢○歳のおばさんから見れば、「若いっていいですわね」と思わず呟いてしまいそうになるようなものだ。
頬を上気させて他人の恋バナについて楽しげに語り合う彼女らはとても可愛らしく、その輪に加わっているだけでこちらまで若返っていくような気がする。
…けれど、それと同時に、何とも言い難い苦いものが私の中で広がっていくのもまた、事実な訳で。
―――友人である彼女らにも、私は、私があの男と結婚していることを言っていない。
そもそもの話、彼女らは私があの男と幼馴染であることすら知られていない。
言う機会を逃し続けてきたのは私の不手際だ。それは認めよう。けれど、先日呼んだ魔導書にも載っていた。「名前には、それだけで力が宿る。それは自身のみならず、他者すらも縛りたらしめるものだ」と。
稀代の黒持ちたるあの男の名を出して悪戯に彼女らを怯えさせる真似はできなかった、と言うのは……駄目だな。これも結局のところ、言い訳に過ぎない。それも、大層下手くそな。
今この場で繰り広げられている話題は、他ならぬ我が夫であるあの男に関するものであり、決して他人事などではない。あの男のこの噂に関しては、ある意味では私もまた当事者であるというのに、そんな自らの立場を明かさず話を聞くなど、我ながら随分とせこい真似をしているものである。
それは解っているのだが、今更声を大にして「私が妻です」などと言うことは躊躇われ、結局黙っていることしかできないでいる。
昔から友愛を寄せてくれている彼女らを騙しているようで申し訳なさ炸裂であるが、ひとたび彼女らに伝えれば、それこそ吹きすさぶ嵐の如く、社交界にあの男と私が結婚しているという事実は広まっていくだろう。
それは、あの男にとっては、好ましいことではない。そして、私にとっては、世間で取り沙汰されている噂話を、そのままの形で聞くことができるので、まあ、有り難いことだと言えよう。おそらく、たぶん、きっと。
それにしても、なるほど。あの男とルーナメリィ嬢は、世間ではそういうことになっているのか。
そう、我ながら妙に冷静に、納得している自分がいる。
友人達の言う通り、あの男の相手としてルーナメリィ嬢に不足は無く、その逆もまた然りだ。
例えあの男が“黒持ち”であろうとも、“救世界の英雄”という名誉ある称号は、地位と権力を併せ持つバレンティーヌ家にとっては得難いものであるだろうし、あの男にとっても、“黒持ち”であることなど関係なく自分のことを慕ってくる美少女のことを無碍にする理由はない。
そう、友人の言う通り、ふたりは確かに『お似合い』なのである。
ルーナメリィ嬢と鉢合わせして以来、あの男の元に登城しなかった私には知るべくもなかったことだが、ほほう。ルーナメリィ嬢はあの男の元に日参しているのか。
あの男が、最近とみに帰宅してくる時間が遅くなったのは、もしやそれが原因なのだろうか。だからあの男が最近余計に「先に寝ておけ」と繰り返し言っていたのだとしたら、それはまた随分とお優しいことだ。
そんな気遣いを、私が本気で喜ぶと思っているのなら、とんだ思い違いである。やはり、『仕方の無い人』というよりも、『馬鹿な人』と言うべきな気がしてきた。
私はあの男にとって何なのか。いっそのこと、そう問い詰めてやりたくなってくる。思うだけで、実行に移せないのは、私の弱さだ。結婚してから、何故か余計に倍増した、この拭い去れない不安が私の足を踏み留まらせる。
あの男は何も言わない。私もまた、何も言わない。これでは結婚前と何も変わらないではないか。そんんな現状を打破する術が、この手には無い。
「エギエディルズ様は黒持ちですけれど、とてもお美しい御方ですもの。あのお可愛らしいルーナメリィ様と並ばれたら、さぞかし絵になられることでしょうね。フィリミナ様も、そう思われるでしょう?」
「…ええ、そうですわね」
他意などちっとも含まれていない友人の台詞に、一拍遅れて頷いた。全くその通りだ。誰に言われずとも、実際に目にしたから知っている。あのふたりが並ぶ姿は、本当に、絵物語のように絵になっていた。
あの光景は、きっと誰もが見惚れるに違いない。それは、あの男の妻である、私も含めて。
自分から話は振らず、ひたすら聞き手に徹しながら、この屋敷の侍女の煎れた紅茶を口に運ぶ。不味くはなく、むしろ充分美味しいものだ。だが、あの男の煎れる香草茶に慣れたこの舌には物足りなく感じてしまう。
困ったものである。あの男の存在は、私の心ばかりではなく実生活にまで慣れ親しんだものになっているのだから。
凪いだ紅茶の水面には、父譲りの仮面スマイルを浮かべた私の顔が映り込んでいる。化粧で塗り固めたその顔は、我ながらよくできたものだと思う。けれど、そろそろ化粧で隠すのも限界かもしれない。夜毎続く悪夢は日々酷くなり、顔色はそれにともなって悪くなっていく。おのれ、許すまじ睡眠不足。今朝はとうとう目の下に隈までできていた。
何種類ものおしろいを混ぜて塗り重ね、なんとか誤魔化しているものの、これ以上厚化粧をする訳にもいかないだろう。過ぎた化粧はお肌には悪影響を及ぼす。これまでの年単位のお手入れの成果を誇る地肌を、こんなことでふいにしてたまるものか。
「―――フィリミナ様はどう思われますの?」
「え?」
思考に割り込んできたその声に、俯き加減になっていた顔を上げる。友人達の視線が、気付けば私の元に全て集まっていた。
きょとりと瞳を瞬かせる私に、このお茶会の主催者であり、この中では最も長い付き合いになる御令嬢が、くすくすと涼やかな笑い声を上げる。
「嫌だわ、フィリミナ様ったらどうなさったの? エギエディルズ様と、ルーナメリィ様のことですわ」
「あ、ああ、申し訳ありません。ついお茶が美味しくて…」
「まあ、フィリミナ様にそう言って頂けるなんて。後で侍女を褒めておかなくてはなりませんわね」
彼女には、私が、自分でお茶を煎れることを知られている。本来の貴族の御令嬢であれば、彼女の言う通り、侍女にして貰うべき行為であり、一般的な貴族には顔を顰められる行為だが、彼女は笑って「美味しければそれでよろしいではありませんか」と言い放ってくれた御仁である。
所謂食い道楽である彼女にも認められた私のお茶の煎れ方は、あの男に仕込まれたようなものなのだから、この場においては皮肉なものだとも言えるのかもしれない。
大切な友人である彼女の問いかけに、顔に仮面スマイルを貼り付けて、口を開いた。
「お似合いの、お二方だと思いますわ」
私などよりも、もっと、ずっと。そう心の中で続けて、私は再び紅茶を口に運んだ。
***
私は、いつものように暗闇の中に居た。またか、と思わずにはいられない。いつしか慣れてしまった真黒は、私の存在そのものを塗りつぶして、決して浮かび上がれない暗闇の中に溶かし込もうとする。
悲痛な泣き声は変わらず耳朶を打ち、耳を塞ぐこともできないでいる私を侵していく。そう、そこまではいつもと同じだった。
『………?』
何かが、見えた。こんな暗闇の中では、何も見えるはずが無いというのに。それなのに私のこの目は、確かに何かを捕らえた。まるでそこだけ、スポットライトが当たっているかのように、ぽっかりと暗闇の中に浮かび上がる。それは。
『エ、ディ?』
どれだけ暗くても、どれだけ遠くても、見間違えることなど決してありえないその姿に、思わず呟いた。その呆然とした声音は、か細いながらも確かにこの暗闇を揺らした。続けて、どうして、と、音にならないまま唇が戦慄く。
どうして、あなたがここにいるの。ここは私の夢のはずだ。とびっきりの悪夢のはずだ。それなのにどうして、他ならぬあなたがここにいると言うのだろう。
艶めく漆黒の髪は周囲の澱みとは一線を画し、白皙の美貌は暗闇を払拭せんとばかりに輝いているようで。何より、その、暁光を掬い取ったかのような朝焼け色の瞳が、あまりにもうつくして。
ああ、と。ふいに泣き出したくなった。いいや、もしかしたらもう泣いているのかも知れない。こんな暗闇の中では、自分のことなのに解らない。ただ解るのは、この胸にどうしようもなく安堵が広がっていくことくらいなものだ。
見慣れきっているはずであり、側にいることが当然であるはずの男の存在を、こんなにも私は必要としていたのか。そんな自分を情けなくも思うけれど、それでも、ただただその存在が嬉しくて、嬉しくてたまらない。
暗闇の中、遠くに立つあの男の元へ駆け寄ろうとする。けれど足は思うようには動いてくれない。汚泥のような暗闇に捕まって、動こうとすればするほど、ずぶずぶと暗闇の中に沈んでいく。同時に、泣き声もまた大きくなっていく。あの男の存在が、遠退いていく。
待って。行かないで。そう言いたくて口を開けば、そこから暗闇が身体の中に入ってきた。苦しい。息ができない。ごぽり、と身体が沈んでいく。がむしゃらに手を伸ばせば、踵を返して去っていこうとした男の足がふと止まった。
気付いてくれたのか、と期待する私の横を、華やかなドレスの裾を翻して走っていく存在があった。
『エギエディルズ様!』
小鳥の囀りのような可愛らしい声音に、息を呑む。暗闇の中ですら輝くようなストロベリーブロンドの髪が、私の目に焼き付く。そんな私を余所に、彼女は満面の、花が咲き誇るような笑みを浮かべて、あの男の隣に並ぶ。それは正しく、“絵物語の絵のよう”で。
『―――――!』
がくん、と足が、階段を踏み外したかのように暗闇の中に沈む。苦しくて苦しくてたまらない。泣き声が聞こえてくる。このまま暗闇に、泣き声に、溺れ死んでしまいそうだ。身体が沈んでいく感覚だけが全身を支配する。泣き声がどんどん近付いてくる。聞き覚えのある、私が確かに知っている、誰よりも何よりも知っているはずのその泣き声。
泣かないで。泣かないで。お願いだからもう泣かないで。でなければ私の方が気が狂ってしまいそうだ。泣きたいのはこっちだ、なんて考えて、そんな自分に腹が立ってきて、それでも泣きたくて、泣けなくて。一体これはなんなんだ。泣くだなんて、そんなことは冗談じゃないと言うのに。
例えあの男が、私ではなく彼女を選んだのだとしても、私は泣いてなんかやらない。むしろあの白い顔に張り手をかまして「ごきげんよう、楽しい新婚生活でしたわ」とでも言ってやる、それくらいの気概を持っていたいのに。
そうだとも。私は、それくらい強くあらねばならない。こんな悪夢に惑わされている訳にはいかない。だってそうではないか。それくらいしなくては、私は、あの男の隣に立つことを許されな―――…
「…ッ?」
は、と。目が醒めた。
ぱちぱちと何度も瞬きして、現状を確認する。ここはどこで私は誰だ、なんて使い古された文句こそ使わないが、気分としてはそんな感じであった。
テーブルに突っ伏していた顔をのろのろと持ち上げて、窓から差し込む薄い日の光に僅かに目を細める。私の下敷きになっていた本…すなわち魔導書の存在に、ようやく現状を思い出す。
そうだった。私はこの国立図書館の一席で、魔導書を読んでいたのだった。今日はとてもいい天気で、相変わらず進展の無い魔導書あさりにもそろそろ飽いてきていた私は、窓から差し込んでくる僅かながらも柔らかな日差しについ気が抜けて、居眠りしてしまったらしい。
窓からの西日の色は既に橙色になっていて、随分と長く居眠りしてしまっていたことに気付かされる。世間一般の基準からすれば、夕食の準備を始めるべき時間と言ったところか。
こんなちょっとした居眠りでも悪夢を見るようになってしまったのはいつからだったのか、正確には覚えてはいない。けれど悪夢は少しずつ、確かに、私の日常を侵していく。しかも先程の悪夢は、今までになく気が滅入るものだった。
いつもの悪夢であれば暗闇と泣き声だけで済んでいたというのに、先程のあれは一体どうしたものだろう。暗闇と泣き声という曖昧な悪夢よりも、よっぽど具体的で―――まあ、有り体に言えば、ショック、という一言に尽きる夢は、やはり悪夢と評して差し支えない。
自分で想定していた以上に、あの光景に傷ついている自分に、正直驚かずにはいられない。これは、本格的に気が弱くなっているようだ。ふとした拍子に、足元ががらがらと崩れ落ちていってしまいそうな、そんな不安が胸を占める。
ちっとも遠退く気配の無い悪夢は、気を抜いたら二度と目が醒めなくなってしまいそうな気すら最近してきた。
悪夢を見始めて、この国立図書館に通い始めてそれなりの日々が経過している。それに伴って、読んできた魔導書の数もまたそれなりの冊数になった。だというのに、打開策は一向に見つかる気配がないということもまた、その不安に拍車をかけている。
おそらくではあるが、この悪夢は、呪いの類いになるのだろう。そこまでは何とか漕ぎつけている。というか、考えずとも解るだろうそれくらい、と自分で自分に突っ込みを入れたい。素人のくせに下手に考えすぎるからこんがらがるのだ。私の精神力をガリガリと削り取っていってくれやがり、今日に至っては削るを通り越して抉り取っていってくれやがった悪夢を、呪いと表さずして何と言う。
となれば、これは魔法の中でも、魔族との契約による闇魔法の可能性が高い。魔族そのものを厭うこの国では、禁じられている魔法こそが、闇魔法と呼ばれる魔法だ。それはすなわち、呪いである。霊魔法の可能性も無きにしも非ずだが、私の場合、この背の傷故に、精霊が関わる魔法は大抵弾いてしまうらしく、おそらくその線は無いと言っていいだろう。
よって、闇魔法による呪いという可能性が最も高いのである。だがしかし、自分で言うのも難であるが、慎ましやかに生きてきたつもりのこの身、呪われる謂れは無いはずなのだが。知らぬ内に誰かの恨みを買うような真似をしてしまったのだろうか、と首を傾げ―――って、ちょっと待った。
はたと気付いて、下敷きにしてしまっていた魔導書を確認する。…良かった。涎は垂れていない。丈夫な作りの魔導書には折れ目もついておらず、ほっと息を吐く。貴重な魔導書を、居眠りで使えなくしてしまったなどと言ったら、魔導書司官の娘の名が廃るどころの話では無い。
しかもこれは数少ない、闇魔法について僅かながらも言及されている魔導書である。もっと深く言及している魔導書は当然の如く一般には公開されていないので、私が読めるのはこれくらいなものなのだ。
とりあえず魔導書が無事であることを確認し、ああ良かったと安堵する。そして、深く溜息を吐いた。
やはり誰かに相談すべきではないか、と、頭の中で冷静な私がそう囁く。魔法使いでもなんでもない私ができることなど限られており、その限られたことすらでは結局どうすることもできないのが現状だ。専門職に任せるのが一番であるということくらい解っている。
“恐ろしい夢を見る”。たったそれだけのことがこんなにも辛いことだなんて思いもしなかった。瞼を閉じれば鮮明に蘇る暗闇と泣き声。そして今日、新たに加わった、あのふたりの並ぶ、絵のような姿。あの光景を悪夢と呼ぶなんて、きっと烏滸がましいことなのだろう。それでも私にとっては見ているのが辛い光景だった。耳ばかりまでなく目まで塞いでしまいたいと、本気でそう思った。
「本当に、困ったこと」
いいや、実際には『困った』どころでは済まされないのだが、それでもそう表現することで誤魔化そうとしている自分に苦笑する。本当に、『困ったこと』だ。
さて、そろそろ帰宅の時間だ。今夜のメニューは野菜たっぷりのシチューにしよう。眠れない分、食べ物でお肌をキープするのだ。
そうと決めれば話は早い。帰りに市場に寄って材料を買うことにする。
机に突っ伏していたために凝り固まっていた身体をほぐそうと腕を動かすと、肩から何かが滑り落ちていこうとするのを感じた。反射的に、それが床に落ちる寸前に掴みとる。その柔らかな感触に、思わず目を見開いた。
「これは…」
見間違えようのない、黒のローブ。黒蓮宮の魔法使いの証であるローブが、何故私の肩にかけられているのだろう。これは一体誰のものだ。
んんん?とローブを持ったまま首を傾げていると、こちらに誰かが近付いてくる気配があった。
「起きたのか、シュゼット」
「まあ、セルヴェス様」
何冊かの魔導書を片手に、こちらをその紺碧の瞳で見遣ってくる青年に、つい瞳を瞬かせた。
何故ここに、と問いかけるのは今更だろう。ここは国立図書館で、黒蓮宮に勤める魔法使いである彼が居ることに何の不思議もなく、このテーブルで私達は幾度となく顔を合わせてきたのだから。
敢えてこの場で疑問を呈するのならば、私の手の中にある、この黒のローブについてだ。セルヴェス青年は、いつも着ているローブを着ていない。それが何を意味するかということくらい、すぐに解った。
「このローブ、お返し致します。ありがとうございました」
「礼を言われる程のことじゃない。ここでお前に風邪でも引かれたら、僕の寝覚めが悪いだろう」
椅子から立ち上がってローブを差し出す私に対するセルヴェス青年の答えは、そっけないものだった。見た目はいいのだから、もう少し愛想を持てば、さぞかしおモテになるに違いないだろうに、この反応。
私の手からローブを受け取った彼は、彼の定位置である、私の正面の席に腰を下ろして魔導書をテーブルの上に置く。私には手が届かない、上級魔導書だ。そのまま無言でそれを読み始めるセルヴェス青年に、つい笑みが零れた。
言い振りこそ突き放したようなものだが、これが彼らしさなのだろう。その不器用な優しさは、どこかあの男を思わせる。
「…何がおかしい」
「いいえ。何でもありませんわ」
むっとしたように眇められる紺碧の瞳に、笑って首を振る。「『かわいらしいこと』なんて思っていました」なんて言えるはずもない。青年の胡乱気な視線に気付かないふりをしながら、テーブルの上に広げていた魔導書を片付ける。重量のあるそれらを重ねて抱え上げ、セルヴェス青年に頭を下げた。
「それでは、わたくしはこれで失礼致しますわ。ごきげんよ…」
「シュゼット」
「はい?」
踵を返して今にも歩き出そうとしていた足を止めて振り返ると、紺碧の瞳が、真剣な光を宿して私を見つめていた。何か用があるのだろうかと首を傾げると、青年は一瞬の逡巡の後、その口を開いた。
「まさかとは思うが、間違っても闇魔法に手を出そうなどとは思うなよ。確かに闇魔法は魔力が無くても魔法が使えるようになるが、それは、相応の対価を支払ってこそのものなのだからな」
「…!」
予想外の台詞だった。闇魔法は、確かにセルヴェス青年の言う通り、個人としての魔力が無くとも魔法が使えるようになるものだと、先程まで読んでいた魔導書に載っていた。対価を支払う代わりに、魔族の魔力を借りる魔法だと。そんないかがわしい魔法に、私が手を出すと思われていたのならそれは心外だ。
とは言え、セルヴェス青年は、私が魔法使いになりたがっているのだと思っている。その私が、この腕の中の、闇魔法にまつわる魔導書を読んでいるのを見れば、闇魔法に手を出そうとしているのだと考えられても不思議ではない。その上で「手を出すな」なんていう忠告は、随分とご親切なものである。
ついまじまじとセルヴェス青年の顔を見つめると、さっと目を返された。あ、これはあの男とは違うな。そう頭の片隅で思う。あの男だったら、何だと言わんばかりに見つめ返してくるに違いないから。
あんな悪夢を見た後でさえ、あの男のことを連想してしまう自分に呆れるしかない。これが惚れた弱みだとか言う奴なら、非常に悔しくてならない。あの男も、これくらい、私のことを想ってくれていたらいいのに、なんて、らしくもなく乙女チックなことを考えながら、私は笑った。
ぎろりと睨みつけてくる紺碧の瞳に、私の、仮面スマイルではない笑顔が写り込んでいる。
「セルヴェス様は、本当にお優しいのですね」
「な…っ!」
素直では無いその優しさはあの男と似ているけれど、あの男よりも解りやすい分、余計に可愛らしく思えてしまう。実際に口に出してしまったら、怒らせてしまうに違いないから、やはりこの感想は、内心に留めておくことにする。
セルヴェス青年が、私の台詞に言葉を詰まらせているのをいいことに、魔導書を抱えたまま軽く膝を折って一礼する。
「御心配には及びません。御忠告、痛み入りますわ」
確かにここまで来ると、いっそ闇魔法に手を出すのもアリかもしれないと思ってしまいそうになるが、悪夢の原因もはっきりしない状態で、余計にややこしくなりそうなことなどできるはずがない。魔法は安心・安全をモットーにして行使されるべきであるということを、私は九歳の時に思い知らされている。文字通り、痛い程。
そもそも、悪夢の原因として最も疑わしいのが、その闇魔法なのだ。魔王が滅せられ、魔族は確かに弱体化したが、それでも一般人にとってはまだまだ脅威の存在である。一般ピーポーのこの私風情に御せる存在だとは到底思えない。
そう考えるとやはり、専門家の意見を聞くべきだという結論に行きついてしまうのであるが、そこはそれ、とりあえず今は脇に置いておくことにする。そうすべきだろうと思う理由が、目の前の青年だった。
「わたくしよりも、セルヴェス様。どうかご体調にはお気をつけてくださいまし」
以前ここで会った時も思ったが、相も変わらず彼の顔色はよろしくない。顔色の悪さに関しては、私も人のことを言えた義理ではないが、青年のそれは、私よりも悪いもののように見えた。せっかくの端正な面立ちも、ここまで生気が薄いと、魅力が半減してしまう。なんて勿体ない。
彼の周囲の人間は気付かないのだろうか。ローネイン家の家人は一体何をしているのだか。主に対して休息を進言するくらい、罰は当たらないと思うのだけど。それとも、セルヴェス青年自身がそれを拒絶しているのか。どちらにしろ、彼の、お世辞にもいいとは言い難い顔色は、私が一言物申したくくらいのものだと、ご理解いただけただろうか。
セルヴェス青年は、以前私が進言した時と同様に目を見開いて、そして、遅れて頷いた。言葉は無かったけれど、それが彼にとっての精一杯のように見えた。私自身、そんな彼にこれ以上何かを言うことなどできずに、再び頭を下げてその場を辞した。
そして私は、魔導書を元の本棚に戻し、乗合の馬車に乗って市場へと向かった。
適当に野菜と肉を見繕い、帰宅の途に就く。馬車にしばらく馬車に揺られていると、再び睡魔が襲ってくるが、なんとかそれを回避して、自宅である屋敷の近くで馬車から降りる。
居眠りしていた分、いつもよりも帰りが遅くなってしまった。早く夕食を作らなくては。いやでも、どうせあの男は今夜も帰りが遅いことだろうし、そう焦ることも無いか。
そう思いながら到着した屋敷の扉に鍵を差し込んで、その予想外の感触に、思わず首を傾げた。
「あら?」
鍵が開いている。朝あの男を送り出して、その後に出た時には、ちゃんと鍵は閉めたつもりであったというのに。
まさか泥棒か、という嫌な考えが頭を過ぎる。そんな、目ぼしい物などそうそうこの屋敷には置いていないはずなのだが。いやでも、諸々の家具は、先代の主の御方の御趣味により、アンティークで揃えられているし、よもやその辺りを狙ってきたのかもしれない。
「………」
どうしよう。迂闊に扉を開けるのが怖くなってきた。いっそここで回れ右をしたくなるが、そうも言っていられないだろう。腕の中の、食材の詰まった袋を抱え直し、ごくりと唾液を飲みこむ。
ここで悩んでいても仕方がない。ノブに手をかけて、ゆっくりと扉を引く。キィ、と軽く音を立てて開く扉に、まるでホラー映画の主人公にでもなったような気分で、慎重に身体を館の中へ滑り込ませる。人の気配を察知して灯る魔宝石が、ぽっと明るく室内を照らし出す。
見回した限り、ひとまず館が荒らされた形跡は無い。ほっと無意識に吐息を漏らした、その時だった。
「フィリミナ」
「ッ!?」
突然頭上から降ってきた声音に、反射的に姿勢を正した。こう、ビシィッと背筋を伸ばす感じである。聞き覚えのありすぎる声音に、その声の出所である頭上を見上げると、螺旋階段の上に、我が夫たるあの男が立っていた。それも、何とも不穏な空気を、その身に纏って。
なんだ、一体何があった。訝しまずにはいられない。そもそも、どうしてここに居る。いや、この館は男の家でもあるのだから、居ても何ら不思議なことは無いのだけれども。正確に言うのであれば、何故この時間にここに居る、と言うのが正しいのか。
何であるにしろ、男が帰宅したのならば、私の言うことは決まっている。
「エディ、お帰りなさいまし」
「それは俺の台詞だ」
「あら、そういえばそうですわね。ただいま帰りましたわ」
「………お帰り」
確かに、男の方が先に帰宅していたのだから、ただいまを言うべきは私の方だ。いつもとは逆のやり取りを新鮮で、つい笑ってしまいそうになるけれど、それはできない。男から発せられる空気が、笑うことを憚らせる。
これはどうしたものか、と男の出方を窺っていると、男は螺旋階段を降りてきて、私の前に立った。
「話がある」
淡々とした短い台詞だが、そこに込められた強固な意志は、簡単に読み取ることができた。
第六感が働いた、とでも言うのだろうか。何やら嫌な予感がして、私は渾身の笑顔を浮かべて、男を見上げた。
「その前に食事にしましょう。すぐに作りますから」
「別に後で構わな…」
「せっかくこの時間に帰ってきてくださったのですもの。たまにはゆっくりとした夕食にしませんか?」
皆まで言わせず畳み掛けると、男は紡ごうとしていた言葉を飲みこんで、私を見下ろした。ふふん、いつもいつもいつもいつもいつも夜遅くにしか帰ってこない男には、何も言えまい。というか、言わせるものか。
私が暗に込めた意図に気付かないほど鈍くは無い男は、その美貌に渋い表情を浮かべて、いかにも不承不承といった呈で頷いた。うむ、素直で大変よろしい。その分後が恐ろしいが、今だけは私の勝利である。
駄目押しのようにもう一度笑いかけ、男の横を通り過ぎて炊事場へと向かう。物言いたげな視線が背中にぐさぐさと矢の如く鋭く突き刺さってきたが、無視だ無視。ここで振り向いたら私の負けになってしまう。
ほだされてなるものか、と自分に言い聞かせながら、辿り着いた炊事場で、市で購入してきた食材を広げた。
本日のメニューは、図書館で決めた通り、シチューである。材料もそのために買ってきたものだ。
ドレスの袖口を捲り上げ、さて、と気合を入れ、手早く調理を開始する。シチューに欠かせないハーブは、常備してあるあの男の薬草園のもの。香草茶ばかりでなく、こんなところにも、あの男の息がかかっている。改めて鑑みるに、それは嬉しいというか、照れくさいというか、ぶっちゃけ悔しいというか。あの男の存在が私という存在を形作っていくようで、なんだか恐ろしくもある。『あのひと無しでは生きていけないの』なんてとんだ恋愛脳の台詞など、冗談でもごめんである。
鍋の前に立ち、シチューが焦げ付かないように木べらでゆっくりとかき混ぜる。たっぷりとシチューで満たされた鍋は、くつくつ、ことこと、と、優しい音を立てている。そう、こういう音なら好いのだ。悪夢の中でひたすらに聞こえてくる泣き声とは全く違う、温かな音。
耳を澄ましてそれを聞いていると、ふと瞼が重くなってきた。瞼の裏の暗闇が、より深い真黒に染まっていく。鍋の音は、気付けば聞こえなくなっていた。代わりに聞こえてくるのは、やはりあの泣き声だ。
絶望と悲嘆に暮れた泣き声。何かを訴えかけてきているようだけれども、何を言っているのかまでは聞き取れない。ただ私は、目の前の光景を眺めていることしかできない。あの男と、花の精のような美少女が、並んでいる、その姿を―――…
「…い、おい、フィリミナ」
間近で聞こえてきた声に、ぱちりと目を開ける。間近でこちらを覗き込んできている朝焼け色の瞳に、はくり、と音無く息を飲んだ。
「………は、い? どうなさいましたか、エディ」
「どうもこうも無い。鍋が焦げているようだが、いいのか?」
「えっ!」
いつのまにやら隣にやってきていた男の台詞に、慌てて手元を見遣る。シチューは見事に焦げ付いていて、香ばしい匂いが鼻孔を擽ってくるのがなんとも物哀しい。意識が飛んでいたのは、ほんの瞬きの間であったはずなのに、これは一体どうしたことか。
呆然と固まる私の横で、男は指を鳴らして、『前』の世界で言うコンロ代わりの魔宝石の火を消した。そのままじろりと見下ろされて、私は肩を落として目を伏せる。
「あの、エディ。申し訳ありません。もう一度作り直しますから」
何たる失態だろう。家事にはそれなりに自信を持っていたのに、こんな初歩的なミスを犯してしまうなんて。
脳裏に焼き付いた光景から目を逸らしながらそう言うと、男は怒るでもなく首を振った。
「いや、これでいい。後は俺がやるから、お前はテーブルに行っていろ」
「ですが」
「俺は、これ『が』いいと言っているんだ」
「…はい」
とりつく島も無かった。すっぱりはっきりと切り捨てられ、頷くことしかできない。やらかしてしまった手前、できるのはすごすごと引き下がることだけだ。
男と立ち位置を交代して、食器棚からスプーンとフォークを持ち出し、食卓であるテーブルの席についてしばらく待つ。やがて、トレーの上にシチュー皿を乗せて、男がやってきた。
目の前に置かれたのは、焦げ付いた部分を避けて掬い上げられたシチューである。白い湯気を立ち上らせるそれは、これだけ見た限りでは、焦げてしまったものだとは思わないだろう。
器用な真似をするものだと感心している私の正面の椅子に、男が座る。そして男が両手を組むのに合わせて、私もまた同様に両手を組み、祈りのポーズを取る。
「いと高きところにあらせられる女神の恩恵に感謝を」
「感謝を」
男の口上に続いて祈りの言葉を呟いて、スプーンを手に取り、シチューを口に運んだ。焦げ付かせてしまった割にはまともな味だ。それもこの男が器用に掬い上げてくれたおかげだと思うと、少々複雑な気持ちになるが、仕方がない。自業自得と言うやつだ。
昼間といい、先程といい、今日は随分と調子が悪い。あまり認めたくはないが、悪夢は確実に悪化したと言えるだろう。こうなればもう、自分でなんとかするなどという無謀な真似は諦めて、目の前にいるこの男に全て吐き出してしまうべきなのではないかと思えてくる。
けれどもしも、もしもあの悪夢が正夢なのだとしたら。噂通り、ルーナメリィ嬢と親密な関係になっているのだとしたら。だとすれば、私は―――私は、どうすると言うのだろう。どうすれば、いいのだろう。
「フィリミナ」
「…何でしょう?」
互いに無言のままシチューを口に運んでいた中で、先に口を開いたのは、男の方だった。何となく目を合わせられなくて、シチュー皿に視線を落としたまま問い返すと、やはり淡々とした声で、男は続けた。
「お前、俺に隠していることがあるだろう」
それは問いかけではなく、確信を持った確認だった。思わずスプーンを動かす手を止める。シチュー皿から顔を上げると、朝焼け色の瞳が、案の定真っ直ぐに私を見つめていた。目を逸らすことなど許してくれそうにないその視線に貫かれ、どうしていいのか解らなくなる。
「…何のことでしょうか?」
もう少しうまいとぼけ方もあっただろうに、私の口から出たのはこんな台詞だった。まずい。非常にまずい。いや、シチューの味はまずくない。何がまずいって、この現状がだ。
この男に隠していることは、悪夢のことと、図書館に通っていること。どちらも、こんなところでばれる訳にはいかない、私のトップシークレットである。
男のこの様子では、何かしら証拠を掴んだ上で、私に問いかけてきているのだろう。
「今日、何処へ行っていた?」
だからこんな風に、確信をついた質問を、私にぶつけてきているに違いない。男の朝焼け色の瞳は、今はさながら獲物を前にした猛禽類の如く鋭く、普通の貴族のお嬢様であれば卒倒してしまうだろう。
これは、逃げられない。逃げようと下手に足掻いても墓穴を掘るだけだ。それが解る。解ってしまう。付き合いが長いというのも考えものだと内心で舌打ちせずにはいられない。
「………国立図書館へ」
「ほう? 一人でか?」
「何が仰りたいのです?」
ぼそぼそと呟くように答えれば、明らかに含むものを込めて問いかけが重ねられた。逆に問い返すと、男はふと笑みを浮かべる。
普段滅多に…本当に、滅多なことでは笑わない男の、その笑み。久々に目にしたそれは、やはり至極美しい。だがしかし、そこに込められている感情は、お世辞にも喜や楽と呼べる感情などではなく、むしろ怒りを感じさせるものだ。
つぅ、と背筋を冷たいものが走っていくのを感じる。これは、想定以上にまずい状況かもしれない。
冷や汗をかきまくりつつもなんとか表情を取り繕っている私に、男は美しいからこそ余計にうすら寒くなるような笑顔を浮かべている。これは、やばい。
「今日、ウィドニコルが図書館でお前を見たと言っていた」
「まあ。声を掛けてくださればよろしかったのに」
この男の弟子であるウィドニコル少年は、師であるこの男とは似ても似つかない素直な良い子だ。願わくばそのまま道を踏み外さずにいてほしいものだと常々思っている少年だが、その彼にとうとう見つかってしまったか。
これまで見つからずに済んでいたのは、運が良かっただけだ。いつか見つかってしまうだろうとは思っていたが、とうとうその日が来たということだろう。
だが、それで、どうしてここまでこの男が不機嫌になるのかが解らない。確かに黙って図書館に通っていたことは悪いとは思うが、図書館に行くことそのものを咎められる筋合いはない。何せ図書館には、魔導書のみならず、国中の様々なジャンルの図書が集められているのだから。姿を見られただけであれば、魔導書に手を出していたというところまでは流石に知られていないはずだろう。もしもウィドニコル少年に話しかけられていたらばれていたかもしれないが、一応今のところはセーフなはずだ。が、しかし。
「掛けようにも掛けられなかったんだと。お前が、ローネインと一緒に居たからな」
ローネイン、という名に、目を瞬かせる。よりにもよってそこを目撃したのか、ウィドニコル少年よ。
今日セルヴェス・シン・ローネイン青年とまともに顔を合わせていた時間は、大したものではない。そんなところを目撃されたとは、タイミングが悪いにも程がある。
いや、別に密会だとかそういうものの類いではないのだが、この男の口からそれを指摘されると、なんとも居心地が悪い。
「…お知り合いでしたの?」
「魔法学院の同期だ。もっとも、同期だったのはせいぜい一年にも満たない程度だが」
何でも無いことのように言う男に、頷きを返すことしかできない。飛び級に飛び級を重ねて魔法学院を卒業してきたのがこの男である。その中で、黒蓮宮に勤めるだけの実力を持ったセルヴェス青年と知り合いになったとしても何ら不思議では無い。相性は、果てしなく悪そうだが。セルヴェス青年の名前を不快そうに口にしたのが、いい証拠だ。
そんな彼がどうかしたのかと視線で問いかけると、男は笑みを消した。解らないのか、とでも言いたげなその表情に、私としては戸惑うしかない。
「もうあの男には会うなよ」
「…とは、言われましても……」
「何だ」
何だも何も無い。セルヴェス青年と顔を合わせてきたのは、これまでのどれもが偶然のことに過ぎず、特に約束を交わしてきた訳でも無いのだから。『会うな』と言われてもそう簡単に実行に移せるものではない。
そもそも、確かにこの男は私の夫だけれども、私の交友関係にまで口を出す権利は、この男には無いのではないだろうか。
苛立たしげにこちらを見つめてくる朝焼け色の瞳。橙から紫に移り変わる不可思議な色彩のその瞳は、私にとって宝物のようなものだけれど、今ばかりはなんだか癪に障る。だってそうではないか。
「エディだって」
「なんだ」
「エディだって、ルナ様といつも一緒にいらっしゃるそうではありませんか」
この男とルーナメリィ嬢の噂は、収束に向かうどころか、ますますの信憑性をもって、否が応にも私の耳に日々届けられている。
皆、暇なのか。魔王が居た頃は不穏な噂ばかりだったから、それを思えば随分平和になったものだと思うが、猫も杓子もその話題ばかりでいい加減辟易してきた。もうお腹いっぱいである。
この男の妻の座に座っているのは、確かに私であるはずだ。けれど、ここまで来るともう、そこに居座り続けること自体が馬鹿らしく思えてくる。今の状況では、この男の妻が私である必要性など、どこにもないのだから。
私の台詞に、朝焼け色の瞳が驚いた様に見開かれる。意外なことを言われた、と言葉にされずともその瞳が雄弁に物語っていた。私が噂を知らないとでも思っていたのかこの鈍感めが。
脳裏に浮かぶ、この男とルーナメリィ嬢の立ち姿。今までどんなご令嬢に擦り寄られてきても、すげなくしてきたこの男が、自らの空間である研究室に入ることを許したのが、ルーナメリィ嬢。それは彼女の家柄故か。いいや、権力になど端から興味を示さない男だ、それは無いだろう。この男が私の知る男であるのなら、そのはずだ。
それとも、この男は変わったのだろうか。変わってしまったのだろうか。誰よりも傍に居るつもりでいた私の、知らない内に。私の手の届かないところに行ってしまったのだろうか。あの悪夢のように。
ああ、泣き声が聞こえる。
「フィリミナ…?」
「あなたはずるいです」
止まない泣き声の中でも、紡ぐ言葉は震えなかった。我ながら可愛げのないものだ。そして、その内容もまた、可愛げの欠片も無いもので。
「肝心なことは何一つ仰ってくださらないくせに、こういう時ばかり口出しするのですか」
違う。違うのだ。こんなことを言いたい訳ではない。もっと冷静に、いつものように笑って流してしまえばいいのに。そうすべきだと解っているのに、この口は止まってくれない。
男は言葉も無く、ただ私を見つめている。その朝焼け色の瞳に映る私の顔は、我ながら酷いものだった。笑おうとしようと失敗して、そのくせ泣き出すこともできないでいる、その歪な表情が、この男に見られているのかと思うとぞっとする。こんな顔、見せたくなんてなかった。
ともすれば溢れ出しそうになる数々の言葉を必死で飲みこむ。泣き声が煩くてたまらない。
「わたくしは、ただ」
私は、ただ。
『ただ』、何だと言うのだろう。解らない。頭の中で、心の中で反響する泣き声が、私から思考を奪い、言葉すらも飲みこんでかき消していく。
手からスプーンが滑り落ちた。そして世界が傾いて、どんどん暗くなっていく。
「フィリミナッ!?」
止まぬ泣き声の中、私の名前を呼ぶあの男の声だけが、やけに鮮明に聞こえた。それを最後に、私の意識は、深い闇の中に落とされていった。




