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魔法使いの婚約者  作者: 中村朱里
おまけ

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      (3)

屋敷の廊下を歩きながら、考える。


毎夜のように続く悪夢。気のせいだとか偶然だとか、そう言い切るだけの根拠には欠けるほどに酷いとびきりの悪夢の内容は、いつも同じだ。止むことのない泣き声に、そのまま夢の中に閉じ込められてしまいそうになる。なんだかだんだん近づいて来ているようにも思えるから余計に気が滅入る。どんなホラーだ。

リラックス効果のあるあの男特製の香草茶を飲んだり、夜眠れない分昼間にやってくる眠気を我慢したりしているものの、それでも眠りは浅く、悪夢は繰り返し私を蝕む。

そこに、『何かある』と思えるほど、私は特別な人間ではない。悪い魔法だとか呪いだとか、そういう類なのだろうと見当をつけてはみるけれども、そこに自信などこれっぽっちもない。そういうのをかけられるべきポジションは、ヒロインだろう。一介のモブたる私にそんな御大層なものをかけてどうするというのだ。いや、あの男の妻となった時点で一階にモブとは言い難くなったのか? それは解らないが、どうであるにしろ、このままの状態を続けるわけにはいかないのは事実であり、私に思いつくのはその呪いの類のことくらいしかない訳で。

だからこそ私は何か自分から対処を取らねばならない。


とは言え、“何らかの対処”と言ってはみても、実際の話、何から何をどう始めていいものなのやらさっぱり解らない状態であることは否めない。

このような場合は、専門職に相談するのが一番なのであろうが、現在一番身近なその専門職であるあの男…我が夫殿は、私が一番この事態を知られたくない相手である。よって問答無用で却下だ。下手にばれたら、また過剰に心配させてしまう。あの男は、なりふり構わず私のことを優先させてしまいかねない。誰であろうと、自分のことであろうとないがしろにして。それは避けたいことだ。

何故言わなかったのかと、後々ばれた際に面倒なことになるかもしれないが、それ以上に、今ばれることの方が厄介だろう。要はばれなければいいのだ、ばれなければ。


あの男を論外とするならば、同じく魔法使いであるランセントのおじ様、もとい、お義父様か。

そう考えて、すぐにその考えも却下する。お義父様は駄目だ。確かにあの方は黒混じりの灰髪を持つ優秀な魔法使いであり、このような事態への対処にも造詣が深くていらっしゃるかもしれないが、お義父様に伝えた場合、最終的にあの男にまで情報が漏れる可能性が大いにある。あの方は昔から私に甘く、私が頼めば秘密裏にこの件について事を進めてくれるかもしれないが、もしもあの男に怪しまれて問い詰められた場合、口を割ってしまいかねないのだ。お義父様は、当然のことではあるが、私よりもあの男に甘い。

そのことについては、若干どころでなくあの男が羨ましく、いつであったか、実際にそれを口にしたところ、あの男にはその美貌の上に非常に複雑そうな表情を浮かべられた。

あの男は、お義父様や姫様についついうっとりしてしまう私について、色々もの申したいものがあるらしいが、今のところまだ何も言われていない。どちらも素敵な御方達で、もの申すことなど無いのだからそれも当然か。

……話は逸れたが、まあとにかく、お義父上も却下となることは間違いはない。


では、義理の父上ではなく、実家にいる実の父上だったらどうだろうか。

魔導書司官の位に座す父は、その辺の魔法使い達よりも余程知識量が多い。『生きる移動図書館』だなどと、ランセントのお義父様に揶揄される程度にはその知識量は半端なく、それを踏まえれば、何か得られる可能性も高い。

だが、だがしかしだ。あの男と同様に、私に対して過保護な一面を持つ父だ。あれこれ理由を付けられて、「だったら実家に帰ってきなさい」とまで言われてしまう気がする。我が父は、『前』の分の『私』を含めた年齢の私から見ても少々どころでなく狸親父である節があるので、一度実家に戻ったが最後、なかなかこちらの屋敷に戻ってこさせて貰えなくなるような気がしてならない。

父のことは普通に好きだし普通に尊敬しているが、鬱陶しいと思わなくもないこともまた事実である。


で、残るは、現在魔導書司官次席の座を目指して現在絶賛修行中の弟のフェルナンだが、これは父と同様の理由で、却下だろう。

むしろ若い分、父以上に過剰に反応した挙げ句、「貴方がついていながらどういうことなのですか?」と、あの男に食って掛かりかねない。

ここまでくると自慢にもならないが、それくらいには好かれている自覚がある。弟がそんな真似をしたら、せっかくあの男にだけはばれないようにとしていた目論見が滅茶苦茶だ。はい、これで、最後の藁もぶっちぎれた。と、なるとだ。


「…やはり、自分でまずは調べてみることからしかなさそうね……」


この屋敷にあの男と共に越してきてから、独り言は癖になりつつある。多くの使用人を抱える屋敷の女主人ならいざ知らず、この二人で暮らすには充分すぎる屋敷に私ひとりでは、何をどう呟こうとも、誰にも聞きとがめられないせいだろうか。

うっかり変なときに呟かないようにしなくてはと思いつつ、ようやく辿り着いた衣装部屋に入り、そこから外出用のロングドレスコートを取り出して羽織る。以前に母が見立ててくれたドレスコートは、物持ちが良く、数年経った今でも充分使える優秀なものだ。新しいものを仕立てていいのだと母も乳母も言うが、それはこれが駄目になった時で十分だ。


さて、時間も頃合いだし、このまま行動に移すとしよう。


誰に見送られることもなくひとり屋敷を出て、大通りまで出てから乗合の馬車に乗る。

あの男は毎朝組合から馬車を屋敷にやってくれるよう頼んでいるが、毎日出かける訳でもない私は、こうして大通りまで出て『前』でいうタクシーやバスのごとく、馬車を拾うのである。

そもそも、それなりの貴族であれば専属の馬車がいてもおかしくはないのであるが、これもまた諸々の理由により、我が屋敷にはいない。英雄の内の一人の専属の馬車など誰もが手を上げたがるポジションかと思えば、実際はそうでもない。あの男の場合は特にだ。

魔王が倒されたとは言え、それで『黒』という色彩に対する畏怖と嫌悪が完全に拭い去られるかと言えば答えは否である。そういう認識は既に根深くこの世界に染み着いていて、もうどうしようもないのだということを私は既に思い知らされている。馬鹿げたことだと言い切ってしまうことはできない。それがこの世界であり、だからこそのこの背の傷痕なのだから。本当に、悔しいことだが。

誰もが、多かれ少なかれ、黒という色彩に反応してしまう。当然その例外もいるとはいえ、それでも、そんなのはごく一部だ。私とて、『前』の『私』がいなかったら、どうなっていたか解らない。

その時の私は、あの男を恐れたのだろうか。嫌ったのだろうか。今の私は『私』あっての私なのだから、所詮それらはもしかしての話にすぎないのだけれど。


そして、そんなことをとりとめもなく考えつつ、ガタゴトと揺られることしばし。やがて馬車は、とある建物の前で止まった。

見上げれば、視界一杯に聳える白亜の宮殿。

王族の皆様が住まい、この国を動かす重鎮や執務官、この国を守る魔法使いや騎士が集まる場所。

我が国が誇る、国の中枢である。


私が向かうのは、その一角にある、一般にも公開されている国立図書館だ。当然のごとくこの国随一の蔵書量を持つ図書館であり、幼い頃から父に連れられて何度も足を踏み入れたことのある場所である。

細かな彫刻が美しい、既に飴色となった大きな扉の前で、父を保証人として発行して貰った許可証を見せて、いつものように中へと足を踏み入れる。途端に、図書館特有の紙とインクの匂いが鼻を擽った。ここは、何年経っても、いついかなる時であっても、変わらないしじまに満ちている。


「さて、と」


そのしじまを乱さない程度に呟いて、私は一目散に魔導書の類の本が並ぶ書棚へと足を向けた。ドレスコートを近くの椅子にかけ、早速書棚を物色する。その付近にいるのは、明らかに魔法使いである人や、呪い師らしき人、おそらくは魔法学院に入学するために勉強している人、などである。性別も年齢も様々であるが、唯一共通点がある。それは、彼や彼女達の髪が皆、どことなしに黒に近い髪色…例えば灰色であったり、薄墨色であったり、黒味がかった銀色であったり、鈍色であったり、或いは、黒に近くなくとも、一部にほんの僅かながらも黒ないし黒に近い色の髪が髪の中に混ざっていたり、毛先や根元の部分だけがそのような色であったりすることだろう。おかげで、この一角だけ、一見した印象が妙に黒い。

しかしまあ、こう集まっているところを一度に見ると、ランセントのお義父上やあの男の弟子である少年は、随分と黒に近い髪色だと言える。そして、それ以上に黒に近い、というか、黒そのものであるあの男の髪は、やはり希有なるものなのだろうと思いつつ、目の前に並ぶ本の背表紙に視線を滑らせていく。


そんな中、大っぴらにでこそ無いものの、ちらほらとあちこちから視線を感じるのは、決して私の気のせいではない。魔力を持っていなくとも魔法に憧れる輩はおり、私以外にも黒持ちではない人はちらほらといるけれど、その中でも

、この地味なドレスでは貴族にすら見えないであろうこの私が、こんなところで本を探しているというのは、魔力を持つ彼らからしてみれば異様なことなのだろう。どこのお上りさんだ、とでも思われているのかも知れない。これは早いところよさそうな本を見繕って、適当な場所を確保してそこで呼んでいる方が良さそうだ。また以前のように、下手に絡まれるのはごめん被る。


元々目星を付けておいたそれらしき本を何冊か選び出し、椅子にかけておいたドレスコートをとって、窓際に設置された小さな数人用のテーブルスペースに陣取った。

窓際だというのに日当たりが悪く、ほんのりと薄暗いこの席は、滅多に人が使わないらしい。少なくとも、私が使おうと思った時に空いていなかった時などほとんどなく、実に重宝している。日当たりのいい席も嫌いではないが、お肌のことを思うと、窓から差し込む紫外線は天敵なのだ。

ちょうど書棚と書棚の合間を縫うようなスペースにおかれているおかげが、人目にもつかず、一石二鳥である。

今日も今日とてこの席が空いていた幸運に感謝しつつ、一冊目の本を手に取った。


夢に関する魔法なんてあるのかも解らなかったから、まずは一般的な知識が幅広く書かれている魔法についての入門書のようなものから始めることにした。基本は大切である。

この類の本は、幼い頃に何冊も読んだことがあり、今更だろう、と言われるかもしれない。だが、現実はそう簡単ではない。


この背中に傷を負った九歳の事件以来、この系統からは出来得る限り引き離されていたのが、誰であろうこの私である。

両親も乳母も、そしてあの男すらも、なるべく私をこの系統、すなわち、魔法に関わる本から遠ざけようとした。あの事件のそもそもの発端が魔導書であり、また同じような事が繰り返されることを恐れたがゆえのことらしいが、魔法という概念がなければ成り立つことなど到底不可能なこの世界で、それは、かえって逆効果なんじゃないか、四人とも。大人げないと言われるかもしれないが、だって、そうではないか。


魔法というものは恐れられる面を持つが、それ以上に生活に密着した面も持っている。

黒髪のあの男が魔法使いとして忌避され嫌悪されるのは、あの男がゲームで言う、所謂レベルカンスト、或いはチート、はたまた二週目モードで最初から俺TUEEEE状態だからという理由もある。そればかりでなく、良すぎる見た目に相反する、ひん曲がった性格と悪すぎる口という理由もあるのだが、それはさておいて、とにかく、人間とは、自分から遠ざけられ隠されるものほど、余計に気になり興味を持つものである。


だって魔法である。憧れの魔法である。あんな事件があったのだし、いい加減懲りろと自分でも思うし、そんな私の迂闊さが、あの男が本来背負うべきではない重荷を背負わせることになったのだから、どんな説教をされても文句は言えないのだろうが、しかし私は思うのだ。もういいだろう、と。ようやく結婚にまで至った今、もういいだろうと。


魔王討伐の凱旋パレードの日、やっと帰ってきたあの男に「おかえりなさい」と言ったとき。あの男が「ただいま」と言ってくれたとき。ようやく互いに互いを赦し合えた気がした。


だから、もう、いいだろう。

そう思ったのが、ほんの数か月前のこと。あの男と正式に婚姻を結んで、少しばかり経ち、暇をもてあましすぎて作った刺繍のハンカチが十枚を軽く超えた頃の話だったか。

家事以外に特に義務の無い私は、そう唐突に思い立ち、以来、時折こうして、誰にも内緒でこの国立図書館で、魔法にまつわる本、すなわち魔導書を読みふける日々を過ごしているのである。


そう。つまり私は、こんな悪夢に悩まされるような事態に陥るよりも前から、この国立図書館に来ているのであった。今日ここへ来て、割合あっさりと目星をつけて本を選び出せたのもそのおかげだ。

まあ、悪夢を見るようになってからは、どうしてもあまり動く気が起きず、ここへ来るのもご無沙汰ではあるのだけれど。


これは秘密である。極秘事項である。今のところ身内の誰にもばれてはいない。カモフラージュに毎日少しずつ刺繍を刺して新たなものを作っては、時折あの男に新しく渡したり、家族の元に贈ったりしているおかげだろうか。そういうことにしておこう。

そして私は、この図書館に来がてら、黒蓮宮にあるあの男の研究室へ忘れ物を届けに行ったり、あの男が趣味と実益で庭師の少女と共に管理している薬草園からその日の食事に使う香草の類いを貰いにきたりしているという訳である。


一般人がそう簡単に国の中枢、それも王宮筆頭魔法使いのもとになど簡単に訪れていいものなのか、私自身疑問ではある。

だが、あの男が「いざという時に使え」と渡してきた身分証の魔宝玉のブレスレットを見せると、誰もが何も言わずに道を譲ってくれるのだから、つい調子に乗ってしまっている。あの男が未だ私の存在を隠しておきたがっていることは解っているので、最低限に抑えてはいるけれど。

その件については、いい加減諦めればいいのに、と思わなくはない。知るべき人々には既に知られており、ばれた人には既にばれている。それでも私を、まるで貴重品か何かのように屋敷の中にしまっておいて、誰にも見せずにいたがるあの男は、本当に仕方の無い男だ。あの男がそうしたがる意味など解っているが、それで納得するのが私だと思っている節があるのだから、余計に仕方の無い男である。

そんな、我が夫たるあの男は、その帰宅が遅いということもあって、私は存分に読書に打ち込めている。要はあの男が出かけた後に私も出かけて、あの男が帰る前に帰ればいいだけなのだから簡単な話だ。亭主元気で留守がいい。至言である。帰ってくるたびに「今日は何かなかったか」と訊いてくるあの男に「いいえ、何も」と笑顔で答えるのにも慣れたものだ。精神年齢○歳の面の皮の厚さを舐めるなよ。


あの男の弟子である少年が魔導書を借りにこの付近までやってくるのでどきりとさせられることもあるが、彼は大抵ものすごく急いでおり、しかも彼が用があるのは一般には持ち出し禁止どころか閲覧すらも制限されるような魔導書ばかりだから、今のところ鉢合わせするような事態には遭遇していない。


また、父の役職たる魔導書司官の勤務場所は、この国立図書館であるため、父とばったり会ってしまう危険性もなくはないのだが、父が居るのはその中の最奥の作業場だと聞いている。

家でも仕事場でも、仕事の間は朝から晩まで一か所に閉じこもるということは幼い頃から知っているため、一応大丈夫、なはずだ。

現に未だにばれていないし。たぶん大丈夫だろう、うん。


私のことを思うがゆえに皆、私を魔法から遠ざけようとする。その心遣いに反することをしているのだから、良心が痛まない訳がない。悪いことをしているという自覚がある上での行動ほど厄介なものは無いだろうなと我ながら思う。けれど、これだけは言いたい。私とて、もう子供ではないのだと。守ってもらうばかりでなく、自衛することだってできる。そう、だからこそ、今回は自分で何とかしたいと思うのだ。これはもう意地になっているのかもしれない。さっさと相談すればいいことくらい、解っているくせに。


それで―――何の話をしていたのだったか。ああそうだ、本だ本。魔導書の話だ。

テーブルの上に開いた魔導書(入門と基本編)を見下ろして、指先でその目次をなぞっていく。十年以上前に読んだ本の内容など既に忘却の彼方かと思っていたのだが、意外や意外、魔法言語も想定以上に覚えており、この辺のレベルの本ならば、普通の本と変わらないレベルで読むことができる。

これで、幼い頃の記憶に加え、この数か月の付け焼刃の知識を合わせれば、多少なりとも、悪夢に関する対処法が見つかるのではないだろうか。そんな淡い期待を抱きながら、黙々と魔法言語を追いかける。


そもそも、一口に『魔法』と言っても、その全容は、決して一括りにできるようなものではない。広い意味での『魔法』の中に、己自身の魔力を用いる狭い意味での『魔法』、精霊の力を借りる『霊魔法』、神の力を借りる『光魔法』、そして魔族の力を借りる『闇魔法』。それぞれがそれぞれの適性や才能がものを言い、その力もまた持って生まれたものに結局のところ左右されるのだそうだ。昔も思ったが、全く以てファンタジーな設定である。使い古されたネタだな、と当時の『私』は思ったものだ。

それぞれがどんなものなのか、例としてあの男を挙げてみよう…って駄目だ。あの男の場合、持って生まれた魔力が底なしなため、どの種類の魔法も難なくこなしてしまうようで、あまり参考にならない。

九歳の時のあの事件すら、正確な知識を持ち、きちんとした手順を踏み、礼を取りさえすれば、相当の高位精霊であったあの炎獣も、あの男は九歳ながらにしてやすやすと従えることに成功していたのだろうと、少しばかり知識を齧っただけの私にも解る。となると、やはりあれは私の罪で…と、いけない。また思考が逸れた。それも、悪い方向へだ。


もう大丈夫だと、もう赦されたのだと、赦し合ったのだと。そう思っていたはずなのに。何故だろう、自分が弱気になっている気がする。眠れていないせいだろうか。あの泣き声がまた聞こえてくる気がする。少しずつ、少しずつ、近付いてくる泣き声が、震えていないはずの鼓膜を通りぬけて頭の中で、心の中で響き渡る。

くらりと感じる眩暈は何のせいだろう。文字で満たされていた視界が霞む。このまま寝入ってしまいそうだ。けれど、眠ってしまったら、また―――…



「見たことのある姿があると思ったら、君か、シュゼット」



その声に、ふと思考が浮上する。同時に、かすかながらも聞こえ始めていたあの泣き声が遠のき、そして消えた。

背後から聞こえてきたのは、その聞き覚えのある声と、聞き覚えのありすぎる名前。シュゼット。それは私の名前ではない。けれどそれが他の誰でもなく私のことを呼んでいるのだと気付くまでに、数秒の時間を要した。他ならぬ私の乳母の名前で私を呼ぶ相手を、私は一人しか知らない。


「僕を無視するなんて、いい度胸をしているな」


いつまで経っても反応しない私に業を煮やしたらしく、その声に不機嫌さを存分に織り交ぜて更に言葉を重ねてくる御仁に、私は椅子から立ち上がり振り向いた。そしていつも通りの地味なドレスを軽く両手で持ち上げて、高貴な身分の相手に対する礼を取る。


「申し訳ありません。ただ、少し驚いてしまいまして。お久しゅうございます、セルヴェス様」


そう言って顔を上げた先にあったのは、不愉快を隠そうともしない、紺碧の瞳。海を思わせる瞳が幾分か高い位置から私を睥睨している。そして、こう言っては申し訳ないが、『前』の世界で『私』がよく目にしたような、“老人のような”という表現が一番解りやすい、白と灰が入り交じる髪。そんな髪が、背の中程まで伸ばして三つ編みにして纏められていた。その顔の造作は整っており、いかにも貴族の子息然として品がいい。

そんな彼の名前は、セルヴェス・シン・ローネイン。

ローネイン家と言えば、この国における大貴族のひとつであり、彼はその一族に名を連ねる者のようである。そして、その髪の色が示す通り、魔力を生まれ持ち、現在は黒蓮宮に勤めている、というのは、彼の黒いローブから知れたことだ。


彼とは、ほんの数か月前、それこそ私がこの図書館にやってくるようになったばかりの頃に出会った。


悪夢に悩まされることもなく、ただ何とはなしに、興味の赴くままに本を読んでいた頃。私はこの席で、偶然、とある会話を耳にした。それは、お世辞にも、聞いていて気持ちの良いものではなかった。

どうやら、一人の少年相手に、数人…恐らくは二人の男性が、変に絡んでいるらしい声が、書棚の向こうから聞こえてきたのだ。『調子に乗るな』だの、『たかが平民が』だの、あーだーこーだと、静寂を友とすべき図書館で声高々に主張する二人組に対し、それを言われている少年の方は、『あ、』だの、『う、』だの、碌に言葉を返せていないようだった。これはあれか、所謂いじめか。前途ある少年に対するやっかみか。

書棚越しでは詳細は解らないが、恐らくはそのようなことだったのだろう。ここはひとつ、止めに入るべきか否か。当然止めに入るべきだ、などと簡単には言わないで欲しい。少年には非常に申し訳ないが、私だって我が身が可愛い。下手に巻き込まれることなど断じてごめんである。が、それでも気付いてしまったのだから、このまま放置するのは気が咎める。いや、だが、しかし。

いくら聞けども終わる様子のない侮蔑の言葉に、はたしてどうしたものかと私が頭を悩ませていた時だった。その言葉が、聞こえてきたのは。


『忌まわしい、黒持ちが』。


ガタン、と。私の座っていた椅子が、思いの外大きく音を立てる。気付けば私は勢いよく立ち上がっていた。書棚の向こうの話し声が、ぴたりと止まった。

立ち上がった勢いのままに、書棚の向こうへと回り込む。そこには、あの男の弟子である少年や、ランセントのお義父様と比べれば、ほんのわずかでしかないながらも、それでも確かに黒が混じる髪の少年と、その少年を囲むようにして、魔法使いがよく持つ、薄い灰色の髪の男二人が立っていた。


やめておくべきだった。彼らが纏っているのが、我が国のエリート魔法使いが所属する黒蓮宮が支給する黒いローブだと解っていれば、私は見ないふりをしていたに違いなかった。けれど、その時の私の五感が拾い上げていたのは、生憎のことに聴覚による情報だけであり、視覚は書棚に遮られていた。だから、私には、我慢ができなかったのだ。

突然書棚の向こうから姿を現した私に対し、最初は驚いたような表情を浮かべていた二人組は、私が一介の女に過ぎないことを知ると、すぐにほっとしたような、そして、嘲るような笑みを浮かべた。『何のようだ』。『さっさと消えろ』。そんなことを言われた。

完全にこちらをコケにする体勢に入った二人組と、せっかく入ったはずの助けが、何の役にも立ちそうにない私であったことに見るからに絶望する少年。そんな、三人が三人とも実に失礼な態度をとりやがってくれている中で、私はにっこりと微笑んだ。『教えて頂きたいことがございますの』という、言葉と共に。何を言い出すのかと訝しげに眉を顰められようが気にせずに、ただ続けた。


『我が国最高の魔法使いのお二方ならば、きっと答えて頂けると思いまして』


おかしなことを言う女だとさぞ思われたに違いない。けれど、“我が国最高の”という言葉に心擽られたらしい彼らは、相好を崩して、『言ってみろ』と私に言った。それに礼を言いながら、微笑みかける。


『魔法使い様は、夜空の色を何と表現されますか?』

『…は?』

『……なんだと?』

『美しい詩歌を書くインクの色は? 冬の冷たさを暖めるために燃やした後のその薪の色は? 金や銀を宝石、真珠や珊瑚を最も映えさせる色は?』

『おい、何を言って』


立て続けに連ねられる言葉に、二人組のみならず、その向こうの少年もまた目を瞬かせる。そんな少年だけに向けて小さく笑いかけ、もう一度顔に父譲りの笑顔という名の無表情を貼り付けた私は、小さく首を傾げてみせた。


『どうかわたくしめにおしえてくださいまし、魔法使い様方。貴方様方がお召しになられているそのローブの色は、何色ですか?』

『女、何が言いたい!?』

『お解りになりませんか?』

『っ無礼だぞ!』


その言葉に、私は表面上は微笑みながらも、内心で深く頷いた。ああそうとも、私とてその自覚はある。これではまるであの男のようではないか。こんな攻撃的なことを言うような女だっただろうか、私は。いやいやいや、それでもあの男ほど酷くはないはずだ。夫婦は似てくるものだと言うが、まだそこまで夫婦生活は送っていないぞ。

いい加減もう口を閉じて、なんとか少年を回収し、さっさとこの場から逃げ出すべきだとは解っていた。けれどそれでもまだ口は止まってはくれなくて。


『自らその黒を誇って纏いながら、他者の黒を貶めるなど、滑稽なことだとは思いませんか? ああそれとも、その色にご自身が見合っていないというご自覚があるがゆえ、ということでしょうか』

『貴様…!』


とうとうぶち切れた片方が、狭い書棚の間であるにも関わらず、その手を振り上げる。私はそれを、避けようともせずに、ただ真っ直ぐにその怒りに満ちた表情を見つめていた。その、瞬間だった。



『―――――何をしている』



ここまで言えばもうお解りかと思われるが、何を隠そう、ここで登場したのが、セルヴェス青年なのであった。

すっかりその存在を忘れかけられ空気となろうとしていた少年も、新たな黒ローブの存在に、ますますその顔色を悪くさせた。私は私で、新手が来やがったか、と内心で舌打ちしたのであるが、その時の魔法使い二人組の反応は、私の予想とは反するものだった。

私に向かって手を売り上げていた男はその手を止めて、彼の姿を認めたかと思うと、その顔色を真っ青に変えた。もう片方も同様だった。


『ギネア、トーネイ。何を遊んでいる? 僕が君達に命じた仕事は、そんなにも簡単だったか?』


表情も変えずに言うその台詞は、淡々としているというのに、何故かこれでもかというくらいにふんだんに、嫌味という名のトッピングがふりかけられているようだった。その台詞に、『『申し訳ありません!』』と声を揃えて二人組は逃げ出して、少年の方もまた、『さっさといけ』というセルヴェス青年の台詞に、尻尾に火でも点けられたかのように慌てて逃げ去っていった。残されたのは私と、彼のみ。


『…御礼を申しあげます』

『僕は部下が遊んでいるのを咎めただけだ。勘違いするな、気分が悪くなる』


それはなんというか…なんというか、うん。どこぞの誰かさんを非常に思い起こさせた。どこぞの誰かさんが誰のことかなんて野暮なことを言及するのは置いておいて、私はいつもの調子でつい言葉を返してしまった。


『それは申し訳ありません。ですが、助けて頂いたのは事実ですから。あのままでは、わたくし、人に見せられた顔ではなくなっておりました。それを助けてくださったのは、他ならぬ貴方様です』

『…押しつけがましいのは美徳ではないと思うがな』

『性分ですから』


とりつく島もない青年の言いぶりに、微笑みを返す。貴公子としてどこに出しても恥ずかしくないであろう、洗練された仕草の青年は、ちらりとこちらを見遣り、冷たい溜息を吐き出す。

そんな仕草すら、どこぞの誰かさん…まあつまりは、夫であるあの男な訳だが、あの男の全くつれない態度を思い起こさせて、なんだか自然と笑えてきた。


『本当に、感謝致します』


そんな笑みを隠すように顔を伏せ、ドレスの両端を持って礼を取る。そして顔を上げると、そこでは、青年の紺碧の瞳に、戸惑ったような光が浮かんでいた。それはほんの一瞬で、すぐに消え去り、後には登場したときと変わらない、冷え冷えとした光が浮かぶばかりになっていたけれど。


『―――君、名前は?』


だからこそ、そう問いかけられたのは意外だった。つい反射的に頭を振った。


『わたくしですか? 名乗るほどの者では…』

『君は自分を助けた者に名を名乗ることもしないのか?』

『…そう、ですね』


先ほどは部下を注意しただけだと言っておいてこの言い様。見事な理不尽ぶりであった。

フィリミナ、と名乗ろうとして、やめた。できなかった、という方が正しいか。身分証明として何度もフィリミナの名をこの国立図書館に入る際に使っているとは言え、まさかいちいち膨大な来館者の中から私の名前を探すような真似など、あの男も父もしないだろう。だからそれはいいのだ。しかし、それとは別に、国立図書館の中であの男の同僚であろう青年に、馬鹿正直に名乗るのは、流石に憚られるものがあった。いちいちこんな話題を、セルヴェス青年のようなタイプの同僚と交わすような男であるかと言われたら、確かに頭を抱えるものがあるが、万が一ということもある。よって、私の口から出たのは。


『わたくしは、シュゼットと、申します』


これであった。生まれた頃からずっと一緒に居た、私の大切な乳母の名前だ。一番最初に思いついたのがその名前だったのだ。流石に姓までは名乗れなかったが、そこまで問い詰めることもなく、青年は短く『そうか。僕はセルヴェスだ』と答え、その場を去っていった。青年もまた、自身の姓を名乗らなかったということに気付いたのは、後になってからだ。

そして、そんな彼の正式な名前を知ったのは、何度目か出会った時。その頃には、毎回同じ席で魔導書を開いている私に、何故か彼は声をかけてくるようになっていて、更に言えば、同席までするようになっていた。

私が読めない魔法言語も、彼はすらすらと普通の本のように読み上げ、『君には必要ないだろう』と言いながらも、私に読み方を教えてくれた。そんな中で、彼の私物に書かれた、セルヴェス・シン・ローネインという文字。ローネイン家の名を知らぬ者など、恐らくはこの国にはおるまい。誰もが一度は耳にしたことのある、大貴族の名の一つ。けれど私はそれに気付かないふりをした。今でも、気付かないふりをしている。彼が言わないということは、知られたくない、触れられたくないと思っていることなのだろうということにして。…まあ若干、面倒だから、という理由もなきにしもあらずなのだが、決してそればかりが理由ではない。私もまた貴族ではあるが、ローネイン家とは比べるべくもない気楽なものだ。大貴族になればなるほど、しがらみもさぞ多いことだろう。魔法使いという存在は、ある種として身分から解放された存在であるとされるが、それでも、それで片付けられるほど、世間は甘くできてはいない。それで片付けることができるのなら、あの男に関することだってもっとなんとかなったはずなのだから。


とにかく、名門たるローネイン家の一員であり、黒蓮宮の若きエリートであるはずの彼が、何故私にやたらと絡んでくるのかはさっぱりだが、とりあえずは、悪くは無い関係というものを築いている、はずである。

例え、椅子からわざわざ立ち上がり礼を取った私に対し、フン、と鼻を鳴らすという、端から見れば鼻持ちならない態度を取ってくれようともだ。


鼻を鳴らされることくらいどうということでもない。これがあの男だったら、結婚して以来こそ少々なりを顰めたとは言え、それでも未だにご健在な口の悪さで、私のことをけちょんけちょんにしてくれるに違いないのだから。それで、言い切った後に、後悔したような表情を浮かべるのだから、難度も繰り返すが本当に仕方のない男だ。端から見ていると無表情にしか見えないらしいが、私には解ってしまう。あれは絶対、後悔していると。だから私はいつだって、結局笑って許してしまうのである。本当に困ったものだ。


「…おい、シュゼット? 何をぼんやりしているんだ?」

「え、あ、い、いえ。何でもありませんわ」


礼を取ったはいいが、そのまま固まっている私を訝しんだらしいセルヴェス青年に、ふるふると首を振って答える。いけない。つい思考に没頭しきってしまった。そんな私を、彼は呆れたようにその紺碧の瞳で見下ろした。


「大方居眠りでもしていたんだろう」

「まあ、決してそのようなことは」

「そうか?」


くつりと笑みを浮かべ、彼は瞳を私からテーブルの上へと滑らせた。紺碧の瞳が、すっと眇められ、再び私へと向けられる。彼が見たのは、私が開いていた魔導書だ。


「君のような者には過ぎた知識だと何度言えば理解できるんだ。まだ諦めないのか」

「諦める諦めないの問題ではないのです」


どうも彼は、私が魔法使いになりたがっていると思っている節がある。そういう訳ではなく、本当にただの興味本位なのだのだと何度伝えてもいまいち正確に伝わらず、こうして、本当に魔法使いを目指している人が聞けばぽっきり心が折れるであろうことを言われている訳である。確かに、単なる興味本位で魔導書に手を出す人間などいないであろうけれど。これが一体いつまで続くのか、考えるだけで遠い目をしたくなる。私が、もう、そういうことにしてしまうのが先か。それとも、彼が私の言い分に納得してくれるのが先か。

まあしかし、この悪夢に悩まされている現状としては、いっそ魔法使いになるのも手ではないかと、できもしないことを考えているのも事実であり、彼の言い分も間違ってはいないのだけれど。

溜息をかみ殺しながらセルヴェス青年の顔を見上げていると、ふいに、彼がその首を傾げた。その拍子に、肩から胸へと落としていた三つ編みが滑り落ちて背中へと回る。それに目を奪われていると、彼は今までに聞いたことのない声で、私に問いかけてきた。


「どうした?」

「え?」


何がだ。そう聞き返すよりも先に、青年の口が動く。


「顔色が悪いように見える、が」

「ッ!?」


まさか気付かれるとは思っていなかった。あの男の横に並び立つために、私が磨きに磨いた化粧技術が、こんなところで看破されるとは。気付かれない程度に息を呑むと、幸いなことにそんな私の反応にまでは気付かなかったらしい彼は、「気のせいか」とひとり納得している。それに安堵しつつ、私はいつものように微笑みを浮かべた。そうだ、これは言っておかなくては。


「セルヴェス様こそ、あまりご無理をなさらないでくださいましね」


元々私が羨むくらいに白い肌を持つ御仁だったが、なんだか今日は今までにも増して白く…というか、いっそ青白くすら見えるその顔色。私のことを指摘している場合ではなかろうに。

私の言葉に、青年は驚いたようにその紺碧の瞳を見開いた。


「―――ああ」


僅かな沈黙の後、青年はこくり頷いた。その珍しくも素直な態度に、つい目を瞬かせると、青年はぎろりとこちらを睨んで、足早に去っていった。その耳は、そこはかとなく赤い。こういう時、彼はあの男よりもかわいげがあるなと思うのだ。あの男だったら、素直に頷くことなどまず無いし、耳を赤く染めるなんて反応などなかなか見せてくれない。だからこそあの結婚式の時、私のドレス姿に赤くなったのは実に貴重であった、などと思いつつ、青年の後ろ姿を見送って、私は再び椅子に座り、書物のページをめくり始めた。

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