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魔法使いの婚約者  作者: 中村朱里
おまけ

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19/65

      (2)

麗かな陽の光が優しく降り注ぐ朝である。いつものように私は、夫であるこの男が王宮へ出勤するのを、玄関たる扉の前まで見送りに来ていた。


「今夜はどうなされるおつもりですか?」

「…早めに帰ってくるつもりだが」

「ふふ、ならば期待しないで待っておきますわ」


にっこりと笑ってそう言うと、男はその柳眉を顰めて、非常に苦々しげな表情を浮かべた。この男の場合、そんなお世辞にも和やかとは言い難い表情すらも美しい。だがしかし、それで誤魔化される私ではない。この男が『早めに帰る』と口にして、実際にそれが叶ったことは、この数ヶ月で指折り数える程度しかない。


今まで散々周囲に恐れられ、敬遠されてきた男だが、“救世界の英雄”になったことで、これまでの反動が一気に押し寄せてきたように、仕事を口実として接触を図ろうとする輩が多数いるようだ。王宮で魔導書司官として働く父から教えられた。

娘である私をとうとう掻っ攫われる形になり、未だに複雑な心境でいるらしい父は、そこはかとなくざまをみろとか思っているような様子であったが、ちょうどその時たまたま隣にいたランセントのお義父様にさりげなく足を踏まれて悶絶していた。ざまをみろなのは父の方である。

この男といずれ結婚するであろうことは、私が七歳であった時から決まっていたようなものであったが、母似の私に対し溺愛傾向のある父は、未だにそれとなくこの男に手厳しい。

ついでに、シスコン疑惑のある弟はもっと解りやすく、「例え結婚して姓が変わろうとも、姉上は僕にとって誰よりも大切な女性です」などと、今後が不安にしかならない台詞を言ってくれた。弟よ、頼むから早く恋人を作ってくれ。弟に関しては本人の自主性に任せるとかなんとか言って、未だに婚約者が決まっていないこともまた不安を助長させる。身内の欲目をなしにしても、父譲りのそれなりに整った容姿に柔らかな物腰、そして魔導書司官という安定した役職に就く家の跡継ぎとあれば引く手数多だろうに、どうして未だにあの子は……と、失礼。話が思い切りずれた。何の話をしていたのだったか。


ああ、そうだ。私の目の前で、王宮の一角をなす黒蓮宮に勤める魔法使いの証たるローブを纏い、馬車を待たせているこの男。


早く帰ると言いつつ、結局世間一般で言う夕食の時間には間に合わず、それどころか下手すると午前様になって帰ってくるこの男の帰りが遅いのは、ただ単に仕事を押しつけられたからという訳ではなく、純粋に、本人の気質によるものも大きいのだろうと私は思っている。

基本的に、面倒なことはきっぱりすっぱりばっさり切り捨てることを躊躇わないくせに、その上であちこちから押しつけられる仕事を断らない理由など、一つしかない。それは、本人が、それを嫌と思っていないからだ。

こんな男の有り様を何と表現するのか、私は知っている。

すなわち、研究馬鹿。天才と謳われているが、実際は馬鹿だと…いや、仕方の無い人、と言うべきか、とにかく、そういう類の表現がぴったりだと思う。『前』の『私』の言葉で言えば、あれだ。もう少しオブラートに包んだ、ワーカホリックという奴だ。


その髪の色故にこの男が進むべき道など魔法の道しかなかったのだが、それについてこの男が不平不満を持っている様子など、私は見たことがない。むしろランセントのお義父様と同じ道を歩んでいけることを、最近はとうとう誇りに思い始めているような節すらある。

このファザコンめが、と何度思ったか知れないことを思いつつ、あのランセントのお義父様が相手なら仕方がないと思ってしまう。我がお義父様は、実に罪深い御仁である。


己の漆黒の髪のことを、本当は誰よりも厭っていたくせに、いつしかこの男が、その髪を陽の光の下に躊躇うことなく曝すようになったのは、勇者一行の面々のおかげもあるのだろう。

結婚式の際にお会いして以来、何故か交流を持つことになった方々であるが、そのキャラの濃さは、この男の髪の色のインパクトなど吹き飛ばしてしまう様なものだった。

私が憧れていた姫君は「あたくしの髪だって似たようなものよ。まああたくしの方が美しいけれど」と鼻で笑い、『エギエディルズ』並みに覚えにくい名前の勇者は「似合っているからいいと思ってるよ」とのんびりとした口調でそう言い放ち、庶民からその実力だけで成り上がった騎士団長は「むしろあの顔でなんで女じゃないのか、そっちの方がオレは悔しいな!」と笑い飛ばした。

そんな彼らに、あの男はもっと早くに出逢うべきだったのだろうと思った。ついそれを口にしてしまったら、逆に、あの男にはお前が居ただろう、というようなことを言われ、無性に泣きたくなったことは未だ記憶に新しい。


…と、そんな数か月前の一件はさておいて。

結局このエギエディルズという男は、なんだかんだで研究に没頭することを楽しんでいるのだ。まあ自分の好きなことを職業にできることは良いことだし、私自身、嬉し恥ずかし新婚さんの生活を求めているわけではないからそう強く言うつもりはないが。

この男とそんな生活を送るなど、むしろ恐ろしいとしか言いようがない。「お帰りなさい、あなた。ご飯にする? お風呂にする? それともわ・た・し?」などとやれってか。無茶ぶりにも程があるというものである。


ただ、だがしかし。そんな中で、それでもこの男の遅い帰りを、食事も摂らず眠りもせずに待ち続けてしまう自分がいるという事実を、大人しく認めてしまうにはなんとも悔しいものがある。


「先に食べて寝ておけよ」

「気が向いたらそうさせて頂きますね」


これも、結婚して同棲を始めて以来、繰り返してきた会話だ。どれだけ遅くなろうとも、屋敷で食べも眠りもせずに待っている私の行動に思うところはあるらしいのだが、仕事を前にするとそんなことは頭から抜け落ちてしまうらしいこの男。

そんな、夫としてはお世辞にも気が利くとは言えない男を、どうして美容の大敵である寝不足を相手取ってまで待っているかと言えば、答えは解りきっている。だって仕方がないではないか。


私はいつだってこの男に、『おかえりなさい』を言いたいのだから。この男の帰る場所が、私の元であってほしいと、そう思っているのだから。


「いってくる」

「―――――はい。いってらっしゃいまし」


私が退くつもりがないことなどお見通しである男は、私の頬にそっと口づけて、馬車に乗り込んだ。ガタゴトと音を立てて屋敷の前から去っていく馬車を見送って、頬を押さえた。口づけられた部分が熱い気がする一体、こんな行為など、どこで覚えてくると言うのだろう。

結婚して以来、多分ではなく確実に、怒濤の勢いで増えたスキンシップに、数ヶ月経った今でも未だに慣れる事はない。それどころか、ますます動揺が大きくなっていく気がする。確かに、父と母は何年経ってもいちゃらぶっぷりを発揮してくれているが、あれは特殊な一例だと思っていた。しかしそうではなく、結婚、というものは、こういうものなのだろうか。こんな風に年甲斐もなく鼓動が煩くなるなんて、どうかしている。


未だ冷めやらぬ頬を押さえながら、屋敷の扉を開けて中へと入る。しん、と静まりかえっている屋敷は、さほど大きい訳ではないが、二人で暮らすには十分すぎるほど広い。部屋数も余っているこの屋敷の最大の特徴は、他の貴族の方々の屋敷とは違い、使用人がひとりもいないということだ。住んでいるのも、出入りするのも、私とあの男だけである。


一般の貴族とて、身の回りの世話をさせる使用人を最低限は雇っているものだ。英雄ともなれば、それは多くの使用人を抱え込み、自らは何もすることがない、という状況になってもおかしくないはずなのだが、そうはいかなかった。いくら英雄になったとはいえ、あの姿に怯える者は多く、募集をかけることすらも馬鹿馬鹿しかったのだ。

幸いというか、アディナ家でも、乳母が侍女としても働いていてくれたくらいで、他に使用人はいなかった。よって、料理や掃除や洗濯といった家事に、私は必然的に携わっていたし、何より、私には『前』の『私』が取った杵柄である家事能力があった。

それでも、この二人分には手広い屋敷、まだ賄いきれない部分はあるものの、そういうところはあの男の魔法で補ってもらっている。

例えば風魔法による手が回らない部分の掃除とか、水魔法による洗濯とか。

「魔法って便利ですのね」としみじみ呟いたところ、「世界広しと言えども、俺にこんなことをさせるのはお前だけだ」と、何やら疲れ切った声であの男に言われたが、それ以上何も言われなかったので問題は無い、はずだ。


貴族の、ましてや英雄とやらの妻として褒められたことではなかったにしても、今のところ私は家事を止める気はない。

今日も今日とて、夫を見送った後は、朝食に使った食器を片付け、軽く掃除をする。『前』の『私』が結婚して専業主婦になっていたとしたら、こんな生活を送っていたのだろうか。そんな、今更思っても仕方がないことを思いながら手を動かして、本日の仕事は、残すは食事を作ることばかりだ。


亭主元気で留守が良い、とは『前』の世界の言葉であるが、いなければいないで暇なものだと、この数ヶ月で思い知らされている。

はっきり言って、基本的に私は暇をもてあましている身分なのである。

サロンのお誘いはあるものの、一応まだ結婚したことをはっきりとは公にしていない身分としては迂闊に出席することもできないし、自分で開くなど以ての外だ。誰がそんな面倒なことを…いや、失礼。誰がそんな危うい真似ができるというのか。


よって私がすることはと言えば、例えば刺繍、例えば編み物、例えば読書。時に馬車に乗って王宮の一角に位置する国立図書館に足を伸ばし、時に食材を買いに市場へ出向き。…こうしてみると、別に暇という訳ではなく、ただ単に遊び呆けているかのようにも聞こえるが、それが結婚した貴族の、使用人を持っていない女というものだということにしておこう。


そんな私であるが、今日の私はひと味違う。いいや、今日ばかりではなく、最近の私の状態を慮ると、そうそう外に出る気にはなれなかった。


台所で一人分の香草茶を煎れて、リビングである部屋まで運んで、そこにあるカウチに身体を沈ませる。

馥郁たる芳香が鼻腔を擽り、強張っていた肩から力が抜けていくのを感じる。あの男がわざわざ様々な茶葉や香草、薬草をブレンドして提供してくれるこの茶は、リラックス効果抜群で、私のお気に入りだ。

昔は散々煎れ方がなっていないとあの男には嫌味を言われたものだが、今ではようやくそう言われることもなくなった。それでもまだ、あの男が煎れた方が美味しいのは、悔しい事実ではあるのだけれど。

蜂蜜や砂糖を入れずともほんのりと甘い匂いと味のお茶を飲んでいると、ようやく、一息吐けた気がした。カウチに預けた身体が重い。あの男を見送り、今日の分の仕事を終えるまで、ピンと張り詰めさせていた神経が緩む。


うつら、と瞳を閉じかけて、はっと慌てて傾きかけた身体の体勢を立て直す。危ない。身体ごとお茶をひっくり返すところだった。


「…眠い、のかしら」


呟いてみて、多分そうなのだろうと自分の台詞を内心で反芻する。恐らく…否、確実に私は眠いのだ。そんなのは当然だろう。何せこの数日、下手すれば週単位で、碌に眠れていないのだから。


先日見た、誰かの泣き声をひたすら聞き続ける悪夢。

それはあれっきりではなく、以来何度もあの夢を見続けている。

誰かが、泣いて、泣いて、泣いて、泣きじゃくる夢。絶望を歌うような泣き声は、少しずつ、そして確実に、がっつりガリガリと私の繊細な神経を削りやがってくれている。


当初は気のせいかと思っていた。たまたま似たような夢を見ているだけなのだと。けれど、そうと言い切るにはあまりにもあの夢は鮮明だった。繰り返し、繰り返し、私は誰かの泣き声を聞き続けている。

あの泣き声に、底知れない嘆きに引き摺られて、悲鳴を上げて飛び起きそうになったことも一度や二度ではない。隣で寝ているあの男の存在が、私がそうなるのを抑えていてくれていたが、もしあの男がいなかったら、本気でそうしていたに違いない。幼子でもあるまいし、と自分でも思うのだが、それでも、あの男の温もりが唯一の私の安心材料だった。あのとびきりの悪夢に捕われずに済んでいるのは、あの男のおかげなのだ。


だが、それでも碌に眠れていない事実に変わりはなく、現在の私は、絶賛寝不足中である。

眠ったらあの夢を見てしまうかと思うと眠るのが怖いし、例え眠ったとしても、結局目が覚めてしまう。


これは一体何なのだろう。あの男に相談してみようかとも思わなかった訳ではない。実際、今でも言おうかどうか迷っている。けれど、このところ以前にも増して忙しくしているあの男に、こんなたかだか夢の話をするのはなんだか躊躇われる。

そう、たかが夢だ。言うまでもないことなのだろう。問題は、寝不足のせいで調子が悪くなりつつあるこのお肌と、弱気になりつつあるこの心くらいなもので、他に何があるというものでもない。倖せを享受している自覚はあるのだ。その甘さに浸りすぎて、ちょっとしたことが暗い影のように思えてならないだけかもしれない。そう思うからこそ、未だにあの男には言えなくて。

けれどそれも、時間の問題であるような気もする、というのも事実ではある。今のところなんとかバレずに済んでいるが、今後下手にこの状態があの男にバレると、また厄介なことになるに違いない。結婚して以来、あの男は私に対して過保護な気がするのは、私の気のせいではないだろう。それは、煩わしいことではなく、むしろ照れてしまうようなことではある。だが。


「それはそれ、ですわね」


余計な心配などかけさせたくはない。あの男が私を過剰に心配するのは、この背の傷痕のせいもあるのだろうとは容易に想像が着く。

いくら互いに負い目を乗り越えたつもりであるとは言え、この背の傷痕は決して消えはせず、過去の事実は覆しようがない。

結婚式を挙げたその夜に、この背の傷痕を初めて見た時、あの男は、獣の爪に引き裂かれたような歪な傷痕を指でなぞり、たった一言「すまない」と呟いた。その時あの男がどんな表情を浮かべていたのか、背を向けていた私は知らない。知りたいとも思わない。ただ、あんな声を、もう二度とあの男に出させたくはない。


ここは一つ、自分で原因究明…とまではいかないものの、何らかの対処を取らなくては。とりあえず、あの男には悪いが、お茶でどうこうできるような類ではないようであるし。そうと決めたら、後は行動に移すのみだ。

そしてお茶を飲み干すと、カウチから立ち上がった。途端にまたあの泣き声が耳元で聞こえた気がしたが、私はそれに、気付かないふりをした。

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